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6

 彼女が指定した場所は喫茶店だった。

 電話を切ってパソコンを開き、喫茶店の場所を検索した。

 ぼくの自宅からは一時間以内で行ける距離だった。

 待ち合わせの時間まで、まだ余裕があった。

 ぼくはいつものようにギターの練習をしようと思った。

 漠然とした不安な気持ちを掻き消したかっただけかもしれない。

 彼女が好きだった曲を弾いた。

 記憶が一瞬で蘇る。

 音楽は不思議だ。旋律を奏でれば、タイムマシーンのように、その当時に連れて行ってくれる。

 ギター以外、何かに対して固執しなかったぼくに、彼女は確実に何かを残した。

 そんな彼女が、いまは兄に寄り添っている。 

 嫉妬心は不思議とない。兄以外の異性なら、あったのかもしれない。

 ぼくは彼女と会っていたとき。彼女との時間は長くは続かないだろうと思っていた。それまで、異性と親しい関係になったことがなかったので比較のしようはなかったけれど。

 実際、ぼくたちは、男女の関係を築くことはなかった。

 外の世界では雨が本降りになっていた。

 部屋のなかにいても、雨音が聞こえてくる。

 いつだったか。彼女はこう言っていた。

「私は雨音はメロディーのようにきこえます」

 そう言った彼女を、ぼくは催し物を見物している観客のように見つめていた。

 ギターを定位置に戻す。

 雨脚はさらに強さを増した。

 耳にまとわりついてくるほどに。

 ぼくは首を左右に振った。そんなことで、雨音は消えはしないのに。

 ぼくはベッドに身を投げだした。スプリングの軋む音が、やけに乾いて聞こえる。

 目を閉じて自分の世界を構築する。頭のなかに、もう一人の自分を創り出して、深海に沈めていく。こうすれば、少しは平静を取り戻せる。

 少しずつ、雨音が遠くに聞こえるようになってくる。

 現実の世界と、夢の世界の狭間。

 そこには、彼女がいた。ぼくには背を向けている。彼女の前には大勢の人たちがいる。彼女はその人達に向け、歌を歌っているようだ。観客は恍惚とした表情をして、彼女の歌に聴き入っている。彼女はひとりひとりに語りかけるように、優しい表情で歌を届けている。

 ぼくはギターを持っていなかった。

 彼女の歌声も観客の拍手も聞こえない。

 観客のなかには、目元を手やハンカチで拭っている人もいる。

 彼女は深いお辞儀をして、振り返った。

 凛とした佇まいのまま。氷上を優雅に舞うアイススケーターのように、滑らかな足取りで、こちらに向かってくる。

 ぼくとの距離は瞬く間に縮まった。

 ぼくは彼女の名前を呼んだ。正確には呼んだとは言えないかもしれない。唇を三回動かしただけだ。彼女の名前の形で。

 彼女は何の反応も示さずに、ぼくの傍らを通り過ぎていった。

 ぼくはつま先は前に向けたまま、上半身だけを捻って、視線だけで彼女を追いかける。

 彼女は一度も振り返ることなく、淡い光のなかへ消えていった。

 そこで、ぼくは目を覚ました。浅い眠りのせいなのか、いまの夢のせいなのか、体が気だるく重たい。

 枕の下に置いたスマートフォンを手繰り寄せる。時刻を確認するために。

 約束の時間まであまり余裕がなかった。

 重たい体を起こして、急いで支度をした。Tシャツに裾がボロボロの色褪せたジーンズを穿く。

 カーテンを半分だけ開ける。

 雨は上がっていた。雲間から差し込む光で、雨粒が無数の輝きを放っている。

 待ち合わせ場所までは、いまからだとギリギリ間に合うかどうかだ。

 自室を出ようとして、ドアの前で立ち止まった。

 窓まで戻り、カーテンを全開にしてから、喫茶店に向かった。

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