lust
鈴木 大輔
やってまね(やってしまった)、こんで終わりだ。
いんや、まだ終わる訳にはいがね。逢って話を訊くまで、逢って目を見つめ合い話すまで。終わるのは、まだ早い。
ワは、すすきののニュークラブで知り合った女に入れ込んでいた。自由になるカネもできた四十手前に、自分好みが飲み屋にいただけじゃないか。なんて、軽いもんじゃね。
これは運命なんだ、信じている。偶然でも奇跡でもない、赤い糸で結ばれた運命の出会いなんだから。
このバスに乗り込んだ今も、その気持ちは変わらない。変わる訳がない。
青森は八戸から津軽海峡を越えて、北海大学に進学して、そのまま北海道に移り住んでから二〇年あまり。
独り暮らしも寂しく、ほぼ毎日、外で飯を食い、女に囲まれ、酒を飲む。そこで巡り合った一目惚れの衝撃に、咥えていた煙草を落として固まってしまうほどだった。
離婚して、八年。
若かったとはいえ、ワの浮気で調停にまで持ち込まれ、オガだった女に捨てられた。それはいい。不貞行為の代償は、カネで終わらせることができたんだから。子供はいなかったから、五年の歳月、月八万を慰謝料として毎月振り込んだ。 合計で、五百万弱だ。戸籍が少し汚れただけ、すったらもんだ。人生なんて、いつでも取り返しがつく。
ワはこの時、それくらいにしか考えていなかった。
北海道の短い夏も終わるのに、残暑が厳しくサウナに立てこもり犯が押し入り軟禁された状況が続いたかのような去年の八月下旬。灰色の積乱雲が綿ぼこりのように、真っ暗な夜空を覆い尽くしていた。雨はまだ降ってこない様子だったが、適当な店を見つけ入った。
ニュークラブ『オアシス』そこが、手ぐすね引いて罠が仕掛けてあった蜘蛛の巣だった。いいや、そうは思いたくない。まだきっと嘘だべ、夢だべ。そう信じてる。
ふらりと一人で入ったニュークラブに指名もなく、冷たいおしぼりでべたつく首元を拭う。軽くため息を零し、肩を落とした。
仕事は順調だ。群雄割拠の大通りで美容室『アビイロード』を経営している。
事業を拡大させようと来年一月には、二号店も出店予定。スタッフにも客にも恵まれ、今後は法人化する予定だ。カネにも不自由していない。実のところ、離婚にかかった慰謝料も一括で払えるほどの預貯金はあったし、年収は毎年売上げと共に右肩上がりで余裕はあった。
住んでいるマンションも広く新しい。二年前、ちょうど慰謝料を払い終わった頃購入した円山の新築物件。3LDKの間取りは一人暮らしには少し寂しいと、犬を飼った。ミニチュアダックスのメス、名前をポッキーと名付けた。一昨年には、車も入れ替えた。4WDじゃないと札幌の冬は過ごせない、ベンツのGクラスを新車で買った。なにしろ謳い文句が、『孤高の頂きへ』なんてフレーズが気に入った。
したけど、なんか足んね。なんも満たされない。
孤高だか孤独だかわかんねえけど、格好つけてみても、心に埋めようもない穴が開いている。
そうだ、女がいない。
側にいてくれる女がいね。愛を語り合い、肌を重ね合い、キスをして粘液の交換をし、ワを包み込むように温かな、若くて艶々した、女が傍らにいない。
「こんばんは」
上品な声が降りかかり、ワは見向きもせず煙草を咥えた。
そう、こんな飲み屋で気を紛らわすしか、手立てを知らない。どうすれば若い、いい女と出会えるのか分からない。水商売で働く女に興味もなかったし、せっかく自由になったワの生活だ。手を出し火傷どころではなく、火だるまになるのは馬鹿な三流の男がやることだと高を括っていた。
「美咲です、よろしく」
灰皿のセットと煙草ケースをテーブルの上に、ことんと静かに置く。
夢か幻を見ているようだった。
隣に座ったのは、ここ最近夢に出てくる女と瓜二つだったのだ。衝撃に、電気のようなものが身体を駆け巡り、脳みそと股間が熱くなった。
二重瞼の大きな潤んだ瞳、鼻筋が通った形のいい鼻の下には、決して厚くはないが薄くもない唇が。陶器のような肌が、嫌みのない笑顔に張り付いている。盛られた髪の色も明る過ぎず、程よい。
なにしろスタイルがいい。ドレスの脇、露出した細い肩から伸びるすらりとした腕、その先の爪も、飾り過ぎず品がある。胸の膨らみ、腰回りはまるで電球のような曲線に、女そのものを感じた。短めのワンピースドレス裾から覗く綺麗な脚線に、うっとりしそうだ。年の功も、三十路手前ってところで、ちょうどいい。色っぽい顎のほくろは、ワを誘っているように思えた。
夢でワを誘惑し、熱い抱擁をした後、どこかへ消えていく。
どこか人間離れした、そう、血の通っていない人形のような。夢だからか。だけど、こんな女なら騙されたっていい、こんな女を抱けるなら。夢を見るたび、いつもそう思っていた。いいや、もはやワの理想が夢に現れているんだろうな、そう思うほどだ。。
それが現実の世界、目の前に座っている。ほぼ一方的な一目惚れだった。
『孤高の頂きへ』が聞いて呆れっぺな。理性や欲望を抑えることなんて出来なかった、そんなこと無理に決まっていた。 それからの時間は覚えていないほど。必死で面白い話をしておだって笑わせ、ワ自身を売り込み口説いた。
美咲は、よく笑い、よく話を聴いてくれ、よく頷き、ずっとワの眼を見てくれていた。
その透き通ったガラス玉のような眼で。時折、無表情のような無感情の作り物じみた顔が、余計に心を撫でまわした。 ボーイが来ても延長で側に居させた。
甘い香水の匂いは、甘いお菓子を食べたくなる衝動と似ている。食べてしまいたい、骨まで噛み砕いて、ワの一部になって欲しいとさえ思う。結局、閉店時間まで美咲を口説いたが、無理だった。アフターをせがんでみても、のらりくらりと断られてしまった。
だが、今日のところはいい。
次行った時には必ず落とす。たとえ男がいたとしても、抱いてやる、口説き落としてやる。次も駄目なら、その次。その次も駄目なら、いいと言うまで。
必ず。美咲、お前をワの女にしてやる。ワが惚れた女だ、美咲も惚れてくれるだろう。いいや、惚れさせてやる。こうなりゃ、口八丁手八丁だ。
きっとあれだ、穴があったら入りたいってことわざは、絶対男がつくったに違いねえ。意味はなんだった?
ま、どうでもいいべ。
ワは絡まった蜘蛛の糸にさえ気づかず、さも自分が蜘蛛にでもなったかのように、その店へ通い詰めた。
いつも美咲は笑顔を絶やさなかったが、首を縦には振らなかった。それは仕方ない。簡単に落ちる女も面白くない。口説いている時間が楽しい気さえするが、我慢の限界も近い。 カネをチラつかせる。「月二十万さ、愛人になってくんね」
あからさま過ぎたか、美咲は一瞬、眉根を寄せた。
ワは必至にアピールした。カネのことを言ったのは単純に糸口、ワはそこら辺の男と違う、本当に美咲を愛している、なんだったら全財産くれてやってもいい。
「……少しだけ考えさせて。ダメ?」
「ダメな訳ね。ずっど待ってら。いんや、待ってもられね。したところで、美咲がどっかの誰かを好きになっちまったら困るのは、ワだでね。来週、返事訊かせてくれ」
うん、と笑った美咲の顔の裏を覗ける手段など知る由もなかった。知る筈もない。男は女に対する恋や愛を、やりたいことと勘違いする生き物らしい。分かってはいても引き返せない。自覚もしてるさ、愚かな生き物、男。そして、ワだってね。
クリスマスイヴの朝。美咲からLINEが届いた。
『今日は、鈴木さんと一緒に過ごしたい』
ほら、来たべ!
クリスマスなんてロマンティックな日を選んでくるあたり、美咲の本気度が窺えるじゃないか。ん? そういえば、誕生日がこの日だと言っていた気もする。すると、よっぽどな日だべ。美咲、やらしてくれるってよ。
ワは、すぐさまJRタワーにあるイタリアンの有名な店を予約した。
店は、どこだかで修行したシェフがいるとかいないとかで、毎日行列を成すようなところらしく、クリスマスは予約で一杯だったが関係ね。席のチャージ代として三十万、その店で一番高いワインを、と言うと受付けの女は掌を返したように、お待ちしております、ご機嫌に電話口の向こう側で頭を下げた。
ホテルも予約する。もちろん、ラブホテルなんて使わない。
マンションへ連れ込んでも良かったが、雰囲気は大切だ。 最初の逢瀬に、どっかの知らねえ馬だかポニーだかエゾ鹿だかみてえに小汚ねえ奴が使ったベッドを使うなんて、プライドが許さないし、女に失礼だろ。ま、結局はどんなホテルだって、そもそもそんな場所か。安易に納得し、でかくて広いベッドがあるホテルをネットで検索して、片っぱしから電話した。レストランのような訳にもいかず苦労したが、駅前のホテル最上階が空いていた。イタリアンレストランと近く、移動距離がほとんどなく都合がいい。
美咲の電話番号は知らなかったから、札幌駅北口に十九時、とだけ待ち合わせを伝えるLINEを送った。
ポールスミスのスーツに、オレンジのネクタイを合わせた。ワのラッキーカラーは、オレンジ色だ。こんな時だけど験を担ぐのは当然、必要だ。九割九分決まっていることだろうけど。メジャーリーガーでも、そこまで打つ奴なんていねえべ。だが、狩りに油断は禁物。
結局は、男と女。やることも考えてることも決まっている。
待ち合わせの時間になっても、美咲は現れなかった。
だが、ワは焦らない。女はおめかしするのに、時間がかかるんだべ。前妻がなにかとそう言っていたのを思い出す。
準備は万端だべや。ウコンにエナジードリンク、栄養ドリンクに野菜ジュースと腹たぷたぷにしてきた。
綿菓子のようなふんわりとした軽い粉雪が、ほろりほろりと降り続いていた。
寒さも感じないほどロマンティックなホワイトクリスマスだ。シチュエーションもいい。街自体が浮かれてやがる。ワを煽り、もてはやしてやがるようだった。
三十分ほど過ぎた頃、タクシーから降りた美咲がやってきた。
いつもみたいなでかさを競っているような盛っている髪形ではなく、毛先を軽くカールさせ降ろした姿だ。うん、綺麗な美咲には、なにをどのようにしても似合う。そっか、一緒に過ごすことを考え、乱れを隠すための配慮だべ。
おいおい、やる気なのは、オメのほうでねか!
ニーハイブーツから覗く絶対領域、太ももからの網タイツがそそられる。コートは、毛皮の豹柄だった。
味もへったくれもわかんね、ニンニクやバジルばかりで誤魔化したイタリアレストランを後にし、予約ってあるホテルのバーへ向かう。チェックインは後回しでいい。
女に、焦りは禁物だ。
ほろ酔いになり、頬が染まる美咲が愛おしかった。ドライマティーニのさくらんぼみたいに食っちまいて。いや、これから食べられる。堪能できる。脳みそからも、涎が垂れているようだった。
美咲の柔らかそうな唇を、すべすべした肌を、豊満な胸を、粘液で潤った秘部を、フェロモンが漂う首筋を。
ワは居ても立ってもいられず、そわそわしてしまう。酒はあまり飲まずにおいた。美咲の全てを味わうことが優先。酔って台無しになるのは嫌だったし、味覚、映像や臭い、声や触感を、いつまでも記憶に留めておきたかったから。
すんなりと美咲は、ホテルまでついて来た。
「酔っぱらっちゃったよ」といい、少しだけ足元がふらつき、ワにもたれかかった。香水の匂いが下心をくすぐるどころか、ビンタされたように奮い立つ。鳥肌が足元から背筋にかけ、ぶるぶる昇ってきた。
部屋は最上階、三十四階のスイートルームだった。見晴しが良く、札幌の中心街を一望できる。今日みたいな日には、どこかしこで愛という幻想の肉欲を貪って、男と女が楽しんでいることだろう。ワもその一人だ。
しかしここは、一泊二人で八万八千円もする。一発、約九万かよ。なら二発で四万四千円。何発やれば無料になるんだべ、意味のないことを考え、鼻の下を伸ばして股間を膨らませた。
美咲は、「先にシャワー行ってくるね」といつもの微笑ましく愛らしい笑顔を残し、そそくさとバスルームへ消えた。 それが最後に見た、美咲の笑顔だった。
ワは、冷静とできた大人といった見えない着ぐるみをまとい、ふたつ並んだ大きなベッドに寝転んだ。有線なのか、FMなのか、どこかから洋楽が聴こえる。どこかで聞いたが、よくわかんね。こんな時は、ねぶたのお囃子を聴きたいとこだ。BGMにも、子守唄にも感じ、安堵と酒の酔いにうとうとしかけたところ、入り口ドアが勢いよく開く音がした。
突然の音に驚き飛び跳ねると、ジャージ姿の男が一目散にワめがけ、飛び掛かってきた。
え、なに?
思考も身体も対応どころか追いつかず、そのままベッドの上で大の字に羽交い絞めされる。後ろから、スーツ姿の屈強な男が、顎を上げながら肩を揺らして入ってきた。
見るからに裏稼業の暴力団員、ヤクザだった。
「この野郎、人の女になにしてんだコラ」
理解するのに、時間がかかった。
むしろ、真っ白になった頭で考えることなどできなかった。
ドスの効いた低い声で、まだ歳の若いチンピラに脅された。その後ろから歩いてきたパンチパーマの男は、問答無用、固い靴裏でワの顔面を蹴ってきた。
首が吹き飛ぶかと思うほどの蹴りに意識を失いそう、いいや、失ってしまえばよかった。
中々しかし、人間は気絶なんてしないんだな、と事態の深刻さを考えず呑気なことが過ぎる。
「元気ですかッ!」
叫んだパンチパーマの本職は、ゆっくりと落ち着いた声で、「元気があってもここまでや。おい、プロレスラーで誰が一番強えか、知ってるか?」こう訊いてきた。
なんだべ、そげは?
ワは言葉も出せず、首を横にぶるぶると振ることしかできなかった。
途端、今度は固い踵を顔面に振り下ろされる。下がベッドのクッションじゃなかったら、死んでる。いや、死んではいないかもしれないけど。そう、美咲と結ばれるまで死ぬ訳にはいかない。
つん、としたものが鼻腔を横切り、痛みの振動が脳みその中で続く。
「バカヤロおおォ!」
ポケットに手を突っ込んだままのヤクザは、前屈みになりワの眼を覗き込む。コーヒーを呑んでいたのだろうか、口が異様に臭い。「誰が強いと思ってんのか訊いてんのじゃ、くそボケェ」
恐ろしい恫喝の設問。プロレスなんて知らないし、それどころじゃないと思うけど。これ以上痛めつけられるのはごめんだ。
「……わ、わかりません。すんませんでした。んでも、美咲さんには、指一本さ、」
「指一本で済む話じゃねえぞ、バカヤロウ」
パンチパーマの男は、眼を洞窟のように暗く輝かせた。「せっかく一発で当てたら、許してやろうと思ったがな。宿題だ、明日までに勉強しとけ、バカヤロウ」
そう投げ捨てると、ワのスーツから財布を抜き取った。
ふふん、と鼻を鳴らす。
「おい、バカヤロウ。おんどれの素性は調べついとるがな。いいか? サツにでもチンコロしてみろ。殺してくださいって言わすほど拷問して、なぶり殺してやっからのう」
オワタ。\(^o^)/
もう、ポジティブシンキングなんか、今はできない。きっとこれからもできないかもしれない。思わず、泣きそうになった。
「ここのホテル代はこっから出しといてやる。ほんで余りは、わしらの足代にもらっとくからよ。明日、改めて店に集金行くさかい。女に手ェ出そうとした代金やな」
慌てて弁明する。「いんえ、ですから、触ってもいませんし、い、入れてもね」
「おんどれ……まァだ、立場分かってねえのかバカヤロウ」
見えていたはずの導火線にわざわざ着火させてしまった。
無言で馬乗りになっていたチンピラが、頭突きを喰らわしてきた。星どころか、月まで見え、真っ白になった。痛みと衝撃に呻き声さえ出せない。美咲がいるのかどうかを確認する余裕も視力もない。
「逃げてもいいけどよ、実家のおふくろさんに迷惑かかるけえの。青森なんだろ? 火事になって火葬代を浮かせんやないど、ボケェ」
ヤクザは、最上級の脅しを突きつけた。「明日やで、ほな。おおきに」
バカヤロウ、と大声を投げ捨て、チンピラの重しと言葉の暴力はなくなり、かまいたちのようにふたりは消えた。
美咲は? と思ってみたところでいる筈もなかった。
美咲が、シャワーを浴びている訳もない。シャワーを浴びるふりで男に連絡し、ワをボコる。カネを吸い取る。典型的な美人局、ハニートラップだ。
やられた。そして、終わった。いいや、始まった。
そんな女じゃなかった筈だと嘆き、思い返したところで現実はひっくり返らない。
ワの卑しい下心と、身勝手な妄想にも似た思惑、熱くなった股間を呪いたい。昨日の自分に言いたい、美咲、そんな女じゃねえってよ。
ワは、婆さんの葬式以来、久しぶりに泣いた。
涙で頬を濡らした。罪悪感や自己嫌悪、うしろめたさと暴力の恐ろしさで潰されそうだった。いいや、簡単にぷちッと握り潰された。
次の日は世間じゃクリスマスだってのに、ワの店に来たのはサンタではなく、サタンだった。プレゼントを持ってくるでもない、全てをむしり取りにきた悪魔だった。
財布の中には、キャッシュカード、免許証、クレジットカード、ワの全てが入っていた。かろうじて、クレジットカードは二十四時間電話対応してくれていて、止めることはできたが、キャッシュカードは暗証番号を見抜かれ、早朝九時には全額引き抜かれていた。たぶん、一千万円以上は入っていたはずだ。銀行窓口の口が臭い女の言った定期預金でも作っておけば良かった、なんて後悔したところで何もでてこない。
美容室が開店する時間に、五、六人ほどのチンピラに占拠され、予約してくれた客を追い返された。スタッフにセクハラまがいの嫌がらせをする。玄関の表口マットには、猫の死体が数匹、ぺちゃんこに横たわっていた。店の看板や壁には、スプレーでワの誹謗中傷。頼んでもいない出前やデリバリーで人がごった返す。
時間無制限の食べ呑み放題、誰に注意もされないやりたい放題。カネをむしり取っても、まだ足りねえと飢えた肉食獣のように咆哮し、獲物を得て宴を始めたどこぞの部族のよう奇声をあげ笑い転げている。
ワに、耐えられる訳もね。
逃げるように店を飛び出し、美咲にメールを送るが当然、返信などない。警察に被害届をだそうにも、一生守ってくれるでもない。ヤクザの連中にどこかで捕まりでもすれば、もっとひどい目に遭わされるだろう。
恐怖と失望に眼を塞いだ。
走ってマンションまで戻ると、エントランス前に黒光りするベンツが二、三台停まっていた。もはや寝ぐらも帰る場所もない。茫然としたり、愕然とするなんて、望みは最初からなかった。ああ、やっぱりか、そう思っただけだ。
渡る世間は鬼ばっかだ。
はァ、車もねえ、カネもねえ、美咲の姿もみだこたね。
思わず、吹き出して笑ってしまった。声を出して、腹を抱えて笑ってやった。このまま笑って狂ってしまいたかった。 発狂してしまえば、何もかも終わりでいいじゃないか。最初から何もなかったんだから、また始めればいいじゃないかとも思った。でも、簡単に狂うことはできなかったし、また一から始めることもしたくなかった。
もう一度、もう一度だけでいい、美咲に逢いたかった。
あれは嘘だった、本当は好きだよと、いつまでも一緒だと言って欲しかった。一言でいい。逢って、これは夢だったんだよ、だから、いつまでも一緒に居てね、あの整った唇から、声を聞きたい。
諦められない、諦めきれない、諦めたくない。
それが無理なら、ワを絶望させてくれ。
オメなんぞ嫌えだと、最初からその気もなかったと、ざまあみろと。失意の底へ、細く伸びた綺麗な足で蹴飛ばしてくれ。声を、言葉を、美咲の真意を教えてくれ。お願いだ。
それからの数日間は、ネットカフェを転々とする生活だった。
クレジットのカードローンで現金を調達できたから、ずうっと鳴り響くスマホを手にして眠れない日々を送った。美咲から連絡がくるかもしれない、淡い期待をしていたが、覚えのない番号からの着信が続き、精神的にも弱り病んでいってるのが自分でも分かった。眼の周りは落ち窪み、食欲もなく、みぞおちの奥がずきずき痛む。掌の汗は止まらない。
世間じゃあ、世界が終るなんて騒がれている。
できることなら、明日にでも、地球が滅亡でもしてくれないかと祈りたくなった。
もう駄目だ、警察に駆け込もう。ただ逃げ込むだけじゃ意味もないし、カネもない。ヤクザから逃げる手段。ああ、そうだ。強盗でもして牢屋にぶち込まれよう。もう美咲とも逢えないんだから、ちょうどいいじゃないか。十年も過ぎれば、十年も刑務所で過ごせば、きっと変わっているはずだ。 十年ひと昔というじゃないか。幸い飯も三度食えるし、布団もある。ワを保護してくれるように匿ってくれる。逃げるは恥だが、生きのびよう。その間には、世界も終ってるべよ。死ぬ時は、みんな一緒だべや。
ワはコンビニで果物ナイフを買い、ふらふらと創成川沿いを歩いた。
足元の全てを凍らせる路面が、いずれこの先、温かな季節に向かい植物の芽を出せるとは到底思えなかった。ワの状況のように八方ふさがりのまま、凍えて死んでいくかもしれねだろ。そんな絶望、失望に近い悲壮感しかなかった。
どこを襲撃しようか、どうせなら銀行強盗くらいがいいか、コンビニ強盗くらいじゃすぐ出される可能性もある。
元妻には申し訳ないな、おど、あっぱ、すまね、ポッキーにご飯をあげてないな。
そんな思いを抱えていると、遠くに見える中央バスターミナルに入っていく見覚えのあるコートが目に付いた。髪はド派手な緑色だったが、豹柄の毛皮のコートを羽織っている。
間違いない。ワにしか分かんね、あいづは、美咲だ。
何も考えられなかった。ただ走った。がむしゃらに、その姿を追って走った。
美咲らしき女は、待合室の先頭で首を垂れ狸寝入りをしている様子だった。どのバスに乗るのか? 市内線? 郊外? 遠距離バス? ワは、ターミナルの売店で千円のサングラスを買い、ずうっと美咲を監視した。
『北見、網走方面行き……』とのアナウンスが流れると緑色の髪が持ち上がり、すうっと動き始めた。
そのバスに乗るに違いない。しかし、北見、網走? それどこだ? 道内とはいえワは、札幌から出たことがない。
いんや、今はすったらどこじゃね。すぐさま受付カウンターへ駆け込み、チケットを購入する。運よく空席があった。
席は、最前列の1C。都合がいい、後ろを向けば顔が一目瞭然じゃないか。
だが、こんなところで焦らない。バスが発車してしまえば、降りて逃げることも出来ないんだから、しばらく走行してから、そうだな、都市間バスなら高速道路に乗ったあたりで近づいて声をかければいい。
アイスバーンの雪道はガタガタと乗り心地悪く、車体を振動させ、ワの不安をいたずらに煽るようだった。掌の汗が、じとっとしていて気持ち悪い。
意を決して、後ろへ振り返ろうとした時。
ひとつ空けた窓側の席、ちょうど乗り口ステップ後ろの1A席に座っていた着ぶくれしたような男が、目出し帽を被って、紙袋から包丁を取り出す瞬間を見た。
え? オメはのさしてんだが? 思う間もなく英語で叫びだした。
の、のんだど? バスジャックだってか? おい、美咲も乗ってるんだぞ。おい、待てよ、なにしてくれてんだよ! こっちは、それどころじゃねえっての。
ワが乗客の中で、誰より一番パニックに陥った人間だろう。
思うより先に、身体が動いていた。
今思い返せば、ここで美咲に寄り添ってあげれば、ワに振り向いてもらえたかもしれないのに。人生の逆転満塁ホームランを打てたチャンスだったのかもしれないってのに。
行動は、正反対の奈落へ勝手に飛び込んでいた。ツーアウトなのに、わざわざスリーバントをしちまった。ガチガチに緊張したゴルフの一打目で、スウィングした途端、ドライバーがOBの林へ吹っ飛んでいくようなもんだった。
強盗することばかり考え、津軽のドンファンになることを妄想し、警察に捕まることばかり考え、自分を悲観し、嫌悪し、堕ちていくことばかり考えていたからかもしれない。
正気になると、ワは果物ナイフを震えながら持ち、目出し帽の男は悶絶し転がっていた。おぞましいほどの血が、手をべったりと真っ赤に染めた。
とんでもねことしちまったべ。どうする? どうしたらいい?
もういいべよ。バスジャックでいい。人殺しでいい。
これで警察に捕まる。そう思うと、なんだか気持ちが楽になった。
そうだ、捕まる前に逢えたんだ。世界が終る前に逢えた。 夢でいっつも逢っていた、クリスマスからずうっと逢いたいと思ってたんだ、最後に逢えた。こんな風に逢えるとは夢にも思っていなかったけれど、構わね。
オメと、愛する美咲と話がしたい。
読んでいただき、ありがとうございます!






