総占拠
『北見、網走方面行き、十七時三十分発、ドリーミントオホーツク号へご乗車の方、只今より、五番乗り場にて搭乗手続きを行います』
アナウンスの女性が、気取った声で乗車を促す。
札幌創成川沿いの中央バスターミナルの待合室で、時間になるのをまだかと待ち続けていた僕は、痛くなった腰を伸ばし、両手いっぱいの手荷物を抱え乗り場に向かった。
五番乗り場には、すでに乗客らしき人が並んでおり、搭乗手続きをした順にバスへ乗り込んでいる。バスのチケットをずっと握っていた為に端が少しふやけていた。代わりに唇は、乾燥してかさかさにささくれてるけど。
なぜなら、このバスターミナルに五時間ほど、何もせず待っていたのだから。
初めての一人旅みたいなもので、道東の北見市からやって来た僕は札幌の街を観光もせず、ひとりバスターミナルで待っていた。
昨日行われた、にじいろクローバーのコンサートに、修学旅行以来、二回目の札幌にやってきた田舎者の僕は、ビジネスホテルのチェックアウトぎりぎりに出て、氷点下を大きく下回る寒空の中、歩いて二時間かけ、バスターミナルまでやって来た。
さすがに足がくたくたになり、突き刺すような極寒に嫌気がさしたけど、駅前や狸小路商店街、雪まつりにむけた雪像のために、たくさん雪が運び込まれている大通り公園などに寄る勇気も、お金もないから仕方ない。なんせ、にじクロのグッズに、ほとんどのお年玉をつぎ込んでしまったからだ。
一番大きな手荷物のバッグを預け、お土産の紙袋だけ車内に持ち込む。
ほぼ、なけなしのお金で『雪の恋人』とそっくりな、なぜか北見銘菓の『オニオンミントクッキー』一箱、にじクログッズではかかせない、七色に光るサイリウム一本を入れていた。
『雪の恋人』とは、数年前、賞味期限改ざん問題で消滅寸前になったラングドシャって種類のクッキー。根強い人気に、道内外から問い合わせが殺到し、見事復活した北海道のお土産では定番の商品だ。
一方、北見銘菓の『オニオンミントクッキー』は、見た目『雪の恋人』とそっくり。チョコレートをクッキーで挟み、一枚づつ小さな袋で梱包されている、同じくラングドシャクッキーなのだ。
大きな違いは、その味。『雪の恋人』は、ホワイトチョコレートを使用しているが、『オニオンミントクッキー』は、ミント味のチョコレートを挟んでいる。ちなみにラングドシャって、猫の舌って意味らしい。
僕が住む北見市は、昔から玉ねぎとハッカの名産地らしく、クッキーにまで使用し銘菓にしている。玉ねぎを練り込み甘みの増したクッキーの生地に、ミントの清涼感を合わせ、味の複雑さを醸し出す暴挙に、大概の人は眉をしかめたくなるだろう。
でも、僕はこれが堪らなく好きなんだ。
ただ甘いだけじゃない、クッキー。お菓子を食べたのに、歯磨きをしたような清々しさ。バレンタインデーとホワイトデーを混ぜてしまって、ついでに元旦も入れてしまおう、だって休日じゃん。おやおや、バレンタインもホワイトデーも休日じゃありませんよ、はっはっは、という、いい加減さ。それがいい。
なんとも病みつきになるんだ。僕の味覚がおかしいんじゃない。みんな、この美味しさを分かってないんだ。北見市の銘菓にも関わらず、札幌で割高の商品を買うあたりでわかってもらえるだろうか? お菓子の賞も受賞している優れもの。
それほど好きなラングドシャクッキーが、『オニオンミントクッキー』なのだ。
僕は、このクッキーを長旅になる車内で独り占めして食べようと思っていた。一箱丸々自分のものになるといった贅沢と小さな優越感に、財布の野口さんと簡単にさよならする。
もはや財布の中には、もう小銭しか居座ってくれなかったけど。よくよく見ると五百円玉一枚、百円三枚、五十円一枚、十円三枚、五円一枚、一円三枚。おおう、888円!
8の数字は好きだ。だって、漢字だと末広がりとか、横にすれば∞(無限)なんてのになる。
まあ、いいさ、後は帰るだけだしね。
ずうっと待っていたにも関わらず、僕の搭乗はどうやら最後の方になっていた。
吹き込んでくる一月の北海道の風は、冷凍庫の中より冷たい。耳がすぐさま痛くなり、ビニールジャンパーの首元に顔を沈めた。列を成していた人々は、次々とバスに吸い込まれ、僕も同様、係員からチケットの半券を受け取りステップに足を乗っけた。
靴に違和感を感じて見ると、スニーカーの靴ひもがほどけていた。うーん、なんだか不吉。
後ろから声がかかったのは、そんな時だ。
「……あれ? 桜井くん?」
え? と一段高い場所から振り返り見下ろすと、あまりの眩しさに眼を細めてしまった。
ここは札幌、地元の北見じゃない。え? 瞬きを何度もしてしまった。え? そっくりさん? いやいやいや、そんな訳ない。と自分にツッコんでおいたけど、胸の高鳴りが音をたて急激にやってくる。
同じクラスの初音ナオが、そこに居た。
「や、やややや、やあ、初音さん。ごきげんよう」
僕は、あまりの緊張と唐突さに、よくわからない返答をしてしまった。自分の言葉に、冷たくなっていたはずの耳が熱くなっていく。取り繕うために、メガネを少しだけ上げ、平静を装った。「は、はつ、はつつ、初音さんも、その、札幌に来ていたんでございますね」
「……うん」
少しだけ首を捻った初音さんは、その後、にひひと強烈な笑顔を見舞ってきた。
軽いジャブは僕にとって、カウンターでのストレートのように心臓へ、コンビネーションで顔面にもくらう。くらくらさせられ、どきどきが加速していくようだった。
けれど、こんなところでダウンされるのは武士の恥だ。
「桜井くん、にじクロのコンサートか、なにか?」
「……え?」
「だって、その帽子」と、指さした白くて細い指、淡いホワイトのダッフルコート、定番のバーバリーマフラーに下顎を埋めているけれど、細く伸びていく白い息に話もそぞろ見惚れてしまいそうだった。ぐふふ。
「あ、ああ、これね」
僕は季節感もなく、街並みから浮きまくる真ピンクのキャップを被っていた。
にじクロの推しは、ピンクの初音あかり。もののふ、と呼ばれるファンの間では、『あーたん』で通っている。名字も同じ、童顔なところもそっくりな初音ナオに、僕はあーたん以上、心を鷲掴みにされている。
正直なとこでいえば、一方的な憧れに近い片思いだった。 地域のアイドル48グループなら間違いなくセンターになれる。僕の心の中では、いつもセンターポジションですけど、えへへ、と、ぐふふ。
「……ぼ、僕よりも、初音さんは、またなんで札幌に?」
「え、わたし?」
きらきら輝いて見える眼差しが、僕を放射冷却現象のよう、照らしつける陽の光で寒さをより凍らせるようだった。 なんせ、男子の間では隠れファンが多くて、チャらい連中が勝手につくったファンクラブまであるくらいだ。残念ながら、僕は入会させてもらえなかったけど。とほほ。
初音さんとまともに話すのは、高校入学以来二年間で初めてなんだから。このチャンスを逃がすのは、男じゃない。
「お父さんが、札幌で単身赴任しているの。冬休みを利用して、遊びがてら来たんだ。同じバスなんだね」
ちょっとミカさん、お聞きになりました? ええ、この耳ではっきりと。初音さんのところのかわいいお嬢ちゃんが一緒のバスだってよォ? おほほ。こんな偶然あるんですね、お姉さま、おほほほ。と、妄想の中に居座る脳内セレブ姉妹が、こそこそと話すのが聞こえた。
こんな密閉された空間で、札幌から北見までの五時間ほど一緒で、同じ空気と酸素を吸って……。僕は思わず、ごくりと大げさに生唾を呑んでしまった。
これは、運命の巡り合わせとしか思えない。劇的な恋愛の発展に期待する。
「……ま、まあ、席は離れてるかもしれないよね」いかにも隣りになりたい、と捉えかねない発言に、はっとして咳払いをした。
「乗ろう、寒いよ」
初音さんは、細く綺麗な両手を顔の前ですり合わせた。ほっそりとしたシルエット、肩にかかる髪。可愛すぎる、そんな言葉でも足りない。たまんねえっす、えへへ。
「……あ、ゴメン。じゃ、じゃあ」
「うん」
僕は、祈った。宗教のことなんて知らないけど。
どうか神様、席が近くでありますように。奇跡を下さい、お願いです、この五時間ほどを、僕の至福な時間にして下さい。これから毎日、勉強します。お母さんに反抗的な態度もとりませんし、初音さんのあんなことやこんなことを想像したり、付き合えると根拠のない妄想もしません。ですから、どうか、ささやかなこの願いを叶えて下さい。と、心の底からどこかで聞いてくれていると信じている、と、どこぞの知らない神様に祈りながら、靴ひもなど気にせずバスに足を踏み入れた。
バスの中は、車内の暖房と人の呼吸とで、ふわふわ形になったよう、もわんとしていて暖かく、すぐさま僕のメガネは真っ白に曇った。
ドリーミントオホーツク号は、一人掛けの三列シートになっていて、ゆったりと座ることができる、都市間長距離バスだ。両窓に一席づつ、中央に一席、その間が通路になっている。深夜の運行に於いては、異性が隣り合わせにならない配慮がされるらしい。僕が乗るこの便は時間が早いことから、異性混合の並びになっていた。
僕のチケットに書かれた番号は、10B席。
運転席側が、C席列だったから中央の席らしい、けっこう後ろのようだ。席は、空席が目立ち、半分ほどが埋まる程度だろうか。背もたれの高いリクライニングシートから、乗り込んだ人々の顔を覗き見ながら、座席を探した。
1、2となにげに進む。
何人かの人を通り過ぎた4B席に、いかにも暴力団員ですが文句ありますか? そう顔に張り付けている坊主頭でがたいのいいお方が、月刊プロレスを読んでふんぞり返っていた。 不思議に思えたのは、床に置いた大きなアタッシュケースだ。長い鎖がついていて、左手首の手錠と繋がっている。よっぽど大事なものなのか。見るからに、怪しい。そして、怖ろしい。
その後ろ、5B席には緑色の髪の毛をした、夜のお仕事風な女性。
大きな茶色のティアドロップサングラスをかけ、豹柄の毛皮コートで肘かけに腕を立て外を眺めている。あまりにも派手過ぎて、びっくりした。北見の街を歩いても、こんな人は見たことがない。きっと、にじクロのイメージカラー、グリーンのまいまい推し、くのいちかも知れない。僕と同じく、コンサート帰りの人に違いない。中々やるな。ちなみに、くのいちとは、女性ファンのことを指すのである。
6列には、サラリーマン風のおじさんと、パンチパーマが伸びたような髪型のおばさん。
7の列は初めて見るファッションに、思わず目をぱちくりさせてしまった。
7C席の女性は長い金髪で、漫画の世界から飛び出してきたような服装をしている。確かゴスロリとかいう、レースやリボンで華美な洋服を全身黒づくめにするものだ。これまた、北見みたいな田舎町には生息していない。上着を脱いでいたのだろうけど、場違いにも程がある半袖だ。ひとり宝塚歌劇団みたい。ヘッドドレスとかいった大きな髪飾りが、シートから飛び出している。大きな扇のようにも、エリマキトカゲみたいのようにも見えた。とてもきついメイクと眼をしていて、片側の額から頬にかけて大きな痣が目立った。ヴィジュアル系のライヴでもあったのだろうか。
隣の7B席には、痩身で肩幅の広い男性が中折れのハットを斜に被り、真っ青な卸し立てのパリッとしたジャケットを着て、カラフルなマフラーを巻いていた。ボトルワインをラッパ呑みし文庫本を読んでいる。長い足を組んだジーンズは、くるぶしまで捲っていて、ローファーを裸足で履いている。まるでイタリアの種馬的な優男っぽさに面食らってしまった。結婚披露宴を飛び出し、そのまま新婚旅行にでも行くふたり。そう見えなくもなかった。
ゴスロリ女性の後ろ8C席には、グレーのパーカーフードを頭から被り、マスクをした人がスマートフォンに指を滑らせていた。デザートタイプの迷彩柄パンツを腰で穿いている感じだが俯いていて、男なのか、女なのかもわからなかったけど、肌がとても白いのが印象的だった。
9列には、まだ誰も座っていなく、最後部の座席になった。
どうやら僕の席、10B席は、一番後ろの真ん中ということになる。僕の席がバスの中ほど辺りなら、初音さんと近い可能性もあったのにな。いいや、待て待て。あの胡散臭い人たちの側じゃないから、いいのではないか? やっぱ、こんな千載一遇のチャンスない。確率よりも可能性を信じるんだ、桜井コウタ。近くに初音さん、来い!
僕は、冷静と平静を装い眉を上げながら、ちょっとした芝居をする。
こんな後ろの席なんですか、あら、そうですか、シートは汚れていませんか、長旅にお尻が痛くなりますからね、あらそう、といったようなため息をひとつ漏らす。
内心は、リトル桜井が雄叫びを上げているのに。初音さん隣に来てくれ、と。
10C席は、空席のようだ。首を振りA席を見る。
僕のことをじいっと、物珍しそうに眺めている痩身の青年が座っていて眼が合った。
とすると、隣になるとしたら残り1席。お願い、初音さん、桜井のここ、開いてますよ! 隣のC席を念じるように見た。
通路を歩いてくる初音さんが、手にした番号と座席上部についた番号を、受験番号でも探すように上をきょろきょろと見ながら、こちらへ向かってきた。真ん中あたり、7列の新婚ふたりを抜ける。もうすぐ。初音さん、お探しの座席はここではありませんか?
「君、もののふなのかい?」
左耳に飛び込んできた言葉など入らない。
初音さん、ゴールはすぐそこ。いいや僕らのスタート地点は、もうすぐだよ。
「ねえ、君、にじクロの『もののふ』だろ?」
「……はい?」
僕は少しだけ怒気を含めて、隣を振り返った。
にこにこと微笑む青年が肘掛けに腕を折り、顔を突き出していた。どこかアジアのスターのような爽やかさと清潔感が漂う青年は、目が合うと、にんまりとほころんで見せた。
「あーたん推し?」
顎につけた指を、1本伸ばして指してくる。
「……そうですけど、なにか?」
ぞんざいに返す。
僕はそれどころではないんです! そのあーたんそっくりで、大好きな初音さんが、どこに座るかが問題なんです。
考えてもみて下さい、青春の問題は、一生涯の問題なんですからね。
「おや? あの子、あーたんみたいじゃない?」
青年が背筋を伸ばし驚いた顔をして、僕に差していた指を通路に向けた。
え? と立ち止まったのは、初音さんだった。
鼻の先と頬をピンクに染め、眼を丸くしている。誰とはなしに軽く会釈すると、僕の前、真ん前、9B席に初音さんが座った。ふわりと甘い香水なのかシャンプーの臭いなのか、女性の香りがした。授業参観の時にむせ返るほど毒々しいお母さん方の匂いとは、ちと違う。いや、雲泥の差。
よっしゃあああァ! 神様ありがとう!
この運命とも奇跡ともいえる出会いと、衝撃的な席の近さ。お望み通り、僕は明日から勉強の鬼になり、東大を目指します。いつも通信簿には目も当てられないのですが。お母さんには、言われもしない茶碗洗いを致します。どう洗っていいのかわからないので教えてもらってからですが。
なぜか根拠のない期待と淡い希望に興奮し、にやついてしまった。えへへ。
「君、急にどうしたの?」
隣の青年が、首を傾げながらも含んだ笑みを浮かべていた。咳払いをして、青年に向く。「……ああ、すみません。なんでしたっけ?」
「ボクも、にじクロが好きなんだ」大げさに黒革のジャケットを広げて見せた。「なんせ、にじクロの中には、愛があるからね。ボクは箱推しなんだよ」
青年が革ジャケットの下、黒シャツ下の肌着代わりに着ていたのは、昨日のコンサートで売っていた黒色の箱推しTシャツだった。箱推しとは、メンバー全員甲乙つけずに、グループのファン、といった言い回しなのである。
僕は、おおうと叫び、手を差し伸べ握手をした。
ファン同士のコミュは、こうして親近感と情報を共有する。年齢などのギャップは関係ない。同調と共感は、結束を固くするのだ。にじクロの中には愛があるなんて、さらりと格好いい。
青年の手は、とても柔らかく大きくて温かかった。
「名前を教えてくれよ」
「あ、桜井です」
「違うよ」
青年は、にこやかに否定した。「それは名字だろ? 名前だよ、ファストネイム」
最後の英語は、ほとんど聴き取れなかった。「あ、すいません。コウタって、言います」
「いくつ?」
「あ、17です」
「違うよ」と、またしても同じ台詞に、笑顔で否定される。「背丈、身長さ」
「……あ、と、170くらいだと思います」
「どこまで?」青年がすぐさま質問してくる。
「あ、北見までです」
「違う、違う」青年は、またまた爽やかに微笑み、否定した。顔を近くに寄せ、小声で囁く。何度も何度も、からかっているのだろうか。「(彼女とは、どこまでいったの?)」初音さんが座るシートに目配せする。
「……え」
僕は、心臓が止まる思いがした。「ま、まさか! そんな、」
「でも、好きなんだろ? まだ告白もしてないのかい? とってもファニィで可愛らしいじゃないか」
「ちょ、ちょっと待ってくだ、」
「え、なに?」
初音さんが、後ろの僕らの会話に顔を向けた。
「ボクは、不破っていうんだ。破らないって書く。約束したことなら破らないよ」
青年は、眼が見えなくなるほど頬をゆるませ、初音さんに手を差し伸べた。「せっかく近くの席になった長いドライヴだ。こんな巡り合わせも、きっと運命だろう。楽しんでいこう、ハツネ」
恐縮するような、照れているような初音さんは、不破さんと握手をした。
運命的な巡り合わせ、きっとそうに違いない。
そう感じながらも、なんか変だなと思ったのは、左手で握手していたことだ。それよりも、僕より先に初音さんの手を握るなんて。
僕も身体を前に出し、ちゃっかり初音さんに手を差し出す。「よろしく」というと、「うん」と言って前を向き、初音さんは背もたれに身体を預けた。きっと僕の手が見えなかったんだろう、うん、そう思い込むことにしましょう、はい。取り残された左手に、もう一度、不破さんが握手をしてきた。
「コウタ、よろしく。薄荷太郎です」
「え? はっか、たろう?」
「うそだよ、不破だ。よろしく」
恥ずかしいやら、情けないやらの気持ちを、爽やかで温厚そうな笑顔と軽いジョーク、固い握手で吹き飛ばしてくれた。はは。
「こ、こちらこそ」少しだけ気になったので、訊いてみる。 右手は、ジャケットのポケットに入れっぱなしだった。「あ、あの、不破さん、ちょっといいですか?」
「どうした?」
「右手は、どうされたんですか?」
最近、地理の授業で先生が言っていたことを思い出していた。「不躾ですいません。確か、インドでは左手が不浄の手といって、トイレなんかで拭く時に、いえ、特にこれといって、理由はないんですが、」
「ああ、ゴメン」
不破さんは、おもむろに右手をポケットから出した。ゆるゆるの包帯でぐるぐる巻かれた手が出てくる。先がほつれ、相当ゆるいのか、だらしなくはみ出ている中からのシャツのようだった。「ちょっと怪我しててね。そんなこととは知らず、ゴメンな」
「いえいえ、逆にすいません」僕はなんだか悪いことをしたな、そう思った。「ただ、握手するのに、珍しいなって思っただけですから」
「ちゃんとお尻は、ウォシュレットも使ってペイポァで拭いているし、手は洗っているから汚くないよ。心配しないでくれ」
屈託なく笑う不破さんに、悪意や怪しげな疑いは見受けられず、申し訳ないといった自己嫌悪や反省のほうが、胸をちくちく突いた。
がくん、とギアが入り、ゆっくりバスが後ろに動き出した。
窓の外には、都会のビルが立ち並ぶ風景が広がっていたけど、そこに不幸が転がり込んでくるぞ、といったようにカラスが何羽も、厳冬の寒空を飛び回っているのが見えた。
バスが左に大きく旋回し、中央バスターミナルを後にする。
排雪によって削られ、何層にも積み重ねられたミルフィーユのような雪が、道路脇にこれでもかと積まれ車線を狭くしている。札幌の積雪は、北見と比べものにならない。雪国の幻想的な銀世界と思われがちだが、とんでもない。寒くて大変だし、除雪は大変だし、道路は狭くなって大変だしって大変なことばっかりなんだ。方言をつかったら、「しばれるな。雪かくのゆるくねえ、わやだべや」こんな具合だ。
札幌の中心地を抜け、高速道路のジャンクションに入ってきた。
ざわざわとした人の衣擦れの音や、小さく話し合う声しかしていなく、前方上部に取り付けられているテレビもついていない。バスのエンジン音と、排気を促す古びたマフラーの低音が響く。
僕は思い出したように、手荷物の紙袋からオニオンミントクッキーを取り出した。
それを見て、不破さんが声をあげる。「おお、そのクッキー。美味しいよね、北見の隠れた銘菓だ。どうしたんだい? まさか、札幌で買ったのかい?」
「ええ、あまりにも好き過ぎて、ターミナルで買っちゃいました。嫌いじゃなければ、おひとつどうぞ」
「うん、ありがとう」
不破さんは、喜びながら受け取ってくれた。封を切り、投げ込むように口へ放り込んだ。「……うん、旨い。なんとも言えない、ミントの香りがいいよね」
「うわあ、嬉しいです。このクッキーを美味しいって思ってくれるなんて。まだまだ、ありますから、お好きに取って食べて下さい、えへへ」
ありがと、と言う不破さんの笑顔は、男の僕から見ても格好いいと思えた。
肩まで伸びた柔らかそうな髪は、毛先があちこちに飛び、奥二重の眼は、優しさが滲んでいるようだ。英語の発音も上手で、きっとモテるんだろうな、と勝手な嫉妬のような気持ちがこみ上げる。どこかで会ったような懐かしさも感じた。
「にじクロの曲は、なにが好き?」
「僕ですか? そうですねえ、」と、斜め上を見上げ考えた。本当は最初から決まっている、昨日のコンサートでもラストに唄った曲。
「『明日に向かって走れ』ですかね」
不破さんは、指をぱちんと鳴らし、僕を指さす。「最高の選曲だ。コウタとは、クッキーといい、音楽といい、趣味が合う」
「本当ですか? 嬉しいなあ」
バスは、路面が雪道で踏み固められタイヤが通ったところだけベージュ色に汚れた、でこぼこのアイスバーンをものともせず、速度を上げ高速道路に乗った。
ドリーミントオホーツク号は風を切って走っているのに、僕は気が気じゃなかった。
最高だ、と言ったはずの不破さんが、しばらくそれから口を開かなかったからだ。
怒らせてしまったのだろうか? 迂闊に飛び込んでしまって、不破さんの地雷でも踏んでしまったのだろうか? 初音さんと、こんな近くにいるんだから顔を拝みながら話がしてみたい。
そんなやきもきした時間が、普通の時間より長く感じた。バス車内の過度なヒーターのせいか、汗も出てきた。僕から話しかけるのは、やっぱり躊躇ってしまう。
僕は時間を弄んでしまい早速、スマホを取りだし、ポケットからイヤホンを接続した。
「(コウタ)」
隣の不破さんが身を乗り出し、小声で呟いてきた。
良かった、怒ってなかったんだ。ついでに左手でとんとん、初音さんの腕を突いた。ワイヤレスイヤホンを片方だけ外し、振り向いた初音さんを手招きする。
秘密の相談をするように、顔が集まった。初音さんの顔が近くにある。どきッとする間もなく、不破さんが更に小さな声で囁いた。
「(このバスね。オッキュパイドゥされる)」
またなんのことか、聞き取れない英語を言う。おっぱいなんとか? なんともけしからん!
初音さんとお互い怪訝に一瞬だけ顔を見合わせると、不破さんは、にこやかにウィンクして囁く。
「(実はね、ボク。予知能力があるんだ。秘密だよ。ふたりとは運命を感じるから、内緒で教えてあげるよ)」
え、と同時に声をあげる。初音さんと同調できたなんて、束の間嬉しかった。
不破さんが指を顔の前で一本伸ばし、しーッと真剣な顔をした。「occupiedは、せんきょってことだ」
なになに? バスの中でアイドル総選挙でも始まるんですか?
としたら、断トツ一位は初音さんだろう。桜井コウタも一票入れさせてもらいます、えへへ、アンド、ぐふふ。
「もうすぐ、バスジャックされる」
は?
せんきょ違いも甚だしい。恥ずかしすぎて、口に出さなくてよかった。
でも、まさか。そんなことありえないし、まったくなんのことかわからなかったけど、突然、前方で誰かが叫びだした。
読んでいただき、ありがとうございます!