守銭怒
あァ、これで初音さんの連絡先をゲットする手段がなくなってしまった。とほほ。
僕は落ち込みながら、オニオンミントクッキーを入れていたナイロンのレジ袋にスマホを放り込み、左側通路をふてくされながら進んだ。
列ごとに携帯電話を取り上げられることになったのだ。
あの坊主頭のヤクザ屋め。どうしてくれるんだよ、一体。テストの答案用紙を集めるんじゃないんだからさ。
ダッフルコートをひざ掛け代わりにしていた愛しの初音さんが、レジ袋の中に携帯を入れた。そばを通ると、何とも言えない甘い香りが鼻腔をくすぐる。スマホのケースは、かわいいキャラクターがついていて、袋の中で僕のスマホと抱き合ったように見えた。ちょっとだけ、えへへ。
7B席のカラフルなマフラーをした痩身の男性は、スマートフォンを指でつまんで高く持ち上げていた。ぽい、と袋の中に落として、興味なさげに文庫本を読み直した。
5B席の鮮やかな緑色の髪をした豹柄の毛皮を着た女性も、素直に携帯を入れてくれた。拾った果物ナイフがでてきたらどうしよう、と頭の隅に過ぎったけれど杞憂に終わり、ほっとする。
4B席は、現在バスを支配しているヤクザ屋さんだったから、その前の3B席へ。顔を蒼白く凍りつかせたサラリーマン風の人が、渋々ながら携帯を差し出す。これで僕の列は終了。
「そこに置いとけや、バカヤロウ」
ヤクザ屋さんが、1B席を刃物で指す。
あまり近づかないように、腕だけ伸ばして放り投げた。恐ろしくて眼も合わせられない。とりあえずは言うことを聞いていれば、危害は加えられないだろう、などと漠然と考えていた。すぐさま、後ろへ戻る。
通路途中では、不破さんが携帯を集めて歩いていた。僕のようにレジ袋で回収している。すれ違い様、不破さんは、困ったね、といった表情で肩をすくめた。
反対の通路では、グレーのパーカーを着た中性的な人が携帯を集めている。俯き、マスクとフードで顔が隠れていて、またしても顔を窺うことができず、男なのか女なのかも、やっぱり分からなかった。
僕は、一度だけ後部座席に向かいながら、進行方向の前方を振り返った。
オレンジ色のダウンを着た美容師が、床を血で濡らし倒れ込んでいる。まだ生きているとは思うが、あの様子だと死んでしまうかもしれない。
最初のバスジャックをしようとした藍色の目出し帽を被った小太りな人も、ステップの影に倒れ込んだまま動かない。ひょっとしたら、もう絶命しているのではないか。
ヤクザ屋さんは、アタッシュケースを大事そうにぶら下げ、節分の豆で追い出されないように棲みつく鬼が如く、睨みを効かせている。
これで、乗客から警察への通報はできなくなった。
暗い未来へ走り続けるドリーミントオホーツク号。
僕は、初音さんは、どうなってしまうのだろうか。僕と初音さんは、あの転がった二人のように刺されてしまうのだろうか。
不安や心配が、ドカ雪みたいに明るい未来と希望を一気に塞いだ。僕は席に着くと、深いため息をついた。
「おうコラ、運ちゃんよう」乗客を睨みながら、運転手にヤクザ屋さんが声を投げる。「確か、あれや、行先の表示板にSOSゆうて知らせることできるはずやろ」
えッ、と焦りの表情を見せた運転手が、横目でハンドルを握っている。「わし怒らせることはせんことやな。無線連絡もすなや。わかっとるやろ、バカヤロウめ」
「あァ」
「なんや、その態度はバカヤロウ! 返事は昔から、はい、と決まっとるやろがい」
「……は、はい」
運転手は素直に従う。頬の先には、血で濡れた長い刃物がチラついている。
「そういや、おんどれは、プロレスラーで一番強いヤツ」と、ヤクザ屋さんが運転手に話しかけたところで、不破さんが隣に座った。
「なんだか、大変なことになりそうだ」
まったくもって、そんな風に見えない。どこか楽しんでいるようにも見える。
「(……不破さん、ちょっといいですか)」
初音さんが前方を窺いながら、後ろを向いた。横顔に不安な影は落ちているが、可愛いものは変わらない。とてもまつげが長く、白い肌がもちもちしている。
キュートな小声で、僕の隣に座る不破さんに顔を向けた。僕が伝言してもいいよ、うん。
なんだい、と不破さんは顔を寄せた。こらこら、顔が近すぎるよ!
「(……あの、不破さんが言った、そのう、予言のことなんですけど)」
もう一度、前を窺う。ヤクザ屋さんは、なにやら運転手と話し込んでいる様子だった。小さくキュートな声が僕の耳をくすぐる。「(これから、どうなるか、そのう、わかりますか? わたし怖くて……)」
小さく震える初音さんは、微かに怯えているようだ。
しーッと指を立てた不破さんは、周りを気にするように首を振った。
「(イッツァライ。それよりも、予言に近いのかも知れない、さっきのおとぎ話。『太っちょファット』の続きだ。聞いてくれるかい?)」
思わず、ごくりと生唾を呑んでしまった。It’s alrightの発音もかっこよすぎて、どこか真剣みに欠けてしまうんだけど。初音さんも耳を寄せた。
「『ネズミたちが乗り合わせたバスの中は大騒ぎ。そんな中、女の子が大好きなラストゥは、そこに乗っていたきれいなアバリティアに、一目惚れしてしまいます。あまりにきれいだったので、ラストゥは、アバリティアに抱きつこうとしました。ところが、威張ったチェスティが、とつぜん怒り始めました。「アバリティアは、僕の友だちなんだ。変なことをするな」といって、ラストゥを刺してしまいます』」
こくり、と頷いてしまう。
話は、さっきまで起きた出来事と似ている。
ファットは、一番最初の太った目出し帽の犯人。ラストゥは、まるで倒れている美容師で、チェスティは、きっとヤクザ屋さんだ。アバリティアらしき人が、緑色の髪をした女性なのだろうか。
だけど、疑いたくもなる。
このバスに展開した流れを見て、即席で創作したように思えた。予言ではなく、帳尻を合わせたホラ話にも、うそぶいているようにも思えるのだ。
初音さんも怪訝に思っているのだろう。頷きもせず、真剣な眼差しを不破さんに傾けている。
「(きっと君たちは、こう思っているだろう。ボクの予知能力はまがいもの、この不思議なおとぎ話も、ボクのでたらめな作り話じゃないかってね)」
予知能力で考えていたことを見透かされた気がした。
「(でもね、話は、こう続いていくんだよ)」
不破さんは笑顔を絶やさず、子供が無邪気に笑うよう見えた。
「『威張ったチェスティは、大きなチーズを持っていました。きれいなアバリティアは、助けてもらったのにも関わらず、友だちのチェスティが持っている、大きなチーズが欲しくなりました。とても美味しそうなチーズを独り占めしたくなった欲ばりなアバリティアは、威張ったチェスティと、ケンカをしてしまいます』」
内容はどうあれ、読み聞かせをするように、語句をはっきりと区切りながら、穏やかにゆっくりと話してくれた。
「(ケンカ? それがこれから起きるってこと?)」
「(もうちょっと聞いてくれよ)」
不破さんの眼が、くるりと違う色に切り替わったよう思えた。
「『欲ばりなアバリティアは、ラストゥが落としたナイフで、威張ったチェスティを刺して、持っていた大きなチーズを奪ってしまうんです』」
『……え?』
またしてもふたり同時に、声を出してしまった。途端、
座席の真ん中あたりの人が大きな声をあげた。
「あんたにとってのベストバウトは、なんだい?」
車内がその声で、ずんと重く淀んだ空気に呑みこまれた。 バスはずうっと走行しているのにも関わらず、感じたことのない不穏な空気が時間を止めるようだった。
不破さんが指を口の前で立てて、顎を引き、背もたれに身体を預ける。
立ち上がり、声を発したのは緑色の髪をした女性だった。シートからぽっかりと浮かぶ鮮やかな緑が、車内の蛍光灯で異様に光り輝いて見えた。
「……誰だ? 手前ェ」
「コガネムシ、て知ってるかい?」
突然のことだったけれど、僕は知っている。
自然界ではあまりに目立ってしまうような、鮮やかな玉虫色をした昆虫のことだろう。小さい頃、昆虫採集をしているとカブトムシのメスかと思い、飛びつくと大抵がっかりしたものだ。
だけど、今はそれどころじゃない。
不破さんが話すおとぎ話からすれば、欲ばりなアバリティアが出てきたのではないか? アバリティアが豹柄の毛皮を着た女性? コガネムシって急になに? 僕の背筋に、ざわざわと虫が這っていくような錯覚がして、肌が総毛立った。
緑色の髪をした女性は、豹柄の毛皮をなびかせ、ゆっくり前へ出ていった。ヤクザ屋さんは警戒し、刃物を向ける。
「ア? なんだ手前ェは。出てくんじゃねえよ、バカヤロウ」
ヤクザ屋さんが、吼えた。
「生きてくのにド派手な恰好してりゃ、外敵から身を守れることを知っている、利口な昆虫さ。そいつは人間も変わらないようでね」
「だから、手前ェは誰だっつってんだろ、バカヤロウ」
「こんだけ派手に化けたら誰も寄りつかないし、知り合いだと思わないのよねえ」
後ろ姿だが、サングラスを取って見せたようだ。「コガネムシは金持ちだ。そんな童謡も知らないのかい? 松田ちゃん」
動揺と驚きを隠せないヤクザ屋さんが、細い目を丸くした。「なッ! ポ、ポッキーか?」
「これだから、まったく、男って奴は困ったもんだよ」
「待て、待て待てマテ……、そうだ、お、お前の顎の、あァ顎のほくろがねえじゃねえか、バカヤロウ」
「ほくろ? あんなもの毎回、描いてたに決まってんじゃないのよ。女は化けるのよ、まるでアメリカのセックスシンボルみたいだったでしょ?」
「げ……、げ、元気ですかァ?」
「何言ってんのよ、あんた」
タイトなミニスカートから色っぽい網タイツが伸びている。でもなぜか、靴はスニーカーといったアンバランス感。 奇抜な都会のファッションは、僕には分からない。腰をくねらせる仕草に、なぜか不吉な予兆を感じる。不破さんのおとぎ話と、所持しているはずの拾った果物ナイフ。
粘っこい生唾を呑みこむと、脂汗がじわっと滲んできた。
「灯台もと暗しなんていうけど、照らした場所もよーく見てみないとね。上辺だけ、格好だけに騙される男ってのは本当にバカよねえ、うふふ、どんだけよ」
ヤクザ屋さんが、息を呑むのが分かった。
豹柄の毛皮が、じりじりと歩幅を詰めていく。立ち止まったかと思うと、乗客のほうを見渡し、にんまりと笑った。どこか夜中に見る日本人形のような怖さがあった。
「で? 約束はすっぽかして、組の若い衆は見殺し?」
「……どうせ、殺すんやろがい、バカヤ、」
「あたしが?」
両手を広げ、かなり大げさに見えるそぶりで、ミュージカルのような演劇を見ているようだった。「なァんでえ、そんなことしなくちゃならないの? あたしは約束を守れって言ってるだけでしょん?」
「ふ、ふざけんな、ボケェ」
ヤクザ屋さんの額が、うっすら汗で濡れている。「手前ェのやりそうなこたあ、分かってるんだバカヤロウ。いよいよ、このカネも狙いにきやがったのか。ふん、わしを殺しでもしねえと、こいつァ奪えねえぞ」
銀色の鎖で繋がれたアタッシュケースを見せる。どうやらお金が入っているようだ。
それで大事そうにしていたんだな。あれだけの大きさなら、相当の大金が詰め込まれているに違いない。僕は固唾をのんで見守るしかなかった。
「あんた、昔は、無鉄砲なヒットマン、のドライバーだったんでしょ?」
なぜか、プッとクラクションが鳴った。
「うるせえ、バカヤロウ」
「あんたの好きなプロレスのベストバウトって、なによ?」
「ア? そら、決まってんだろが。ストロング伊達が三冠王者になった時の、」
「あら? 赤いパトランプよ、警察かしら?」
咄嗟に、ヤクザ屋さんはバスのフロントガラスを振り返った。確かに、暗くなった外の景色に、赤い線が走って見えた。誰かが警察に通報していたのか。
後ろを向いたヤクザ屋さん。その隙を逃さなかったのは、緑色の髪をした女性だった。
毛皮のポケットから、瞬時に果物ナイフを取り出すと、後ろからヤクザ屋さんを羽交い絞めにして喉元に突き立てた。素早く無駄のない動きに、躊躇いなど微塵も感じ取れなかった。
「あれはな、高速道路のパトロールカーだ。かしら、と言ったろうが」
「……だ、騙しやがったのか」
ヤクザ屋さんが、刃物をくるりと手の中で返し、逆手に構えた。
「なに言ってんだい? 人を裏切って、勝手な絵を描いてたのは、あんただろ。それに、」
「お、落ち着け、ポッキー。刃物を、」
豹柄の毛皮が逆立っているようにも、燃えているようにも見えた。拾った果物ナイフが蛍光灯の光に反射し、天井に凶刃の線が映る。
「ベストバウトは、北斗晶対神取忍。歴史に残る女子プロレスの名勝負だよ。お互い血みどろになった、いいデスマッチだった」
豹柄の女性が、腕を真横に素早く引いた。
ヤクザ屋さんの刃物を握った右腕が空振りして、空気を切る。音もなく、フロントガラスが鮮血で真っ赤に染まった。
やられたのは、喉元を切り裂かれたヤクザ屋さんだった。
悲鳴が轟き、車内の空気が揺れる。
僕は思わず立ち上がり叫びそうになったけど、目の前のことが信じられなくて、あ、も、い、も出ず、呼吸を維持するのがやっとだった。
どさッと力なく倒れたヤクザ屋さんを見下ろしながら、豹柄の女性は気味悪く笑っていた。その姿が恐ろし過ぎて、僕は凍りついてしまった。初音さんは、顔を覆い、背中を震わせている。
「ちょいと借りるよ」
ヤクザ屋さんが持っていた刃物を奪ったかと思うと、アタッシュケースを握っている腕を地べたの床に伸ばす。ちょうど腕時計のようにはめている手錠の下に刃物を当て、力強く思い切り踏んづけた。見ていた乗客から黄色く高い悲鳴と、ごりっといった骨を砕く低い音が、同時に聴こえた。豹柄の女性は、何度も刃物の背を踏んだ後、しゃがみ込むと皮膚を切り裂き、ヤクザ屋さんの手を切断した。
おぞましいトラウマになりかねない光景も、なぜか釘づけになってしまい、人間の手が離れる様を目撃してしまった。ヒーターで乾燥しているはずの車内が、じめっとした湿地帯で置き去りにされたかのようになった。
「あたしを見くびると、こうなるんだよ」
そう言ってヤクザ屋さんに繋がれていた血まみれのアタッシュケースを手にして、乗客に顔を向ける。悲鳴は誰も出せない。それほどの惨状に、まずは自分の身を案ずる。
「おい、運転手。黙って、このままバスを走らせな」
指示に従った運転手は声を発せず、返答代わりにクラクションを軽快に鳴らした。
「全員、カーテン閉めな!」
綺麗な顔立ちのはずなのに、僕には仮面を被った醜い人形のように見えた。
もう人間のすることじゃない。路上に落ちた真っ赤な手袋のように転がっている手が、惨劇と現状を思い知らせる。
僕の平々凡々と過ごしてきた日常をひっくり返し、踏みつけられている。踏みつけた上で、更に地面にめり込ませようと、重くて固い岩が圧しかかってくるようだ。雪が降っていたはずなのに、叩きつける氷のような雹が降ってきたようだった。
「そうだねえ、あんたらからもカネを頂こうか。所持金全て出しな。1円足りとも手元に残すんじゃないよ」
震えながら、初音さんが顔を出した。「……不破さん、どうなるの? わたしたち」
「大丈夫。必ず生きて、このバスから降りられる」
そう励まし、頬を緩めてみせる不破さんは、左ポケットからスマホを取りだし見せてくれた。
あー、ずるい!
きっと自分が回収係だったのをいいことに提出しなかったんだな。てか、そうか。僕も素直に提出しなければ、初音さんの電話番号やLINEも教えてもらえたんだ。なんてこった、とほほ。
不破さんはそれで、警察に連絡してくれるのかな。不安で、もう怖くてしょうがないけど、それは初音さんも一緒なんだ。僕は男だし、ここはいいところでもみせなきゃな、なんて、あまりにもできもしない楽観的で呑気でいて変なことを考えていた。
「ハツネ。ボクとコウタは、もののふなんだ。知ってるかい?」
不安げに首を横に振る初音さんに、革のジャケットをめくって見せた。「もののふってのは、昔でいう『武士』のことだ。ボクとコウタがついていれば、大丈夫。ハツネは絶対守ってあげるよ。な、コウタ」
「そ、そうだよ。初音さん、大きなバスに乗った気持ちでいてくれ!」
「……桜井くん。それを言うなら、船でしょ」
桜井コウタ! もはや武士の恥。切腹せよ! とほほ、でも、僕はまだ死にたくありましぇん!
「あのおとぎ話も、まだ続きがあるんだ」
不破さんは笑顔で励ましてくれたけれど、眼は笑っていなかった。
吹雪をもたらす巨大な勢力を保ったままの爆弾低気圧が、バスの天井に張り付き停滞している。
読んでいただき、ありがとうございます!