教師と矜持
「鎌田先生。ちょっと相談があるんだけど……放課後とか、時間ありますか?」
そう私に声をかけてきたのは如月橙子ちゃん。私が担任を受け持つ2年3組の生徒だ。話の切り出し方からして、おそらく信也くん絡みの話だというのは予想できた。
「ええ、わかったわ。じゃあ、放課後に話しましょうか」
「うん。ありがとう、先生」
橙子ちゃんの兄である信也くん。中学生活の3年間を担任として受け持った教え子で、教師生活の中でも特に印象深い生徒だ。
初めから感情が乏しい子だとは思っていた。だけどそれは、あくまで性格という個性の範疇を出ることはなかった。
目立つことはないけれど、悪目立ちすることもない。友達がいないのは傍目から見てもわかっていたが、特にその環境に苦しんでいる様子もなかった。そういう生徒は山ほどいるし、過度な干渉は、大多数がそういった生徒にとって悪影響だと思っているから、担任とはいえ特別関わりを持つことはなかった。
だけどそれは間違いだったと、私はある一件で思い知ることになる。
それは彼が中学2年生の冬ごろの話だ。彼の母親が交通事故で亡くなってしまった。
『大変だったね。悲しいけど、頑張ろうね』
私自身としても、教え子の親が亡くなったのは初めてで、こんなありきたりな言葉しか出てこなかった。
返ってくるのが涙とか、八つ当たりとかだったら良かったのだ。感情をぶつけられるぐらいは覚悟していたし、それが残された者にとって、大事なことだって理解しているから。
『何が悲しいの?』
予想だにしない返答に、私は唖然とした。
仮にだ。『あんなやつ、死んでよかった』とか、そういう言葉なら理解できるのだ。あぁ、仲が悪かったんだなと。悲しみよりも恨みや憎しみが勝ったのだと。同意はせずとも、理解はできる。
だけどそれは、悲しいという感情が欠落しているわけではない。あくまで他の感情がそれを上回っただけ。
彼にはそれがなかった。
悲しいとか悲しくないとかじゃなくて、親の死になんの感情も抱いていなかった。ただその事実を淡々と受け止めただけだった。
感情の起伏に乏しいんじゃない。そもそも抱く感情が欠落している。
私は彼にカウンセリングを受けさせることを決めた。彼は特に否定することもなく受け入れてくれた。仮に否定されていても、強制的に受けさせるつもりではあったが。
幸いなことに、彼はとても賢い子だった。何が契機となったかは分からないが、自分の感性が一般的なものと比べて、悪い意味でズレていることに気づいていたのだ。
そこからは早かった。彼から段々と感情の起伏を読み取れるようになって、少し笑顔も見れるようになったのが中学3年生の春だ。
彼にとっての試練は、そこから始まった。
父の再婚。新しくできた母親と妹。彼の環境は更なる悪化を辿っていた。
そんな中でも、信也くんの方から相談してくれることが多かったのが救いか。複雑な家庭環境で、苦しい思いをしていることを話してくれたから、私も寄り添うことができた。
本人の強い希望で、問題として取り上げることはしなかった。
彼は父親に見切りをつけていた。家族と仲良く暮らすことを諦めていた。早々に高校進学を諦め、家を出るしか選択肢がないことを悟っていた。
そんな苦境の中でも、自身の幸福を諦めることはしなかった。
本当に強い子だと思う。社会に出て5年。成人を機に、目標だった一人暮らしを始めると連絡をもらった時は、自分のことのように嬉しく思った。
橙子ちゃんが信也くんの妹であることは知っていた。だけど担任として受け持っていることを、信也くんに伝えることはしなかった。知る必要はないと思ったから。
『おとうさんとおかあさん、しんじゃった』
そう橙子ちゃんから電話で知らされた時は、どうして不幸というものはこうも続くものかと運命を呪った。
信也くんにした仕打ちはともかく、橙子ちゃんにとっては良き両親であったようで、信也くんにとっては複雑な思いが胸中を埋め尽くしているに違いない。
とにかく信也くんの精神状態が心配だった。だけどどこかで、あの子ならばと信頼していたのも間違いない。
そして橙子ちゃんから再び連絡があり、しばらく学校を休みたい旨と、しばらくは信也くんの家で暮らすことを聞いた。
その時点で橙子ちゃんに関しては、ひとまずは安心だと思った。信也くんのメンタルが心配ではあったが、追い出したりはしなかった以上、彼だって成人していて、周りには頼れる人も多くできたと自分で言っている。信じるところは信じるべきだ。
なによりも電話越しに聞いた橙子ちゃんの決意。そして、信也くんならば、彼女の期待に応えられると思っていた。
「ありがとう先生。それで、その、相談なんだけど……」
放課後になって、面談室にて橙子ちゃんと向き合って座る。内容が話しづらいものなのか、橙子ちゃんは声量を控えめに話し始めた。
「その、この前信也と色々、改めてルールを決めたりしたときのことで」
橙子ちゃんが話しを聞くに、それなりに上手くはやれているようだ。少なくとも、すれ違いはあれど仲直りできるぐらいには、お互いのことを尊重し合えている。
声量や仕草は控えめでも、声音にどこか楽しそうな感情を滲ませる橙子ちゃん。
「それで、話が終わったと思ったら、急に信也が改まって、その、生理の話とかを切り出してきて。実際生理とは言わないで、信也は言葉を濁してくれてはいたけど……」
「もしかして、拒否しちゃった?」
「うん……。前置きに拒絶してもいいとは言われてたけど、実際にしちゃって、その、後悔しているっていうか」
なるほど、それはいかにもお年頃な問題だ。橙子ちゃんの話し方からして、信也くん側には十分な配慮があったようだ。
「ちゃんと前置きもしてくれて、茶化さないで真剣に話してくれてたのに、嫌って理由だけで拒絶しちゃって、信也は怒ってないって言うけど、それでもやっぱり申し訳なかったっていうか」
「そうだったのね」
まぁ、あれだ。相談と言うから少し身構えたが、この手の悩みは誰しもが通る道というか、中学生として健全な悩みだ。
問題は橙子ちゃんにとって信也くんが、親ではなく歳の近い異性であることだ。
こうした性に関するスタンスは各家庭でそれぞれだ。父親を筆頭に、兄や弟にそういう部分を知られたくない女の子は多い。むしろ大多数と言ってもいい。
家族ですらそうなのだ。ましてや橙子ちゃんにとって信也くんは、家族ではなくて身近な異性といった位置づけが正しいようだから、そうした話に嫌悪感を抱いてもおかしくはない。
(ま、橙子ちゃんの話的に、信也くんはそこを理解できてるみたいだから、そういう意味では問題はないわね)
問題があるとすれば、生理の対処には多少のお金がかかるし、もっと言えばお風呂に入る順番とか、信也くんには計り知れない要素が多い。もともと今回だって、そういう部分の確認をしたかったのだろう。
「その、信也が怒ってないのはたぶん本当で、そこは気にしてないの。自分で言うのもあれだけど、信也とそういう話をしたくないって思うこと自体は、別に変なことだと思ってない。だけど信也が真剣に考えてくれてるのに、それに答えられないのは嫌っていうか」
(お兄ちゃんに似て、いい子だなぁ)
素直にそう思う。自分の気持ちだってまだ、完全には整理できていないはずだ。だけど相手の気持ちを汲み取る努力を怠っていない。それは簡単なことではなくて、信也くんがこれまで積み上げてきたものの成果でもあるかもしれない。
信也くんの優しさは、ちゃんとこの子に伝わっている。
「その、他にもあって。服とか欲しければちゃんと言えって言われて、実際今度リュックとか買ってくれる約束してくれたりもして、それはいいんだけど、その」
少し言いづらそうに言葉を区切る橙子ちゃん。その内容を察して、私は続きを促した。
「ブラジャーとか下着、言いづらいわよね」
「そうなの!やっぱりその、サイズが変わったりするの、知られたら恥ずかしい」
橙子ちゃんは続ける。
「最近、服とかもサイズが合わなくなってきて、その、正直ブラジャーとか買い替えたくて、だけど修学旅行とかのことを考えると、お小遣いじゃ足りなさそうで」
毎日同じものを着るわけにもいかない。買うとしたら最低でも2つは必要だ。なるほど、たしかに出費としてはそこそこな額になるだろう。
「今のお小遣いはいくらもらってるの?」
「それが、月5千円もくれるの」
「あら、結構もらってるのね」
「そうなの。私も多くないかって聞いたら、そう思うなら貯金しとけって」
中学生の月のお小遣いとしては、確実に平均は超えているだろう。橙子ちゃんの言い方的に、それは理解しているようだ。
実際はお小遣いをおねだりするのが性格上難しいからと、信也くんは多めに渡しているのだろう。前提として橙子ちゃんが無駄遣いしないだろうという信頼あってのものなのだろうけど。
「だから本当は、信也には言いづらいものはお小遣いの中で解決しようと思ってたの。だけど計算してみたら、結構ギリギリで……」
「まぁ、そうでしょうね」
遊ぶお金を考えていないのは、らしいといえばらしいか。そんな状況にいるのが、健全とはあまり思いたくはないが。
ともかく、月5千円で生理用品や下着を揃えなければいけないとなると、少なくとも何ヶ月かは厳しいか。
「色々と買い揃えた後なら、たぶん5千円は足りるどころか、かなり余裕がもてる額だと思うの。だけど今は引っ越したばっかりで、服もサイズが合わなくなってきて、いっぺんにお金がかかっちゃうっていうか……」
「こればっかりはタイミングの問題ね」
色々と問題はある。
だけどやっぱり一番は、橙子ちゃん自身の意識だ。何が厄介って、これがなんらおかしな考え方なんかじゃないってこと。
そもそも、橙子ちゃんは直したいと思って相談に来ているかもしれないが、異性に対して恥ずかしいと思うことは普通だ。矯正するような問題ではないし、そこに責任を感じる必要なんてないのだ。
能天気にいられないのは、環境がそうさせてしまっているからだ。誰が悪いという話ではない。
とはいえ、私がかける言葉は最初から決まっている。
「解決するのは無理よ?」
「え?」
「信也くんと生活する以上、そういった悩みは一生消えてなくならないわ」
だってそれはもう、仕方のないことだから。
「そういうことを抵抗なく言える人もいれば、絶対にそれができない人もいる。もうこれは絶対なの。仕方のないことなの」
真剣な面差しで話を聞く橙子ちゃんに、真っ直ぐ目を合わせて続ける。
「私はその心を大切にしてほしい」
「大切に?」
そうだ。無理に変わる必要なんてないのだ。
「それは変える必要のない大切な自己なの。生理を異性に伝えるのが恥ずかしいと思うことも、胸の大きさが変わったことが知られるのが嫌だという気持ちも、それは何かに強制されて変えるものじゃない。それは橙子ちゃんが、大切にしていいものなの」
「大切な、もの」
そうだ。お金のことで悩むのはいい。下着を買うお金がない。でも言い出しづらい。恥ずかしい。こうした悩みはいくらあってもいい。
それは当然、言えば買ってもらえるという環境ありきなものではあるが。
ともかく、「恥ずかしく思ってしまう自分」を責めるのはダメだ。
「いい?恥ずかしいものは恥ずかしいし、言いづらいことだってあっていいの。これは当たり前のことで、そんな自分を責める必要はないの。そんな自分を受け入れていいのよ」
「そっか……。別に、いけないことじゃないんだ」
その通りだ。当たり前のことを、当たり前に受け入れる。言葉にするのは簡単だが、自覚して行動にするのは意外と難しかったりする。
だけどきっと、この子達なら。
「ありがと、先生」
「ええ、どういたしまして」
橙子ちゃんはお礼と共に、晴れやかな笑顔を見せてくれた。この瞬間こそ、教師冥利に尽きるというやつだ。
「じゃあ、また明日!先生!」
「気をつけて帰りなさいよ」
軽い足取りで面談室を出る橙子ちゃんを見送った後、私は深くソファに腰掛けた。大きく息を吹いて、顔を覆いながら天井を仰ぐ。
本当にいい子たちだと思う。きっと今後も色々と問題は起こるだろうけど、あの二人なら手を取り合って乗り越えられるはずだ。
『あの子はね、先生ーーーー』
「言えないこと、か」
橙子ちゃんどころか、信也くんにさえ言えない秘密を私は持っていた。墓場まで持っていくと決心している、私にとっても苦い記憶。
「あの二人なら、大丈夫」
それは祈りだったか、それとも自分に対する言い訳だったのか、何度問うても答えは出なかった。




