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jealous

 メリー


 うちは、ケンを死ぬほど愛している。悩ましくも、狂おしくも、愛おしい。

 世界が終るというなら尚更、一刻も離れていたくない。自分の命を捧げてもいいんだ。ケンの為なら死んでもいい。いいや、ケンがいなければ死んでしまう。

 よく男に依存するだかホス狂いだかってブスな女どもがいるらしいけど、くだらねえ、甘いんだよ。

 うちは、完全な中毒だ。空気や水のように必要不可欠なんだ。ケンの言葉が好き、ううん、ケンの全てが好きなんだ。

 うちがケンと出会うまでの人生は、クソにまみれていた。正直、思い出したくもねえ。

 けれども、嫌で忘れたい過去の記憶ほど、ずうっと心の奥底、脳みその芯でヘドロのようにへばり付き、ぶくぶくと発酵しながら溜まっている。

 そもそも、父親が人間として終わっていた。

 母親なんてもの心ついた頃にはいなく、十歳まで児童養護施設で暮らしていたうちを迎えにきたのが、顔も見たことがなかった鬼畜な父親だ。

 一緒に暮らしだしてからというもの、気付けば虐待と暴力の沼に沈められ、もがき、あがいて窒息しそうになったら引き上げられる。その繰り返し。

 毎晩のように犯され、飯もろくに食わしてもらえず、風呂も入れず。それで汚ねえだの、臭えだのって、ゴミだらけのベランダに出され、冷たい水をぶっかけられた。

 最悪だったのは、コンセントからの通電だ。なにかにつけてやられた。ムカつく、邪魔くせえ、もっと喘げ。意味わかんねえし。延長コードの裸配線を顔につけられると、頭ん中が真っ白にぶっ飛ぶ。気絶しようもんなら、ビンタの嵐。意識が現実に戻れば、下卑た父親がヨダレを垂らして腐った笑みを浮かべていた。

 北海道の底冷えする寒い冬も、ストーブのついていない部屋で毛布一枚被って、明日死ぬんじゃないかと眠れない日々を、何年も何年も過ごした。毎日が苦痛の極み、一秒だって普通の奴よっか長いんじゃねえかって思ってた。

 言っとくけどよ。イジメだ、虐待だ、折檻だ、しつけだ教育だって、言葉。知らねえ奴は適当だよな、そんなもんじゃ軽すぎる。拷問なんだよ、拷問。一方的な暴力だ。本人にとっちゃ、毎日長い針をじわじわ何本も根元まで刺され、剣山の上を裸足でどこまでも走らされる、生き地獄なんだ。何百、何千回、何べんも謝ったって許しちゃくれない。うちだって生まれた事を後悔する日が、毎日続いた。

 家出だって当然、児童養護施設や警察に逃げ込むことだって、何度もした。

 家出したところで飯が食えない。面倒くさがる施設の大人たちは、うちの虐待を見て見ぬふりをする。警察は被害届も受け入れてくれず、保護者の父親を呼ぶ。連れ戻される度に、殴られ、蹴られ、通電され、犯される。逃げ場所も、隠れ家もない。助けてくれる人など、誰もいない。もう、救いを求めることも、逃げることすら諦めた。

 人のやさしさ、温かみなんて知るはずもない。

 暴力の痛みを堪えることはできても、慣れることはなかった。身体の痛みより心を潰される痛みが苦しくて、辛かった。現代医療が進んでいるとかってんなら、心の痛みを取り除く鎮痛剤が欲しい。成分の半分が優しさでできているってんなら教えてほしい。

 殺してやろうと包丁を握ったこともある。

 でも、できなかった。この先どうやって生きていけばいいか分からなかったから。死のうとは考えなかった。この先、必ずいいことが待っているに違いないと思っていたから。

 義務教育の学校さえ通わせてもらえず、年齢だけはそこら辺のガキと同じように十四歳を迎えていた。

 それまで、まともに笑ったことがなかった。生きた心地なんてなかった。

 ベランダに出され、家の中に入れてもらえなかったほうが、なんぼか良かった。

 夏の星がない、暗くて先も見えない高い夜空を眺めながら、薄い壁の向こうから聴こえる洋楽のメロディに耳を傾けることができたからだ。隣の顔もみたことのない住人が、夜遅くまで音を垂れ流していてくれたんだ。

 歌詞のことなんて、どうでもよかった。

 幼い頃から童謡や幼児向けの音楽すら聞いたことがなかったけれど、大人びた洋楽のリズムやギターの音色が、心や身体の暗く重い鬱積を軽くしてくれるようだった。空からそっと手を差し伸べ、どこか心地いい場所を撫でてもらえる、そんな気がした。英詩で言葉の意味を知らない方が、メロディを際立たせるような気がしたし、救われた気さえした。

 その時間だけが皮肉にも、生きていて唯一の楽しみだった。

「あれ? 今日は、ベランダの日だったか」

 そんな真夏の生ぬるいどしゃ降りが止まない夜。

 いつもみたいに外へ出され、真っ暗な雲に覆われた雨空を眺めていると、雨がっぱをすっぽり被り、全身黒づくめの人がロープを伝って上から降りてきた。ここは公営住宅の四階だ、屋上から来たのだろう。

 激しい雨の音に今日は洋楽も聴こえないし、突然現れた来訪者だったけれど、たいした驚きもしなかった。

 背が高いのに軽い身のこなしで、ひょいとゴミに埋もれた汚いベランダに入ってきた。

 すぐさま指を立て、しーッと小声で囁いた。

「(いいか、よく聞くんだぞ? これから目をつぶって、ゆっくり10数えるんだ)」

「(……どうして?)」

「(君がかけられた魔法を解いてあげようと思ってな。いいか? ゆっくりだからな。お兄ちゃんが、いいよって言ったら目を開けるんだよ)」

 うちは訳もわからず、言われるがままに眼を瞑った。ざわざわと胸騒ぎがした。

 1、2、3……、リビングで、なにやら音が聴こえる。

 4、5、6……、父親が、喚いているのが聴こえる。

 7、8、9……、ベランダの大きな窓が音をたて開いた。

「じゅうううゥうぅ!」

 背の高いお兄ちゃんが叫んだ。ふわっと背中に風を感じて、思わず目を開けてしまう。

 叫びながら落ちていく父親が、どすんと鈍い音をあげ、洪水のようになった駐車場のアスファルトにへばりついた。ベランダの鉄柵に顔を埋めて、下を覗き込む。ずぶ濡れになり大の字になったまま動かない、足枷だったものが無造作に転がっていた。

「ほうら、もう魔法は解けたぞ。これで笑っていいんだ」

 お兄ちゃんは、しゃがんで優しい声をかけてくれた。うちは声も出なかった。

「いいか? これからは笑え。みんな、ひとりぼっちだけど、辛い時や寂しい時には笑うんだ。これからは外へ出て、好きなだけ笑っていいんだよ」

「……やだ」

 笑えることなんて、これっぽちもなかったし、うちは笑ったら駄目なんだと思っていた。反射的に、いつもの言葉がでてしまった。

「……ん、まあ、そうだな。じゃあ、こんな言葉がある。笑うと、いや、笑うのは……、違うな。なんだっけな」

 うちは、じんわりと温かなものに包まれていく気がした。「……いやだ」

「ああ、こんな言葉がいい。『10数えたら、じゅう』もう君は自由。どうだ?」

「いーやーだーッ!」

 そう地団駄を踏むと、涙が溢れだし、頬に垂れ、胸が熱くなっていく。

 どしゃ降りの暗い雨の中に、一筋の晴れ間が見えた気がした。隣から、雨音に混じった洋楽が聴こえだす。メロディも痛んだ心を優しくさすってくれる。

 お兄ちゃんは、困った顔をしていた。

 うちは、たまらず濡れている大きな胸に飛び込んだ。ぐちゃぐちゃに濡れているのに、とても温かくて気持ち良かった。

「……いやだ」

「よし、ならこうしよう」

 背の高い真っ黒な兄ちゃんは、大きな革手袋をしたまま、うちの頭に手を添えてくれた。「君の名前は、今日からメリーだ」

「……メリー?」

 うちが顔をあげると、ああ、と優しく微笑んでくれた。「陽気なとか、笑って楽しむって言葉だ。メリークリスマスっていうだろ? クリスマスは楽しくて、みんなが笑ってるんだ。君は、これから笑って生きていくんだ」

「……やだ。だったら、なら、お兄ちゃんと一緒に行く」

 うちのわがままに、お兄ちゃんは少しだけ微笑みながら黙っていた。

 うちは嫌だ、嫌だと泣きながら言い続けた。

 今思えば、きっと幼いながらも、生きていくことができないと本能が叫んだんだろう。この人が運命の人だと叫んでいた、そうに違いない。

 ガサっと自分が被っていた雨がっぱをうちの頭にかぶせ、転がっていたビニール紐を拾い上げた。後ろを向き、おんぶの態勢になって、うちの身体ごと腰に巻きつけた。

「じゃあ、指きりしよう」

 振り向きざま、革の黒い手袋をはめた小指を伸ばして見せた。「俺は、お前の父親みたいに裏切らない。俺と一緒に居て、笑ってくれるだけでいい。どうだい、簡単だろ?」

「……うん」

 うちは、指きりげんまんをした、約束をしたんだ。その指が、痺れるほど温かい。

「俺は、ケンだ。しっかり捕まってろよ、メリー」

 人って本当は、温かいものだったんだ。

 ケンは、とても優しくて、とっても大きい。そして、熱くなるほど温かい。ケンの背中にしがみつくと、ひどい雨が落ちてくる夜空の中を駆け登っていく。雨が顔に垂れ、温かい涙を拭っていく。

 生まれて初めて人間に明るい希望と、熱にも似た温度を感じた瞬間だったんだ。

 ケンの仕事は、殺しを主とした始末屋だった。

 どんな仕事をしているとかなんて、まったく関係なかったし、どうでもよかった。ある意味、まるで昔見た映画みたいで嬉しかった。あっちは親子みたいだったけど、うちらは恋人のような関係だ。歳も10ほどしか離れていない。そばに居てくれるだけで嬉しかったし愛おしかった。

 なにしろケンは格好良かったし、好きになった。ううん、言葉になんて表せないくらいの気持ちでいっぱいになった。 これが愛だ、なんてちんけな言葉にも代えられない。

 うちは、見よう見真似で料理をしてみたけど、全部まる焦げになって食べられたものじゃなく、決まって目玉焼きとウィンナーを焼くことしかできなかった。ケンはそれでも、旨いうまいと言って笑って平らげてくれた。

 掃除や洗濯も教えてもらって、まともな勉強もしていなかったから、ケンは小学三年生くらいからのドリルをたくさん買ってきてくれた。

 一緒にテレビを見て笑って、可笑しいことを言うケンに涙を流しながら笑い、熱いお風呂でじゃれ合い、温かい同じ布団でぐっすり眠る。

 まともな人間らしい生活を手に入れた感じだった。

 そんな優しいケンにも、一度だけ怒られたことがある。うちが十七歳になった頃。

 仕事だ、そう言ったケンの帰りがいつもより遅かった。嫌な胸騒ぎのような虫が這った。うちは、何故かいてもたってもいられず、ずうっとそわそわしていた。

 絶対に仕事のことを探るな、と耳にタコができるほど聞かされていたけれど、不安に押し潰されそうで、思わずケンが置き忘れていった大切な手帳を開いてしまった。今日の相手と、現場になる住所が書かれてあった。

 行こう、と思った。

 はらりと、一枚の紙切れが落ちた。思わず、広げてみる。『俺が死んでも笑って暮らせ ケン』

 そう書かれた短い遺書のようだった。行かないとダメだ、そう思った。わざと大切な手帳を置いていき、死ぬつもりだ。絶対にそうだ。

 指きりしてまで、約束したんじゃねえのかよッ、勝手に裏切んのかよ!

 うちは、チャリンコで現場まで走った。思い切り漕いで、風を切った。

 胸がどうしようもないくらい熱くなり、涙が溢れ、風に飛んでいく。ふざけんなよ、うちを置いてく気かよ。勝手すぎんだろ、ケン。うちはこれからどうやって生きてくんだよ、笑えねえよ、ケンが死んじまったら。この先、ずうっと笑えねえんだよッ!

 現場は、鬱蒼と雑木林が生い茂る真っ暗闇な公園だった。

「ケェェえン!」

 うちは、思い切り叫んだ。

 声は虚しく、真夜中の公園にこだまするだけだった。虫がちろちろ鳴き、木々の葉がこすれ合う音しか聴こえない。もう一度叫ぶ。はね返ってくるのは、うちの声だけ。

「(……メ、メリー、か?)」

 ケンの声が、微かに聴こえた。

「ケンッ! どこ、どこにいるの?」

「バカヤロウ!」

 今まで聴いたこともないケンの怒声だった。

 びくっとして立ち止まった直後、誰かになぎ倒された。後ろから口を塞がれ、うつ伏せに覆いかぶされる。目の前に大きな白樺の根がうねって土から盛り上がっていた。そのまま十秒動かなかった。うちの首筋に、生暖かいものが流れてきた。おねしょをした時のような違和感だった。

「(……そのまま動くな)」

 ケンの声だった。

 向こうから、草むらを分けてくる足音が近づいてくる。木の根に隠れながら、ケンはそろりと腕を伸ばし、照準を合わせる。足音が大きくなってくる。

 チュン、と金属同士が高速で擦れ合ったような高音がした。

 近くまできた黒い影が、ぐらりと崩れ落ちる。その姿を見送った後、ふう、とうちの横に仰向けで大の字に寝転んだ。

「ケン、ごめん」

 飛びついて言うや否や、きついビンタを張られた。「なにしに来てんだ、お前は」

「……ごめん。でも、ケンのことがしんぱ、」

 ケンの肩口に触れると、生暖かい液体でびっしょりと濡れていた。どきっとして、月の灯りで掌を見る。真っ黒な血で、手の平の皺も見えなかった。

「やっぱ手帳忘れちまったのが、いけなかったんだな。今日はついてない。おい、メリー、怪我してねえだろうな」

「……う、うん。でもケンが、」

「こんな言葉があんだよ」

 ケンは、ビンタをした手で頭を撫でてくれた。「『待ちぼうけ、待ちぼうけ。ある日、せっせと野良稼ぎ。そこへウサギが飛んで出て、ころり転げた木の根っこ』今の俺たちみてえだろ。知ってるか?」

「知らねえよ! それどころじゃ、」

「お前、きちんとドリルやってるのか? だいぶ前の、確か、小学三年生の国語のドリルに載ってたはずだぞ」

 ケンが、ゆっくり起き上がった。

「知らねえよ、もうそんな古いの憶えてねえって!」

 うちは、涙が止まらなかった。

 ケンがどこかへいってしまうんじゃないか。ケンが死んでしまうんじゃないか、と。けれでも、生きていた。どこにも行かないでくれよ、ケン。

「……お、俺のことは心配するな。絶対にメリーを寂しくなんかさせない。待ちぼうけさせても、必ず、帰る。コンビニ寄って帰るから、先行ってな」

「でも、」

「指きりしたろ。俺は、お前を裏切らない。おやすみ……」

 ケンは、肩口を抑えながら倒れた奴のそばまで近づき、ぶら下げた腕で硝煙を二回あげた。拳銃を胸にしまい込み、人らしきものだった髪の毛を掴んで引きずっていく。

 背中が遠退いて行く。優しいその背中が、見たこともない猛烈な怒りに震えていた。

 ケンは言わなかったけれど、きっとうちにも、殺した相手にも、自分にさえも、ぶつけようもないほどの怒りに狂っているってわかったんだ。その背中を見送ることしかできなかった。

 それから、一週間が経った。

 うちは、ずっと家で待っていた。ずうっと歌詞も分からない洋楽を聴いて待ちぼうけしてた。ケンがいない部屋は、あまりに寂しくてどうにかなってしまうんじゃないかと、気が狂いそうだった。

 帰ってきたケンは包帯で腕を吊るして、何もなかったかの笑顔で「ただいま」と言った。

 うちはたまらず抱きつき、初めてケンにキスをした。涙でしょっぱくて苦しいのか、嬉しいのか分からなかったけど、ケンはずうっと微笑んでいた。

 それでも、それからも、ケンはうちを抱こうとしなかった。きっとそれは、うちの顔の痣だったり、父親のことを気にしているからに違いない。

 今までのうちが、過去のうちが、今のうちを形成している。寂しい気持ちもあったけど、ケンがどこかへ消えてしまうよりいいし、嫌われたくない。コンプレックスだらけのうちなんか抱きたくないんだろうと、自分への嫌悪と汚れた身体を恨み呪うしかなかった。

 けれど。

「こんな言葉がある」

 うちは、それでもたまらず訊いてしまった。うちのことが嫌いなの? うちはケンにとって必要なの? こんなに愛してるのに。

「『ひとつになんてならなくていい。認め合うことができれば、価値観も、理念も、宗教も。ぼくらは違った個体で、でもひとつになりたくて、暗闇でもがいている』日本のロックスターもなかなかだろ?」

「……でも、うちは、うちは、ケンとの子供がほしい」

 ひしひしと最近沸き上がってきたものを投げかけてしまう。愛している形が欲しい、愛されている形が欲しい、形にしたものを愛したい。

「ガキが、なに言ってんだよ」

 ケンはいつもみたいに笑った。「子供に悲しい想いさせて泣かすような奴は、親でも人間でもねえ。俺には親になる資格がねんだよ、気持ちはわかるけどよ。すまねえ……」

 ケンはその分、強く抱きしめてくれた。

 うちは、その言葉に、ケンの仕事が死と隣り合わせなのに気付いた。うちのこと、自分のこと、未来のこと、子供のこと、全てを考えてるんだな。

 ごめん、求めすぎて。ケンが側にいてくれるだけで本当はいいんだ。ごめん。だけど、だから、なにかの形が欲しいのも事実なんだ。

 そんなケンだから余計、嫉妬や焼きもちを妬いてしまう。

 誰かに獲られてしまうんじゃないか、他のブスな女を好きになってしまうんじゃないか、どこかへ行ってしまうんじゃないか、うちを嫌いになりはしないか、仕事で死んでしまわないか。

 独占欲なのか支配欲なのか分からないけれど、頭の中はケンのことばっかりで狂ってしまいそうだった。

 本当は、いつもありがとう、そばに居てくれてと伝えたい。いつも悪態ついてばかりでごめんね、愛してる。そう心の底から言いたい。困らせてばかりで、素直じゃなくてほんとごめん。一度は口に出して伝えなくちゃならない、言葉だ。

 やっぱり、それでも、どうしてもいつも一緒にいたい。

 そんな無理をゴリ押しして、それからは仕事にもくっついていった。運転手兼、マネージャー兼、補助兼、恋人。邪魔はしないといった固い条件で、ケンを無理やり頷かせた。

 うちらの名前は、ケンの仕事が成功する度、どこかの命を消したり、始末する度。闇に蠢く裏稼業の人間たちに知られていき、恐れられ売れていった。

 古い名車になぞらえた、ふたりでひとつの名前。

 毎日、異常に降り積もる雪にうんざりしていた年の初め。 うちは、二十五歳になった。

 その日、大きな仕事が舞い込んできたと、ケンは年甲斐もなく無邪気にはしゃいだ。暴力団の取引きに使うカネの護衛を依頼されたという。どこかで奪われたら殺してでも奪い返せ、とのことだ。成功報酬は、一億円。何事もなく、大事な取引きが成立したら五千万という破格の金額らしかった。それほど重要なカネだということだろう。

 突如、きな臭いものが立ち込めた気がした。嫌な胸騒ぎがする。

 うちは、ケンにこの仕事を請け負うことを辞めるよう説得した。ケンは首を横に振り、「これでこの仕事を辞める」と言った。カネも貯まったことだし沖縄で暮らそう、と付け加えた。

 嬉しいの半分、不安半分。上は喜び、下は不吉な予感。嬉しさや喜び、希望の光が眩しく照らして、鼻の奥に残る嫌な臭いが気にはなったけど、渋々ながら承諾した。

 これが命すれすれの最後の仕事になるなら、ま、いっか。

 護衛は、豊田組の若頭だった。大きなアタッシュケースを大事そうに持っている。本人には知らせていない。だから、カネの監視、アタッシュケースの見張りと確保というのが本当のところだろう。

 アホーツクだか、ドリームをドツクだかってバスに乗り込む時、若頭と一度だけ目が合ったけど、気付いていない様子だった。その若頭の後ろに、先日、死体の始末を依頼してきたポッキーとかいうゲイが座っていた。

 なにか起こる予感がした。

 案の定、バスジャックが起き、次々と犯人が入れ替わりゲイが若頭を殺りやがった。しかも、バスの中で。後先考えてねえのかよ、ドブス。

 ケンに目配せする。大丈夫だ、状況を見ようと頷いてきた。

 だけど、嫌な胸騒ぎはずうっと止まらない。胃のあたりがきりきりと痛む。膀胱が縮こまり、尿意が何度も駆け上がってくる。面倒な緊張感なのか。バスのヒーターが強く、妙な汗が出て喉が異常に乾く。ぬるくなった濃い味のペットボトルの緑茶を何度も口に含む。苦味が舌の上を刺し、食道をじりじりと焦がすような感じがした。

 これが、最後の仕事。この仕事で北海道を去り、沖縄へ移住する。ケンとふたりで。

 背負い続け、薄汚れた過去を全て雪の中に埋めて、真っ青な海に囲まれた楽園に、愛する人と世界が終るまで永遠に暮らす。いつもより簡単な仕事だ、アタッシュケースは手にした。このバスを降り、札幌へ戻るだけ。

 たったの、それだけなんだから。

読んでいただき、ありがとうございます!

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