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七つの大罪

 雪で埋め尽くされる見慣れた世界が、逆さまになっている気がした。

 どこが空なのか、どっちが地面なのか分からない。非日常の出来事にひっくり返り、時間の進み方すら遅くさせている。いや、絶対遅くなってる、いいや、逆回転してるかもしれない。

 きっと僕だけじゃない。初音さんも、不破さんも、運転手も、乗客も、このバスに乗ってしまった皆、そう感じているはず。

 ドリーミントオホーツク号に、バスジャックという伝染病が感染している。

 死の連鎖が起こっている。

 辺りは真っ暗な夜に浸食され、バスのヘッドライトが白い道路と深い闇の空間を切り裂き、視線誘導するため緑色に輝くLEDのランプが次々と流れていくのが、紫色に変色した血のしたたり落ちているフロントガラスに映りこむ。

「しけたもんだね。集めても、こんだけえしか持ってないのかい?」

 とても女性らしからぬ緑色の髪をしたオトコ女が、集めた札を手早く集め、毛皮のポケットへ無造作に突っ込んだ。

 乗客はシートの背もたれに隠れ縮こまっている。我関せず、触らぬ神に祟りなし。こんな狭く閉ざされた空間で、いつ襲いかかってくるかもしれない恐怖に怯えながら沈黙している。

 僕だって、同じだ。目の前で人が殺されるのを見てしまったんだから。

 しかも、次々と数えて三人もの人が死んでしまったんだ。 刺した犯人は、新たに出てきた人に刺され、入れ替わりの犯人になったかと思えば、また刺され倒れていく。まるで、吹雪の日に起こる玉突き事故のように、次から次へと衝突して潰れていく。もう見てられないってのが正直なところだ。 手の平にはじとっとした汗がにじみ、唇の乾燥が口の中まで、喉の奥まで広がっていた。なんだったら、血みどろの状況に「くれないだああああッ!」と叫んでしまいたいくらいだった。

 隣の不破さんはといえば、涼しげな顔で入れ替わりの激しい犯人を、時折、笑みを浮かべながら眺めていた。

 どうしてこんなに余裕があるのだろう、この人は。僕は、仮説を立ててみる。

 例えば、こうなるように仕組んだのが、不破さんではなかろうか? バスジャックを最初に起こした目出し帽の犯人と共謀し、なんらかの因果関係がある人々を巻き込み、殺し合いをさせる……、

 まさか、それはない。あの笑顔の下に、そんな謀略が潜んでいるとは到底思えない。不破さん自身も否定していたはずだ。第一、共謀した最初の犯人は刺されてしまったじゃないか。都合よく因果関係ある人々が、次から次へと現れるのも、ドリーミントオホーツク号に乗り合わせるのも不自然だ。これはないな。

 じゃあ、本当はバスジャックをしようとしたのが、不破さん本人だったのでは?

 ジャックしようとした矢先に違う犯人が現れた。期を逸してしまって、これからでも密かに狙っている……、これもないな。そんな偶然ある訳がない。

でも、待てよ。僕が好きないちいち可愛い初音さんが、まさか札幌に来ていて、同じバスで北見へ帰るなんてのも、奇跡に近い偶然だ。えへへ、なんてにやついてる場合じゃない。 それを考えれば、いいや、やっぱりない。不破さんの右手は、包帯で巻かれ怪我をしているという。不利な状況で、大それたことなどできるはずもない。

 じゃあ、やっぱり予知能力があるのか?

 うん、この線が今は強い、有力だろうな。これから何が起こるとも知っているから、僕や初音さんが無事にバスを降りられると分かっているから、続きのおとぎ話の中でも、きっと僕らには被害がなく、実はハッピーエンドだから、温和な笑顔を保ちつつ余裕でいられるのかもしれない。

 としたら、不思議なおとぎ話の続きを聞かずにはいられない。

 途端、なぜかこめかみの辺りに痛みを感じた。

 思わず声を漏らしそうになり不破さんを見た。あれ、なんだろ? どこかで、なんだかモヤモヤする……、いいや、きっと気のせいだろう。僕は束の間、かぶりを振った。

 現在このバスを支配している豹柄のオトコ女は、肘掛けに腰を落とし、きょろきょろと車内を見渡している。今までの犯人から比べれば、幾分、落ち着きがないよう思える。

 高速道路の緑色の案内表示に、砂川パーキングまであと2キロとでているのが見えた。

 北見市まで残り200キロ近くもある。予定到着時刻まで、三時間以上。肺に溜まった酸素が全て出てしまうようなため息しかでない。

「(……すいません、不破さん。いいですか?)」

「薄荷太郎ですが、なにか?」

 僕は前方のオトコ女に細心の注意を払いながら、耳打ちできるよう顔を寄せた。眉をあげ意味不明の冗談を言う、にこやかな不破さんに訊ねる。

「(さっきのおとぎ話、予言のような。あの続きは、どうなるんですか? 初音さんも気になっていると思います)」

 そばの初音さんも聞こえたのか、後ろを振り向いた。

「(イエス。でもその前に、)」

 僕の前あたりを指でさした。「(コウタ。そのクッキー、くせになるよ。もう一枚くれないかな? どうやら予知能力も、忘れかけていたおとぎ話も、そのクッキーのおかげで冴えてくるようなんだ)」

 僕はこっそり、音をたてないようにクッキーを少し多めに不破さんへ渡す。僕の好きなものを共感してくれるなんて、余計に不破さんへの不信感が薄らぎ、親近感が沸く。

 やっぱり不破さんみたいな人がそんな恐ろしいことを計画していたなんてことは、ないだろうな。

 小袋の梱包を裂くように開けて美味しそうに、にこにこしながらハッカ風味のクッキーを頬張っていた。初音さんもほんの少しの間、微笑んで見ていた。

 静かなバスの中に、ぐにゃりと空間が捻じ曲がったような異変が起きた。

「……み、みさぎ」

 ヤクザ屋さんの下敷きになっていた美容師が声を出したのだ。

 仰向けになり、豹柄の背中に投げかけている。オレンジのダウンに身を包んだ美容師は、ヤクザ屋さんに刺されながらもまだ生きていた。死んではいなかったのだ。顔面を蒼白にしながら絞り出すような声は、苦しそうにも、ほっとしたようにも聴こえた。

 能面のような顔をしたオトコ女の眉毛がぴくりと驚きに動き、上がったよう見えた。

「……や、やっとこ、逢えだ」

 美容師は仰向けになったまま、ヤクザ屋さん越しにオトコ女へ声をかけた。状況違いの場違いに、それどころじゃないだろうと心配になってしまう。

「…………」

 緑色のオトコ女は、乗客のほうを向いたまま動かない。だるまさんが転んだとでも言われたかのように固まっている。

 美容師は、苦しげに声をかけた。「う、うれしいべ。あ、逢いだがった」

 緑色の髪をしたオトコ女は、ゆっくりとぎこちなく足元を振り返る。

「ひ、人違いだろ」

「……ワには、嘘さつかんでくれ。もう、いんだ」

 うわ言のような、弱々しい声だった。

「な、なんだい? 今さら、」

「ワは、オメのごど、ズキでたまんね。けんどさとびでらどあぶね、」

「ちょっと」オトコ女が強い口調で、「なに言ってんのかわかんない」

「も、もういい。逢えだげ、世界の中心でオメに逢えだげ、それでいんだ……」

「バカじゃないの?」

 緑色のオトコ女が野太い金切り声をあげた。「騙した女に向かって、また逢えた? ふん、あたしを殺そうとでも思ってたのかい? ざまあないね、返り討ちに合うなんてさあ」

「……そ、そんな気ね。うぬうぬど、けんどわだれば、ひがれる、ろ」

「ちょっと、あんた! 慌てて道路渡ると轢かれるぞって、どういう意味よ!」

 美容師の顔が、刺された傷口の痛みなのか歪んだ。咄嗟に、緑色のオトコ女が屈みこみ、血塗れで横たわるヤクザ屋さんを押し退けた。

「(変なメロドラマが始まったみたいだから、ちょうどいいよ)」

 不破さんが小声で顔を寄せてくる。「(CMになったら面倒だ、おとぎ話の続きをするよ。先が気になるだろ?)」

 僕も、初音さんも、静かに頷いた。不破さんが前の動向を窺い首を伸ばした後、亀のように首を縮ませ身を丸くする。「(どこまで話したかな?)」

 あれ? と初音さんが間に入った。「(あの、すいません、唐突なんですけど……、不破さんって、北見に戻るんですよね?)」

「(あァ。それがどうかした?)」

「(……失礼ですけど、お兄さんか、弟さん、ご兄弟の方いらっしゃいますか?)」

「(いいや、いないよ。それがどうかした?)」

 即答する不破さんは、微笑む。「(ボクは一人っ子なんだ。今日も、お母さんが帰っておいで、なんてしつこいからさ。休みを取って帰省するところだったんだ。お母さんは、一人息子のボクのことを溺愛していてね。いつも寝る前には、昔話やおとぎ話をしてくれた。この話も、お母さんから聴いたおとぎ話のひとつなんだ。信じてくれるかい?)」

 急に、きんッとする痛いほどの耳鳴りがした。

「(あ、いえ。そういうんじゃないんです)」

 初音さんは頬を染めて、両手を顔の前で振った。「(……ただ、そのう、勘違いなんですけど。同じ苗字の知り合いで似ているなって思った方がいたもので、つい訊いちゃいました……、ごめんなさい)」

「(……謝ることなんてないよ。ボクみたいな顔、どこにでもいるからね。ふたりも、お母さんを大切にな。たったひとりのお母さんだからね。さ、続きはどこからだっけ?)」

 初音さんは心配の枷が外れたのか、にっこりと微笑む。

 アイドル顔負けのキラキラした笑みに、僕は北見に生まれ、初音さんと同じ学年、同じクラスになり、好きになった奇跡を、どこかの神様に感謝した。

 運命の巡り合わせ、えへへ。耳鳴りは、すぐに鳴りを潜めた。

 僕のアイドルが、ひそひそと言う。「(えっと、アバリティア。そう、欲ばりなアバリティアが、チーズを奪っちゃうところです。あの緑色の頭をした人と同じような)」

「(そうだったね)」

 不破さんが、いつになく真剣な眼をする。


「(いいかい? 『なにをかくそうアバリティアは、チーズに目がありません。欲ばりなアバリティアです。町にいるほとんどのネズミたちは、アバリティアに騙され、チーズを取られてしまっていたんです』」


「(綺麗なおばさんなのにね。あ、おじさんなのかな?)」

 僕は思わず、まぜこぜになってしまった目の前の現実を言葉にして笑いを誘う。不破さんも、初音さんも真顔になり、くすりともしなかった。思い切りスベる。どっと溜まっていたひや汗なのか脂汗が噴き出した。

「(そうだね。見た目じゃ何もわからないってことだ)」

 間を置き、不破さんが歯を見せ顔をほころばせた。「(ところが……、そう、憶えてるかい? 威張ったチェスティ)」

「(……はい。アバリティアが刺しちゃった、大きなチーズを持っていたネズミのことね?)」

 初音さんが、甘い吐息のような声で言う。

 なんだか耳がこそばったくて、ぶるると身震いしたくなった。別なところで僕は、ネズミたちの名前が英語で覚えずらくて、まったく思い出せていなかった。

「(そうだ。話は、こう続くんだ)」

 不破さんが、人差し指を一本たてる。


「『威張ったチェスティが持っていたチーズは、町の悪いボスに渡さなければならない、大切な美味しいチーズでした。悪いボスは、チーズを届けてもらえないと困ってしまいますから、違うネズミに見張りを頼んでいました。もしも、その大切なチーズを誰かに奪われたら、こらしめて奪い返してくれ。悪いボスは、ふたり組のネズミを、バスに送り込んでいたんです』」


『え』

 思わず、初音さんと一緒になって声を出してしまう。

 車内の静かな空間に、またしても亀裂を入れてしまった。 緑色のオトコ女が僕らのほうを振り向く。持っていたアタッシュケースをその場に置き、立ち上がった。

 構わず、不破さんは続けた。


「『その二人組は、怒りんぼうのテッチと、やきもち妬きのジェラスです』」


「なんだい! さっきからうるさいガキどもだね」

 A席とB席、間の通路を怒り狂った般若のような顔をして、突き進んできた。

 あばばばばばばァ! ど、どうしよう?

 初音さんが身を隠すように丸まった。僕も習い、頭を両腕で抱える。桜井コウタ、敵襲だ! 防御を固めろ!

 途端、どすんと大きな音がして、思わず顔をあげた。目の前に、緑色の頭が転がっていて驚いた。その通路先に、豹柄の毛皮がべったり寝転がっていた。

 中央列のシートから長い足が伸びている。豹柄オトコ女は、引っ掛けられて転んでしまったのだろう。髪も、美容師が言ったようにウィッグだったようだ。茶色に潰れた長い髪がネットの中に納まり禿げた人のように見え、ちょっとだけ滑稽だった。

 すぐさま立ち上がった豹柄オトコ女は激怒した。「なにしてくれてんだい!」恥ずかしかったのか、顔を真っ赤にしたおかめのような顔立ちの般若が刃物を掲げる。

「……ああ、失礼」

 どうやら中央列7B席の人が、わざと長い足を掛けたようだった。

 確かその席は、カラフルなマフラーをしたイタリア風ファッションの男。長いジーンズの裾から裸足のくるぶしが見え、高級そうな靴が光っている。

「なんの真似だい、あんた?」

 頬をぴくぴくと痙攣させながら、握っている刃物をちらつかせる。

「まね? クソくだらねえ陳腐な映画みてえな真似してたのは、あんただろ? 死にかけの奴と。で、終わったのか」

「なんだってェ? あんた、さっきの見てなかった訳じゃないだろ。あんたもぶっ殺されたいのかい」散々文句を言い脅した後、ころりと豹変した。「……へえ、あんた。いい男だねえ。整った、いい顔してるじゃないか。格好いいよ」

 まったく動揺もしていないイタリア男は、「そりゃ、どうも」と見向きもしないようだった。刃物を持っていない手で顔をなぞるように触った。

「気安く触ってんじゃねえぞ、ブスコラ!」

 突然、叫び出し立ち上がったのは、イタリア男の隣に座っていたフリフリで真っ黒な衣装に固めたゴスロリの女性だった。

 手にはひらひらした、これも真っ黒な閉じた日傘のようなものを、ゴンゴンと床に苛立つ仕草で何度も叩きつけている。イタリア男を挟んだシート越しに、真っ黒に縁取られたきつい眼で睨みつけていた。

「なんだい、あんたの女かい? こいつは」

「ガタガタ言ってんな、ドブス! 話かけんなっつってんだ、ぶっ殺すぞブスッ」

「なんだって? もう一度言ってみな!」

「ホントのことだろ、何度でも言ってやるよ、ブス、ブスッ、ドブス、空前絶後で超絶怒涛のドブスッ!」

 とても女性が発する言葉には思えなかった。声もそう。じめっとしながらざらついたような声の迫力に、僕は怖気づいてしまう。初音さんも怒ったらこうなるのだろうか?

「まァ、待て。メリー」

 イタリア男が、シートからふたりの間に立ち上がった。

 痩身で肩幅が広い。前のシートに肘をつき、豹柄女に向き直った。こちらからは横顔が見える。その背中越しからゴスロリの女性が眉をこれでもかと寄せ、豹柄女を睨んでいた。

「……な、なんだって? い、今、なんて言ったん、」

「こんな言葉がある」

 イタリア男は口端をあげ、にたりと笑った。「あんたにも教えてあげようと思って、そん時は、あいにく忘れちまっててな」

 豹柄オトコ女は眼を丸くして怯えながら、バスの前に向かって通路をじわりと後退りした。イタリア男が、乗客を軽く見渡す。僕と眼が合った気がした。ぞくり、と背筋に筋肉鎮痛剤の冷却スプレーでも吹きかけられたような冷気と寒気を感じた。

「『カネで買えないものが、この世にはふたつある』なんだか、分かるか? ポッキーさんよォ」

 僕は少しだけ首を捻り、なんだろうかと思わず考えてしまった。

「『夢でできたネズミの王国と、愛』だよ」

 そんな台詞が嫌味に感じないイタリア男が、ジャケットの胸元に手を突っ込み、豹柄オトコ女へ素早く伸ばした。「誰が言った言葉だったか……、メリー、憶えてねえか?」

「知らね」

 ぞんざいに吐きつけたゴスロリ女性は、ずうっとオトコ女を睨みつけている。イタリア男の背中から伸びた手の先に、映画やテレビでしか見たことのないものを握っていた。

 日本に、この世界に、この世の中に、存在すら怪しいとさえ思っていた、武器、凶器。

 銃身の長い拳銃を握っていた。威圧と威嚇が束になって襲いかかっている。

「……あ、あんたら、メリケンか?」

『ケンメリ、だよ』

 イタリア男とゴスロリ女が同時に発した。その後に「ドブス」とゴスロリ女が吐きつけるよう付け加え、中指を立てた。

 ふたりでシートを抜け、じりじりと豹柄オトコ女を追い詰めていく。

「(……ふ、不破さん、わたしもうダメ、怖いよ)」

 初音さんが震えながら振り返る。不謹慎にも僕は、可愛すぎて飛びつきたくなった。

「(おとぎ話からすれば、ボクたちは大丈夫だ。安心して)」

 息が詰まるような緊迫する状況の中、不破さんが声を殺す。


「『ふたり組のネズミは「バイバイ」と言って、アバリティアを撃ち殺して、チーズを奪い返します』そうなってるんだ)」


 初音さんが、首をぶるぶると横に振った。泣き出しそうな、か細い声だった。「……ま、また人が死んじゃうの? もう嫌!」

「(ハツネ、静かに)」

 不破さんが、初音さんを強い口調でなだめる。追い詰められた豹柄オトコ女が、蒼ざめた顔で運転席そばの鉄製ポールを背にして刃物を構える。

「それ以上、近づくんじゃないよ!」

「こんな言葉がある」

 痩身のイタリア男は、つかつかと近寄り腕を伸ばす。拳銃の先がとても長く見え、非現実な光景は、棒の先に犬の糞をつけ嫌がらせをしているガキ大将のように見えた。「別れの時に使う言葉、『さようなら』だ」

「……さ、さよなら?」

 豹柄女は、おかめのような表情のまま固まった。

「中国では、さようならってのを、再び会うと書いて『サイツェン』と言うらしい。でも、ありゃ間違いだな。なぜか、分かるか?」

「な、なぜ……」

 イタリア男の引き金にかかる指先が動いて見えた。「もう会うことは永遠にないからだ」

「さよなら、ドブス」

 真っ黒づくめのゴスロリ女が言うのと、豹柄オトコ女の頭が、がくんと後ろにのけ反ったのとが、またしても同時に見えた。他の音がまったくしなかった。拳銃の音がしなかったのだ。

 額に黒い穴の開いた豹柄オトコ女が、ゆっくりと崩れ落ちる。

 どん、とヤクザ屋さんの前に倒れた。車内に悲鳴や息を呑む乗客の声など、もう何も聞こえなかった。いや、出なかったのかもしれない。小さく「みさぎ」とだけ聞こえた気がした。

 僕は思わず、不破さんを見た。隠し持っていたスマホに何やら指を滑らせている。

 おもむろに液晶画面をこちらに向けた。慌てて、初音さんの腕を突く。普通なら、えへへ、となってしまう初音さんに触れてしまったことすら忘れ、焦りで必死だった。

 こんな状況だ、えへへ、や、とほほ、あれれ、なんて言ってられない。おほほ、と笑う脳内セレブ姉妹ですら鳴りを潜めているくらいなのだから。

 なにやら、メモアプリらしきもので文字を打ってある。小さい文字に眼を細めて、ふたりで顔を近づける。


『tetchyとjealousは、チーズをgetできたので、ほッとしました』


 そう打ちこんである。

 すぐさま不破さんは、次の文章に取り掛かる。テッチとジェラスのスペルは、ああだったんだな、ふたりはどうするんだろう、と前方に顔を向けた。

「騒ぎは終わりだ、聴いてくれ」

 イタリア男は、拳銃を小脇に構えながら、雄弁な指導者のように乗客のほうを振り向き、口を開いた。たった今、人を殺したようにはまったく見えない。まるで、いつもの作業が終わったかのようだった。

 ゴスロリ女は、アタッシュケースを面倒そうに拾い上げた。

「俺たちは、次のパーキングエリアで降ろしてもらう。ここで見たことは、ネズミの王国に行ったことと思い、夢だったと忘れることだ」

「わかったのか? 運転手コラ」

 ゴスロリ女が運転手に吐き捨てながら、フリルのついた黒い日傘を車内でかざした。

 硬直したままだった運転手は何度も頭を下げる。ちょうどバスは、深川ジャンクションを抜けた辺り。確か、もうすぐ小さなパーキングエリアがあったはずだ。

 これで助かる、この悪夢から覚めることができる。とんだ災難にあったものだ。

 ほんの少しだけ、車内にざわざわとした安堵の空気が流れたようだった。

「ただ、それまで。俺たちが降りるまでは、へたな動きはすんな。夢見たまま起きれねえってことになるからな」

イタリア男は、胸のポケットから煙草を取りだし、禁煙の車内で火をつけた。

 不破さんは左手一本で、スマホに新たな何かを書き込んでいる。そうだ。これまで的中させている予言めいたおとぎ話は、まだ途中なんだ。これで終わりになるようなおとぎ話なら、オチがあまりにも残念だろうけど。でも、むしろ続くのは色んな意味で怖すぎる。

 初音さんが、不破さんに顔を向けた。

 安堵感が靄のようにうっすら漂い始めた異様な空間の車内だったが、初音さんは不安の色を隠さずに、小声で口を開いた。

「……どうしよう。不破さん」

 不破さんが、横目に顔を向けた。

「わたし、気付いちゃったんです」

「ん? なにを」

 顎を引き、不破さんは黙々と指をスライドさせている。

「……あの。きっとtetchyは、英語で怒りっぽいってことじゃないですか?」

「え」

「jealousは、やきもち、とか、嫉妬深い……、違いますか?」

 不破さんの指が止まった。

 初音さんは、未だ震えるような声でささやく。「怒りっぽいって、言い換えれば、憤怒。嫉妬は、envyとかjealousyとか……。これ、ネズミたちの名前なんですけど。太っちょのファットは、きっと暴食。欲ばりなアバリティアは、強欲ともとれるわ。ラストゥは、色欲で。威張っている……、これは、」

「プライド」

 不破さんが、発音のいい英語で答えた。「よく気付いたね、ハツネ」

 初音さんは不破さんの眼をみつめ、口を噤んだ。

「そうなんだ。これは、キリスト教の枢要悪と言われている、七つの大罪について書かれたおとぎ話なんだ」

「……ななつの、たいざい?」僕は、思わず訊き返した。

「ひょっとすると、ハツネの家は、キリスト教徒なのかい?」

 こくり、と頷いた初音さんの顔は神妙だった。

「そうか。七つの大罪について書かれた書物はたくさんあれど、子供に教えるためなのか、言語のニュアンスが少しだけ変わっている。これは、ボクの記憶に鮮明に残っている、おとぎ話なんだ」

「それが、この現実と……?」

「ああ。七つの大罪ってのは、罪そのものというよりは、罪に導く欲望や感情のことをいってるんだ。暴食(ぼうしょく)色欲(しきよく)傲慢(ごうまん)強欲(ごうよく)憤怒(ふんど)嫉妬(しっと)怠惰(たいだ)。世の中の犯罪は、これら人間の欲望から変異していくのが大半だ。それがそのままネズミの名前に姿を変えて、登場している。あまりにもその内容が、この場で起こる出来事と似ていたし、ストーリーがこのバスで起こる予言めいていて怖くなったのは、ボクのほうさ」

 初音さんが不安げに眉を寄せる。

「……テッチとジェラスがバスを降りたら、終わるの、物語は? そのおとぎ話でも、二匹のネズミは、なにもしないで降りてくれるの? わたしたちは、」

「落ち着くんだ、ハツネ」

 不破さんが眼を細めた。「おとぎ話は、残念ながら続く。忘れてないかい? まだ出てきていないネズミ。つまりは、登場していない罪がある」

 はっとした初音さんが両手で口を押さえた。

「……た、怠惰」

「このおとぎ話では、責任逃れをするシャカーっていうんだけどね。続きを読んでくれよ」

 不破さんは、僕らに見せるようスマホを差し出した。手の中にある文章を覗き込む。


『バスには、怒りんぼうのテッチと、やきもち妬きのジェラス、怠けもので責任逃れをするshirkerしかいなくなりました。怠けもののシャカーは、ジェラスにこう言います。「チーズを食べたら、喉が渇くだろ? これを飲みなよ」と、水をくれました。ジェラスは、「ありがとう」と言って、その水を飲み干してしまいました。ところが、』


 と、読んでいたスマホが目の前から消えた。

 手品やマジックではなく、不破さんが有無を言わさず、ポケットに素早くしまい込んだのだ。

「……え? へ、へ?」

 思わず不破さんを見る。視線が斜め上を見ている。なぜか、黒猫が横切っていくような不吉な気配と予感がして、ゆっくり顔をあげた。

「さっきから何コソコソやってんだ、ガキどもコラ」

 目の前に怒りんぼうのテッチか、やきもち妬きのジェラスかもしれない、痣も、メイクも、服装も、真っ黒なゴスロリの女が日傘を肩口でくるくる回しながら睨んでいた。黒い衣装に身を包んだ雪女のような冷たさと怖さを感じた。

 ここは、走行中のバスの中。完全に八方ふさがりだ。桜井コウタ、ピンチなう。

読んでいただき、ありがとうございます!

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