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09-3故郷

 翔は持ち場へと与えられた道順を走った。城への門の鍵を奪うには、隠密行動が必要になる。

 そのためアンゼルムが陽動、翔とソルデガルドが鍵の確保をすることになった。

「っ、ぅ、っ」

 クロエはお姫様抱っこされたまま、アンゼルムに必死にしがみついていた。

 ガクガクと震えているのに、彼は楽しそうで張り倒したい。けれどしがみつく手を離すことは出来ない。

「ほら、どうした! 装備有りの登はんは基礎訓練だぞ!」

 細身のクロエを姫抱きにして、彼は5階建てマンションの壁を勢いよく走り上った。

 そして今は上から兵士に檄を飛ばしている。

「・・・ふむ、練度が低い。訓練が必要だな」

 兵士たちは重い鎧を着たまま、ひいひい悲鳴を上げながら登ってくる。街の住人もわあわあとはやし立てた。

 そして高い所が得意ではないクロエは気絶しそうだった。

「高、いぃ」

「クロエ、あちらを」

 目を閉じていればいいと思いついた途端に、アンゼルムに促される。彼女は素直にちらりと見た。

 景観保護法で白のレンガ風に統一された家々が並んでいた。どこの窓にも虫よけの赤い花が置いてある。

 これは昔クロエがいた頃の光景である。

「・・・綺麗」

 よその国に来た感覚でいたのに、不意にここが故郷だと思い知らされる。

「ここは君の国だ」

 アンゼルムに頬へキスされると、一層歓声が上がる。

「見られてるの嫌」

「それは慣れろとしか言えん。王族は観察されるものだからな」

 階段を必死で駆け上がって来た兵士が現れた。

 アンゼルムは笑いながら隣のマンションに飛び移る。するとその兵士も必死に追いかけてきた。

 飛んで膝を曲げてクッションにして転がる。

「良い動きだな。パルクールのようだ」

「私、邪魔になってる。絶対なってる」

 彼女のスカートは広がるような作りでもなく、青い裏地がひらひら見える程度。寧ろアンゼルムのコートの方が動きにくい。

 だがクロエがあまりにも怯えて祈り始めた為、とりあえずマンションから自由落下で飛び降りる。

「ひぇっ」

 対面のマンションの壁を蹴る。角に踵を引っ掛けてクロエを片手で支え、ベランダに手をかけた。

「くそっ、どこに」

「ここだ!」

 絡まったコートは身体を傾けて解き、そのまま飛び降りて着地した。

「・・・、魔術、一切使って、ないぞっ。あれ」

「ムササビのようだ」

「やっぱ、バケモンだぜ」

「くそ! 負けてられるか!」

 わらわらと降りて来るのを尻目に、アンゼルムは楽しそうに走る。

「頑張れ! 王様」

「兵士様も頑張れー!」

 小さな子供が手を振れば、彼もまた手を振り返す。汗だくになって追う兵士にもまた、住民の声援が飛ぶ。

「なんか、変な感じっすね」

「ゲレオン様の命令を聞いた時、これは離婚もあり得るし、皆に罵倒されて子供に軽蔑されるって思ったが」

 マンションの前に母親と並んでいる子供が手を振る。お父さん頑張れと声を張り上げる息子に振り返す。

「陛下のお陰だな」

「そうっすね」

 もはや障害物競争や持久走大会になっている状況にへらへらしていると、前を走っていた小隊長がブチ切れる。

「無駄口を叩くな! 囲い込むぞ! マジックキャンセルロープを持て!」

「応!」

 警察のKEEPOUTの立ち入り禁止テープのようなものをそれぞれ取り出す。

 この先の道は別ルートから合流する為、挟み撃ちにするには適している。しかし。

「あれ?!」

 ふと視界から王のコートが消え、挟み撃ちの相手が目の前に現れた。

「どこに行った!」

「落ち着け、この街で俺達の知らない場所などない筈だ」

 周辺を探すも、どこにもいない。

「ねぇ、少年。陛下どこ行ったか知らない?」

「おい、フィリップ。それはないぞ」

「良いじゃないッスか。これは訓練だし、住民参加もいいでしょ?」

 少年は兵士の足元を指差した。そこには僅かにずれたマンホールがある。

「っああああ、やられた!」

 よくないのを判ったうえで、剣先でがしゃりと開くと、隣のマンホールのふたが跳ね上がり黒いものが飛び出した。

「いいぞ、よくやった少年。兵士には協力をするものだからな」

「あい!」

 出てきたアンゼルムは、位置を教えた少年を褒めた。下水を走って逃げたと思っていた兵士たちはぽかんとしてしまい、さらなる逃亡を赦す。

「あ! 待て!」

 走っていないクロエの方が疲弊してきた。でもかなりの距離を走っている筈なのに、アンゼルムは汗一つ掻いていない。

 兵士の方がひいひいとへばって脱落していく。何もない平坦な運動場を何百回何千回と走っても、高低差のある街を走るのとはわけが違う。

 すると怪物の咆哮が轟いた。空にはたくさんの大きな魔物が飛び始めた。

 空を飛ぶエイのような魔物に紐を括り、ゴブリンやアンデッドが乗る。蒼い鳥のような形をした小さなウミウシたちが、宙を縦横無尽に飛んでアンゼルム達を探す。

 通常、彼らの動員は主に外敵への侵略に使われる。

「そうだ。何でも使え。全力でなければ、父上が見抜き、お前達の母や妻や娘を食べてしまうからな」

 じんわりと声に憎しみが滲んだ。

「じゃあ、こっちだとか言わない方がいいんじゃないかな」

「それもそうか」

 走って行くうちにまた見失われ、空を行く魔物の操縦者も目があまりよくないのか見つけられない。

「これは本格的な叩きなおしがいる。だが、私が稽古をすると泣いて逃げ出すのが難点だ」

 もはや走ることもせず、クロエを降ろして手をつないで歩く。

「翔君は強いよ」

「だが、人に教えることは出来ん。帝国の基礎知識がない。師はある程度持っていないと舐められるからな」

 下腹部に手を当てたクロエは少し考え、アンゼルムに提案する。

「国を持たずに傭兵をしている人たちがいるの。『魔女狩りの魔女』後45年目に戦った人達」

「彼らに居ついてもらうと戦力が上がるな」

「でも私がいるからなぁ」

 渇いた笑いをして、クロエは眉をハの字にする。

「君と戦って生還した者はごく少数いたと聞くが、消息を調べてみた方がいいだろうか」

 何故か両手を下腹部に当て、子供の籠を護るような体勢を取る。

「傭兵さんは強い人多いから。生き残りが集まって、国みたいになった請負会社がどこかにあったはず」

 彼女は嘘や隠し事がほとほと苦手なのだなとアンゼルム察した。

 請負会社の存在は彼も知っている。

 だがそれ以上にまだ大事なことを隠している。

「数名に戦力依存した国は危うい。奴らに会う時は君にも来てもらう」

「えっ。私もぉ?」

 嫌そうな顔をする。乗っ取られていたとはいえ、仲間を殺してしまったのだから当然だ。

「『魔女狩りの魔女』は死に絶えたことを教えてやらねば」

「そうだけど。・・・うん、わかった。アンゼルムと一緒なら、たぶん耐えられる」

 恥じらいからそっぽを向いて目を合わせない。

「凄く怒られるかもしれないけど、それは仕方のないことだから」

 ふと、彼らの側に見慣れぬ防具をつけ男が二人近づいてきた。

「お話し中スミマセン。貴方が皇帝様ですか?」

 一人は真面目そうな印象で、もう一人は軽そう。だが服の下に急所を護る軽い防具をつけていた。

「ああ、そうだが」

「こ、言霊」

 クロエが腰を引けた情けない恰好で、アンゼルムの後ろに隠れようとして先回りされた。

「まさか、嘘だろ。白髪ぼさぼさ振り乱した婆みたいなバケモノだったのに。絶世の美少女になってやがる! なぁ、俺の事覚えているか?」

 今にも顎が落ちそうに驚く男が、怯えるクロエに触れようとした。それをアンゼルムが叩き落とし、剣に手をかける。

「無礼であろう」

「申し訳ございません。ほら止めないか」

 真面目そうな方が男を引きはがし、頭を下げた。

「我々は『魔女狩りの魔女』と何度か刃を構えたことがあり、たくさんの仲間を打ち取られました。強い者ほど死体を回収されて、葬儀もできておりません。しかし皇帝陛下は我々が撃破して下さったと聞き及び、そして依り代となった女性が貴方様と共に帰ると聞いたもので」

「一目見に来たんスよ。あの時瀕死の仲間を置いて、尻尾を巻いて逃げるしかなかったから。人間共は宝の持ち腐れしてたんスね。こんな可愛い子をあんなひっでぇ状態にしてたなんて可哀想過ぎる。なぁ、お嬢ちゃん。あの時は風呂にも入らせてもらってなかったんじゃねぇの? 暴行された痕がかなりあったもんな。ロープ痕もたっくさん。それにちょっと臭っていたし」

「っ」

 デリカシーもなくペラペラしゃべる男の肩に腕が乗り、さらさらの長い髪の男が加わった。

「女の子にそれはないわ。って、んまぁ! 本当に! 可愛くなって」

 アンゼルムはクロエの腰をグッと押してまっすぐ立たせ、そのまま腰を抱く。

「ごめんね。今話していたのを聞いてしまったわ。私達傭兵はね、『自由を奪われた貴方を助けてくれ』って命令で戦っていたの。だから殺された奴らも、人間には怒っても、貴方には怒らないわ。依り代の術についてあれだけ事細かに新聞に書かれたら、誰だってね。人間達の被害者に配慮してくれる帝国はいい国よ」

 クロエがお腹に当てた手を離す素振りはない。アンゼルムはそれに溜息をついた。

「お前達は『よく知る者』のようだから、一つだけはっきり言っておこう」

 アンゼルムがもったいぶると、女性のような喋り方をする男がへらへらしていた顔を引き締める。

「その新聞に書かせた予定より一日早く帰ったのは、ゲレオン王が神父の娘を使ってクロエを襲撃したからだ」

 三人の男は息を飲み、青筋を立てた。

「そう。貴方は私達がゲレオン王に雇われたと思っているのね。正解よ。そして、あのクソ神父に連なる戦力を使ったとなれば、我ら傭兵『黎明』は契約を破棄するわ。契約書にもちゃんと書いてあるものね。アンタたちもいいわね」

「たりめーだ。どんなに金積まれようと、神父の力が混ざった陣営などお断りだ。『白蛇』や『暁』達にも言ってくる」

 クロエが女口調の男に近づき、頭を下げた。

「っ、この手が殺したのよ?」

「貴方はいい子ね。あの時亡くなった仲間達も、あなたが幸せになったらきっと満足するはずよ」

 チュエカと名乗った彼に、髪を乱さないように丁寧に頭を撫でられる。もう一人の男にも撫でられた。

「寧ろ俺らの方が、助けられなくてすまんな」

 ほろほろと涙を零せば、メイクが落ちるとチュエカに丁寧に拭かれる。

「折角来たからには、観光しなきゃね。ところで皇帝陛下。貴方の戦力はどのくらいなのかしら。私、お城の中を見てみたいのよね」

「ああ、確かに。神父の血は根絶やしにしておきたいところだな。異能持ちなら尚更だ」

 クロエに優しい顔をしていた二人が、180度変わって加虐的になる。それにクロエは酷く動揺した。

 父に暴力を受けていた七瀬ひまりは、本気でクロエを殴り殺そうとした。

 痛かった。後ろからハンマーで滅多打ちに殴られた時は本当に。

 どうしてと言葉にならない声を上げながら、鏡に映る彼女を見た。

 その首にはあの文様があった。見間違いなんてできない。神父がよく使っていた操心の魔術。あれは心と身体と頭を壊していく。

 きっと彼女は知らない間に、その激情をコントロールされている。彼女の激情自体が植え付けられたものかもしれない。そして自我を失いつつある。

 彼女も神父に恐怖で支配されている。

 同じ。あの子は第二のクロエ。あの文様を見てしまったばかりに、あの時クロエの体は竦んで動けなかった。

 それをアンゼルムに知らせておきたかった。しかし彼らは怒り、声を荒げている。彼女を救うために頼ることは出来ない。

 そうこうしている内に、傭兵の人達は仲間の元に戻っていった。

 考え事をして俯くクロエは、腹の籠を労る様子をアンゼルムにずっと見られていた。

 そこは彼だけの籠でなければならない。そんな嫉妬が彼に灯る。

「来てくれ」

 クロエを連れて広場のベンチに座る。彼女の座る面積を増やすためにだらしなく腰掛け、その膝の上に向かい合わせにクロエを座らせる。

「ひっ」

 アンゼルムの胸にクロエがしがみつく。彼に乗った場所を意識してしまって、恥ずかしくて腰を浮かす。このまま足を動かされでもすれば、スカートの下のぱんつ一枚でしか防御できない。

「これは尋問だから、誠意をもってこたえなさい。君の口から、君の言葉で聞きたい」

 眼孔は鋭く、甘くも酸っぱくもない。怒られるようなことをしたかと考え、していると再自覚した。

「は、はい」

 支える物は彼の腹についた手だけで、倒れそうでふらふらする。

「俺は君の事について全て知っている。だから偽りは通用しない」

 彼が腰に手を回してぐいと押される。背を反ってお尻をぷりんと突き出すような体勢に。彼は真剣な顔をしているのに、恥ずかしすぎる。これは撮影だと自分に言い聞かせる。

「・・・エーヴェルハルト卿は俺の師だ。この意味は分かるな?」

 クロエは息を飲んだ。

 ああ、やはり。いつも彼は全てを知っている。

 幼い頃の彼も、会うたびに聡明になっていた。それが300年分、これは膨大だ。

 下腹部の懸念も何もかもお見通しなのだと判り、クロエは焦燥も弁明の意思も全て手放した。

 クロエは一切の無表情になり、抵抗していた腰から力を抜いて、ぴったりと彼に乗る。クロエより筋肉のある彼の身体は服越しでも熱い。

「かつて『魔女を狩る魔女』を従えていた『ヴォルトミュラー神父』様は、私をたいそう可愛がってくれました」

 何も見ていない目を伏せて流し、深く深くため息を吐く。

「彼は本当に、本当に気持ちの悪いお人。無害そうなお顔をしている癖に、女が絶望に泣いて喚いて叫ぶのが、三度の飯より大好き。殴る蹴るも厭わない。回復術は女の四肢を何度だって切り落とすためのものと豪語する。類は友を呼ぶと言います。お仲間もゲスなお方ばかりでした」

 自分の左腕に爪を立て、歯を食いしばり、強く目を閉じる。悔しくて悔しくて堪らなかった。

「魔女を狩る日は地獄です。魔女を狩らない日も地獄です。私はあのお方たちを、ぐちゃぐちゃにすり潰したかった。優越感に浸り私の手に握らせる肉を、握りつぶして本人に喰わせたかった」

 カッと見開いた視線がアンゼルムの腹を這っていき、緩慢に目を合わせた。

 ぞくっと鳥肌が立つ鋭い瞳だ。怒りと憎しみに美しく冷たく暗く、その奥に黒い炎を宿している。

 薄桃色の虹彩が紫掛かって獰猛さを持ち、アンゼルムの心を掴んで離さない。

「その日の標的は一人。その地方で一番能力の高い魔女を殺す予定でした。彼女は精神体が身体から切り離されていることを知っていた? いえ、あるいは透視したのでしょう。『大丈夫。すぐに助ける。何度だって助ける』と言ってくれました。でも人間に操られる手足に耳はない」

 当時、精神体のクロエは血が飛び散るたびに手で目を覆いながら泣き叫んでいた。それでも本当の口は全く動かない。

「何度も叫びました。『お願い。逃げて、オーレリア』と。あの方はいつも私を無償で助けてくれるのです。彼女ほどの素晴らしい人を知りません」

 彼女の名を紡ぐ時だけ、クロエは優しい目になった。彼女の呼びかけがどんなに勇気になったのか、きっと本人にしか測れない。

「オーレリアを助けに来た騎士がいました。初めて私を止めに来た騎士エーヴェルハルト卿」

 クロエは下腹部を左手で押さえて覗き込む。

「強かった。人間達が総出で私を強化しました。裂傷が酷く広がってもかけ続け、血が噴き出し、皮膚がひっくり返りました。痛みに呻く声をうるさいと怒鳴られて、私はメイスで膝を潰されます。それをエーヴェルハルト卿は憐れんでしまった」

 右手で口元をなでると、口紅が手袋に付く。先を噛み、毟る。破いていく。

「オーレリアを逃がすことで精いっぱいでした。憐れみによる躊躇いと、瀕死の重傷。彼の意識は途切れました。でも終わらない。人間達は人に似た彼を解剖すると、言ったのです。私は彼を護りたかった。彼は人間達の非道に不覚を取った。彼は生きて居なければならない。でもどうにもできない。私にはもうお腹の守護しか残ってなかった。ここに連れて来ることができれば私が護れるのに。・・・そうしたら『魔女狩りの魔女』がなぜかその我儘を聞いてくれたの」

 騎士の胎内回帰を強く望んだ。しかし何かを準備する時間はない。その隙に人間に解剖を赦す。だから、方法は一つしかない。

「食べ、ました。彼を、彼らを、生きたまま。何度も顎が外れたわ。でもそれしか私の元に、封印の内側に送る方法が無いと、『魔女狩りの魔女』が言うのです」

 クロエは薄く自嘲した。

「そんな卑しい私ですら、貴方はご存じなのですね。私のお腹にはそんな兵士がたくさん眠っています。私の子ではない。いずれ本当の家族に返さないといけない。けれど・・・けれど、けれど、ヴェロニカおばあ様に助けられる直前に、神父様に何かの鍵をかけられてしまった。あれからずっと、誰の声も聞こえないのです。どんなに解呪の呪文を唱えても、誰も反応しないのです」

 それらが黒蝶の言っていた『寄生虫』なのだと、アンゼルムは理解した。

「鍵の正体は知らぬのだな?」

「ええ。でも、推測は出来ます」

 肩を落としながら、目を閉じて『彼女』を浮かべる。

「ヴォルトミュラー神父は慎重でもあります。物をどこかに隠すより、人に隠す方がバレにくいと考えます。本人に言わずにいればなおセキュリティは高くなる。そして親族であろうと、女を玩具にしてしまう男です。だから妻、あるいは娘」

「神父の死亡を確認した同時刻に、妻は心臓発作で死んだと報告があった」

「その位の爆弾は設置するでしょうね。自分から解放される喜びなどあってはならないと。死に際の彼女が苦しむ様を見られず、きっと悔やんだことでしょう」

 指先がばらばらになった手袋を外し、目元をそっと抑える。涙を吸わせた。

「ならば、七瀬ひまりの方か」

「私には・・・出来ない。彼女はヴォルトミュラー神父様の被害者なのです。私と同じ」

 アンゼルムが彼女を抱き寄せる。そして頭を撫でた。

 クロエは目を閉じて深呼吸をした。匂いに交じって魔力も感じる。

 どちらかが生き残る。でもゲレオン王側についた七瀬ひまりは助けられない。

「彼女は・・・彼女はね、アンゼルム。多分私の事すきなの。初めて目が合った時、一瞬だけ見えた。あれは握手会やサイン会とかで出会った人たちと同じだった。宝石や星の輝きよりもきらきらした、胸を打つ美しい感情。すぐに隠されてしまったけれど」

「そうか」

 クロエは彼から離れようとして藻掻く。解放されるが膝から降ろすことは拒否されたため、そのままスカートの端だけを広げて頭を下げた。

「これで全部です。もう私に隠し事は、何もありません。皇帝陛下」

 クロエは祈るように手を組み、泣きそうな顔で笑った。その頭を力強く撫でた。

「何度も言うが、この程度の事でお前を手放さない。ふっ、寧ろ何をしても無駄だぞ」

「・・・はい」

 彼女は嬉しがりも悲しがりもしなかった。

 アンゼルムは彼女を腰に乗せたまま引く。だらしなかった体勢が戻り、背筋が伸びて身体が近づく。おへそがぴったりと合わさってしまった。

 悲鳴を堪えている間に、背中を探られる。

「うん。君の大切な騎士たちの位置は少しズレてはいるな。だがここは俺だけの場所だ。判って欲しい」

 クロエよりかなり体温が高く、お腹が汗ばむくらい嫌でも意識させられる。

「ひっぇ」

「君は笑うだろうが、俺はもう一つ言葉が欲しい」

 見開いた眼は、強い意志と真摯な印象を受ける。

「俺をどう思っている」

「えっ」

 組んでいた手を上から覆われた。彼の少しだけ上気した頬なんて珍しい。

「・・・まだ怖いか?」

 何でも知っている筈の皇帝陛下が、クロエに縋るように問う。

「怖くない。幼い頃は、けど。今はこんなに、こんなに愛おしい」

「兄上よりか?」

 腰を強く抱き寄せられて、お腹が圧迫されて苦しくなる。自分の筋力を少し考慮して欲しい。

「それは『父と俺どちらが好きか』と問うていることと同じです」

「そうか。・・・そうか! 君にとってジギスヴァルド兄上はもう父なのだな。これはいいことを聞いた」

 ぎゅーっと抱きしめられて、嬉しいやら苦しいやら。

 青いリボンで飾られた真っ白なヒール靴が左だけ落ちる。

「あっ、待って。靴・・・ぁ」

 抱き締められたまま手を伸ばすと、ばちりと大きな目がこちらを見ていた。

「おひめさま! きれー」

「ひっ」

 目をキラキラしながらベンチに寄り掛かり、皇帝陛下にいいように抱きしめられている彼女を観察する。

 子供に見せるものではない。こんなの見せてはだめだと慌てるも、抱擁が緩む気配はない。

 追いかけてくるお母さんも、にこにこ笑ってないで目を塞いでほしい。

「ルードくん! おかあさんがいってたとおりだった!」

「なになにー?」

「ホントだ! すごいきれー! かみのけくるくる! きらきらドレス!」

「かわいいねー!」

 子供が子供を呼び、周りに集まってやんやと話しかけてくる。それなのにアンゼルムの腕はクロエを解放しない。

「お願い・・・、離して。はぁ・・・ぁ。だめよ。こんなの、・・・だめ」

 どうにかして逃げようとしながら、アンゼルムの首元で濡れた悲鳴を上げる。すると彼はふるふると震えて笑いを堪えた。どの声も色っぽくて離してやれない。

「だめよ、みちゃだめだから。すぐ降りるからね。ほら、アンゼルム」

「どうして? ママもパパもおなじだよ。だいすきーって抱きしめるの」

「うん。どうして?」

「この国では、これっ、普通なの・・・?」

 喉の奥まで渇いて舌が口内に張り付く。汗がにじみ出て、彼女の香りが増して皇帝陛下に首筋を吸われた。

「ひっ。お願いぃ、嗅がないで」

「・・・良い香りだから、君が悪い」

「そんな」

 どうすれば彼が納得するかを必死に考えるも、変な案しか思いつかない。

 ええいままよ。

「アンゼルム。後で、何でもしてあげるから。ね? いい子だから」

 幼児に言い聞かせるような言葉だが。その実、大人の男性には弩級の爆弾。彼はすぐにでも彼女の拘束を緩めた。

 何も判っていない彼女はゆっくりと膝の上から降りる。

 子供達から靴を受け取ると、石畳に立てて履こうとスカートを少しだけ引き足を上げた。すると、アンゼルムが膝をついて靴を持ち上げる。

 子供たちとその母親世代がきゃあきゃあと喜ぶ。クロエは顔を赤くしながら、不満そうにそれに足を入れた。

「では、行こうか。我が白薔薇の姫。そう恥ずかしがらないで」

 ああ、人が集まって来たからだ。きっとそう。彼らが望む王子様像を演じている。

「・・・そんなこと、昔はしなかったくせに」

 上から目線で傍若無人で、負けず嫌い。いつも土臭いほど訓練が好き。そんな彼にそういえば何か言った気がする。

「ぁ」

 王子という立場の者は、もう少し上品に振る舞うものです。お芝居の一つくらい見てはいかがです?

 クロエは昔の自分を張り倒したかった。

 もしかしたら言い方を間違えてしまったかもしれない。お芝居が好きなわけじゃなかったし、そう振る舞ってほしいわけじゃなかったのに。

 観劇も教養だと、ジギスヴァルドに一度だけ舞台に連れて行って貰った程度。自分は実験動物だからと恋愛など興味がなく、『王子様』の理想と現実との乖離を鼻で笑った記憶がある。

 その程度の『嫌味』だった。

 無論、彼も愚かではないから判ってはいようが、もしそれが原因だったらいやだ。

「王様ー!」

 幸か不幸か、民衆は彼にかなりの好意を抱いている。

 でもそんな昔の小娘の一言でこうなったとは思いたくない。

「いつもそうなの?」

「そうって?」

 彼はるんるんで楽しそうにクロエの腰に手を回してエスコートする。クロエは両口角に指を置いてにこっと不自然な笑みを見せた。

「可愛い」

「そうじゃない」

 どんどんご機嫌斜めになるから、少しは彼も察知したようだ。

「いつもはかなりの不機嫌ですよ、姫様」

 知らない間に隣にいた薄い金色で腰までの髪を左右に6本ずつ三つ編みにした兵士は、背中にいびつな大弓を背負っていた。

「こんにちは。私はノアベルト。今回は伝令、普段は陛下の護衛騎士をやっております。陛下にはいつも海溝より深い眉間の皺があり、忙しい時は目の下にクマができ狂暴性が増します。妖精も耳を塞ぐ暴言は御健在です」

「そうなの? よかった。私のせいで性格変わっちゃったのかと思った。でもクマはだめよ。ちゃんと寝なきゃ」

 クロエが嬉しそうに笑うと、ノアベルトは意表を突かれた。

「姫様はほっとされるのですね?」

「え、うん。私のせいで無理はさせたくないもの。小さい頃、アンゼルムに構われたくなくてかなり暴言吐いていたから。ふふ、ジギスヴァルド殿下の養子でなければ死んでいるでしょうね」

「いや、あれは愛らしかった。貴族たちの嫌味に比べたら、砂糖菓子のようなものだ。顔を真っ赤にして怒る君は可愛い」

 苛立っていたアンゼルムがまたご機嫌になり、クロエもノアベルトも不快になった。ただ、ノアベルトは転んでもただでは起きない。

「はっはっは。『皇帝の后とは、人食い龍の機嫌を取る生贄と同義』に御座りまするが、その一点においては心配いらなさそうですな」

「いいから早く報告せんか」

 彼らが難しい話を始めたので、周りを見回していると、傭兵が独自に作った経口補水液を抱えて戻って来た。

 持久走大会を走破した兵士が広場に崩れ落ちる。

 死屍累々の光景に、アンゼルムは呆れかえっていた。

「・・・明らかに、王宮勤めの四騎士のみが突出している状態だな。早急に戦力の底上げを図らねば」

「そりゃ、仕事の合間にいきなり皇帝陛下からストレッチと称して勝負を挑まれる騎士が弱いはずないでしょ。皇帝執務室の隣に本格的な医務室がある城なんて、ねぇ。でも、陛下が訓練ってわけにもいかないし、俺達も情報収集で奔ることも多いからなぁ」

 傭兵のチュニカに小さく手を振るクロエを眺めながら、アンゼルムは穏やかに笑った。

「まぁ見ていろ」

「何かアテがあるんで? まさか傭兵を抱き込むつもりじゃないですよね? 金さえもらえりゃすぐ裏切りますぜ?」

 言われなくても、今しがた目にした光景だ。

 コートを翻して、クロエを腕の中に閉じ込める。そして騎士ノアベルトと傭兵二人、兵士を5名ほど連れて城に続く門番の腕試しに向かった。

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