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異世界で無職を極めた俺は、役割を拒んだ選択の末に歌姫を救う  作者: 若木勇祐


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1/6

プロローグ ーー無職に憧れた日

朝の台所は、少しだけ狭い。

フライパンを傾けると、肘が壁に当たりそうになる。フライパンの上に卵を割って落とした瞬間、じゅっと音がして、白身が黄身を中心に一気に広がった。


火加減を調整しながら、無意識に身体を半歩ずらす。

ここで料理をするのは慣れている。調味料の置き場所も、最適な動線も、考えなくてもわかる。手足が勝手に動く。


料理は得意だ。

別に自慢するほどじゃないが、少なくとも目玉焼きを失敗したことはない。


フライパンから、細い油の、はぜる音が続いている。

普段は凝ったものをあまり作らない。ただ、火加減とタイミングだけは、人より少し気にしてしまう。


「ねぇ、恒一」


背中側から声がした。振り返らなくても、誰だかわかる。


「ん?」


「従兄妹同士ってさ、結婚できるんだって」


「いきなり何言ってんだよ」


歌羽は、こちらの反応を確かめるみたいに、一瞬だけ視線を走らせた。

からかっているようで、どこか様子を見ている目だった。


ーーこの話題を出した理由を、恒一は聞かなかった。


昔なら、こんな話はしなかった。

そう思ったのは、たぶん自分だけじゃない。


フライ返しを持ったまま、ため息が出た。


卵の縁が少し色づき始めた。焦げる前に火を弱める。こういう加減は、もう考えなくてもできる。


「朝から重い話題降るなっての」


「えー、重くないよ。ただの豆知識」


背中の方で、歌羽が楽しそうに笑った。

同じ家で暮らすのが当たり前になって、もう何年も経つ。


狭い台所では、振り返らなくても距離がわかる。

近すぎず、離れすぎず。これくらいが、ちょうどいい。


コンロの火を止め、二枚の皿に目玉焼きを移す。

トースターに食パンを入れようとして、ふと手が止まった。


食器棚のガラス扉に、ぼんやりと自分の姿が映る。朝の光に反射して、輪郭だけが曖昧に浮かんでいた。

背は高くなく低くもない、黒髪で、少し眠たげな目をした中学生。特徴らしい特徴はない――だからこそ、どこにでもいそうだった。


(……俺が、何者かにならなきゃいけない理由なんて、どこにあるんだろうな)


「ねぇ、恒一」


少しだけ、声の調子が変わる。


「もしもさ」


一拍置いてから、歌羽は言った。


「働かなくてよかったら、どうする?」


その言葉が、台所に残ったまま消えない。

バターを塗った食パンをトースターに入れ、タイマーを回す。パンの焼ける音だけが、やけに大きく聞こえた。


働かなくていい。

その言葉を、頭の中で転がしてみる。


学校も、仕事も、役割もない。

朝は目が覚めるまで寝て、気が向いたら外に出て、何もしなくても責められない世界。


――そんなの。


「……最高じゃん」


思ったより、あっさり言葉が出た。


無職って、自由だろ。


そう思った瞬間、

流川奈緒の顔が、ふと頭に浮かんだ。


朝の教室で、背筋を伸ばして座る横顔。

誰かの役に立つことを、当たり前のように受け入れている表情。


――奈緒だけじゃない。

俺は、そういう役割をちゃんと果たす側だと、みんな思っている。


落ち着いていて、少しだけ柔らかい――人を急かさない声が、自然と思い浮かんだ。


「ちゃんとしなきゃだめだよ」


そんな声まで、はっきり想像できてしまう。


たぶん、奈緒に同じことを聞かれたら。

――働かなくてよかったら、どうする?

と聞かれたら。

俺は、今みたいに即答できなかったと思う。


歌羽は一瞬だけ目を丸くして、

それから、力の抜けた笑いをこぼす。


「だよね」


歌羽はそう言って、恒一のほうを見る。寝起きで無造作にまとめた髪のままなのに、不思議と目を引く顔立ちをしていた。本人は特に気にしていないが、昔からそういうところが目立つ。


こちらを見る距離が、思ったより近くて、少しだけ目を逸らした。


「恒一ってさ」


歌羽が一歩、距離を詰める。


「誰かに養ってもらうの、案外似合いそう」


「やめろ、朝から」


「冗談だってば」


笑いながら言うその声は、

どこか本気みたいにも聞こえた。


卵の焼けた匂いと、

歌羽の髪から漂うシャンプーの香りが混ざる。


恒一は、無意識に一歩下がっていた。


「……冷めちゃうよ」


歌羽が背を向けるまで、

心臓の音がやけにうるさかった。


トーストの香ばしい匂いが、ようやく台所に満ちる。

朝はまた、いつもの顔に戻った。


カップを取り、インスタントコーヒーを淹れる。

砂糖もミルクも入れず、そのまま。


けれど、口をつける前にカップを流しの端に置いた。


「……あとでいいか」


結局、コーヒーはそのまま残された。



家を出ると、五月の朝の空気が頬に触れた。

山に囲まれた前橋の街は、まだ完全には目を覚ましていない。


意識しなくても、足は見慣れた道を選ぶ。

その先にあるのは、前橋市立第九中学校――通称、九中だ。


駅へ向かう人、自転車で学校へ急ぐ生徒。

同じ時間帯に、同じような道を進む。


決められた時間。決められた進路。


テストも、評価も、たぶん今日も問題なく終わる。

そう思えたこと自体に、なぜか少しだけ息が詰まった。


歩いているうちに、住宅街の隙間から、赤城山の稜線が見えた。


新緑に縁取られた稜線はくっきりしている。

それなのに、どこか遠くて、現実感が薄い。近づいても、決して触れられない感じがする。


子どもの頃から、ずっとそこにある景色。

季節が巡っても、俺が何を考えていても、赤城山はいつも変わらない。


「……今日も、見えるな」


誰に聞かせるでもなく呟いて、視線を前に戻す。


路地の先で、ふと足が止まる。


塀の上に、一匹の猫がいた。

白と灰色のまだら模様。細い身体で、ブロック塀の上を器用に歩いている。


呼んでもいないのに、猫はこちらを一度だけ見て、すぐに興味を失ったみたいだ。


追いかける気は起きなかった。

猫も、こちらに付いてくるつもりはない。


好きな方向に行く。

ただ、それだけ。


「……あいつ、働いてないよな」


そんなことを思って、すぐに首を振る。


学校の門が見えてくる。


校舎の方に目を向けると、昇降口の近くで白城祈の姿が見えた。誰かに声をかけながら、落ち着いた調子で言葉を選んでいる。その声は遠くても不思議と通り、周囲の空気を静かに整えていくみたいだった。


そのすぐそばに、守崎剣翔が立っていた。特別に前に出ているわけじゃない。それでも、自然と人の視線が集まっている。そこにいるだけで、場の中心になってしまう――そんな立ち方だった。


そこから先は、役割があり、立場があり、やるべきことが決まった世界だ。


――この時の恒一は、まだ知らなかった。

そんな世界で、自分が“無職”になることを。



校門の前は、いつも通りだった。


登校時間より少し前。

まだ人の流れに余裕があって、眠そうな顔で歩く生徒もいれば、楽しそうに話しながら駆けていく生徒もいる。


聞き慣れた声、見慣れた背中。

どれも、昨日と変わらない。


空野恒一も、その流れに混じって歩いた。


九中の敷地に足を踏み入れた瞬間、

さっきまでの朝が、もう遠くなった気がした。


「おはよー、書記」

「おはよー、今日の資料、あとで生徒会室までな」


軽く声をかけられて、軽く返す。

それだけで済む関係。

居心地は悪くない。


校舎に入ると、掲示板の前に人だかりができていた。

修学旅行の班分け表だ。


「マジでこの班かよ」

「最悪、自由行動終わった」


そんな不満を横目に、恒一は自分の名前を探す。見つけた瞬間、なぜか胸の奥が、少しだけざわついた。


理由はわからない。

ただ、妙に落ち着かなかった。


廊下を歩いていると、

前の方で、立ち止まる影がある。


流川奈緒だった。


振り返った奈緒と一瞬だけ視線が合う。

言葉はない。

小さく会釈して、それで終わり。


ーーそれで、よかった。


掲示板の前で足を止めていたせいで、教室に着いた頃には、席につく生徒が増えていた。

だが、いつもの朝のざわめきがそこにはある。


その中に、流川奈緒の姿もあった。


背筋を伸ばして椅子に座り、黒髪を耳にかけてノートを開いている。

派手さはないのに、不思議と視線が引っかかる横顔だった。

制服の着こなしもきちんとしていて、

まるで「ちゃんとしていること」が、最初から当たり前みたいに見える。


――奈緒は、そういうやつだ。


チャイムがなるまであと少し。


恒一は、自分の席に鞄を置いて、

何気なく窓の外を見る。


空は、朝よりも、さらに澄んでいた。



放課後の校舎は、少しだけ空気が軽い。

部活へ向かう足音と、教室に残る話し声が混ざり合い、昼間よりも人の気配が曖昧になる。


生徒会室のドアを開けると、すでに何人か集まっていた。


「遅かったですね、空野くん」


以前なら、もう少し砕けた声で呼ばれていたはずだ。

そうだった、という事実だけが、今は距離として残っている。


長机の中央で資料に目を落としていた白城祈が、顔を上げる。そこは、生徒会長の席だった。

責めているわけではない。

場の流れを崩さないように選ばれた、相手に気を遣う穏やかな声だった。


「すみません。委員会の引き継ぎが長引いて」


「把握しています。では、始めましょう」


祈はそう言って、机の上に資料を揃える。

無駄のない動き。生徒会長としての立ち振る舞いが、もう板についていた。


白城祈は、生徒会では私情を持ち込まない。

それは規則でも信条でもなく、

彼女が自然に選び続けている立ち位置だった。


その斜め前、会長席の正面からわずかに外れた位置に、恒一は座った。

ここが書記の定位置だ。


副会長の守崎剣翔は、祈の隣の椅子に深く腰掛け、腕を組んだまま黙っている。

発言はしないが、場の空気を逃さず見て、その場の重心を静かに引き受けているのがわかった。


会計席は空いたままだった。

黒葉夜乃は、今日は別件のため来られない、とだけ聞いている。


祈が資料を配り終えたあと、

恒一は机の端に置かれた別の紙束に気づいた。


表紙にあるのは、

「修学旅行・会計報告(仮)」という無機質な文字。


何気なく一枚めくる。


数字は細かく、

無駄がなく、

どこを見ても修正の跡がない。


書式も、金額の配分も、

まるで最初から正解だけを並べたみたいだった。


右下に、小さく名前がある。


会計:黒葉 夜乃


「……几帳面だな」


思わず、独り言が漏れた。


祈が、恒一が持つ修学旅行の会計報告の紙束に目を向ける。


「彼女の資料は、いつもそうです」


それ以上の説明はなかった。


恒一は、もう一度だけ名前を見る。


黒葉夜乃の顔は、知っている。

生徒会の会計で、将棋部の部長で、クラスでも毎日顔を合わせている。


それなのに、表情を思い出そうとすると、

将棋盤の上の駒みたいに、輪郭だけが残っている気がした。


「来月の修学旅行についてですが」


祈の視線が、恒一のほうに向いた。


「空野くんの案、合理的だと思います。全体の負担も少ない」


少しだけ、言葉を選んだ言い方だった。


「ただ――」


一拍置く。


「“効率が良すぎる”とも感じました」


恒一は小さく息を吐く。


「体力のないやつもいますし、

全員が同じペースで動ける範囲にした方が、

結局、揉めないと思っただけです」


自由行動の時間を短くし、移動距離も最小限に抑える。

誰かが遅れて、誰かが我慢する事態を、

最初から起こさないための案だった。


「ええ」


祈は、すぐには否定しなかった。


「その考え方は、間違っていないと思います」


資料を閉じてから、静かに続ける。


「でも、それだとーー

”できるかもしれない人”の選択肢まで、

最初から消してしまうことになります」


恒一は、言葉に詰まる。


理想論だ。

そう思う自分と、

それでも彼女が本気でそう信じていると理解している自分が、同時にいた。


「……真面目ですね」


思わず、口をついて出た。


祈は一瞬だけ目を瞬かせ、

それから、ほんのわずかに口元を緩める。


「それは、誉め言葉として受け取っておきます」


その一瞬、

剣翔が何も言わずに、視線だけをこちらから外したのがわかった。


ほんの一瞬だけ、

生徒会室の空気が柔らいだ気がした。

すぐに、元の静けさに戻ったが……。


今のやり取りが、

ここにいる全員に聞こえていたことを、

遅れて意識する。


恒一は肩をすくめた。


「俺は、できないことまで引き受けるのは苦手で……」


「知っています」


祈は即答した。


「だからこそ、空野くんの判断は信頼しています。現実を見ている」


その言葉に、少しだけ驚く。


尊敬。

たしかに、そこにはそれがあった。


祈の声は、普段より少しだけ低かった。

周囲のざわめきが、気のせいか一段落ちる。


反射的に否定する言葉が、喉まで出かかって止まった。


祈の言葉は、理想論だ。

それはわかっている。

それでも――軽い言葉だとは、どうしても思えなかった。


自分には、あんな言い方はできない。

できないことを引き受ける覚悟を、彼女は最初から背負っているのだ。


だからこそ、そこには一目置くしかない何かがあった。


同時に、

その覚悟を選ばない自分とは、決して交わらない一線があることも。


「でも――」


祈は資料を閉じ、静かに言った。


「私は、“できないかもしれない”ことも、選ぶべきだと思っています」


恒一は答えなかった。


もちろん、生徒会室には他の生徒たちもいるとわかっていた。

それでも、今この場で祈と話をしているのは、自分だけのような錯覚があった。


窓の外では、夕方の風が木々を揺らしている。

どこからか、短く鳴く声が聞こえた。


この時の恒一は、まだ知らない。


この小さな意見の違いが、

やがて「世界の選び方」そのものにつながっていくことを。



生徒会室を出ると、廊下はもう静かだった。

夕方の校舎は、昼間より少しだけ広く感じる。


階段の踊り場に、誰かが立っている。


「……おつかれ」


声をかけられて、足が止まった。


流川奈緒だった。

いつもの制服。

いつもの、少し控えめな距離。


「待っててくれたの?」


「うん。

 一緒に帰ろうと思って」


それだけ言って、奈緒は視線を落とす。

それ以上、理由は足されなかった。


「悪い、遅くなって」


「大丈夫」


短いやり取り。

でも、祈との会話よりも、

歌羽との朝のやり取りよりも、

なぜか気持ちは落ち着いた。


余計な前提も、説明も、ここにはなかった。


並んで歩き出すと、

奈緒は半歩だけ後ろを歩く。


近すぎず、離れすぎず。

声を張らなくても届く距離。


恒一は、ふと思う。


――ああ、これが「いつもの」なんだ。


校門を出ると、空が少し赤くなっていた。

部活の声が遠くで弾んでいる。


「生徒会、大変そうだね」


奈緒が、前を見たまま言う。


「まあな」


それ以上、話は続かない。


制服の袖が、風に揺れる。

歩く速さは、自然と同じになる。


「……」


恒一は、ふと考える。


ここでは、

書記でもなければ、

期待される生徒でもない。


ただの、

帰り道を歩く中学生だ。


役割も、評価も、

今だけはどこにもない。


――こういう時間が、ずっと続けばいいのに。


理由はわからない。

でも、胸の奥が少しだけ軽くなる。


角を曲がると、奈緒は小さく手を振った。


「じゃあ、また明日」


「おう」


それだけ言って、奈緒は家の方へ歩いていく。

振り返らないのも、いつものことだ。


一人になると、急に辺りが静かになる。


塀の上に、黒い猫がいた。

首輪は見当たらない。

夜に溶けるみたいに、輪郭が曖昧だ。

目だけが、こちらを見ている気がした。


しばらく目が合った気がして、

次の瞬間には、猫は身を翻して、ブロック塀の向こうへと消えていった。


呼び止める理由は、なかった。


恒一は、その場に少しだけ立ち尽くす。


――自由だな。


そう思った理由は、

自分でもうまく説明できなかった。



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