5
まどろみのなかで何かの音を感じた。
とん、とん、とん、と誰かに肩を叩かれているような。
目が覚めると、すぐに音の正体はわかった。
雨粒が滴り落ちている音だ。
今日は雨か。
雨の日は心がひどく乱れてしまう。体調も悪くなって、雨が降っている間は憂鬱にもなる。
ギタースタンドに立てている、アコースティックギターに目をやる。
ベッドから起き上がって、ギターを手にする。
何年、経っても。何回、触れても。ギターを手にした瞬間は新鮮な気持ちになれる。
健吾の叔父さんから、このギターを譲り受けたとき。ひとつだけ条件を提示された。
「ギターの代金はいらないから、ギターを弾かない日でもギターには触れてあげてください」
そう言われて、どんなときでも、一日に一度は必ずギターに触れるようにしている。
憂鬱なときには、ギターを弾くに限る。
ぼくはパソコンを起ち上げて、クラプトンの曲を流した。音に合わせてギターを弾く。クラプトンの演奏技術には遠く及ばないし、健吾にも遠く及ばない。それでも、この数年で少しはぼくも上達したと思う。
しばらくの間、何も考えずにギターを弾き続けた。ただ、音に身を委ねた。
何曲か弾き終えて、ふと我に返る。まだ、何も口にしていないことを思い出した。
ギターをスタンドに戻して、キッチンに向かう。
冷蔵庫のなかを覗いてみる。すぐに食べられそうな物は入っていなかった。
炊飯器を開けると、白ごはんが炊いてあった。ぼくは焼き飯を作ることにした。
母が仕事をしている時間の食事は、なるべく自分で作るようにしている。
実家暮らしの身分だからだ。
母の負担をなるべく少なくしたい。
焼き飯を作って、椅子に腰掛ける。
ぼくが座っている前の席には、彼女が座っていた。ほんの一週間前に。
綺麗になっていた。昔から魅力的ではあったが、昔は綺麗というより、可愛らしいという印象だった。
彼女はぼくが兄の弟だと知ったとき、どう思ったのだろうか。
兄は知っているのだろうか。
ぼくと彼女が、親しくしていたことを。
考えても答えは見つからない。
焼き飯を食べ終えて、自室に戻る。
時刻を確認しようと思って、スマートフォンを手に取った。珍しく、着信が残っていた。登録していない番号からだった。間違い電話だろうか。
スマートフォンをテーブルの上に置き直す。
ぼくは登録していない番号にかけ直すことはない。
すると、すぐに同じ番号から、また電話がかかってきた。
急用だろうか。間違えていますよ、と心のなかで呟く。電話はなかなか鳴り止まない。留守番電話サービスを利用していないので、相手が切るか、ぼくが切るまでは、ひたすら電話は震え続ける。
テーブルの上では、スマートフォンが震え続けている。不気味な音を立てながら。
ぼくは電話を切ろうとした。だが、なぜか、ぼくに対しての着信のような気がした。
出るだけ出てみるか。間違いだったなら、指摘すればいいだけだ。
「もし、もし……?」
「……」
何の反応もない。やはり、ただのイタズラ電話か、間違い電話なのだろう。
ぼくは鼻で息を吐いた。
電話を切ろうと思って、耳元から離した。そのとき、何かの音がした。だが、耳元から離したままでは、何の音なのかわからなかった。もう一度、耳元にスマートフォンを近づける。
「もし、もし……?」
ぼくはさきほどと同じ声のトーンで言った。
「あの……私です。東田美音です」
「えっ……美音ちゃん?」
「はい……先日は驚かせてしまいすみませんでした。智さんが、あの人の弟だってことは聞いていたんです」
「そっか……知ってたんだね。そうだよね……」
「あの人が、どうしても私を実家に連れて行きたいっていうものだから。私は連れて行ってもらったんです。智さんがいるだろうと思っていました」
「学校がないときは、たいてい家にいるからね。ぼくが……兄さんの弟だって知ったとき……どう思ったの?」
「あの人と出会って、名字が同じで……もしかしてとは思いました。狭い町ですしね。でも、それ以上に、やっぱり兄弟なんです。雰囲気が同じだったから」
「そうかな? そんなことを言われたのは初めてだよ」
ぼくの言葉に彼女は何も答えなかった。
しばらくの間、黒く塗りつぶしたような沈黙がおりた。
「もしよければ、いまから会ってお話しできませんか? お伝えしたいことがあるんです」
彼女が先に口を開いた。
ぼくはすぐに返事ができなかった。
彼女から、会う、という言葉を、再び聞くことになるなんて思ってもいなかったからだ。
もう二度と会うことはないと思っていた。
スマートフォンを耳元から離して、しばらく、想いを巡らせた。
ぼくは、
「いいよ」
と返事をした。
返事をした後の喉には、いままでに感じたことのないような違和感が残った。
「場所は……?」
彼女が指定した場所を、ぼくはメモに書き記した。
「わかった」
ぼくはそれだけ言って、電話を切った。