最初の約束
春の日差しをこれでもかと浴びながら、俺はおよそ一ヶ月ぶりに職場に顔を出した。
「色々とありがとうございました。今日から復帰します」
「おう、信也もお疲れさん」
親方や同僚たちに挨拶を済まし、準備をする。今日からまた通常業務だ。
俺がやっているのは現場作業だ。日によって就業時間は変わるが、ここは間違いなくホワイトな職場である。なによりみんな優しいし。中卒で入ってきた無愛想なガキを、暖かく受け入れてくれた人たちだ。みんな仲がいいし、歳の離れた兄貴みたいに思っている。
「ま、今は特に忙しいわけでもない。まずは色々と話すか」
「はい。自分も色々聞きたいことあるので助かります」
手続きはいい調子で進んでいるが、どうしても不安は残る。何が終わっていて、何が終わっていないのか、慎重に進めていかないといけない。
特に遺産関係。管理する財産が無いため手続きはスムーズだが、上手くやらないと借金を背負う羽目にもなったりと、油断ができない。
ぶっちゃけた話パンクしそうである。それに加えて、だ。
「で、妹さんとは上手くやれてんのか?」
「それが……」
正直に言って、分からないというのが正直な思いだ。
普通の兄妹を知らないため、何が普通かが分からない。
「実はこんなことがあって」
俺が橙子に対して理不尽な嫌味をぶつけた、あの日のことを親方に話す。
あれから1週間。一応謝りはしたが、「別に」なんてお決まりのセリフで流されてしまった。絶対気にしてる。その証拠に、やっと戻ってきたと思われた調子がどこかに行ってしまっていた。
学校には通ってるのだが、必要なこと以外は喋らない。そんな状況が続いている。
「っふふ。面白いな、信也は」
「ちょっと、笑わないでくださいよ」
こっちは真剣なのだ。初めてのことばかりで、どうしたらいいのかが分からないのだ。
「いやなに。そういえば信也も、まだまだガキだったなって」
「なんすかそれ」
ケラケラと笑う親方に対して、訳がわからないと愚痴をこぼす。そんな俺を尻目に、親方は続けた。
「そんなの普通だよ。喧嘩なんて、どんなに仲のいい兄妹でもするもんだ」
「でもこれは、喧嘩というより俺がひどいっていうか」
「そうかもな。でもな、信也。妹に対して何も大人になる必要はないんだよ」
大人になる必要がない?いやいや、成人してるんだ。多少なりとも責任は生じるだろう。
「責任ね。まぁなんだ、覚悟があるのは結構だが、なんでも完璧にできると思うなよ?」
「と、言いますと?」
「本当の親ですら難しいんだ。一度の失敗を引きずりすぎるなってことだ」
本当の親、か。確かに俺は親じゃない。だけどその真似事をしようとしているのだから、そうなれるように努力しなければいけない。それが引き受けた以上、負うべき責任だろう。
「それが間違ってるんだよ」
「へ?」
「お前は親じゃない。どこまでいっても兄だ。それは絶対に変わらない」
「兄?」
「そうだ。家族ってもんは、責任があるからやるわけじゃない。そうありたいから、そうあろうとするもんだ」
そうありたいから、か。
「そう思えていないうちは、まだ仲良くはなれないかもな。でもこれは焦っても仕方がない。自然にわかる日が来るのを、気長に待つ事だな」
「気長に、ですか」
「そうだ。お前は親じゃない。だから必要以上の責任なんて負う必要ないんだよ」
要するに、気負うなという意味か。難しく考えすぎていると。
(でも、そんな簡単な事じゃ)
なんて思っているうちは、まだまだということか。親方の言う事だ、今はありがたくアドバイスを胸の内にしまっておこう。
ーーーー
「ただいま」
「……」
夕方、家に帰るとすでに橙子も帰宅していた。この1週間は、特に遊びに行くこともなくまっすぐ帰ってきて、他にもやることもないのか勉強をしていることがほとんどだ。
(なんて声をかけたものか)
自分が蒔いた種である以上、自分が何か声をかけるべきと思う反面、余計なことを口にする怖さもあり、迂闊に話しかけることができない。
なんて思っていると、チャイムが鳴った。基本的に来客は珍しい。誰だろうと思って覗き穴から外を伺うと、そこには大家さんの月山美空さんがいた。
「どうしましたか?」
「今、大丈夫?ちょっと提案があってね?」
「ええ、大丈夫です」
歳は今年で67になるという、優しそうな風体のおばあちゃん大家さんである。親方の知り合いで、すでに橙子のことは話してある。
「この前、104号室の人が退去してね?」
「ああ、そういえば言ってましたね」
二階建てのアパートである月輪荘(月山の和荘と掛かっているらしい)に入ったのは4月初旬。橙子がうちにくるおよそ一ヶ月前だ。そんな俺と入れ替わりの形で、元々住んでた人が出て行った。
「それがどうしましたか?」
「妹さんと住むなら、少しでも広い方がいいかなって。角部屋だから、構造も違って部屋が一つ多いのよ」
「いいんですか?」
「他にも理由はあってね?今一人入居希望者がいて、一人だから部屋は多くなくていいって。だから交換みたいな形になるけど、もちろん家賃はそのままでいいわ。どう?」
もちろんとは言うけれど、本来は家賃だって少し割増になるはず。それが遠回しな気遣いであることには、流石に俺でも気付ける。
「ぜひ、お願いしたいです」
「良かったわ。じゃあ、次の土日は空いてる?」
「はい。大丈夫です」
「じゃあまた、詳しい話もあるから、またね?」
そう言って美空さんは戻っていった。正直かなりありがたい申し出だった。
というのも、今借りている部屋は一部屋しかないのだ。
ベットがあって、テーブルがあって、クッションもあるけど基本はベットに腰掛けている。つまり人暮らし専用部屋なわけである。
橙子も中学生だ。着替える時もわざわざ脱衣所に行っているし、そうでなくても日々の生活でストレスは溜まっていくだろう。自分だけの空間があれば、お互いに色々と便利だろう。
というか俺がほしい。プライベートな空間が。
というわけで、夕食の際に橙子に報告。当然彼女にとっても都合のいい話であるはずだがーーーー
「別に、個室はいらない」
これである。そんなものは要求していないと、提案は突っぱねられてしまった。
まだ付き合いは浅いが、橙子についてわかったことがある。彼女は嘘をつくのが苦手だ。というより、とても表情に出やすい。「自分の部屋」という響きに、確かに表情を明るくしたのを俺は見逃さなかった。
つまりはまだ気にしているのだ。多くを望んでしまって、俺の気を悪くしたと、その事実を引きずっている。こんな言い方をするのは橙子に悪いが、言わば拗ねている状態。
(どうしたもんかね)
橙子に好かれていないのは重々承知しているが、コミュニケーションすら上手くいかないのは流石に困る。高校進学にあたって、色々とデリケートな話だってしなければいけないし、そもそも男女という大きな違いがある。一緒に暮らす以上は、こう言った会話は大事だと思っている。
「どちらにせよ決まったことだ。部屋は分けるし、そうしないと俺が困るから」
「……あっそ」
どちらにせよ、どう遠慮しようが部屋は分ける。だからこれは元より、相談でも提案でもなく報告だ。
「それに加えて、色々とルールを決めるぞ」
今までは特に役割などは与えていなかったが、二人暮らしをする以上、分担はしておいた方がいいだろう。
「今まで通り洗濯は各々。ゴミ出しは俺がやるから、分別だけ気にすること。104号室は2部屋だから、部屋の掃除とかは各々でな。食事は俺が作る。時間については決めないから、臨機応変にな」
仕事の関係上、家に帰るのは早くも遅くもなる。その辺は橙子のその日の予定と合わせればいい。
「あとは、門限だな」
「……門限?」
「ああ。門限はそうだな、夜の8時までだな。遅くてもそれまでには帰ってくること。遊んでて遅れるなら、その都度連絡を入れること。あと基本的に、遊ぶときは帰りの時間を連絡すること」
「……でも」
そうしたら、と。言いたいことはわかる。遊んだらまた俺に嫌味を言われると思ってる。いや、思わせてしまっている。
本当に悪かったと思っているのだ。だからどうか、少しでもその思いが伝わってほしいと思う。
だからこそルールを設けた。俺が決めたルールなのだから、その範囲なら問題がない。そう安心してもらえたらと思って。
「この前は、本当に悪かったよ」
「……やめてよ、謝るとか」
何がとは聞かれない。ちゃんと言葉の意味をわかってる。
橙子は基本、謝られるのを嫌う。どう返していいか分からなくなるからと。
「あとは、お小遣いだな」
「……くれるの?」
「必要だろ」
「それは」
遠慮しつつも、いらないとは言わない橙子。まだどこまで要求していいのか測りかねているのだろう。それに関しては俺のせいなのだが。簡単に言えば、お互いまだ気まずいのだ。再会の仕方も悪かったし、元々関係値も高くないのだから。
「遠慮するなとは言わない」
「え?」
「我が物顔で好き勝手されても困るからな。それはわかってるみたいだし、今の態度に文句は言わないけどさ」
親ではなく兄であること。失敗をしても引きずりすぎないこと。
まだまだ難しいけれど、せっかく一緒に住むのだから、歩み寄る努力ぐらいはしたっていいだろう。
「悪いことをしたら怒るし、ルールは守ってもらう。気に食わなかったらお小遣いを減らすかもしれないし、喧嘩腰になるかもしれない」
仕方ないだろう。俺だって人間だ。気に食わないことも、イライラすることもある。感情を完全に律することなんてできない。
「だけどこれだけは約束する」
これは自分に課す誓いのようなもの。親方は気負うなと言っていたが、これはもう性分だ。中途半端は嫌なのだ。
「ウチにいる限り、絶対に他人なんてもう言わない」
橙子にとって俺はどんな存在なのか。親代わりなのか、兄なのか。それとも他人の大人なのか。どう思われてるかは知らない。
だから家族とは言わない。俺からそう名乗るのは、橙子がそれを認めた時でいい。
俺だってまた間違えるかもしれない。酷い言葉をかけてしまうかもしれない。意見を違えて、喧嘩することだってあるだろう。
だけど、2度と他人なんて言わない。ましてや本人の前で、その処遇を押し付け合うなんてことは絶対にしない。
「何それ、キモい」
なんて俯きながら毒を吐く橙子。耳が真っ赤になっていなければ、まだ額も決まっていないお小遣いが減っていたところだ。
「ほんと、意味わかんない」
そう言って目線を合わせることのない彼女だが、それでも手を合わせて、ごちそうさまと声にする。日々の態度はともかく、各挨拶を橙子は欠かさずしていて、それは本当に良いところだと思う。その素直さを他にも発揮してほしいのだが。
まぁなんだ、俺も大概単純な性格かもしれない。
好き嫌いがあるのかは知らないが、米粒一つ残ってない茶碗を見て、少しだけ嬉しくなった。それだけで、悪態の一つぐらいは許してやろうと、そんな気持ちになったのだから。