08-3束の間の休息
昨日クロエを見送った部屋に踏み入り、アンゼルムは後ろ手で鍵を閉めた。
彼女がせかせかと椅子や荷物を寄せて、広いレジャーシートを敷く。
「あなたはこっち」
中央にクッションやシーツを集めて、突っ立っていたアンゼルムをそこに座らせた。
次にクローゼットやタンスの最下段や、キッチンの引き出しなどから色々な医療用具を引き出してくる。
「治療訓練は君の得意分野だったな」
「地上に来てからは何度か」
「腕がいいという報告が上がっている」
丁度クロエはお風呂場にいた。両手で自分の頬を包む。にやにやと緩んで、鏡に桃色の顔が写る。
「ああもう。おさまって」
ぱんぱんと頬を叩いて、深呼吸をする。
彼の側に戻り、メスや鉗子、剪刃、持針器、注射器などの医療用具を所狭しと並べた。
準備を整え、彼の前に正座をする。三つ指をついて深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
顔を上げた彼女の頬は元に戻っておらず、未だ桃色に染まっている。彼はふにふにの頬を軽く撫で、嬉しそうに優しく微笑んでいた。
クロエの肩も頭も抱き寄せ、額にキスをする。
「麻酔はいらない。効かないからな」
「え。でもっ、・・・はい。では、まず上着を脱いでください」
彼女を解放すると、即座に上着とワイシャツを脱ぎ始める。左腕と胸鎖骨にかけて赤黒く染まった包帯がぐるぐるに巻かれていた。また臍のあたりからズボンの下にも。
クロエが包帯に手を当てると、その下に高熱と不定形のぬめりを感じる。痛みを想像して泣きそうになる。
ぐじゅりと血の滲む包帯がクロエの指を少しだけ汚した。わずかな刺激臭と腐臭も感じる。
「包帯を外します」
乱雑に巻かれたそれをくるくると剥く。だんだん血液に膿が加わり、黒や茶や黄に変色を始めた。
全て剥がされ、はらりと落ちる。腕から鎖骨までの傷は一直線。それが無理矢理医療用ステープラで口を塞がれていた。
ズボンも脱がせて湿布やガーゼを取ると、ステープラの芯がいくつか抜け落ちた小さな傷がぱっくりと開いていた。大量のかすり傷もある。
「こんなっ」
「龍種と神族は互いが弱点だからな。加えてソルデガルドは神の一振りであり、唯一俺との稽古についてこられた学友だ。俺の手の内も読みつくしている。だが、後れを取ったのは初めてだ。君の瞳が俺の姿を愛おしいものとして映すことに、浮ついていたからかもしれないな」
「貴方ならば放置していても、いずれは自然治癒していたでしょう。ですが、処置をしなければ、かなり長引くことになります。下手すれば年単位。発見が早くてよかったです」
頭の中で手術方法を組み立てていたクロエは、マスクをつけてピンセットで一つずつステープラの芯を外していく。
「こうやって君の処置を間近で見る事ができるなんて、感慨深いな」
傷を抉る痛みがかなり強くあるはずだが、アンゼルムは楽しそうに愛おしそうに眺めている。
カラン、カランと鉄が当たる音がする。ソラマメの形をした膿盆という銀色のトレイに、抜歯した針を入れた。
静かな部屋に血の腐臭が広がる。垂れ落ちる浸出液と膿を傷口から丁寧に拭った。
滲んだ汗がクロエの眼の方へ垂れる。アンゼルムは無事な右手で綺麗なガーゼを掴んで拭い返した。
いつも空を見上げてぼんやりしていた彼女が、目にしっかりした強い意志を宿す数少ない瞬間だ。
帝国に連れて帰って囲いたい気持ちを抑えられずにいると、クロエは患部の下に洗面器を置いて、焦げ茶色の瓶を取り出した。日本酒の一升瓶にも似たそれの中身を、躊躇いもせずに傷にかける。
アルコール周に似た刺激臭の透明な液体が膿や汚れを流し、傷に満遍なく沁み込む。しゅうしゅうと煙が上がり、傷は悲鳴を上げる。
洗面器に落ちた液体を手ですくい、まだ清め切れなかった傷にゆっくりとかけなおす。
アンゼルムは顔色一つ変えなかった。
零れ落ちた液体を素早く拭い、傷口をガーゼで軽く拭いていく。
「傷を侵食していた聖なる力は消えました。痛みはどう?」
ずっと脳の端を占めていた鈍痛が引いていく。痛かったのが嘘のようだ。
「ああ、いい具合だ」
「よかった」
傷口が高速自己修復力を取り戻し、縫おうと針と糸を用意している間に塞がっていく。
「もう、大丈夫そうね」
ほっと胸を撫で下ろし、汚染されたガーゼや包帯を大きなビニール袋に放り込んでいく。
胸元とスカートに腐蝕した血液と肉の切れ端が散っていたため、その場で脱いでビニールに捨てた。
薄いピンクの花柄をした下着姿になったクロエはお湯を沸かして、患者を清めていく。真剣な彼女を邪魔しないように、アンゼルムは揶揄いたくなるのをぐっと我慢した。
「こんなところかしら。いまベッドに運ぶから」
「構わない。自分で歩ける。君は自分の事をしなさい」
ひょいと立ち上がった彼の傷口は既にほとんど塞がっていて、自分の足でクロエのベッドに歩いて行って座った。
「凄い回復力。流石ね」
くすくすと笑いながら洗面器を抱え、自分を清めるために風呂へとクロエは消える。
「まったく、あの娘は。怪我人には欲情されないとでも思っているのか?」
ほのかに香るベッドに身を投げる。シャワーの音が遠く聞こえる。身体をこする音、髪を洗う音。
クロエに触れることもできず、ずっと雑誌を眺める事しかできなかったアンゼルムには十分に艶めかしく感じた。
「いかんな。思春期か、俺は」
寝ころんだまま天蓋を見上げても、彼女の香りに包まれていることに変わりはない。先程見た彼女の白い柔肌が忘れられない。
やがて考えることを辞めた。
不用心にも鍵がかかっていない風呂の扉を躊躇いなく開き、足を踏み入れる。
まさか重傷だった病人が思いの他ぴんぴんしているとは思っていないクロエは、水音で彼の侵入に気付けなかった。
後ろからぎゅっと締め付けられて息を飲む。
「アンゼ、さま?」
ざあざあと彼にも湯がかかり、髪や服を重くしていく。
「えっと、その。すみません。まだもうちょっと時間がかかります。どこか痛かったりしますか?」
振り向こうとしてもぞもぞとクロエが動くので、抱きしめる力を緩めた。
彼女は胸を隠し、上半身だけでそっと振り返る。頬を赤くして、アンゼルムが何がしたいのか理解しようとしていた。
シャワーの熱い湯が絶えず肌を撫でていく。額や頬に張り付く髪の毛が、彼女を妖艶に見せる。
アンゼルムはこの行為の意味を分からせるように、優しく彼女の顎に手を添えて上を向かせる。
「っ、私、婚前には、っ」
余裕のない彼の前では無駄な足掻きだ。抵抗する暇も与えられず、話の続きは彼の口づけに飲み込まれてしまった。




