第1章「役割のある世界」
スマートフォンのアラームが鳴る前に、空野恒一は目を覚ました。
部屋は、整いすぎるほど整っている。
余計なものはほとんどなく、必要なものだけが、決められた場所にある。
机の上にはノートとシャープペンシルと消しゴム。
将棋盤は棚に収められていて、
壁際にひとつだけ、少し場違いなものがあった。
キャッチャーミットだ。
部屋の隅に置かれたそれは、今も手入れされたままで、革は乾いていない。
使われなくなって久しいはずなのに、内側には、まだ自分の手の形が残っている気がした。
恒一は一瞬だけ視線を向け、すぐにそらす。
制服に袖を通しながら、心の中で、言い聞かせる。
受け止める役割は、もう終わった。
ーー登校する前
スマホを手に取って、画面を確認する。
画面には、
一本道のルートが表示されている。
最短で、評価も高い。
――正解。
そう示されているにもかかわらず、
彼は、別の選択肢をタップした。
遠回りで、
評価も低いルート。
理由はない。
ただ、
そちらを選びたかっただけだ。
恒一が、
ゲームのチュートリアルを、最後まで読むことは少なかった。
どうせ、仕組みはすぐ分かる。
分かったあとに、
どう動くかを考える方が、より効率的だし、ずっと大事だ。
画面を消して、スマホを置き、鞄を肩にかける。
ふと、棚の将棋盤に目が戻った。
あの局面でも、
一番強い手は分かっていた。
それでも選ばなかった。
それが、
自分にとっての“正解”だと、
思ったからだ。
玄関のドアを開けると、
朝の爽やかな空気が流れ込んできた。
*
三年一組の教室に足を踏み入れた瞬間、
いつものざわめきが耳に流れ込んできた。
椅子を引く音、鞄を置く音、まだ眠り足りないという声。
空野恒一は、特に急ぐこともなく、自分の席へと向かう。
窓際から二列目。前でも後ろでもない、中途半端な場所だ。
「おはよー、空野」
背後から軽く声をかけられる。
振り返ると、同じクラスの男子が手を挙げていた。
「おはよ」
それだけ返して、鞄を机の横にかける。
会話はそれ以上続かない。
でも、それで困ることもなかった。
机の上に、進路希望調査書が伏せて置かれていた。
名前を書く欄だけを埋めて、
その下は、空白のままだ。
消しゴムで消した跡だけが、
紙に、うっすらと残っている。
教室のあちこちでは、すでに役割が動き出している。
黒板の前で連絡事項をまとめる委員。
窓を開ける係。
誰かに頼まれなくても、自然と身体が動く生徒たち。
白城祈は、机の上に並べられた書類に目を通していた。
生徒会としての確認作業だ。
名前。
クラス。
出席番号。
提出の有無。
進路希望調査書。
空野恒一。
その欄だけが、白い。
祈は、ほんの一瞬だけ視線を止めた。
けれど、何も言わず、
次の紙へと手を伸ばす。
書けないこともある。
今は、そういう時期だ。
そう判断して、
彼女はそのまま作業を続けた。
その判断が、
ただの事務処理だったのか、
それともーー
祈自身の選択だったのか。
この時点では、
まだ誰にも分からなかった。
「ねえ、恒一」
星宮歌羽は、椅子に腰かけたまま、
軽い調子で声をかけた。
「進路希望、もう書いた?」
恒一は答えず、
机の上の紙に視線を落としたままだった。
名前だけが書かれた、
進路希望調査書。
「……まだ」
それだけ言って、
シャーペンを置く。
「そっか……」
歌羽は、
それ以上、何も聞かなかった。
冗談にすれば、踏み込めない。
真面目に聞けば、踏み込みすぎる。
そのどちらも選ばず、
彼女はその話題をやめた。
「恒一くん」
名前を呼ばれて視線を向ける。
通路を挟んだ席で、流川奈緒が振り返っていた。
「今日、生徒会あるよね」
「うん、放課後」
「そっか」
それだけ言って、奈緒は前を向く。
会話は、それで終わりだ。
必要なことだけ。
余計な感情を挟まない。
それもまた、ここでは正しい距離だった。
恒一は、ふと思う。
この教室にいる全員が、
それぞれの役割に、きれいに収まっている。
ーーじゃあ、自分は?
生徒会書記。
将棋部の幽霊部員。
クラスでは、特に目立たない存在。
役割はある。
けれど、どれも「自分じゃなきゃだめ」ではない。
チャイムが鳴り、朝の時間が始まる。
教室は一斉に静まり返った。
今日もまた、
何事もない一日が始まる。
少なくとも、
この時の恒一は、そう思っていた。
机に頬杖をついて、窓の外を見る。
五月の空は高く、雲の動きはゆっくりだった。
窓の外を眺めていると、
すぐ横から椅子を引く音がして、視界の端で誰かが腰を下ろした。
「今日は朝からぼーっとしてるな」
守崎剣翔だった。
低く落ち着いた声だったが、向けられた表情は穏やかだった。
口元に、作ったわけではない自然な笑みが浮かんでいる。
「いつもだろ」
「それもそうだな」
短く笑って、剣翔は前を向く。
それ以上、会話は続かない。
それでも、隣に人がいる気配は不思議と落ち着いた。
剣翔は、そういう距離感を保つのが上手い。
教室の前方では、担任の齋藤先生が出欠を取り始めている。
いつもの朝。
いつもの順番。
名前を呼ばれて、返事をして、
一人ずつ「いる」ことを確認されていく。
空野恒一。
その名前も、ただの一つとして、問題なく読み上げられた。
何も引っかからない。
何も特別じゃない。
それが、当たり前だった。
授業が始まる前、教室のドアが一度だけ開いた。
別のクラスの生徒が、顔だけを覗かせる。
「修学旅行の班、もう見た?」
その一言で、空気が少しだけ揺れた。
「もう貼ってあるよな?」
「見た見た、最悪」
「誰と一緒だった?」
あちこちで声が上がる。
朝の教室に、少しだけざわめきが戻った。
恒一は、その様子を横目で見ながら、
特に動くこともなく、机に肘をついたままだった。
修学旅行。
楽しいとか、楽しみとか、そういう感情は、正直あまりない。
行けば行ったで、それなりに過ごす。
行かなければ行かないで、それでも構わない。
ただの行事。
そういう位置づけだった。
「恒一くん、班分け見に行かないの?」
奈緒が、後ろから声をかけてくる。
「もう見たからいい」
「そっか」
それだけ言って、奈緒は友達の方へ向かった。
無理に引っ張ることはしない。
それが、奈緒らしい。
チャイムが鳴り、
結局、班分けを見ることなく、授業は始まった。
*
黒板に、白いチョークの音が淡々と続いている。
《社会と役割》
そう書かれた文字の下で、社会科――公民担当の齋藤先生が、振り返った。
「社会はね、個人の集合体じゃありません。
役割の集合体です」
教室に、ざわめきはない。
中学三年のこの時期、進路、受験、将来――
誰もが“自分の役割”を意識し始めている。
「全員が同じことをする必要はない。
それぞれに向き不向きがあって、
それを見極めて、適切な場所に配置する。
それが一番、効率的で、平等なんです」
齋藤先生の声は、穏やかだった。
怒りも、押しつけもない。
ただ、正しいことを、正しい調子で述べている。
「もし、役割を与えなかったらどうなると思います?」
数人が顔を上げる。
「社会は、回りません。
誰が何をするのか分からない状態は、
混乱でしかないからです」
黒板に、もう一行書き足される。
《適材適所》
「だから――」
齋藤先生は、少しだけ言葉を区切った。
「役割を果たさない自由、
役割を拒否する自由というのは、
社会にとっては“無責任”とも言えるんですよ」
教室の空気が、わずかに引き締まる。
誰かが頷き、
誰かがノートに書き写し、
誰かはもう、将来の職業を思い浮かべてさえいる。
――正しい。
恒一も、そう思った。
理屈として、反論できるところはない。
役割があるから、社会は回る。
それは事実だ。
……でも。
胸の奥に、針の先ほどの違和感が残った。
役割を与えられなかった人間は?
最初から、向いている場所が、
どこにもない人間は?
その人間は、
社会の外に、追い出されるしかないのだろうか。
ふと、齋藤先生を見る。
声は覚えている。
言葉も、論理も、はっきりしている。
なのに――
顔の輪郭が、妙に曖昧だった。
「……?」
恒一は一度、瞬きをした。
気のせいだ。
先生の顔を忘れるなんて、あるはずがない。
チャイムが鳴る。
「じゃあ、今日はここまで。
次は、この続きをやります」
齋藤先生はそう言って、
淡々と教室を出ていった。
休み時間。
「さっきの公民さ、
役割がどうこうって話」
「言ってたな」
「齋藤先生だっけ?」
「……あれ、そうだっけ?」
内容は、みんな覚えている。
言われたことも、黒板の文字も。
でも――
誰も、先生の話をしない。
恒一は、もう一度だけ考えた。
齋藤先生の顔を、
ちゃんと、思い出せるだろうか。
思い出そうとした瞬間、
記憶は、霧の向こうに溶けていった。
――まあ、いいか。
そう思って、恒一はノートを閉じた。
このときはまだ、知らなかった。
この授業が、
この言葉が、
この“覚えられない存在”が――
世界そのもののルールと、
完全に同じものだったということを。
*
休み時間に入ると、
教室の空気は、さっきまでとは別物になった。
「なあ、京都どこ回るんだっけ?」
「清水と金閣は確定でしょ」
「鹿、絶対ヤバいって。普通に囲まれるらしいぞ」
一斉に飛び交う声。
机が鳴り、椅子が引かれ、笑いが混じる。
――修学旅行。
その言葉ひとつで、
将来だの役割だのという話は、
一瞬で後景に追いやられる。
「回る場所決めるの、今日だよな?」
「え、マジ? 聞いてない」
「先生、あとで言うってさ」
恒一は、ノートを閉じたまま、
そのやり取りを聞いていた。
京都。
奈良。
歴史の教科書で見た名前。
遠い場所のはずなのに、
もうすぐ“行く”ことが、現実として迫っている。
「空野、どこ回りたい?」
声をかけられて、恒一は少し考えた。
「……別に、どこでも」
「は? 一生に一度かもしれないんだぞ?」
笑われる。
でも、悪意はない。
どこでもいい。
それは投げやりじゃなくて、
本心だった。
どこに行っても、
自分は自分だ。
何者かになるわけでも、
何かが変わるわけでもない。
少なくとも――
その時は、そう思っていた。
黒板の端に残った、
《適材適所》
という文字が、視界の隅に入る。
さっきまで、確かに見ていたはずの文字。
なのに、もう重要じゃない。
修学旅行。
写真。
思い出。
イベント。
受験前に学年全体が同じ時間を過ごす、数少ない行事だ。
誰もが、
「同じ場所へ行く」ことを疑っていない。
恒一も、疑っていなかった。
――みんなで、同じ場所へ行く。
――同じ時間を過ごす。
――同じ景色を見る。
それが、当たり前だと思っていた。
廊下の向こうで、
誰かが笑いながら話をしている。
遠くの方で、職員室の扉の閉まる音が、聞こえた気がした。
その中に、
公民担当の齋藤先生がいたかどうか。
恒一は、もう確認しようとも思わなかった。
*
「どこでもいい」
そう答えた自分の声が、
少しだけ、教室の中に残っていた。
投げやりだったわけじゃない。
諦めでもない。
ただ――
選びたい理由が、どこにもなかった。
京都でも、奈良でも。
清水でも、鹿でも。
写真を撮って、笑って、帰ってくる。
そのどれもが、
“生きている実感”と、
どこかで噛み合っていない。
恒一は、机に肘をついて、窓の外を見た。
校庭では、別のクラスが体育の準備をしている。
わざと鳴らされる笛の音。
楽しそうに走り回る影や、様々な掛け声。
みんな、ちゃんとそこにいる。
ちゃんと、今を生きている。
なのに――
自分だけ、少しだけ、浮いている。
何かを望んでいないわけじゃない。
何も考えていないわけでもない。
ただ、
「これがしたい」
「ここに行きたい」
そう言えるほどの“輪郭”が、
自分の中に、まだ生まれていない。
――選びたい。
ふいに、そんな言葉が浮かぶ。
でも、
何を選べばいいのかが、分からない。
選択肢がないのか、
選ぶ自分がないのか。
その区別すら、
まだついていなかった。
黒板の端に未だに残る、
《適材適所》
という文字が、視界の隅で揺れる。
向いている場所。
割り当てられる役割。
それが“ある”人間は、
迷わなくていい。
でも――
それが“まだない”人間は?
恒一は、胸の奥にある、
この曖昧な感覚に、
初めて意識的に触れた。
どこでもいい。
どこにも決められない。
それは空っぽじゃない。
むしろ、
何かが生まれる前の、
妙に静かな状態に、よく似ていた。
名前はない。
意味も、まだない。
けれど確かに、
自分の中で、
呼吸している。
――生きている。
この感覚が、
いつか何かになるのか、
それとも消えるのか。
その答えは、
まだ、どこにもない。
恒一は、ゆっくりと息を吐いた。
修学旅行の話題で騒ぐ教室の中で、
その小さな“生”だけが、
ひっそりと、鼓動を刻んでいた。
*
通常の時間割が進んでいく。
黒板に書かれる文字。
ノートを取る音。
教師の声。
そのすべてが、
「いつも通り」という言葉に収まっている。
けれど。
なぜか、胸の奥に、
小さな引っかかりだけが残っていた。
理由はわからない。
何かが起きる予感、というほど大げさなものでもない。
ただ――
今日という一日が、
昨日と同じでは終わらない気がした。
そんな根拠のない感覚。
恒一は、シャーペンを回しながら、
それを考えないようにして、黒板に視線を戻した。
まだ、この時点では。
自分の役割が、
“選ばされる側”に回ることになるなんて、
思いもしなかったから。
昼休みが始まるとすぐに、担任が教室に入ってきた。
「えー、連絡事項があります」
黒板に向かいながら、いつもの調子で言う声。
教室のざわめきが、少しだけ落ち着く。
「修学旅行の班分け、もう掲示板には貼ってありますが――」
その一言で、何人かが身を乗り出した。
「一応、あとでしっかりと確認するように。班ごとに行動する時間も多いからな」
そう言って、担任は淡々と話を進める。
注意事項。持ち物。集合時間。
どれも、これまで何度も聞いたような内容だった。
けれど。
恒一は、なぜかその話が頭に入ってこなかった。
胸の奥に残っていた、朝からの引っかかり。
それが、少しずつ形を持ち始めている気がした。
――昼休みの間に、見に行くか。
そう思ったのは、自分でも意外だった。
*
昼休みの廊下は、人の流れがゆるい。
教室を出ると、すでに何人かが掲示板の前に集まっていた。
「うわ、マジかよ」
「このメンバーはきついだろ」
「自由行動、終わったな」
そんな声を聞き流しながら、恒一は人垣の隙間から紙を見る。
上から順に、班の名前。
その横に、六人ずつの名前が並んでいる。
ただし、一組は三十七人いるため、第一班だけ七人班だ。
視線を動かして、
自分の名前を探す。
――あった。
空野 恒一。
その周囲の名前を、無意識に追う。
白城 祈
守崎 剣翔
黒葉 夜乃
影山 迅
火村 あかね
霧島 透
……なるほど。
生徒会長、副会長、会計。
名簿に並ぶ名前を追うたびに、
それぞれの顔や声が、自然と頭に浮かんだ。
見慣れているはずなのに、
どこか少しだけ距離を感じてしまう。
理由はわからないが、
どこか「固められた」感じがした。
誰かが欠けても成立しそうで、
それでいて、外から割り込む余地がない。
そんな並び。
少し下に視線を落とす。
そこに、流川奈緒の名前があった。
星宮 歌羽
崩崎 刀磨
流川 奈緒
天野 誠司
花沢 澪
九条 慧
奈緒は、別の班だった。
それだけのことのはずなのに、
胸の奥が、ほんのわずかに冷える。
刀磨の名前を見つけた瞬間、
恒一は、胸の奥で何かが静かにずれたのを感じた。
偶然だ。
班分けなんて、毎回そんなものだ。
そう自分に言い聞かせながら、
恒一は掲示板から一歩下がった。
「……空野」
横から声がした。
振り向くと、剣翔がいた。
同じ紙を見上げたまま、腕を組んでいる。
「一緒だな」
「ああ」
それだけのやり取り。
迅も少し離れたところで、無言でこちらを見ていた。
祈の姿は、どこにも見えない。
――生徒会、か。
頭の中で、生徒会室での会話が一瞬だけよぎる。
効率。
選択肢。
できないかもしれないこと。
この班分けに、
誰かの意図があるのかどうかはわからない。
ただ。
「うまく配置された」感じだけは、否定できなかった。
齋藤先生は、掲示板の名簿に目を通しながら、わずかに頷いた。
それは確認というより、承認に近い仕草だった。
*
教室へ戻る途中、
奈緒とすれ違った。
一瞬だけ目が合う。
「……見た?」
「うん」
それだけで、会話は終わった。
何かを言うべきだったのかもしれない。
でも、言葉は浮かばなかった。
奈緒は軽く会釈して、
友達のいる方へ歩いていく。
背中を見送りながら、
恒一は思う。
――これも、役割の一つなんだろうか。
同じクラスで、
同じ毎日を過ごしていても、
行事一つで、簡単に分けられる。
それが、悪いとは思わない。
むしろ、当たり前だ。
当たり前すぎて、
誰も疑問に思わないだけで。
席に戻ると、剣翔が先に腰を下ろしていた。
「修学旅行、ちょっと面倒だよな」
「今さらだろ」
「まぁ、そうだな」
短く笑って、会話は終わる。
それでも、
恒一の胸の奥では、
朝から続く違和感が、まだ消えていなかった。
この班分けが、
ただの修学旅行のためのものじゃないことを。
この時は、まだ知らない。
けれど――
確かに、何かが「決められた」感覚だけが、
静かに残っていた。
ーー掲示板の前から、少し離れた場所。
人垣の向こうで、
星宮歌羽が名簿を見ているのが見えた。
こちらを見た気がして、
恒一は一瞬だけ視線を上げる。
だが、
歌羽は何も言わず、
すぐに奈緒のほうへ向き直った。
「……あ、あたしこっちだ」
星宮歌羽は、名簿を見てから一歩下がった。
口元に、軽く笑みを浮かべる。
「奈緒。同じ班だね」
「うん、よろしく」
それだけ言うと、奈緒は再び掲示板のほうを向いた。
「へぇー」
歌羽は名簿をもう一度見て、首を傾げる。
「なんかさ。
すごく“それっぽい”班じゃない?」
「それっぽい?」
奈緒が聞き返す。
「うん。説明できないけど。
――最初から、こうなる予定だったみたいな」
歌羽は空を見上げて、肩をすくめた。
「ま、班分けなんて、いつも適当だよね」
そう言って笑う。
その笑顔は、少しだけ明るすぎた。
*
放課後の生徒会室は、昼間より少し静かだった。
窓から差し込む夕方の光が、長机の端を斜めに照らしている。
空気は落ち着いていて、話し声も必要最低限だ。
「じゃあ、修学旅行関係の確認からいくよ」
白城祈が、いつもの調子で資料を机に並べる。
無駄のない動き。迷いのない声。
恒一は、その隣の席に腰を下ろしながら、
無意識に、机の上に置かれた紙の束に目を向けていた。
修学旅行・会計報告。
班別行動予定。
緊急連絡先一覧。
朝も見たはずの文字。
昼にも、掲示板で確認したはずの班分け。
それなのに。
「空野くん?」
祈に声をかけられて、恒一は我に返る。
「ごめん。聞いてたよ」
「今のところ、特に問題はなさそうだけど……
一応、班ごとの生徒会担当、確認しておこうか」
各班には生徒会所属の担当者が割り当てられ、恒一はその一人として班の統率と連絡を任されていた。
そう言って、祈は一枚の紙を持ち上げた。
班名と名前が、整然と並んでいる。
第一班。
第二班。
視線が、自然とそちらへ流れる。
――確認する必要なんて、ないはずなのに。
恒一は、改めて自分の名前を探した。
第一班。
空野 恒一。
下には、
白城 祈。
守崎 剣翔。
黒葉 夜乃。
影山 迅。
火村 あかね。
霧島 透。
昼に見た通りだ。
そして――
第二班。
星宮 歌羽。
崩崎 刀磨。
流川 奈緒。
天野 誠司。
花沢 澪。
九条 慧。
奈緒の名前は、そこにある。
当然だ。
昼にも、確かに見た。
それなのに。
「……」
胸の奥で、わずかに引っかかるものがあった。
違和感の正体は、
“誰がいるか”じゃない。
**“どうして、この分け方なのか”**だ。
「空野くん、第一班は問題なさそう?」
祈の声は、事務的で、淡々としている。
「うん。大丈夫」
答えながらも、視線はまだ紙の上に残っていた。
第一班も、第二班も、
ぱっと見れば、うまくまとまっている。
誰かが欠けたら困る、という感じでもない。
けれど、誰かが強く必要とされているようにも見えなかった。
祈が紙を机に戻す。
「じゃあ、これで確定ね」
その一言が、
妙に重く聞こえた。
祈は、いつもより一瞬だけ言葉を選んだ気がした。
でも、それが何のためだったのか、恒一には分からない。
確定。
もう動かない、という意味。
誰も異論を挟まない。
誰も疑問を口にしない。
それが、正しい進行だから。
会議はそのまま次の議題に移る。
持ち物。
当日の動線。
トラブル対応。
恒一は、話を聞きながら、ふと思う。
――昼に、もう一度見に行ったのは、なぜだったんだろう。
すでに知っていることを、
もう一度、自分の目で確かめた。
まるで、
「決まったもの」を、受け入れる準備をするためだったみたいに。
生徒会室の時計が、静かに時を刻む。
外では、部活の掛け声が聞こえていた。
世界は、何も変わっていない。
それなのに――
この班分けが、
ただの修学旅行の話で終わらない気がしてならなかった。
その理由を、
まだ言葉にできないまま。
校舎を出ると、夕方の空気が肌に触れた。
昼間より少しだけ冷えていて、影が長く伸びている。
恒一は、生徒会室を出てからもしばらく、頭の中を整理できずにいた。
第一班。
第二班。
ただの番号だ。
そう何度も言い聞かせているのに、数字がやけに耳に残る。
*
昇降口を抜けると、校門の向こうに人の流れが見えた。
部活に向かう生徒。
友達と並んで帰る生徒。
どれも、いつもと変わらない。
その中に、流川奈緒の姿があった。
友達と二人で歩きながら、何か話している。
口元が少しだけ動いて、軽く笑っているのが見えた。
恒一は、足を止めることなく、その横を通り過ぎる。
声をかけようと思えば、かけられた。
修学旅行の話でも、班の話でも、何でもよかったはずだ。
でも、結局、何も言わなかった。
言葉にした瞬間、
「ただの番号」に意味が生まれてしまう気がしたから。
校門を出て、いつもの帰り道に入る。
朝と同じ道のはずなのに、少しだけ景色が違って見えた。
住宅街の角を曲がる。
自販機の前を通り過ぎる。
犬の散歩をしている人とすれ違う。
全部、知っている光景。
なのに、胸の奥に、うまく説明できない違和感が残っている。
――もし。
第一班と第二班が、
本当にただの分け方じゃなかったとしたら。
そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消す。
馬鹿馬鹿しい。
修学旅行だ。
中学生の行事だ。
意味なんて、あるわけがない。
恒一は立ち止まり、夕焼けの空を見上げた。
昼間よりも色が濃く、雲が低く感じられる。
「……考えすぎだな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
意味がないものに意味を感じるのは、
たいてい、後から理由をこじつけるためだ。
今はまだ、何も起きていない。
何も始まっていない。
今日も、ただの一日だ。
そう思いながら、再び歩き出す。
この時の恒一は、まだ知らない。
この「ただの番号」が、
自分たちを切り分ける最初の線になることを。
そして――
その線を、誰が引いたのかという問いに、
いずれ向き合うことになるということを。
*
部屋のドアを閉めると、外の音が一気に遠ざかった。
制服を脱ぎ、鞄を床に置く。
いつもの動作。
特別なことは何もない。
机の上には、使いかけのノートとシャーペン。
生徒会の資料を入れたクリアファイルが、端に寄せて置かれている。
恒一は椅子に座り、背もたれに体を預けた。
第一班。
第二班。
昼間から、頭の片隅に引っかかっている数字。
班分けなんて、何度も経験してきた。
修学旅行に限らず、校外学習も、宿泊行事も。
そのたびに、誰と一緒になるかは変わってきた。
それなのに、今回だけ、なぜこんなにも気になるのか。
理由は、はっきりしない。
メンバーが悪いわけじゃない。
剣翔もいるし、迅もいる。
祈や夜乃とは生徒会で顔を合わせることも多い。
むしろ、やりやすいはずだ。
なのに。
「……固めすぎ、か」
ぽつりと呟いて、苦笑する。
自分でも、何を基準にそう思ったのかはわからない。
ただ、役割が見える並びだった。
前に出る人間。
判断する人間。
動く人間。
そして、その間に自然と置かれている、自分。
まとめ役でも、決定権でもない。
欠けても成立する場所。
それは、これまでと変わらない立ち位置だった。
恒一は、机の引き出しを開ける。
中から、将棋の駒が入った小さな箱を取り出した。
蓋を開け、駒を並べる。
王将、金、銀、角、飛車。
どれも役割がはっきりしている。
決められた動き。
決められた価値。
その中で、一つだけ例外がある。
成った駒。
最初は弱くても、
条件を満たせば、役割が変わる。
「……現実じゃ、そう簡単じゃないか」
駒を元に戻し、箱を閉じる。
机の上にスマホを置くと、
画面には通知が一つだけ表示されていた。
生徒会のグループ連絡。
明日の集合時間についての事務的な内容。
必要なことだけ。
余計な言葉はない。
恒一は既読をつけ、画面を伏せた。
ベッドに倒れ込む。
天井を見上げる。
修学旅行。
京都と奈良。
行程表も、注意事項も、すでに頭に入っている。
何時に動いて、どこで止まって、何を見て。
全部、決まっている。
決められているから、迷わなくていい。
迷わなくていいから、楽だ。
――楽、なのに。
胸の奥が、静かにざわついている。
理由は、まだ言葉にならない。
形にもならない。
ただ、今日という一日が、
何かの「前」だった気がしてならなかった。
明日も、きっと普通の日だ。
今晩は、修学旅行の準備をして、
いつも通り眠るだけ。
修学旅行の荷物を整えて、
電気を消す。
暗闇の中で、目を閉じる。
この夜は、
まだ世界が何も選んでいない、
最後の夜だった。
*
緊張のためか、スマホのアラームが鳴る前に、目が覚めた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
普段より、かなり早い時間。
恒一は、天井を見つめたまま、数秒動かなかった。
眠気は残っているのに、頭は妙に冴えている。
修学旅行当日。
それだけで、朝の空気が違う。
ベッドから起き上がり、パジャマを脱いでから、制服に袖を通す。
前日のうちに用意しておいたバッグを持ち上げると、思ったより重かった。
荷物の重さ。
今日という一日の分量。
階段を降りると、キッチンから物音がした。
叔母の星宮久美が、いつも通りの手際で朝食を用意している。
久美の手つきは、無駄がなかった。
だが、それは上手いというより、
毎朝そうしてきた結果、身体が覚えている動きだった。
火加減を確かめるでもなく、
調味料の分量を測るでもない。
「このくらい」で済ませる、生活の手際。
恒一のそれとは、少し違う。
「早いね」
「まあ」
短い会話。
特別な言葉はない。
食卓に並ぶのも、いつもと大きくは変わらない。
パンと、簡単な副菜。
違うのは、時間と、行き先だけだ。
「気をつけてね」
「うん」
それだけで十分だった。
「しおり、持った?」
歌羽が玄関先で立ち止まる。
「……たぶん」
「たぶん禁止」
差し出された一冊の紙束。
びっしり書かれた予定表を見て、恒一は息を吐いた。
玄関で靴を履き、ドアを開ける。
朝の空気は、少し冷たくて、澄んでいる。
*
集合場所は、九中の校庭。
いつもと同じ道を歩くはずなのに、足取りはわずかに違った。
通学路には、同じようなバッグを持った生徒の姿が増えていく。
声を掛け合うグループ。
一人で歩く生徒。
恒一は、その流れに自然と混じった。
学校が近づくにつれて、視界に知った顔が増える。
少し前を歩いているのは、剣翔だ。
バッグを肩にかけ、周囲を気にする様子もなく進んでいる。
その横には、迅。
視線は前だけを向いていて、誰とも目を合わせない。
追い抜くことも、声をかけることもなく、
恒一は、少し距離を保ったまま歩いた。
校門の前は、すでに人が集まり始めていた。
完全な登校時間よりは早いが、ざわめきは十分だ。
集合場所ごとに、なんとなく固まりができている。
意識していなくても、班ごとに近づいてしまうのは、不思議なものだ。
恒一は、辺りを見回す。
剣翔と迅、そして透は、すでに近くにいた。
黒葉夜乃と火村あかねも、少し離れた場所で並んで立っている。
まだ、祈の姿は見えない。
――生徒会長の仕事か。
そう思った、その時。
少し離れた場所から、聞き覚えのある声がした。
明るくて、よく通る声。
周囲の雑音に埋もれない、不思議な存在感。
視線を向けると、星宮歌羽が、友達に囲まれて立っていた。
バッグを背負い、楽しそうに笑っている。
歌羽とは、集合時間が少し違うので、朝は別々だった。
その少し後ろに、奈緒の姿もある。
こちらには気づいていない。
別の班。
それだけで、距離がはっきりと分かれる。
恒一は、無意識に視線を逸らした。
その瞬間、
誰かが前に立った。
「おはよう、空野くん」
柔らかい声。
顔を上げると、白城祈が立っていた。
いつも通りの落ち着いた表情で、バッグを両手で持っている。
「早いですね」
「祈こそ」
「生徒会の最終確認が少しあって……」
それだけ言って、祈は周囲を見渡す。
剣翔、迅、夜乃、あかね、透。
そして、恒一。
自然と、第一班が揃っていた。
「……集まり、早いですね」
「まぁ、たまたまじゃないかな」
剣翔が、短く答える。
そのやり取りを聞きながら、
恒一は、胸の奥にあったざわめきが、少し形を持つのを感じていた。
意味は、まだわからない。
理由も、説明できない。
ただ。
この並びは、
昨日決まっただけのものじゃない。
そんな気がしてならなかった。
「そろそろ、点呼始まるか」
誰かが言い、周囲が動き出す。
修学旅行が、始まる。
誰の意思かもわからないまま、
全員が、決められた場所へ向かっていく。
この時点では、まだ。
それが「転移の前」だなんて、
誰一人、気づいていなかった。
*
校門前のざわめきが、少しずつ整理されていく。
教員の声が通り、
「班ごとに集まってください」
という指示が、繰り返された。
完全に整列しているわけじゃない。
けれど、人の流れは確実に一方向へ寄せられていく。
恒一たちの班も、自然と一かたまりになった。
祈、剣翔、夜乃。
顔ぶれを見て、恒一はふと気づく。
――そういえば、この学校は公立ではかなり珍しいが、三年生になると、成績順でクラスが編成される。
生徒会のメンバーが同じクラスに固まっているのも、
制度としては、別に不自然じゃない。
生徒会役員は、推薦と成績、それに教師の判断で選ばれる。
立候補制という建前はあったが、実際には「適性がある」と見なされた生徒の名前が、先に決まっていた。
ただ。
こうして同じ班に並ぶと、
最初から「まとめられていた」ようにも見えた。
「第一班、集まってるな」
担任が名簿を手に、目を向けてくる。
名前を一人ずつ確認する、いつもの点呼。
「白城」
「はい」
「守崎」
「はい」
「空野」
「……はい」
自分の名前を呼ばれて返事をする。
それだけのことなのに、声が少し遅れた気がした。
続いて、黒葉、影山、火村、霧島。
全員、問題なし。
「よし。じゃあ、バスに向かうぞ」
担任の、その一言で、緊張がほどけたように、周囲が動き出す。
校門を出て、停まっている観光バスへ向かう。
エンジン音。
ドアが開く、低い空気の音。
恒一は、列の中を歩きながら、周囲を見渡した。
少し前には剣翔。
振り返ることもなく、淡々と進んでいる。
迅は、相変わらず無言だ。
視線は下がり、何を考えているのかはわからない。
透も何も言わずについてくる。
夜乃とあかねは、並んで歩いている。
会話はしていないが、歩幅が自然に揃っている。
祈は、少し後ろ。
全体を見渡すように、静かに周囲を確認していた。
――やっぱり、生徒会長だな。
そんなことを思った自分に、恒一は小さく苦笑する。
役割。
立ち位置。
気づけば、頭の中で勝手に整理してしまっている。
人の流れが少し詰まったところで、
恒一は、前から歩いてきた別の班とすれ違った。
その中に、見覚えのある顔がある。
崩崎刀磨だった。
バッグを肩にかけ、相変わらず気だるげな歩き方。
視線だけでこちらを一瞥し、足を止める。
「……お、空野」
「刀磨」
短く名前を呼び合う。
それだけで、会話が始まるわけでもない。
刀磨は、恒一の後ろ――剣翔と迅、そして祈の姿を順に見て、
小さく鼻で笑った。
「なるほどな」
「なにが」
恒一が聞き返すと、
刀磨は、わざとらしく周囲を見回してから、声を落とす。
「いや。
第一班、って感じの並びだなって」
「……どういう意味だよ」
「字面通り」
刀磨は肩をすくめる。
「生徒会。成績上位。真面目枠。
効率よくまとめるなら、こうなるよな、って話」
冗談めいた口調。
でも、目は笑っていなかった。
「偶然だろ」と剣翔が、後ろから言う。
刀磨は、ちらりと剣翔を見る。
「そういうことにしといた方が、楽だよな」
それだけ言って、視線を恒一に戻す。
「まあ、悪くないメンツじゃん。
空野、お前が入ってるのも、らしいし」
「らしいって、なんだよ」
「“埋める側”って意味」
一瞬、言葉が詰まる。
刀磨は、それ以上説明しなかった。
代わりに、軽く手を振る。
「ま、楽しめよ。
こっちはこっちで、面倒くさそうだからさ」
そう言って、刀磨は自分の班の方へ歩いていく。
その背中を見送りながら、
恒一は、胸の奥に、小さな棘が残るのを感じていた。
――埋める側。
その言葉が、
やけに、正確すぎた。
*
バスに乗り込むと、車内の空気が一気に変わった。
シートに座る音。
荷物を棚に上げる音。
担任の指示で、座席が決められていく。
「第一班は、バスの入口から見て左側、前から三列な」
座席は、特に指示があったわけじゃない。
迅と剣翔が前に座り、
その後ろに、祈と恒一。
さらに後ろで、透がサイドシートに腰を下ろし、
あかね、夜乃の順でその隣に並んだ。
偶然そうなっただけだ。
少なくとも、その時は、そう見えた。
誰も席を選ばなかった。
選んだつもりの人間も、いなかった。
偶然なのか、
それとも――
「ここでいい?」
祈が、穏やかに尋ねる。
「うん」
短く答えて、恒一は窓側に座った。
その言葉で、恒一は祈と同じ列に座ることになった。
バスの窓から見える校舎。
見慣れた景色なのに、ガラス越しに見ると、少し遠い。
後方では、別の班の笑い声が聞こえる。
一瞬だけ、
歌羽の声が混じった気がした。
楽しそうで、明るくて、
この場にふさわしい音。
奈緒の姿は、見えない。
どの席に座ったのかも、わからない。
バスのドアが閉まり、
エンジン音が一段、低くなった。
「じゃあ、出発するぞー」
担任の声。
ゆっくりと、バスが動き出す。
校門が、
校舎が、
通学路が、少しずつ後ろへ流れていく。
その様子を見ながら、恒一は思う。
――ああ、始まったんだな。
修学旅行。
ただの行事。
そう思っていたはずなのに。
胸の奥で、
何かが、静かに「確定」していく感覚があった。
理由は、わからない。
説明も、できない。
ただ。
このバスが向かう先が、
地図に載っている場所だけじゃない気がしてならなかった。
恒一は、無意識に指先を握る。
まだ、空は青い。
何も、起きていない。
――この時点では。
バスが動き出し、校門がゆっくりと後ろへ流れていく。
「……静かだな」
目の前の席から、剣翔の声がした。
独り言に近い。
「まぁ、たしかにね。
修学旅行って、もっと騒がしいものだと思ってた」
と祈が返す。
「それ、小学生までの話でしょ」
祈の真後ろの席から、あかねが即座に返す。
シートに深く座りながらも、足先はやや落ち着きがない。
「朝だし。まだ目、覚めてないだけじゃない?」
透が、中央列の席からみんなに聞こえるように言った。
声は大きくないが、ちゃんと全員に届く。
迅は剣翔の向こう側にある窓の外を見たまま、反応しない。
恒一は、窓に映る自分の顔をぼんやりと見ていた。
「……まあ、楽なほうがいい」
そう言うと、剣翔はそれ以上続けなかった。
「楽すぎるのも、どうかと思うけどね」
夜乃が、窓の外を見たまま、ぽつりと言う。
誰に向けたとも分からない声だった。
「なにそれ、怖いこと言わないでよ」
あかねが笑う。
「修学旅行だよ?
楽しまなきゃ損じゃん」
「楽しむ、か」
透が、小さく笑った。
「その割には、みんな静かだ」
言われてみれば、そうだった。
誰も騒いでいない。
誰も不満も言わない。
必要なことだけが、最低限、交わされている。
「……別に、嫌じゃない」
恒一が、ようやく口を開いた。
「うるさいよりは」
「だよな」
剣翔が、短く同意する。
それで会話は終わった。
エンジン音だけが、一定のリズムで続く。
窓の外では、見慣れた街並みが少しずつ遠ざかっていく。
誰も、まだ気づいていない。
この静けさが、
“整っている”から生まれたものだということに。
生徒たちの声は、思ったよりも静かだった。
騒いでいるのは、前の方の席だけ。
後ろに行くほど、会話は小さく、断片的になる。
誰かが笑って、
誰かが眠そうに目を閉じる。
修学旅行のバスとしては、
あまりにも普通の光景だ。
恒一は、シートに背中を預けて、息を吐いた。
――まだ、何も起きていない。
それが、逆に妙だった。
行事の始まりなら、
もっと浮き立つ空気があってもいい。
あるいは、面倒くさそうな溜め息があってもいい。
でも、このバスの中には、
そういう「感情の波」が、ほとんどなかった。
静かすぎる。
それは、秩序が保たれているというより、
最初から“そうなるように並べられた”感じに近い。
ふと、すぐ左隣の席に目を向ける。
白城祈が、いつの間にか資料の束を膝に置いて目を通していた。
修学旅行のしおりだろう。
ページをめくる指の動きが、やけに正確だった。
その真後ろにあかね、隣の窓側に夜乃が座っている。
小声で話しているが、笑い声は出さない。
周囲を気にしているというより、
最初から抑えたテンションのまま、という印象だ。
――第一班。
頭の中で、自然とそう呼んでしまう。
番号で呼ばれただけのはずなのに、
そこに、役割の匂いが混じっている気がした。
「なあ、空野」
剣翔が、前を向いたまま言った。
「こういうの、好きか?」
「どれ?」
「集団行動的なやつ」
即答は、できなかった。
好きでも嫌いでもない。
やる必要があるなら、やる。
それだけだ。
「普通」
そう答えると、剣翔は小さく鼻で笑った。
「だよな」
それきり、会話は終わる。
窓の外では、見慣れた街並みが、少しずつ後ろへ流れていく。
住宅街。
コンビニ。
信号。
さっきまで歩いていた道が、
今はガラス一枚の向こう側にある。
恒一は、無意識に拳を握っていた。
――意味は、ないはずだ。
班分けも、
座席も、
このバスに乗っていることも。
全部、決められた通りに進んでいるだけだ。
それなのに。
胸の奥で、
何かが「これは違う」と言っている。
理由は、わからない。
何かを見たわけでも、
誰かに何かを言われたわけでもない。
ただ――
もう、戻れない場所を通り過ぎた気がした。
バスが、大きく右に曲がる。
遠心力で、身体がシートに押しつけられる。
その瞬間、
恒一の脳裏に、朝の言葉がよぎった。
――無職って自由だろ。
笑いながら言ったはずの言葉が、
今は、妙に重い。
役割がない。
選ばれない。
何者でもない。
それは、本当に「自由」なのか。
それとも――
「……」
バスは、加速する。
窓の外の景色が、
確実に、日常の輪郭を失っていく。
この時の恒一は、まだ知らない。
この移動が、
ただの修学旅行では終わらないことを。
そして、
「選ばれなかったはずの役割」が、
すぐそこまで来ていることを。
*
バスの振動に身を任せながら、恒一は目を閉じた。
考えないようにすればするほど、
頭の奥で、言葉にならない違和感だけが残る。
そのときだった。
「……ねえ」
不意に、声が落ちてきた。
高くもなく、低くもない。
透き通っているのに、どこか芯のある声。
恒一は反射的に目を開ける。
「聞こえてる?」
通路の向こう側、一つ後ろの席。
アイルシートに座る少女が、こちらを見ていた。
星宮歌羽。
当たり前だが、クラスでは有名人だ。
テレビに出ている現役アイドル。
けれど今は、ステージ衣装でも、作られた笑顔でもない。
修学旅行のしおりを膝に置いたまま、
ただ、素の顔でこちらを見ている。
「……俺?」
「うん」
歌羽は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「さっきから、ずっと起きてるでしょ」
驚いた。
寝ているふりは、完璧だったはずだ。
「なんでわかるんだよ」
「なんとなく」
それだけ言って、歌羽は視線を窓の外に戻す。
「バスの中ってさ、不思議じゃない?」
独り言みたいな口調だった。
「みんな同じ方向に進んでるのに、
考えてることは、全然違う」
恒一は、返事をしなかった。
けれど、耳だけは自然と向いていた。
「このまま、何も起きなかったらいいなって人もいれば、
ちょっとだけ、何か起きてほしいって思ってる人もいる」
歌羽は、微笑んだ。
「……私はね」
そこで、言葉を切る。
「……なんでもない」
歌羽は、そう言って視線を逸らした。
それ以上、何も言わない。
視線も、もうこちらに向かない。
違う班なのに、バスの中で離れた席から声をかけられて少し驚いた。
――声、だけ。
それなのに、
胸の奥に、確かな引っかかりが残った。
何かを言いかけて、
あえて言わなかった声。
恒一は、シートに深く身を沈めた。
*
バスは、市街地を抜けて走り続ける。
高速道路のような単調さはない。
信号。
交差点。
歩道を歩く人の姿。
見慣れた風景が、一定のリズムで流れていく。
それなのに――
どこか「通過している」感じがあった。
「このあと、高崎駅で下車します」
担任の声がマイク越しに響く。
「新幹線に乗り換えるから、
忘れ物ないように。班ごとに動くぞ」
その言葉で、車内の空気が少しだけ引き締まった。
高崎駅。
乗り換え。
新幹線。
ただの移動のはずなのに、
そこに一線が引かれた気がした。
バスは速度を落とし、
ロータリーへと入っていく。
ガラス越しに見える駅舎。
行き交う人の流れ。
白い車体が並ぶ、新幹線のホーム。
「第一班から降りるぞ」
ドアが開く。
外の空気は、思ったよりも現実的だった。
排気の匂い。
人の声。
アナウンスの反響。
それでも――
ここが「途中」ではないことだけは、はっきりしている。
黒葉夜乃は、
班の少し後ろを歩いていた。
細いフレームの眼鏡をかけ、
教科書を読むときと同じ、
普段と変わらない顔をしている。
誰かと話すわけでもなく、
かとって一人でいるわけでもない。
視線はどこか遠く、
目の前の景色を見ているようで、
見ていない。
ふとした拍子に、
ほんの一瞬だけ目が合った。
レンズ越しの瞳は、
こちらを見ているというより、
こちらの内側を覗いているように見えた。
その感覚に、
恒一は思わず視線を逸らした。
班ごとに整列し、改札へ向かう。
足音が、自然と揃っていく。
床が硬く、音が均一になる。
新幹線に乗り込む。
指定された号車。
指定された座席。
恒一は、自分の番号を確認して腰を下ろした。
新幹線の座席は、窓側だった。
隣の席は、最初から空いている。
偶然なのか、配慮なのかはわからない。
ただ、誰もそこに座らなかった。
窓側。
進行方向。
逃げ場のない配置。
シートに身を預けた瞬間、
バスとは違う感覚が身体に伝わってくる。
速い。
静か。
一直線。
発車ベルが鳴る。
その音は、
「戻る」という選択肢を、最初から用意していない音だった。
新幹線が、動き出す。
街が、流れになる。
日常が、背景になる。
恒一は、目を閉じた。
眠りなのか、
境界なのか。
まだ、この時点では分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
この移動は、
もう「行き」しか残していない。
停車駅も、座席も、進行方向も、すべて決められている。
ここには、降りる理由を選ぶ余地がない。
*
新幹線の車内は、出発直後のざわめきが、少し落ち着いたところだった。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、
空野恒一はふと気になった箇所を確認し、
修学旅行のしおりを閉じる。
第二班の欄にある名前――崩崎刀磨。
それを見た瞬間、ほんの一瞬だけ、視線が止まった。
「全国、行ったよな」
誰に向けたわけでもない一言だった。
けれど、その言葉だけで、記憶は簡単に引き戻される。
剣翔が四番でエースピッチャー。
恒一は三番キャッチャーとして、その背中を受け止めていた。
一番センターの刀磨が流れを作り、
二番ショートの迅が、それをつないでいく。
確かに、同じチームだった。
全国大会まで行った、間違いなく強いチーム。
それでも中学に上がってから、道は分かれた。
剣翔はそのまま野球部へ。
刀磨はサッカー部に入り、迅は卓球部を選んだ。
そして恒一だけが、盤と駒のある将棋部にいた。
野球をやめた理由は、単純だった。
用具代や遠征費――お金のかかる競技を続けて、
星宮家にこれ以上迷惑をかけたくなかった。
情熱が冷めたわけじゃない。
ただ、選ばなかっただけだ。
代わりに恒一は、歌羽のアイドル活動を、できる範囲で支える側に回った。
送迎の段取りや、細かなスケジュール管理。
表に立つのは彼女で、自分はいつも少し後ろ。
それが、一番しっくりくる距離だった。
「それでいいと思うよ」
あの時、そう言ってくれたのは歌羽だけだった。
その言葉があったから、恒一は今も迷っていない。
少なくとも、その時は、
後悔だとは思っていなかった。
野球をやめたことも。
支える側を選んだことも。
――あれは、誰かの夢を守るために、自分で選んだ道だ。
やがて車内アナウンスが流れ、大宮駅が近いことを告げる。
窓の外の景色が、少しずつ変わっていく。
まだ群馬を出たばかりなのに、
戻れない場所を一つ、置いてきた気がした。
あの頃は、まだ同じチームだった。
その事実だけが、胸の奥に静かに残っていた。
一定の速度。
一定の揺れ。
恒一は、シートに深く身を預けた。
眠くはない。
でも、起きている理由も、特にない。
意識が、少しずつ緩んでいく。
担任の声が遠ざかり、
会話の断片が、意味を失っていく。
その中で。
「……ねえ」
また、聞こえた気がした。
今度は、誰の声か、分からない。
呼ばれた気がして、
けれど、名前は呼ばれていない。
恒一は、薄く目を開けた。
車内は、変わらない。
誰も、こちらを見ていない。
――気のせいだ。
そう思った、その瞬間。
新幹線が一瞬揺れた。
何人かが、顔を上げる。
「今の何?」
「段差?」
「新幹線で?」
すぐに、また一定の揺れに戻る。
問題ない。
異常じゃない。
そう、判断されて、
誰もそれ以上、気にしなかった。
けれど。
恒一の胸の奥で、
確かに、何かがズレた。
シャーペンを落としたときの、
ほんの一瞬の浮遊感。
「……」
言葉にならない違和感。
恒一は、目を閉じた。
眠ろう。
考えないほうがいい。
そう決めたはずなのに。
意識の底で、
誰かが、静かに問いかけてくる。
――役割は、もう決まっているか?
その問いに、
答えが浮かばないまま。
恒一の意識は、
ゆっくりと、沈んでいった。
世界が、
フェードアウトする。
まだ、この時点では。
それが「眠り」なのか、
それとも「境界」なのか。
誰にも、
区別はつかなかった。
しばらくすると、東京駅に到着し、上越新幹線から東海道新幹線に乗り換えた。
そして、新幹線は、定刻通り京都駅に滑り込んだ。
ホームに降り立った瞬間、
空気が少しだけ変わった気がした。
*
清水寺の舞台は、人で溢れていた。
前に進む流れと、立ち止まる人の列が、自然に分かれている。
誰に指示されたわけでもないのに、足は勝手に場所を選んでいた。
「写真、撮るぞ」
火村あかねが、柵の近くまで出ていく。
足取りは軽く、ためらいがない。
「落ちるなよ」
守崎剣翔が、時間を確認しながら言った。
注意というより、全体を整える声だった。
白城祈は、本堂の前で足を止めていた。
誰かに勧められたわけでもなく、自然に手を合わせる。
祈っている、というほどの動作でもない。
ただ、そうするのが正しい気がしただけだ。
霧島透は、その少し後ろ。
人の流れと班の位置を、同時に見渡せる場所に立っている。
黒葉夜乃は、説明板の文字を最初から最後まで追っていた。
舞台にも、景色にも、あまり興味はなさそうだった。
影山迅は、人混みの端にいた。
誰にも邪魔されず、誰も邪魔しない位置。
空野恒一は、舞台の少し後ろに立っていた。
前に出なかったのは、危ないからじゃない。
前に出る理由が、なかった。
「すげーな」
誰かが言う。
同じ場所に立っているはずなのに、
見ているものは、全員違っていた。
それでも不思議と、列は乱れない。
役割が、勝手に配置されていく。
誰も決めていないのに。
ーーその日のうちに、奈良へ向かった。
窓の外の景色が、少しずつ「通過点」に変わっていく。
見ているはずなのに、触れていない感じがした。
奈良公園は、思っていたよりも静かだった。
広い芝生の向こうで、たくさんの鹿たちがゆっくりと歩いている。
観光客の声はあるはずなのに、どこか音が丸い。
「うわ、来た」
火村あかねの前に、鹿が一頭、迷いなく近づいた。
距離が詰まっても、あかねは一歩も引かない。
「近っ。ちょ、角」
「刺激すんなって」
霧島透が、通路側から声をかける。
鹿は気にした様子もなく、あかねの手元を覗き込んだ。
少し離れた場所で、白城祈が立っている。
何もしていないのに、気づけば鹿が周囲に集まっていた。
祈は困ったように笑って、
それでも自然に、その場を動かない。
空野恒一は、その光景を少し距離を取って見ていた。
鹿と、目が合わない。
避けられているわけでも、嫌われているわけでもない。
ただ、こちらを「認識していない」ような距離だった。
黒葉夜乃は、鹿を見ている。
鹿は、夜乃を見ていない。
視線が、決定的にすれ違っている。
影山迅は、少し離れた木陰に立っていた。
鹿の位置も、人の流れも、すべてが見える場所だ。
「……鹿って、こんなに人を選ぶんだっけ」
ぽつりと、透が言った。
あかねは気にした様子もなく、鹿を追い払うふりをしている。
祈の周りには、相変わらず鹿が残っている。
第一班は、同じ場所にいるのに、
それぞれ違う距離で、ここに立っていた。
その少し向こう。
第二班は、芝生の端に集まっていた。
「もう、鹿せんべいないんだけど」
花沢澪が、空袋を振る。
「ほら、来すぎ」
天野誠司が笑いながら、庇うように流川奈緒の前に立つ。
奈緒は少し驚きながらも、すぐに落ち着いた表情に戻った。
星宮歌羽は、その一歩後ろで様子を見ている。
前にも出ず、離れもしない、ちょうどいい距離。
「奈緒、大丈夫?」
「うん。思ったより、平気」
奈緒はそう答えて、鹿の背中を見送った。
鹿に囲まれて身動きが取れなくなった九条慧が、
「え、ちょ、なんで僕だけ……?」と本気で困っていた。
第二班は、ちゃんと観光している。
奈良公園という場所に、自然に収まっている。
歌羽だけが、一瞬、第一班の方を見た。
距離はある。
けれど、同じ場所にいるようには見えなかった。
「……気のせい、かな」
小さく呟いて、歌羽は視線を戻す。
鹿は、何事もなかったように歩いている。
*
最初は、音だった。
風のような、
水の中にいるような、
方向を持たない揺れ。
恒一は、目を開けようとして、
開かないことに気づく。
――夢だ。
そう理解するのに、
少し時間がかかった。
身体の感覚が、曖昧だった。
座っている気もするし、
横になっている気もする。
重力が、一定じゃない。
どこかで、
新幹線が静かに走る音が聞こえている。
でも、それは少しずつ、
別の音に置き換わっていく。
低く、脈打つような、
規則的な響き。
心臓の音に、似ていた。
暗闇の中で、
光が、にじむ。
白でも、黒でもない。
境界が、はっきりしない光。
恒一は、
その中心に「線」を見た。
一本の、細い線。
後になって思えば、
あの京都と奈良の時間が、
実際に起きた出来事だったのか、
起きるはずの可能性だったのか、
この時点では、まだ区別がついていなかった。
それは、選択肢のようにも見えたし、
境界線のようにも見えた。
触れれば、
何かが変わる。
そんな予感だけがある。
――選べ。
声が、聞こえた。
誰のものか、分からない。
男でも、女でもない。
感情を削ぎ落とした、
それでいて、異様に近い声。
――お前は、どこに立つ?
問いかけは、
答えを急かさない。
ただ、
「選ぶこと」そのものを、
求めている。
恒一は、線を見つめた。
右か。
左か。
それとも、
踏み越えない、という選択か。
どれも、正しい気がしない。
でも、どれも、間違っているとも言えない。
――役割は、用意されている。
恒一は、答えなかった。
それでも、線は消えなかった。
ここに留まる、という選択肢がないわけじゃない。
ただ、それを選ぶ理由が、もう残っていなかった。
声が、続ける。
――拒否するなら、その代価を知れ。
言葉の意味は、分からない。
なのに、不思議と恐怖はなかった。
恒一は、
ゆっくりと、息を吸った。
胸の奥に、
ずっと引っかかっていた感覚。
「自分じゃなくてもいい」
「誰かの代わり」
そのすべてが、
この線に、集約されている気がした。
――もし。
ここで、
何も選ばなかったら。
その想像だけが、
なぜか、ひどく現実的だった。
恒一は、
線の上に、足を置いた。
すると。
世界が、
静かに、割れた。
音が消える。
光が反転する。
上下が、
意味を失う。
落ちているのか、
浮かんでいるのかも分からない。
ただ、
「移動している」感覚だけがある。
遠くで、
誰かの声がした。
「……いち」
かすれていて、
はっきりしない。
次の瞬間、
別の声が、重なる。
「……恒一」
確かに、
自分の名前だった。
恒一は、
はっと、意識を掴まれる。
目を開ける。
――が。
見えたのは、
天井ではなかった。
次の瞬間、
強烈な光が、視界を塗りつぶす。
そして。
世界が、
完全に、切り替わった。




