予知寓話
例えば、海外のメジャーリーグをテレビで観戦していて、突然乱入するストリーキングがグラウンドを走り回って、試合を一時中断させている。それぐらい俯瞰し、客観的にしか思わなかったし、まったくもって現実味を感じることができなかった。
僕は、バスジャックが起きたことにもびっくりして、立ち上がって叫んでしまったけれど、不破さんの予感のような予言のほうが驚き、正直怖かった。
それは、最初の犯人が刺され、違う犯人が出てきた事よりも、初音さんの胸元が大きく開いていて、立った拍子に上から見えた白い肌の向こう側、僕にとっては永遠の憧れおっぱいが見えそうだったことよりも驚いた。
それほど動揺していたんだろうし、ビビってしまった。
僕の平凡なわずか十七年の人生で、これほどの現実を目の当たりにしたことがない。刺激というよりは、衝撃だった。
きっと乗客も同じだったんだろう。車内は、静まり返っていた。
バスは減速することなく、白い世界で埋め尽くされた高速道路を走っている。ちょうど、野幌パーキングエリアに併設された北海道で展開するコンビニ、セイコーマートの看板のオレンジに白抜きされた鳥が通り過ぎていくのが見えた。
不破さんに訊く。
「……こ、これ、ど、どうしたらいいんですか?」
うん、と前方に立つ犯人を一瞥して、僕に向き直る。「なるようにしかならないだろ。動くなって言うんだから、しばらくはじっとしていようよ。あまり犯人を刺激しないほうがいい」
落ち着き払った不破さんに、どこか疑心のような違和感を感じる。
「……ひ、ひょっとして、まさか不破さんって、共謀している犯人の仲間か、」
「おいおい、まさか」
突拍子なく驚いた後ほころぶ笑顔に、不穏だったり凶悪な面影は見当たらない。「もし、最初の犯人と共謀してるなら刺されてしまったじゃないか。その時点で、あそこへすっ飛んでいくのが普通だろ? ボクには、予知能力があるって言ったじゃん。これで信じてくれるかな」
さらに、左手を添えて僕に耳打ちする。「(コウタが、ハツネを好きなのも知ってたろ?)」
軽いウィンクで返され、僕は顔に火がついたように黙り込んでしまう。はは。
「……でも、二人目が出てくるとは思わなかったな。まあ、どうなるもんでもないし、こんなトラブルも楽しもうよ、せっかくなんだから。まずは大人しく観察でもしよう」
まるでバナナを持参して、遠足にでも出掛ける低学年の小学生のようだ。足を組み席から半身乗り出す態勢で、左指が肘掛けの上でリズムをとっていた。無邪気になれる神経が、さっぱりわからない。
首を伸ばし、こっそり二人目のバスジャック犯を覗き見てみる。
髪形やダウンジャケットの色は若作りしているような感じだけれど、口髭を剃っていなく、だらしない感じがする。
どこか怯えていて、思い描いていた凶悪な犯人像とは少し違う。そうだな、お爺ちゃんが遊園地で初めて乗るジェットコースターの順番待ちをしているような無謀さと、ラーメンを頼んだのにカレーライスが出てきて泣く泣く食べているような無念さと、もうどうにでもしやがれ、と羽を掴まれ、もがくこともできないモンシロチョウのような無気力さが滲み出ている。
まるで、女性がパーマをかけてお金も払わず逃げていかれたカリスマ美容師のようにも映る。
「……み、みさぎ! そこに居るのは、オメ、お前だべ」
カリスマ美容師がサングラスを外して、中ほどの列に果物ナイフを向けた。
「ん、なんか始まるみたいだよ」
身を乗り出した不破さんが背すじを伸ばした。なんだか、ここまで楽しんでるようだと不謹慎に思えてきた。
誰も声を出さず返答がない。みさぎさん、はいないのか。
「……そ、その、緑色の髪した女! それは、その髪はウィッグだべ。ワ、ワには分かんだ、ワはこれでも、び、美容師だべさ!」
美容師? なあぁあああにいィ? 当たってしまったじゃないか。
ひょっとして、僕にも超能力が?
それなら、初音さんと付き合いたい。超能力でなんとかならないものか。よし、初音さんが僕を好きになるように念を送っておくか。ひょっとすると、もう好きでいてくれたりなんてことはないか? えへへって、それはないな。こんな時に調子に乗ってしまった、自粛。
初音さんの姿はシートに隠れて見えない。
緑色の髪をした女ということは、中央のB列に居た人だ。
まいまい推しだろうと勝手に思った、豹柄の毛皮を着た女性のことだろう。一際目立つ髪形と毛皮には、度胆を抜かれたから忘れるはずもない。その女性も高いシートの背もたれに隠れて、ここからじゃ見えない。
「こ、答えれや、おい、みさぎ!」
ナイフをぶるぶる震わせ、蒼白い顔になった美容師が叫ぶ。緑色の髪をした女性は動かない。ふたりになにがあったのだろうか。
「……コウタ。こんな時に、またなにか思い出してるのかい? にやついてるよ」
不破さんがいらないところで、また邪魔をする。「……ま、まさか、笑ってなんかいませんよ」なぜか頬が緩みっぱなしなのに気が付いた。えへへ、ばれました?
「いいや。はは~ん、さては、ハツネのこと、」
「うわああぁあああぁア!」
僕は思わず叫び、また立ち上がっていた。乗客の視線が、くるりと後ろの僕に集まる。
美容師のバスジャック犯も僕を見つめ、不思議そうな顔をした。すぐさま不破さんの手が伸びてきて、ジャンパーの裾を引っ張られ、シートに腰を降ろされた。
不破さんは、指を一本伸ばし僕を静止させ、声を殺しながら囁いた。
「(落ち着けよ、コウタ。犯人を刺激しないことが、こういう時には肝心だ。どうやら犯人はバスジャックが目的ではない気がする。このバスに、ロマンスの相手が乗っていて、探しに来たようだな)」
「……す、すいません」
とりあえずは謝るけど、不破さんが変なこと言うからじゃないか。できれば犯人にも謝りたいくらいだ。とほほ。
「……そこ! う、後ろのふたりだ!」
バスジャックの犯人が、果物ナイフで僕らを指してきた。「うっせえど、し、静かにしてろ!」
心臓が身体の外に出てしまうかと思うほど、びっくりした。このバスは、占拠、立てこもり、ジャックされているんだ。
なんだか不安や緊張感が、まったくなかった。それは、僕たち乗客を静かにさせるだけで、脅迫めいたことがなかったり、目的がはっきりしていないことからきているのかもしれないし、初音さんがそばにいることのほうが重要だったり、不破さんがふざけていたり。
美容師の犯人は、『みさぎ』という緑色した髪の毛の女性と話したがっているだけ。
それにしては、随分と大がかりで物騒なことをするもんだ。不破さんが犯人に会釈のよう軽く頭を下げ、シートに身体を預けた。僕に向け、舌を出しおどけた。
堪らなくなったのか、美容師のバスジャック犯が一歩、足を進めた。緩やかなカーブにバランスを崩した身体が揺らぎシートにぶつかる。
「……み、みさぎ、なんだべ?」
亡霊のようにふらふら果物ナイフを持ちながら、ぎこちない足取りで通路を進んでくる。少しだけ北海道弁よりもなまっているよう感じる。
緑色の髪をした女性は声も出さず、動かない。
ちょうど彼女の前に立ったあたりで、座席からすうっと腕が伸びてきた。果物ナイフを握った手首を素早く捕まえる。 同時に、その人は立ち上がった。
「待て、待て待てマテ。おんどれは、こんなところで何しとんじゃ、バカヤロウ」
え、と動きを止めた美容師は、凍りついたように固まったかと思うと、次には急激に震えだした。「……な、なんで、こったらとこに」
「仕事じゃ、バカヤロウ」
すぐさま腕を捻り、後ろ手に取り押さえられる。人が通路に出てきて、颯爽とこちらに背中を向け、立ち上がった。
美容師の手首を捕まえたのは、アタッシュケースと手首を鎖で繋げた坊主頭のがたいがいい暴力団らしき男だった。
からんと金属の高い音が鳴り、果物ナイフが落ちた。美容師は狭い通路で、回れ右の態勢になり男の影になる。ヤクザ屋さんがバスジャックを取り押さえたのだ。
そのまま前へ進み、所定の位置なのか、少しだけ広いスペースになっている運転席の隣、1B席の前、乗り口ステップすぐの場所に、美容師を地べたへねじ伏せた。
「おんどれに出しといた宿題は解けたんか、バカヤロウ」
ヤクザ風の男が、学校の先生のようなことを美容師に言った。まさか、美容学校の先生と生徒ではあるまい。束の間、脳みその片隅でツッコむ。
「……ば、バカこくな! 離せ、ワの人生をめちゃくちゃにしやがって」
「わしのせいにしてんじゃねえ、バカヤロウ」
ヤクザ風の方は、右腕一本で腕を固定し、堅そうな靴裏で頭を踏んづけている。「女にうつつをぬかした、鈴木。お前の自業自得っつうやつや」
「だから、みさぎには、女には手も足も出してねんだよ!」
「知っとるわ」
「……え」
言葉に詰まった美容師に、低くしゃがれたダミ声を浴びせかける。「だから、なんだバカヤロウ。わしらの仕事にケチつけんのか、バカヤロウ」
どうやら知り合いだったらしい。
一件落着、いいや、二人目の犯人を取り抑えたんだから、二件目落着かな? ああいった怖いお方が、こんな場面で救ってくれるなんて。
これで落ち着いて北見へ帰れる、うん。桜井コウタ、それでは初音さんとのエンジョイトークといきますか。えへへ、からの、むふふ。
「(コウタ)」
不破さんが、笑顔で顔を寄せてきた。「(突然なんだけどさ、面白くて不思議なおとぎ話を思い出したんだ。ハツネと一緒に聞いてくれないかい)」
初音さんと一緒? もちろんです。「……え、うん」
不破さんはそう言うと、初音さんの脇腹を強めに突いた。
不意な呼びかけに、きゃッと小声で振り向くと、しーッと指を立てる。そんなことなら最初からしなければいいのに。前の状況を確かめるように、一度首を伸ばし、顔を寄せるよう手を振る。
「(実はね、ふたりに聞いてほしい、不思議なおとぎ話があるんだ)」
え、と初音さんが小さな顔と小さな声で訝しみ驚いている。
僕も、こんなときに一体どんな話なんだろう、と思いながらも両手で口を塞いでいた。また声がでちゃって騒いでしまうと困るからね。
「(……って言うのもね、驚かないで聞いてくれよ)」
不破さんが、ちらっと前方を覗く。前では、美容師がヤクザ屋さんと話し込んでいる。決して談笑している雰囲気ではないけど。「(なんだか、そっくりなんだよ)」
「(そっくりって……?)」
初音さんの顔には、興味のほうが浮かんで見えた。こんな時なのに、まったくもう。
「(これから話す、『太っちょファット』って話だ)」
僕も、初音さんも、真剣に耳を貸し、清涼菓子を放り込んだ後のような爽やかな息と共に出てくる、おとぎ話とやらを聞くことにする。
「(いいかい?『昔々、あるところに、太っちょのファット、というネズミがいました。ファットは、お母さんのところへ帰るのに、バスに乗っていました。バスに揺られていると、太っちょファットのお腹が、ぐうと鳴ってしまいました』」
出だしから、まったく聞いたこともないおとぎ話だ。
不破さんは、真剣な眼差しで僕らの顔を交互に見ながら、声を殺し、幼い子供を諭すよう話し始めた。
そう聞いた瞬間、僕の腹が鳴った。
不破さんと初音さんが、同時に僕を見る。その後、打ち合わせでもしているかのよう、ふたり同時に前を窺う。振り返った初音さんが、くすりと小さく笑った。顔から火が出るほど恥ずかしい。座席の前ポケットに入れてあるオニオンミントクッキーを慌てて放り込む。
桜井コウタ、緊急事態発生! おい、長官! 速攻でお腹まで届けるように! かしこまりました。
不破さんは、何もなかったかのようにこそこそと話を続けた。
「(太っちょのファットは、コウタのように、お腹がすいていたのかもしれません)」
不破さんは、いたずらな顔をしてウィンクした。初音さんも、にっこり微笑んだ。好きな人の前でいじらないでくれよ。とほほ。
「『ファットは、一緒のバスに乗っていたネズミたちに訊ねました。「だれかクッキーでも持っていないかい?」誰も返事をしません。太っちょファットは、みんな嘘をついてるんだと思って、運転手にいいました。「スーパーマーケットに寄って、チーズを買っていこう」しかし、このバスはスーパーマーケットになど寄りません。すると、隣に乗っていた、女の子が大好きなラストウが立ち上がり、「ボクは、お腹なんかすいていない。女の子とデートしに行くんだから、じゃましないでくれ」と、太っちょファットを、持っていたナイフで刺してしまったのです』」
「……え?」
僕は抑えきれず、またしても声をあげてしまった。
「んァ? なんじゃ」
ヤクザ風の男が、バス前方で後ろに振り返った。不破さんに口をふさがれる。
美容師の腕を振り解いたと思うや、ヤクザ屋さんは脇腹に思い切り蹴りを入れた。「さっきから、うるさいガキやの。しばかれたいんか、バカヤロウ」
こつん、とヤクザ屋さんの堅そうな靴が後ろの席のこちらに向く。
や、やばばばばばああァ!
僕は、座席で小さく丸まり、寒さに震える小鳥のよう縮こまった。初音さんも、不破さんも、顔を引っ込めた。途端、 美容師の叫び声が聴こえ、ごつん、どさッ、といったなにかが倒れたような音が聴こえる。
恐る恐る、怖いもの見たさに顔を横に出してみる。
席のほとんどが頭を出していた。初音さんも。緑色の頭は出ていなかった。
「だ、バカヤロウ!」と、ヤクザ屋さんが下になり、美容師ともみ合っていた。
「おだづなこの、もうワは引き返せね! 人を刺しちまったし、バスジャックもしてしまった。オメを道連れにして、警察に出頭してやる! 逃げるは恥だが役に立つべ」
美容師は泣いているようだった。
「だコラ、離せ、バカヤロウ」
ヤクザ屋さんは、右手一本で下から髪を鷲掴みにしている。
「うらせえ! 世界は終わるんだ。どうせ全てが終わりなら、オメも終わらせてやる!」
頬や瞳が涙で濡れ、めちゃくちゃに腕を振るっている。
「……こ、この野郎」
ヤクザ屋さんが、掴んでいた手を離し、後ろに腕を回すと、すぐさま突き上げた。
そんな時、誰も注目していない通路に転がっていた果物ナイフに、手が伸びてきた。
ちょうど真ん中あたりに落ちていた、美容師が持っていた鞘ケースのない、血のついた裸の果物ナイフを素早く拾ったのだ。
僕は、見ていた。いいや、その後ろにいた人たちは、みんな見ていたはずだ。
拾う指先が、豹の頭部のように見え、果物ナイフを咥えたようにも見えた。身体をもたげ、頭も瞬間出てきたが、見間違いなどする訳もない。他の人と種類の違う、緑色のボブヘアーが飛び出して、すぐさま消えた。
「ぐあああああァ!」
「世話焼かすんじゃねえ、バカヤロウ」
ヤクザ屋さんが立ち上がり、美容師を見下ろしていた。
左手は相変わらず、アタッシュケースを握ったまま。右手はというと、僕は失神しそうになった。銀色に鈍く光り、表面がぬらぬらした赤い鮮血で濡れている。ヤクザの商売道具、ドスという武器を握り締めていた。刃が長く、刺されたらと想像するだけで膀胱がきゅっと縮こまった。
美容師は丸まりながら腹を抑え、断末魔のような叫びをあげ、右に左に痛みが散ればいいと転がりながら悶絶している。
「(……ヤバいね、どうにも)」
声は不破さんで、言ったかと思うとすぐさま身体を窓側にくっつけ、おどけた顔をして僕に笑った。とてもじゃないけど、僕は笑えない。
「ったく、とち狂いやがって、バカヤロウめ」
ヤクザ屋さんは、そう吐き出したかと思うと、美容師に唾を吐きかけた。「いいか、冥土の土産に教えたるわ。お前が惚れたっていう、美咲。あれはな、ポッキーゆうて、わしらの業界じゃ有名人じゃ。今回、お前の仕事を依頼されたんだよ。じゃけえ、わしの女なんぞ、ひとこともゆうとらんやろが、気色悪い」
美容師は、仰向けにゆっくり首をもたげ、振り絞った声を出した。「……ポ、ポッキー? ワ、ワが飼ってる犬と同じ、名前だべや」
「なら、よかったのう。男を喰いもんにしとる悪い奴っちゃ。あんな改造野郎のどこがいいんだか。バカヤロウ」
「……な? か、改造?」
「ええか、耳かっぽじって、よう聞け」
ヤクザ屋さんが、鋭い眼光で乗客を一睨みした。静まり返った車内では、声がよく通り聞こえる。「あいつ、ポッキーはのう、全身整形の化けもんや。整形なんて甘っちょろいもんちゃうで。改造や、改造人間。歳は、五十をゆうに超えとるって話や」
「……や、やくと、だ」
美容師は声にならないようだった。
「しかもな……」ヤクザ屋さんはしゃがみ込み、もったいぶる素振りで、いたぶるようにあざ笑った。「元、おとこやで」
「……やくと、だべ?」
「なにを焼くやと?」
「う、うそだろって、訊いてんだ」
「おんどれに嘘ついて、なんの得もねえだろが、バカヤロウこんにゃろうめ」
「み、みさぎ、女じゃねえってよ、てか」
がくっと力が抜け、頭を床に打ち付けた美容師を見届けるかのように、ヤクザ屋さんが立ち上がり、ドスをかざして乗客のこちらへ向け叫んだ。「プロレスのベストバウトが何なのか、こん中で分かる奴おるかァ?」
女性の悲鳴と、男性の息を呑むのが、車内に小爆発を起こしたかのように広がった。
なんだか、ヤクザ屋さんの訛りがめちゃくちゃなのも気にかかる。関西弁なのか、なんなのか。ただ、語尾に『バカヤロウ』と必ずつけるところが、緊張と不安の中、ちょっとだけ可笑しかった。
「サツに連絡されたら、厄介やさかい。始まりも終わりも、まだゴングは鳴っとらんばい。全員、携帯出してもらうけえのう。後ろから、集めてこんかい、バカヤロウ」
ドリーミントオホーツク号は、毎年、日本海側に発達した低気圧がもたらす豪雪地帯の岩見沢インターを雪煙をあげながら通り過ぎた。
読んでいただき、ありがとうございます!