失敗
橙子ちゃんとは小学校からの付き合いで、私の大事な親友だ。
そんな橙子ちゃんの両親が、交通事故で亡くなってしまった。悲しい出来事だった。橙子ちゃんはしばらく、学校にも来れないほどに塞ぎ込んでしまった。
電話上で励ますのにも限界があった。だから学校に来てくれたときは本当に嬉しくて、その日はファミレスでいろいろな相談に乗った。
そのときは話題には上がらなかったが、橙子ちゃんは兄と暮らすことになったらしく、その兄が酷い奴らしい。
橙子ちゃんの両親が死んだ2日後のことだ。橙子ちゃんからかかってきた電話で、その事実を私は知った。
曰く、唯一頼れるはずの兄が、涙さえ流さなかったらしい。しかも同居を拒否されて、歓迎されなかったと言う。それはもうボロクソに言っていた。あんな奴と兄妹とか本当に嫌だ、と。
それなのに、そんな兄の家にいるしかない現状を聞いて、私は何もすることができなかった。
家に泊まりに来るよう提案はしたが、今は1人になりたいとやんわりと拒否されたし、それが決して拒絶から来るものではないと理解していたため、しつこく誘うこともできなかった。
3週間の間細かく連絡は取っていたが、やはり実際に会えると安心できる。話した感じ、酷く追い込まれている感じもしなかったから、お兄さんともなんだかんだうまくやれているのだろうと思った。
そんなふうに思った次の日、橙子ちゃんは魂の抜けたような表情を浮かべて登校してきた。明らかに様子がおかしい。その上、こんなことを言ってきたのだ。
「しばらく、遊んだりはできないかも」
どうしてと聞いても、色々あってと詳しくは話してくれなかった。
私は心配だった。家でお兄さんに酷いことをされてるんじゃないかって。口を聞かないとか、仲が悪いだけならまだしも、暴力とかを振るわれてるんじゃ……?
悪い想像は加速する。
私たちが通っている中学校は、土曜授業で給食のない日、各家庭でお弁当を用意することになっている。別に手作りのものでなくてもいい。現にコンビニ袋をぶら下げている生徒も少なくはない。だけど橙子ちゃんは、お弁当どころか何も持ってきていなかった。忘れたのなら、忘れたと言う子だ。それなのに橙子ちゃんは、後ろめたい何かを隠すように、黙って教室を出ていった。
私は追いかけた。理由を聞かなければと思った。踏み込むのに躊躇う領域ではあるが、そうしないといけないと思った。
「言い出せなくて」
力なく言う橙子ちゃん。胸の内に怒りが湧いてくるのを感じた。昼食の用意を言い出せない?そんなの普通じゃない。異常事態だ。
やはり少しでも早く、あいつから橙子ちゃんを引き離すべきなのでは?そんなことを強く思う。手遅れになってからでは意味がない。橙子ちゃんを助けるには、今しかないのでは?
そんなことを思いつつも、具体的な行動には移せないまま週が明けた。月曜日。橙子ちゃんは登校している。一見なんともなさそうにしているが、本当はひどく落ち込んでいるままなのは、長い付き合いからわかった。
言葉にできない焦燥感。このまま彼女の心が擦り切れてしまうのではないかという、先の見えない暗闇のような不安に襲われた。
次の日だった。橙子ちゃんが学校を休んだ。ああ、ついに。根拠なんて何もないけど、私はそう思った。
先生によれば貧血らしい。私にはそれが信じられなかった。
そんな想いは、暴走という形で姿を現す。
「「あっ……」」
偶然か、神様のいたずらか。
放課後、帰り道の途中。橙子ちゃんのお兄さんに遭遇した。
向こうも私に気づいたのか、目を逸らすことはせず静止した。お互いにどこか気まずい空気が流れる。
そのまま目を逸らして、帰ればよかったのに。
「これ以上橙子ちゃんに酷いことをしないで」
気づけばそんなことを。
「橙子ちゃんを、傷つけないで」
大声で叩きつけていた。
しまったと、自分がしでかしたことの重さに気づいたときにはもう遅かった。証拠も何もないし、橙子ちゃんがそうしてほしいとも言っていないのに。
「肝に銘じておくよ」
お兄さんはそれだけを告げて去っていった。
まずい。まずい。まずい。
もし本当に虐待があって、怒りの矛先が橙子ちゃんに向いたら?
なぜバラしたのかと、八つ当たりを受けたら?
自分のせいで、橙子ちゃんが酷い目にあったら?
(急がなきゃ)
私の家は学校からすぐだ。すぐに橙子ちゃんに電話をかける。急げ。お願い、出てーーーー出た!
「橙子ちゃん!体調は!?」
『ま、まひる!?どうしたの?貧血なら、別にもう全然平気だけど』
どうやらお昼頃には体調も快復していたらしい。いやそれよりも、本題に入らなければ!
「今日これから遊びに来ない?ちょっと急な相談があるんだけど、お泊まり会しよ?」
『これから?別にいいけど、信也に言わないとだから、ちょっと待っててほしいかも』
お泊まり会は何回もやっている。だから特に、提案自体は不自然ではないはず。
だけどすぐでないとダメなのだ。あの男が帰ってくる前でなければ!
『あ、ちょうど帰ってきた。一旦切るね』
「あっ!橙子ちゃ、ん」
どうしようどうしようどうしよう。
私のせいで橙子ちゃんが傷ついちゃう。助けを呼ばないと。誰に?どうやって?
ーーーー警察?
思考がぐるぐると回る。迷惑では済まないかもしれない。それでも手遅れになるぐらいならと、本当にその手段を取ろうかと思った。
だけどそれは、すんでのところで止まることができた。
【すぐ行っても大丈夫?】
そんなメッセージが、橙子ちゃんから来たからだ。
もちろん、とメッセージを返す。
どんな会話があったかはわからない。だけどメッセージはすぐに来たから、大事にはなっていないとおもう、けど。
それは願望であり、結果として都合の良い妄想だった。
それからおよそ20分ごろか、橙子ちゃんは我が家に着いた。ドアを開けて迎え入れる。今までだって、何回もあったシチュエーション。
だけど、今回はーーーー
「ごめん、まひる」
大粒の涙を浮かべ、橙子ちゃんは立っていた。
ーーーー
本当に意味がわからない。
急に謝ったり、急に優しくするのはやめてほしい。
『ウチにいる限り、絶対に他人なんてもう言わない』
キモいキモいキモいキモい。本当に、気持ち悪い。
家族ヅラするな。勝手に歩み寄ってくるな。
突き放したくせに、そうやって手を差し伸べてこないでほしい。
この1週間、私はダメダメだった。親友であるまひるには心配をかけてしまっている。特にお弁当の件。まるまる自分のお弁当を差し出してくるとか、だいぶ勘違いさせてしまっていると思う。
本当に言い出せなかっただけ。日曜日は信也は仕事だったが、お昼と言って作り置きをしてくれたし、ご飯に関しては本当に蔑ろにされているわけではない。むしろとても気にかけてくれている。
土曜日の朝まで、私はお弁当が必要なことを忘れていた。信也も家を出る寸前。申し訳なくて言えなかった。
上手くいってはいない。だけどそれは私の問題で、信也が意地悪をしているわけではない。それだけは確かだった。
それだけにあの裏切られたという感覚を、私は引きずってしまっていた。
そんなくせして少し優しくされただけで、体温が高まっていくのを感じる。信也だって間違えることがあって、それをわざわざ謝ってくれた。
本当は私が謝らなからばいけないのに。
優しさに甘えてしまった。
チグハグだ。私の兄はチグハグすぎる。淡白な部分と、積極的になる部分。その差がとても激しい。私に向ける目と、あの日お父さんに向けていた目。とても同じ人から放たれるものだとは思えなかった。
その日はあまり眠れなかった。
(早く大人になりたい)
自覚はあるのだ。私が大人になれば、信也とももっと上手く付き合えるのだろうと。今は譲れない感情に任せて、信也に理不尽を押し付けてしまっている。
それなのに、私の生活を保証してくれているどころか、お小遣いもくれるのだと言う。
門限ができて、少し嬉しいなんて思ったことは内緒だ。
なんか、ちゃんと帰る場所ができた気がしたから。
言葉にするべきだ。信也に感謝を示すべきだ。
別に気を許すわけではない。今だって、両親の死に涙を流さなかったことを許したわけではない。
だけど今受けている庇護には報いるべき。
そんなことを思いながら目を覚ました火曜日。
(頭痛い……貧血だ……)
今までも貧血の経験はある。すぐに自分の体調不良の理由に思い当たった私は、先生に連絡してそのまま二度寝をした。
信也は仕事を休んだ。気にせずに行って欲しかったが、早々に寝かしつけられて文句も言えなかった。
そんな信也は、お昼に先生に会いに学校に行った。色々と相談したいことがあるそうだ。なんか気まずいな、なんて思う。
夕方、体調も完璧に治って、特にやることもなくふて寝をしていると、まひるから電話がかかってきた。
今からお泊まり会をしたいと、どうやら何か相談があるそうだ。
何か焦っているようだったが、ちょうど信也も帰ってきたため、許可を取ってみる。
このぐらいは、多分大丈夫だと思う。
この前遊びに行った時に言われた皮肉じみた言葉を、他ならぬ信也が後悔していたみたいだし、遊びに行くぐらいは許してくれると思う。
「ただいま」
「お、おかえり」
一見なんともないように見えるが、どこか違和感を感じたような気がした。
「今から、友達の家に泊まりに行っても良い?」
友達に誘われたこと、多分そのまま登校することになること、それらを何も隠さず伝える。
「おう。気をつけてな」
何も気にしていないと、そんな風に言った信也。その姿が、逆に不自然に映った。どこか自然を装ったような、そんな演技じみたものを感じたのだ。
取り繕ったものの正体が、私にはどうしても気になってしまった。
「ねぇ、何か隠してる?」
別に秘密がないなんて思ってない。私だって信也に隠していることがあるし、何もかも話すべきだとも思ってない。
「べつに」
「絶対、嘘じゃん」
だけど、嘘はつかないようにしていた。
隠し事はしても、騙るようなことはしないように気をつけていた。
だから引っかかってしまった。嘘をついてまで何かを隠そうとした態度に、私は追求を続けてしまった。
そんなことしても、ウザがられるだけと理解していながら。
「なんでもないって」
「嘘つかないでよ。そんぐらいわかるし」
「だから、嘘なんかついてないから」
「嘘。絶対なんか隠してるでしょ」
本当はわかってる。互いにムキになっているだけだと。
「嘘はやめてよ」
「たがら、嘘なんかついてねぇよ。勝手に決めつけんな」
言い合いはヒートアップしていってしまう。やめなきゃと思いながらも、私はまたもや意地になってしまう。
「そんぐらい、わかるもん」
短い付き合いだけど、信也が嘘をつくのが下手なことぐらいは知っている。同時に隠し事も。なぜって、すぐに表情に出るから。
「なにがだよ。知ったような口を聞くな」
知ってるから言っただけ。なのに、そんな風に言わなくてもいいじゃん。
少しぐらい、知れたと思いたかった、それだけなのに。
「何その言い方。意味わかんない」
一度は外れたストッパーは、簡単には直せない。
何を言ったかを、正確には覚えていない。
ただ最後に、「もう出ていくから」なんて口走ってしまったことだけは覚えていた。
せっかくできた居場所を、私はまた壊してしまった。
信也が隠したこと。そんなのはどうでも良い。隠し事がいけないわけじゃないし、私もそうは思っていない。
嘘をついたことに怒ったこと。多分これも信也は許してくれるんだと思う。信也にとって理不尽な行動ではあるかもしれないが、そういうことで怒る人ではない。
だけど、最後の言葉は、昨日の優しさに対する裏切りだ。
迎え入れてくれたのに、それを否定する言葉。
私はまた、失敗してしまった。