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兄はぼくより四年先に生まれた。
ぼくよりも十センチ程度身長が高い。
顔立ちもまったく違う。一般的には端正な顔立ちと言われる部類に属するだろう。
あまり笑顔を見せることはなかったが、ふいに笑顔になることがあった。
ぼくが怪我をしたときなんかに。
その笑顔は、ぼくをとても安心させせくれた。
ぼくは怪我をしても、あまり泣かない子どもだった。
ただ、怪我をした後には不機嫌になることが多かった。
兄はそんなぼくに対して、嫌な顔ひとつ見せずに、笑いかけてくれたのだ。
兄が笑いかけてくれれば、痛みはいつの間にか、やわらいだような覚えがある。
ただ、嘘の怪我はすぐに見抜かれたけれど。
ある日。
ぼくは、腕を打った、と兄に伝えた。
すると、ぼくじゃなければ気づかなかったかもしれないけど、兄の表情が曇った。
兄はぼくと視線が合っているのに、遠い何かを見ているような目をして、その場を去っていった。
何も言わずに。
それ以来、ぼくは兄に嘘をつくことをやめた。
兄の瞳はとても澄んでいた。
映画で観た、鉱石のように。
兄の周りには様々な人間がいた。
誰にも会ったことはないけれど。
自宅によく、兄宛てに電話がかかってくることがあった。自宅の呼び鈴を鳴らす人たちもいたほどだ。
兄はぼくとは対照的で、自宅にいることが少なかった。
母がよく電話に出たり、自宅を訪ねてきた人たちの相手をしたりしていた。
兄が学校以外の時間を、どこで誰と過ごしていたのかはわからない。
兄はとても自由に生きている人だった。
あの当時のぼくには、兄は何事にも縛られていないように感じていた。
言葉よりも先に、すぐ行動に移していた。
夏休みのある昼下がり。
ふたりで自宅から三十分ほど離れた森まで遊びに行ったことがある。
ぼくは夏休みなど、長期間の休みがあっても、外出することはなく、自宅で遊んでいた。
あるとき。
たまたま観ていたテレビでは、カブトムシの特集を放送していた。
雄のカブトムシは凛々しく力強かった。兄の姿が重なった。
特集が終わると、兄が声をかけてきた。いくぞ、と一言だけ。
兄は珍しくテレビに夢中になっていたぼくを見てくれていたのだろう。
ぼくは食べかけのアイスを口のなかに放り込んで、外の世界に飛び出した。
その森は鬱蒼としていた。そこ一体だけ、邪悪な気を放っているような。
ひとりだったなら決して入らないだろうし、入ろうとも思わない。闖入者を拒むような雰囲気さえあった。
森の入口には、細くて長さが、ぼくの身長ほどありそうな折れた木々が積み重ねてあった。明らかに人為的にそうしてあった。
直感が知らせてくれた。この森は誰かの棲み家なんだと。
ぼくたちは招かれざる客。でも、兄は気にしていない様子だった。
折られた木々を次々と手に取って、左右に放り投げたのだ。
あっという間に、積み重なっていた木々が、ぼくでも跨げるぐらいの高さになった。
すると、兄が先に森のなかに入っていった。
ぼくは恐怖で寒気がしていた。
だが、兄に置き去りにされるのではないかと思って、足早に木々を跨いで森のなかに入った。
兄は少し先で、夏の陽射しさえも届かない森の先を見つめていた。
兄の元に行くと、兄は振り返らずに、そのまま進み始めた。
ぼくは恐る恐る振り返った。入口が消えていないかを確認するために。
森のなかには、道らしい道はなかった。雑草は生え放題。地面はぬかるんでいた。
何より気になったのは蝉の鳴き声だ。うるさいなんてものではない。激しい雨が地面に打ちつけるような鳴き声だった。
兄は道中、一メートルほどはある木の棒を拾った。
その棒を振り回しながら草木をなぎ倒していく。その姿は、ロールプレイングゲームの勇者のようだった。
兄について行き、森の奥深くまで進んでいった。
辺りは生い茂る木々の葉が傘代わりになっていて、さらに薄暗くさせていた。
ぼくは恐怖で、鼓動がさらに速くなった。
兄は前進する速度は、ぼくに合わせてくれていた。だけど、振り返ることはしなかった。
ぼくは後ろから得体のしれない何かがついてきているような感覚に陥った。
何度目だっただろうか。
後ろを振り返ると、木の枝がぼくに向かって、手を伸ばしているように感じた。
ぼくは振り返ることをやめて、兄との距離を縮めた。
木々の葉から微かに漏れている光は、無数の筋になって、地上を差している。その光だけが、唯一、ぼくたちが住んでいる世界と、この森が現実世界だということを証明してくれている。
前進するために邪魔な草木は、兄が木の棒でなぎ倒してくれていた。だが、生き残った小さな草木が、ぼくの肌に当たっていた。
ぼくはそれらを足で払ったり押し潰したりしながら、必死の思いで兄についていった。
森に入って、二十分ほど経った頃だろうか。
いままでとは明らかに雰囲気が違う場所に出た。
その場所だけ、くり抜いたように開けていて、光が燦々と降り注いでいる。木々が円を囲むように、整然とそびえ立っていた。
その中心には、真ん丸な池があった。
ぼくは、なんでこんな場所に、と思った。興味をそそられて、池のそばまで小走りで駆け寄った。
池の水は澄んでいた。
身を乗り出して池を覗くと、小魚が群れをなして自由に泳いでいる。観たことのない小魚だった。
池のちょうど真ん中辺りには、小さな祠が設えてある。
ぼくは、何の神様だろうか、と思った。同時に、その祠に通じる道がないことに気づいた。それなのに、その祠は、やけに綺麗だった。
「着いたぞ」
「どうしてここに来たの?」
ぼくがそう言うと、兄は視線を移した。周りを取り囲んでいる木々のひとつに。それから、その木に向かって歩き始めた。
ぼくは兄の後についていく。
「見てみろ」
兄の視線の先には。瞬時には数え切れないほどの虫がいた。カブトムシの雄に雌。クワガタ。その他に、見たことのない種類の虫もいた。
兄がそのなかの一匹を木から剥がして、ぼくに手渡してくれた。ぼくの手のひらには収まらないほどの大きさだった。そのカブトムシの雄は。自分の手でカブトムシに触れたのは初めてだった。
「持って帰るか?」
「……ううん」
ぼくはこの場所から何かを持ち帰ることは、神聖な場所を汚してしまうように感じた。
「そうか」
「あれは、神様なの?」
ぼくは祠を指さして言った。
「あれは、この町の守り神だ」
「ふーん」
「俺達が生まれるずっと前から、この町を守っている」
「すごいね。そんなに長い間、同じ場所にいるなんて」
「俺には耐えられない」
そう言った兄の目は、どんな感情を宿しているのか読み取れなかった。
「お兄ちゃんは、いつかどこか遠くに行っちゃうの?」
「俺には俺の生き方があるんだ。同じように、智にも智の生き方がある。俺は俺が生きたいように生きていく。智も自分の生きたいようにいきていけばいい」
そう言うと、兄は目を細めて遠くを見つめた。
ぼくはそのとき、強い孤独感を覚えた。
中学生になると、兄が帰宅するのは二十二時を過ぎることもあった。日付が変わって帰宅することも度々あった。
傷だらけで帰ってきたり、ぼくの知らない匂いを家のなかに連れて帰ったりすることもあった。
そんな兄に母は何も言わなかった。
ぼくには門限が設けられていたけれど。
母もわかっていたのだろう。
兄は籠のなかに留まることができない鳥だということを。
ぼくはそんな兄を羨望の眼差しで見ることもあったが、どこかで軽蔑していたのかもしれない。
あまりに自分勝手に生きる兄だったから。
その頃、兄は寂しそうな表情を見せることがあった。
兄と会話を交わす機会は減っていたが、たまに顔を合わせると何も言わずにぼくを見つめて、静かに自室に戻っていった。
兄の笑顔を最後に見たのはいつだっただろうか。
一瞬で心が洗われるような、あの笑顔を。
ぼくは笑顔が苦手だったから、兄の笑顔を見るのは好きだった。
ある日。
兄がふいに話しかけてきたことがある。
「智。お前は真っ直ぐに生きるんだ」
「お兄ちゃんは、真っ直ぐに生きてないの?」
その問いには、兄は何も答えなかった。
「ぼくはそんなこと考えたこともないよ。みんなと同じようにいきていけばいい」
「俺には耐えられない」
兄は呟くようにそう言った。
兄はその後、高校には進学せず家を出て行った。
それ以来、連絡はなかった。
それが、五年振りに連絡があったかと思えば、婚約した、という連絡だったのだ。