4
ある日。ダブルデートでもするか、と健吾が提案してきた。
ぼくと彼女と健吾と彼の連れで。
場所は動物園だった。
そのとき、ぼくはまだ彼女の連絡先を知らなかった。
連絡は健吾からきていた。
健吾はメッセージを送るより、電話をかけてくることが多かった。
スマートフォンには、東田君と登録していた。
家族以外の連絡先が加わったのはずいぶんと久しぶりだった覚えがある。
約束の日の前日。
眠りにつく前にベッドのなかで動物園での会話をシミュレーションしてみた。
主に彼女との会話を想定したものだった。
だが、ぼくのなかから出てくる言葉はありきたりで平凡。
彼女が、
「智さん。あの象を見て!」
と楽しそうに言えば、
「大きいね」
とぼくは言う。
「智さん。あのライオンを見て!」
と言えば、
「強そうだね」
と言うだけだ。
内容のない返事しか思いつかなかった。
自分の引き出しの少なさに、改めて落胆した。
いままで異性との会話を避けてきたのが、この結果だった。
たった一日でどうにかなる問題ではない。
だが、このまま何の準備もしないで行くのは、あまりに不安だったので、ぼくはスマートフォンで動物園のホームページを開いた。
動物園のホームページを閲覧しているうちに、いつの間にか眠りについていた。
当日は、真夏の太陽が、威張り散らかしているような暑さだった。
ぼくは半袖で行くかどうか迷ったが、薄手のカーディガンを羽織って行くことにした。
待ち合わせ場所は四人の自宅のおおよそ中間地点の駅。
ぼくは約束時間の三十分前に駅に着いていた。
駅は土曜日だったこともあってか、若者や家族連れで賑わっている。
その二十分後に健吾と彼女が一緒に来た。
健吾はラフな格好だった。黒のTシャツに細身のジーンズ。だが、スタイルが良いのでじゅうぶん様になっている。
彼女はスカートをはいていた。上はシンプルなTシャツに帽子を被っていた。
初めて彼女と会ったときが部屋着だったせいもあってか、ずいぶんと違う印象を受けた。
健吾と彼女が来た、二十五分後に健吾の連れが来たのだ。
健吾の連れは真っ黒なサングラスをかけていた。
遅刻したことに対して謝る素振りは見せず、健吾に耳打ちをしていた。
それから、サングラスを上げて目だけでぼくと彼女に挨拶をした。
「じゃあ、行くか!」
健吾がそう言って、ぼくたちは健吾の後をついて行った。
ふいに視線を感じたので目をやると彼女と視線がぶつかった。その後、すぐに視線をそらされたけれど。
動物園の最寄り駅はぼくたちが待ち合わせをした駅の五つ先にある。乗車時間は十五分ほどだ。
健吾は電車に乗ってから話し続けている。自分で誘ったであろう、サングラスの女と。
意外だった。健吾がこういうタイプの女性とつるんでいることが。
ぼくとは毛色が違いすぎて気が合うことはないだろう。
サングラスの女は電車に乗るとすぐにスマホをいじり始めた。
ぼくと彼女は隣同士で腰掛けた。
小柄で華奢な人間なら四人は座れたかもしれないスペース。
健吾の気遣いでぼくと彼女が座ることになったのだ。
健吾を見やると頷いてくれた。サングラスの女には顎で座れと指示された。
ぼくは何も言わず彼女の隣に遠慮がちに座った。
彼女との距離は意外と近かった。服と服が擦れ合うほどの近さ。自然とこの距離で座ってしまった。いまさら、横にずれるわけにはいかない。ずれてしまえば彼女に嫌悪感を持っていると思われかねない。
脈の速さは、いままでに感じたことがないほどの速さだ。
電車のなかでは会話はなかった。
ぼくは人の隙間から途切れ途切れに見える向かいの景色をぼんやり眺めていた。
目的の駅に着いてバスに乗り換えるために、バスの停車場まで向かった。健吾を先頭にして。その後ろにサングラスの女。ぼくと彼女は最後尾だった。
ぼくは彼女の様子が気になっていた。横目でチラチラと何度も見ていた。
彼女はどこか浮かない表情をしていた。何か話しかけたほうがいい場面なのだろうが、ぼくにはそんな勇気もないし、どんな言葉をかけたらよいのかもわからない。
バスに乗り換えると、ぼくと彼女はまたしても隣同士で座ることになった。
健吾とサングラスの女は空いている席に迷いなく座った。
二人の後ろの席も空いていた。
ぼくは座るかどうかを彼女に聞いた。
彼女は細い顎を少しだけ引いて答えた。
彼女を先に座らせてぼくも腰掛けた。
電車のなかとは決定的に違うことがあった。
ぼくと彼女の間には、握り拳にして二つ分ほどの隙間があったのだ。ぼくはその隙間は実際の何倍にも感じた。
彼女は窓際に座っている。
ぼくは視線の置き場に困った。仕方なく前の座席の何を現しているのかわからない模様を目でなぞる。
前の席では健吾とサングラスの女が会話をしている。恋人のような距離感で。何を話しているのかはわからなかったが、声のトーンで楽しそうな会話をしているのだろうと思った。
ふいに視線を感じた。視線を上げると、健吾が背もたれに手をかけ体をひねり、ぼくのほうを見ていた。
ぼくは、ん? という表情をした。
健吾は彼女のほうに視線を向けた。
もう一度、ぼくのほうを見て唇だけを動かし何かを言った。何を言ったのかはわからなかったが、伝えたいことは感じ取れた。
ぼくは小さく二度うなずいて、緊張をほぐすために深呼吸をした。
そのときには、健吾は元の会話に戻っていた。
ぼくは彼女にどう声をかけるか考えた。だが、たいした案は出てこない。
結局、これから行く動物園の話題に決めた。
「ねえ……美音ちゃんは、どの動物が好き?」
ぼくはそういった後、声の大きさやトーンが気になった。だが、もうどうしようもない。
彼女は視線を外の景色から、ゆっくりとぼくのほうに移した。首を左右に揺らして、元の位置に戻ってきたときにこう言った。
「ハムスターが好きです!」
彼女はそういった後、ぼくの質問の意図に気づいたのか、ハッとした。
「あ……動物園にはいないですね」
彼女は頬を赤くして言った。
「ぼくもハムスター好きだよ」
ぼくがそう言うと、彼女の表情は一瞬で明るくなった。
ぼくは中学生の頃に飼っていたモモの話をした。モモは兄が家を出ていった後に、母が知り合いの女性から譲り受けたハムスターだ。はじめてモモをみたときは驚いた。ハムスターはただでさえ小さな生き物だと思っていたが、生まれて間もなかったモモは、ぼくの指の関節の二つ分ほどの大きさしかなかったからだ。
彼女は目を輝かせて、一言も聞き逃さない、という表情で聞き入っている。
あるとき。モモをカゴから出して、リビングで遊ばせていたことがある。モモは外の世界に出ると、すぐに寝てしまう癖があった。突然、動かなくなるのだ。図太い神経を持っているやつだな、思っていた。
「わあ! かわいいですね。モモちゃん」
彼女は目を大きく開いて言った。
モモの話が終わると、バスはちょうど動物園前の停留所に到着した。
バスから降りると、動物の臭いが鼻をついた。
サングラスの女は、降りた途端、
「くっさーい」
と言って、手で臭いを払う仕草をした。
それに対して、健吾は深呼吸をしている。
彼女はソワソワした様子で、動物園のほうを見ていた。
動物の多い地域で生活を送っていたら、この臭いにも慣れてしまうのだろうか。ふと、ぼくは思った。
駐車場から緩やかな坂を上がった先に券売機があった。チケットはワンコインでお釣りがきた。
チケットを係員に渡す前に、入場ゲートに掲げてある看板に目がいった。看板には、現在までの来園者数が記されていた。その人数はこの国の人口の半数近くだった。
入場ゲートをくぐり、一歩園内に踏み込むと、そこは別世界だった。動物園の周りは道路や住宅で囲まれているのに、そう感じたのだ。
入ってすぐ左手に、アジアゾウのエリアがあった。そのエリアまでは、緩やかなスロープか階段で行くようだ。
ぼくたちは階段で行くことにした。
階段を上った先に、小さなトンネルのような通路があって、そこを抜けると目的のアジアゾウが見えてきた。
遠目からでも、その大きさがわかる。
ふと、彼女を見ると、ただでさえ幼い顔が一層幼く見えた。
「智さん。あの象を見て!」
彼女は象を指差して、ぼくと象を交互に見ながら言った。
ぼくの心臓が、ぽん、と音を立てた。本当に予想していた瞬間がきたからだ。
「アジアゾウは立ったまま寝るらしいよ」
ぼくは事前に調べておいた小ネタをなるべく自然に口にした。
「そうなんですか! 見てみたいなあ。いま、寝ないかなあ……智さんは物知りなんですね!」
「むかし読んだ本に、たまたま書いてあっただけだよ」
前日に動物園のホームページを見ていてよかった。
健吾のほうを見ると、二回ほど頷いた。とりあえず悪くないのだろう。ぼくの彼女への接し方は。
今日の健吾は、なんだか保護者のように感じてしまう。
サングラスの女は、スマートフォンでアジアゾウを何枚も撮っていた。
アジアゾウを見終えると、帰りはスロープを利用した。
健吾を先頭にして道なりに進んでいった。
道なりに進んでいくと、次は右手に、フンボルトペンギンの群れが見えてくる。
ひと目見ただけでは、何羽いるのかわからないほどの数だった。ペンギンたちは一様に短い足を使って、よちよちと歩いている。
ぼくはペンギンの数を数えてみることにした。
二十五羽いるようだった。
「二十五羽か……」
ぼくは呟くように言った。
ふいに、隣から声が飛んできた。彼女の声だった。
「えっ……? 二十六羽じゃないですか?」
彼女はそう言うと、うーん、と唸るような声を出した。
「そうかな? もう一度、数えてみるよ」
ぼくはもう一度、数え直すことにした。やはり、二十五羽だった。
「うーん。やっぱり、二十五羽みたいだよ……」
「んー、私の数え間違いかもしれないですね。私も、もう一回、チャレンジしてみます」
彼女はそう言うと、人差し指を突き出して、一羽ずつ指さして数え始めた。声も加えて。
「二十四、二十五……わあ、ほんとだ! 智さんの言う通りでしたね。なんで数え間違ったんだろう」
「これだけの数がいれば、間違えることもあるよ」
ぼくはそういった後、
「コンボルトペンギンも、立ったまま寝るらしいよ」
と言おうとしたが、今回は言うのをやめた。
「そうですね。きっと、座敷わらしペンギンでもいたのかも……」
「座敷わらしペンギン?」
「はい。あの……私、変なことでも言いましたか?」
彼女はぼくの反応を窺いながら言った。
「そんなことないよ。面白いことを言うなあ、と思って」
ぼくがそう言うと、彼女は嬉しそうな顔をした。
「あれ? 健吾たちがいないよ」
ぼくはそう言って、辺りを見回した。
「ほんとですね。どこに行ったんだろう……」
ぼくたちはしばらくの間、無言でその場に立ちつくしていた。
その間に園児たちが、ぼくたちのそばを通り過ぎていった。
「小さいなあ。かわいい」
彼女は呟くように言った。
「うん。かわいいね」
ぼくも呟くように言った。
園児たちの行く先を目で追っていたら、その先に健吾たちがいた。
健吾は手を振っている。
「もう、なんで勝手にいなくなるの?」
彼女が健吾たちと合流してから言った。
「わるいな。こいつが、あっちのほうを見たいって言うもんだから」
健吾はサングラスの女に視線を移して言った。
サングラスの女は、自分は関係ないと言わんばかりに、スマートフォンをいじっている。
「そう言えば、あっちには、トラとライオンがいたぞ。お前たちも行ってみたらどうだ?」
「話をそらさないでよね」
彼女が口をとがらせて言った。
「行ってみようか」
ぼくはこの空気を変えたくて勇気を出して言った。
「そうですね……智さんがそう言うのなら」
「じゃあ、俺たちはあっちに行ってくるからな」
健吾の視線の先には、スロープカーがあった。スロープカーに乗った先にあるのは植物園だ。
「わかったよ」
健吾は去り際、拳を突き出して親指を立てた。
ぼくは余計なお世話だと思ったけれど。
彼女を見ると、細い首を右に傾げていた。
取り残されたぼくたちは園内を無言のまま歩いた。
道中。アラビアオリックスやインドクジャク。ヒクイドリなどがいたが、ほとんど目に入らない。
彼女を見ると俯いたままだ。
次第に、僕たちの間に距離ができ始めていた。
ぼくはそんなに速く歩いているつもりはなかったが、彼女はそれより遅かった。とぼとぼ歩いているように見えた。
ぼくは、よし、と心のなかで、自分に掛け声をかけた。
次の動物が見えたとき、彼女に話しかけよう。
ぼくは足を力強く地面に踏み込んだ。
次の動物はライオンだった。
彼女もライオンに気づいたようで、急ぎ足で檻に駆け寄る。
彼女はライオンに会えたことが、嬉しかったようだ。華やいだ表情を見ればわかった。
ぼくの裾を引っ張り、
「見て! 見てください!」
とさきほどまでとは別人のように話しかけてくる。
「うわー。強そうですね」
彼女は目を瞬かせて言った。
「うん。そうだね」
はじめ、ライオンは檻の奥のほうを、うろうろとしていた。しばらく見ていると、ぼくたちのほうに、のそのそとやってきた。
「うわー」
「大きいね」
ライオンの目は鋭かった。動物園で飼育されているとはいえ、やはり、百獣の王に変わりはない。
「うおー」
ライオンの吠えかたを真似したかったのか、彼女はライオンに向けてそう吠えてみせた。
すると、ライオンが彼女の声に反応した。
当然だが、彼女のそれとは全く違う。
彼女は後ずさりした。
吠え返されるとは思っていなかったのだろう。
ぼくの後ろに、さっ、と隠れて、顔を半分ほど出して、ライオンを見ていた。
「大丈夫だよ」
ぼくがそう言うと、彼女は、
「うー」
と唸り声を出した。
よほど、怖かったのだろうか。
彼女はぼくの服 笑い声のほうに視線をやると、健吾とサングラスの女が笑い声を上げながら話をしていた。ふたりはベンチに座っている。
健吾がぼくたちに気づき、大股でやってきた。いやらしい笑みを浮かべながら。
僕のもとまで来ると、ぼくの肩を、ポンポン、と叩いた。
ぼくはその手を振り払いたかった。
ずいぶん早く植物園から戻ってきたんだな、とぼくは思った。
健吾に聞くと、サングラスの女が、やっぱり行きたくない、と言ったらしい。
その後は、また四人で見ていない動物たちを見て回った。
暑い日だったので、水分補給はこまめにした。
一通り園内を見て回り、休憩所でソフトクリームを、みんなで食べた。
これからどうする、という話になって、特に良い案が出なかったので帰ることになった。
出口まで向かい始めたとき。
保育士に引率された園児たちが、園内を賑わせていた。さきほど見た園児たちとは違う制服を着ている。
ぼくと彼女は顔を見合わせた。お互い、自然と顔がほころんだ。
帰りのバスでは、一番後ろの席に四人で座った。
健吾がサングラスの女に話しかけていたが、女はそっぽを向いて相槌を打っている。
ぼくと彼女は微妙な距離を保って座っていた。だが、行きのときのような気まずさはない。
なかなか、視線が合うことはなかったが、それが、自然のようにも感じた。
バスが進むにつれ、急に眠気が襲ってきた。
ぼくは窓枠に頬杖をつき、まどろんでいた。
しばらくして、バスが突然激しく揺れた。赤信号で急停車したようだ。
驚いて目を覚ますと、左肩に温もりを感じた。彼女が小さな頭を、ぼくの肩に預けている。
思わず、触れてみたくなった。小さくて形の良い頭を。だが、結局は思っただけだ。
彼女は疲れて、たまたま、ぼくに寄りかかっているだけ。
彼女はあくまでも健吾の妹だ。ぼくは自分にそう言い聞かせた。
ぼくは目を細めて、彼女の寝顔を見つめた。
健吾たちを見ると、同じようにサングラスの女が健吾の肩に頭を預けている。彼女は楽しめたのだろうか。ふと、そう思った。
バスが駅前のロータリーに到着したとき。
ぼくは彼女をどうやって起こすか、とても迷ってしまった。
こんな場面には、いままで遭遇したことがない。
健吾を見ると、頭を撫でて起こしていた。
ぼくには真似できない。仕方なく、優しく肩に手を触れて起こすことにした。
彼女は目を覚ますと、辺りを、きょろきょろ、と見回した。それからこう言った。
「私、寝てしまってましたか?」
「うん。疲れてたんだよ」
「すみません……」
「あやまらなくていいよ。ぜんぜん気にしてない」
「ありがとうございます……」
バスから降りると、暑さは少し和らいでいた。
電車に乗るために、駅の構内に向かった。
電車も四人で座ることができた。
電車のなかでは、四人とも静かだった。
ぼくは行きと同じように、向かいの窓越しに見える景色を、ぼんやりと眺めていた。
行きと同じ駅で、全員が降りた。
ぼくは、
「バスで帰るよ」
と、健吾に伝えた。
健吾と彼女も、バスで帰るようだった。
サングラスの女は電話をしている。誰かが迎えを呼んでいるのかもしれない。
「じゃあ、またな」
健吾が言った。
「うん」
彼女を見ると、
「ありがとうございました!」
と言って、笑顔でお辞儀をしてくれた。
ぼくがバスの停留所に向かおうとすると、サングラスの女が突然、ぼくに近づいてきた。
ぼくは文句を言われるのではないかと思い、思わず身構えてしまった。
サングラスの女は、ぼくに耳打ちをした。
それから、誰にも別れの挨拶をせずに去っていった。
ぼくはバスを待っている間、サングラスの女が言ったことが頭から離れなかった。
「脈アリだよ」
彼女は確かにそう言ったのだ。
もちろん、その言葉の意味ぐらいわかっているが、そんなことはないだろう、と思うことにした。
その五分後にぼくが乗車するバスが来た。
を、ぎゅっ、と強く握りしめている。
洋服越しでも、彼女の温もりが伝わってきた気がした。
ぼくの心臓は、やけに高鳴っていた。
「行こうか……」
「はい……」
彼女は力ない声で言った。
次はどこに行こうか、と思って、ライオンの檻から視線を外した。すると、大きな笑い声が聞こえてきた。