第12章「歌わない歌姫」
暗い。
だが、完全な闇ではない。
天井は高い。
石ではない。
黒い結晶のような壁。
音が、吸われる。
ここは牢ではない。
舞台だ。
中央に、白い円陣。
その上に、ひとりの少女。
星宮うた──
歌羽は、目を閉じていた。
鎖はない。
枷もない。
ただ、空間が固定されている。
(……広い)
空気は澄んでいる。
血の匂いもない。
拷問も、暴力もない。
それが、逆に不気味だった。
床は冷たかった。
裸足ではないのに、
温度だけが直接伝わってくる。
逃げ場がないというより、
“離れる意味がない”と
空間そのものに理解させられている感覚だった。
遠くで、低い振動。
魔力の脈動。
魔王城。
気配はある。
だが、視線は感じない。
監視はある。
けれど、悪意は薄い。
(……殺す気は、ない)
それだけは分かる。
それなら、なぜ。
足音が響く。
硬い音ではない。
重くもない。
ゆっくりと、誰かが歩いてくる。
闇の向こうから、声。
「起きているな」
低い。
だが、濁っていない。
歌羽は、目を開けた。
そこに立っていたのは、
鎧ではない。
巨大でもない。
黒い外套を纏った、長身の男。
瞳は、赤でも金でもない。
ただ、深い。
「……あなたが、魔王?」
問い。
男は、少し考える。
「その呼び名を使うなら、そうなる」
否定しない。
誇らない。
ただ、事実として受け取っている。
歌羽は、喉に手を当てる。
とりあえず、声は出る。
試しに、短く息を吐く。
音は、響く。
しかし、消えない。
「……どうして、歌わせないの?」
魔王は答える。
「歌は、固定する」
短い言葉。
「お前の歌は、世界を整える」
「お前の歌は、世界の“正解”を強める」
「そして──
その“正解”は、いつも一つになる」
歌羽は、眉をひそめる。
「それが、どうして悪いの?」
魔王は、わずかに目を細める。
「整いすぎる」
静かな声。
「均衡が、保たれすぎる」
空間の奥で、黒い結晶が淡く脈打つ。
「お前の歌は、世界の“正解”を強める」
歌羽の胸が、わずかに冷える。
(……正解)
歌羽は、ふと目を閉じた。
結晶の冷たい光が、まぶたの裏で滲む。
(……歌)
その言葉に触れた瞬間、
遠い記憶が、ゆっくりと浮かび上がった。
*
日本。
まだ、星宮うたという名前が、
ほとんど知られていなかった頃。
地下の、小さなライブハウスだった。
天井は低く、
照明は少なく、
客席は思ったより暗い。
ステージの上に立つと、
客の顔は、ほとんど見えなかった。
(……少ない)
カーテンの隙間から見たとき、
客席は、十人くらいしかいなかった。
正直、少しだけ落ち込んだ。
もっといると思っていたから。
スタッフが、小さく言う。
「緊張しなくていいから」
歌羽は頷いた。
マイクを握る。
その手が、少し震えていた。
(……大丈夫)
歌うだけ。
それは、ずっとやってきたことだ。
前奏が流れ、
照明が、白く落ちる。
息を吸う。
そして──
歌い始めた。
最初の一音。
それが空気に触れた瞬間、
世界が、ほんの少しだけ広がった気がした。
声は、ちゃんと出ていた。
音程も、
リズムも、
きっと、間違っていない。
でも。
(……誰も)
客席は、静かだった。
ペンライトもない。
歓声もない。
ただ、聞いている。
それでも、歌った。
二番。
サビ。
声が少しだけ大きくなる。
すると。
客席の端で、
ひとりの女の子が顔を上げた。
高校生くらい。
おそらく、自分より年上だ。
制服のまま、
椅子の端に座っている。
その子は、
ずっと下を向いていた。
でも。
サビに入った瞬間、
ゆっくりと顔を上げた。
目が、合った。
その子の目が、
少しだけ、潤んでいる。
(……え)
歌羽は、一瞬だけ驚く。
泣くような曲じゃない。
明るい曲だ。
元気な曲だ。
なのに。
その子は、
小さく涙を拭いていた。
歌が終わる。
拍手は、まばらだった。
十人分の拍手。
それでも、ちゃんと聞こえた。
ステージを降りると、
さっきの女の子が近づいてきた。
言葉を探すみたいに、
少しだけ黙る。
それから、小さく言った。
「……元気、出ました」
それだけだった。
歌羽は、うまく返事ができなかった。
ただ、笑った。
女の子は、もう一度だけ頭を下げて、
すぐに帰っていった。
扉が閉まる。
静かなライブハウス。
スタッフが言う。
「初ステージにしては、上出来だよ」
でも、歌羽は、
さっきの女の子のことを考えていた。
(……元気、出たんだ)
世界のためでもない。
正義のためでもない。
ただ。
誰かひとりが、
少しだけ元気になる。
それだけで、
胸の奥が、温かかった。
(……あ)
そのとき、初めて思った。
(歌って……)
(こういうものなんだ)
*
歌羽は、ゆっくりと目を開けた。
結晶の天井。
静かな空間。
あの小さなライブハウスの空気は、
もうここにはない。
けれど。
胸の奥に残っているものは、
あのときと、同じだった。
(……そうだ)
世界のためじゃない。
正解のためでもない。
歌羽は、小さく息を吐く。
(私は……)
(歌ってただけだ)
そして、静かに思う。
(……次に歌うときは)
誰のためか。
自分で、選んでみせる。
*
勇者。
聖女。
王国。
神殿。
正しい物語。
その中心で、歌っていた。
「それの、何がいけないの?」
魔王は、はっきり言う。
「正解が固定されると、零は消える」
──だから、お前を奪った。
空気が、止まる。
零──。
歌羽の脳裏に、
無意識に一人の姿が浮かぶ。
何者でもない少年。
ジョブは無職。
(……恒一)
魔王は、続ける。
「お前は、知らないうちに“裁定側”に立っている」
歌羽の呼吸が浅くなる。
「私は……歌ってるだけ」
「歌は力だ」
魔王は、否定しない。
「だから、奪った」
言葉は冷たい。
だが、そこに嘲笑はない。
*
「殺さない」
「壊さない」
「閉じ込めるだけ」
歌羽は、立ち上がる。
「それって、優しさのつもり?」
魔王は、首を振る。
「保留だ」
保留。
処分でもなく、
解放でもない。
「世界が傾き始めた」
結晶が、微かに軋む。
「六つの均衡が揺れている」
歌羽は、はっとする。
「……何かが、起きてるの?」
魔王はその問いには答えない。
代わりに、静かに告げる。
「お前が歌えば、揺れは止まる」
「なら──」
「だが」
声が、低くなる。
「止まるべきではない揺れもある」
歌羽は、魔王を見る。
狂気はない。
暴虐もない。
ただ、意思がある。
「あなたは、世界を壊したいの?」
魔王は、即答する。
「違う」
「壊すのは簡単だ」
一歩、近づく。
彼が一歩近づいた瞬間、
結晶の脈動が遅れた。
空間が、
判断を待つように静止する。
「選ばせたい」
歌羽の心臓が跳ねる。
「……誰に?」
魔王は、わずかに目を伏せる。
「零に」
空間が、静かに震える。
「……あれは、消すべきじゃない」
*
魔王は、
単なる破壊者ではない。
均衡破壊者でもない。
“固定破壊者”。
歌は固定。
勇者は固定。
神は固定。
だが、零は未確定。
だから。
「お前は鍵だ」
魔王は、はっきり言う。
「お前が歌わない間だけ、世界は揺れる」
歌羽は、拳を握る。
「私を、道具にしてる」
「全員が、道具だ」
冷たい真実。
「勇者も」
「聖女も」
「無職も」
一瞬の沈黙。
「……そして」
「魔王である、俺さえも、だ」
*
歌羽は、座り直す。
(……私は、何を歌ってた?)
勇者のため?
王国のため?
世界のため?
それとも。
“正解のため”?
胸の奥に、微かな不安。
恒一の顔が浮かぶ。
あのとき。
彼は、歌を“聞いていなかった”。
(……恒一は)
正解に、反応しなかった。
魔王は、背を向ける。
「歌うなとは言わない」
足音が遠ざかる。
「だが、次に歌うときは」
振り返らないまま。
「誰のためか、選べ」
闇が閉じて、
結晶の光が、わずかに揺れる。
歌羽は、ひとり残される。
鎖はない。
だが、身体が重い。
(……選ぶ)
胸の奥で、言葉が反響する。
*
結晶の間の奥。
扉が、音もなく開いた。
入ってきたのは、
鎧でも、怪物でもない。
細身の女性だった。
長い黒髪。
肌は白く、
瞳は深い紫。
年齢は、歌羽より少し上だろう。
静かな足取りで、
円陣の縁まで来る。
「お目覚めですね、歌姫」
柔らかい声。
だが、どこか冷えている。
歌羽は、警戒を解かない。
「あなたは?」
「側近、という立場になります」
一礼。
「世話係も兼ねております」
その言い方に、
嫌味はない。
だが、従属でもない。
「名前は?」
歌羽が問う。
女は、少し考える。
「今は、不要かと」
拒絶ではない。
ただ、“固定しない”。
(……似てる)
歌羽は、思う。
あの魔王も、誇らなかった。
この女も、名を使わない。
円陣の外へ出ることはできない。
だが。
給仕される食事は温かく、
水も澄んでいる。
部屋は清潔。
ここは牢ではなく、
舞台だ。
女は、静かに茶器を置く。
「甘いものはお好きですか?」
歌羽は眉をひそめる。
「どうしてそんなことを」
「声は、糖を消費しますから」
それは事実。
歌羽は少しの間、黙る。
*
「あなたは、魔王に従っているの?」
女は、即答する。
「いいえ」
歌羽が目を見開く。
「では、どうして」
「立場が一致しているだけです」
淡々と。
「固定を嫌う、という点で」
空気が、少し冷える。
「あなたは固定する側です」
歌羽の胸が、わずかに痛む。
「私は、歌ってるだけ」
「歌は秩序です」
優しく言う。
「秩序は、安定を生みます」
「安定は、管理を助けます」
歌羽は、言い返せない。
女は、結晶の壁に触れる。
そこが、ほんの少しだけ“揺れる”。
まるで、影が液体になったように。
(……闇?)
いや、違う。
“隙間”。
彼女の影だけが、
結晶の光に同期していなかった。
「私は、境界側です」
ぽつりと。
「神の側でも、人の側でもない」
歌羽は、直感する。
この女は──
天使でもない。
精霊でもない。
もっと異質な存在。
「あなたは、私をどうするつもり?」
女は、まっすぐ見る。
「何もしません」
「選ぶのは、あなたです」
あの魔王と同じ言葉。
選べ。
歌羽は、拳を握る。
「私が歌えば、世界は安定する」
「ええ」
「歌わなければ?」
「揺れます」
静かな答え。
「揺れた世界で、何が起きるの?」
女は、少しだけ微笑む。
「零が──生き延びます」
その瞬間。
歌羽の脳裏に、
仮面のない少年の姿が浮かぶ。
(……恒一)
*
「魔王様は、壊したいのではありません」
「固定を壊したいのです」
女は、はっきりと言う。
「あなたは、鍵です」
「そして、刃にもなり得る」
歌羽は、ゆっくりと息を吐く。
「あなたは、どっち側?」
女は、少し考える。
「私は──」
結晶の奥で、黒い脈動。
「均衡が崩れる瞬間を、見たいだけ」
恐怖はない。
狂気もない。
ただ、観測者の目。
歌羽は、言う。
「名前がないのは、不便」
女は、少しだけ驚く。
「呼べないでしょう?」
沈黙。
やがて、女は小さく息を吐く。
「……リゼル」
初めての固定。
名が、置かれる。
その瞬間。
結晶が、わずかに軋む。
(固定、された)
女──リゼルは、
ほんの少しだけ目を伏せる。
「ありがとうございます」
皮肉ではない。
本当に。
*
夜。
結晶の天井の向こうで、
遠い戦火の光が瞬く。
勇者は、進んでいる。
無職は、選んでいる。
魔王は、保留している。
そして。
歌羽は、初めて考える。
(私は、誰のために歌う?)
リゼルが、静かに茶を注ぐ。
「次に歌うときは」
魔王の言葉が、重なる。
「選んでください」
結晶の奥で、
何かが、ゆっくりと目を開く。
固定と未確定。
その狭間で──。
歌は、まだ歌われていない。




