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 喫茶店は外壁が赤茶けたレンガ造りで、壁には蔦が這っていた。入り口の扉の隣には窓がついていた。丸い窓。その窓からは、店内の様子が窺える。

 扉を開けると、ドアベルの音が鳴った。澄んだ音色で、クリスマスの鐘の音を思わせる。

 店内に入ると、右手にキッチンがあった。キッチンに併設されたカウンター席は五席あり、入り口から向かって三席目に先客がいた。

 マスターは先客との会話をいったんやめて、ぼくを視界に認めた。

 目礼をしたので、ぼくは浅いお辞儀をして、店の奥へと進んだ。

 店内には様々な写真が飾られていた。大半は中欧の城だろうか。正確には中欧の城かどうかわからないけれど。ぼくには城といえば、中世ヨーロッパの城しかイメージにないから。

 店の奥のスペースは十二畳ほどだろうか。スペースには丸机が三つ置かれている。それぞれの机に、椅子が四脚ずつ。

 一番奥の壁側の席に彼女は座っていた。

 ぼくに気づくと、会釈をして、柔らかな微笑みを送ってきた。

「ごめん……遅刻寸前だ……」

「気にしないでください。そんなに待っていないですから」

「ありがとう」

 ぼくはそう言って、椅子に腰掛けた。

 彼女はまだ注文を済ましていないようだった。机にはメニュー表とグラスには水が半分以上入っている。

「注文しないとね」

 ぼくがメニューを一通り見終えた後、店主が水の入ったグラスを音も立てずに、ぼくの前に置いてくれた。

「ご注文はお決まりですか?」

 店主は柔和な表情をして言った。

「私はストレートをお願いします」

 彼女がそう言うと、店主は豆の種類を何にするか、彼女に聞いた。彼女はぼくが聞いたことのない豆の名前を答えた。

「ぼくは、アイスココアをお願いします」

「かしこまりました」

 店主はそう言うと、キッチンに戻っていった。

 ぼくは向かいに座っている彼女から視線を逸らしていた。

 視線の先には、緑に囲まれた荘厳な佇まいの城の写真が飾られている。

 ファンタジー映画に使われそうな城だ。

 ぼくはこの写真は、店主が自ら撮った写真ではないだろうか、と思った。

「智さんは変わらないですね」

 彼女が独り言のように言った。

 ぼくは彼女が言葉を発して、ようやく彼女に視線を合わせた。

 彼女は思わず息をのむほど変わった。

 もともと、じゅうぶんに異性を惹きつける要素は持ち合わせていた。

 何事においても完成形というものは存在しないと思っていたが、彼女の存在は限りなくそれに近いと感じた。

「そうかな……ただ、成長してないだけだよ」

 ぼくは自虐的に言った。

「そんなことないです。変わらないことも大切です。きっと……」

 彼女は言葉を噛み締めながら言った。

 ふと人の気配を感じた。店主がドリンクを運んできたのだ。

「お待たせいたしました」

 マスターは深く奥行きのある声で言った。

 まず、彼女に前に、ストレートコーヒーが置かれた。

 次に、ぼくの前にアイスココアが置かれた。

「ごゆっくりお過ごしください」

 マスターはそう言うと、ほとんど足音を立てずに戻っていった。

 アイスココアの上に乗っているクリームを、ストローで三回ほどココアと混ぜる。ぼくはアイスココアを注文した際には、必ずこうして口をつける。

 ココアを一口だけ飲んで、意を決し問いかけた。

「今日は、いったいどうしたの?」

 一番気になっていたことだ。

 いまさら、ふたりで話すことなどあるのだろうか。

「突然呼び出して、本当にごめんなさい。あの人について話しておきたくて……」

「兄さんについて……?」

「はい」

 そう言った彼女の瞳は、憂いを秘めているように見える。

「ぼくも兄さんのことは気になってた。ずっと……この前あったときは、ずいぶん驚いたよ。昔の面影はほとんどなかったし。それに、美音ちゃんと一緒だったから」

 ぼくは視線を泳がせながら言った。これだけの時間が流れているのに、当時の呼び名で呼んでいいか戸惑っていたからだ。

「はい。いろいろとお話ししなければいけないことがあります。あの人にも頼まれていますから」

 彼女はぼくが昔の呼び名で呼んだことは、たいして気に留めていない様子で言った。

「うん。きかせてほしい」

「わかりました」

 彼女の返事には強い意志が感じ取れた。

「先日、智さんのご実家にお邪魔した際にも少しお話しましたが、あの人と初めて会ったのはボランティアセンターです。私は、月に何度かボランティア活動をしていました。市が運営している施設に行って、障害を持っている方々のサポートをしていました。私には障害を持った親戚がいたので、そういった方々の力に少しでもなれたらと思って」

 ぼくは彼女の親類に、そういう人がいたことを初めて知った。

「素晴らしいことだと思う。ぼくにはできそうにない」

 彼女はコーヒーカップの持ち手を反対側に回して、また話し始めた。

「ひどく寒い日でした。あの人が初めて施設に来たのは。クリスマス会の準備をしていた時期で、みんなで飾り物を作っていました。その活動の休憩時間に、私は外に飲み物を買いに出たんです。自動販売機は施設を出てすぐの場所にあったので、私はコートも着ないで出ました。外に出ると、強く冷たい風が吹いていて、そのことを後悔したのを覚えています。飲み物を買って、手を温めていると、ふと人の気配を感じました。振り返ると、あの人がいたんです。驚きました。あの人がいたことに対してではないです。私も周りから見れば、ずいぶんと薄着に見えたでしょう。でも、あの人は、常夏の国から突然連れてこられたような格好をしていましたから」

 彼女はそこまで話すと一息ついた。

 ぼくは言葉を挟まなかった。

 ぼくが知らない兄を彼女が話すことは不思議な気分だったからだ。

「私は寒くないんですか、と当たり前の質問をしました。あの人は、ああ、と風が吹いたら掻き消されそうな声で言いました。それから、ここは何をしているところだ、と聞いてきました。私が答えると、あの人は施設の入り口に向かって歩き出したんです。その……お世辞にもきれいな格好ではなかったので、私は引き止めるために声をかけました。すると、あの人は、ここで手伝いをしたい、と言ったんです。クリスマス会の準備で忙しい時期でしたから、手伝ってもらえるのは、とてもありがたいことでした……」

 彼女はそう言うと口を噤んだ。

「あの風貌じゃあ……」

「はい……とても、敏感な子どもたちも多いので」

「それで、どうしたの?」

 ぼくがそう訊くと、彼女は一度だけ頷いた。

「驚きました。子どもたちは自然と、あの人のそばに寄っていったんです。私はみんなと仲良くなるまでに、それなりの時間がかかりましたから」

 兄は昔からそうだった。他人を惹きつける、強い吸引力を持った人間だった。その力はときには、厄介なものも引きつけていたけれど。

「それから、私が施設に行くと、いつもあの人は待っていました。施設の入口の近くの柱に寄りかかって。私は顔を出す日を伝えていなかったのに……」

 彼女は首を傾げ言った。

「兄さんは、そういう人だよ」

「私はあの人に興味を持ちました。少しずつでしたけど……口数は少ない人ですけど、そのぶん、口に出した言葉には説得力がありました」

「そうだね」

 ぼくがそう言うと、彼女は深い息を吐いた。

「今日はここまでにさせてください。長々とすみませんでした。コーヒーが冷めてしまいました」

 彼女はコーヒーを一口だけ啜り、

「おいしいな……」

 と呟いた。

 そのときの表情は、ぼくの記憶に刻まれている昔の彼女の表情と被った。

 ぼくは気になっていたことを思い切って聞いた。

「婚約しているのに、異性とふたりきりで会って問題ないのかな?」

「問題はないです。智さんは、家族になる人なんですから」

 彼女はきっぱりと言い切った。

 家族という言葉は本来なら、親しい関係を指す言葉だ。彼女が放ったその言葉からは、なぜか遠い存在になるような気がした。

 ぼくはアイスココアの残りを一気に飲み干した。氷が溶けて、薄くなっているアイスココアを。

「そろそろ、出ましょう」

 彼女はそう言うと、バッグから財布を取り出して、ふたり分の代金を出した。

「自分の分は自分で出すよ」

 ぼくがそう言うと、彼女は、

「私が呼びしたんですから」

 と言って、伝票と紙幣を、ぼくの前に差し出した。

「わかった。ありがとう……」

「どういたしまして」

 彼女は一度言い出したら、その要求を相手が飲み込むまで押し切る。

 あの当時も、何度かそういうとこがあったのを覚えている。

「では、行きましょう」

「そうだね」

 会計のときのマスターの顔が、店を出た後も頭から離れなかった。

 眼鏡の奥の細い目をさらに細めて、ぼくたちを見ていた。

 郷里を偲ぶような、そんな顔だった。

 店外に出てすぐに空を仰いだ。

 空にはさきほどまで激しい雨が降っていたとは思えないほどの冴えた青空が広がっている。

 風は生温い。

「私は駅まで歩きます」

「わかった。ぼくは本屋にでも寄って帰るよ」

「お気をつけて」

「ありがとう。美音ちゃんも」

 今日、彼女の名前を呼んだのは二回目だ。

 あの当時は、当たり前のように呼んでいた名前。

 今日はその名前が、特別な響きに感じる。

「はい。では、また」

 彼女はそう言うと、謎めいた微笑みを浮かべた。

 いまの私の気持ちを解き明かしてみてください、と言わんばかりの。

 当時の彼女からは、想像もできないような表情だった。

 どれほどの出会いと別れを、彼女はあれから繰り返してきたのだろうか。

 ぼくには知るよしも資格もないけれど。

 彼女が歩いている姿をしばらく眺めていた。

 彼女はひとつ目の交差点で右に折れて、姿を消した。

 一度もぼくのほうを振り返ることはなかった。

 ぼくはもう一度、空を仰いで、帰路についた。

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