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08-1束の間の休息

 怒涛の様な数日が終わった。

 翔はようやく自宅に帰り、皇帝陛下付きのシェフが持たせてくれた見たこともないくらい分厚いステーキを、フライパンで温めなおして食べた。

 久しぶりにゆっくりとふやけるまでお風呂に入って、自分の布団に潜り込んで眠る。

 そう、眠ったはずなのに。

 眼前に広がるのは、中世の西洋を思わせる石造りの立派な橋。中腹だけ丸く広くなっていて、真ん中にベンチがあった。

 見上げると大きな白亜の城が橋の向こうに聳え立っている。下を覗けばぐるりと城を囲む大穴があり、何故か水が一滴もない。もう片方の橋のたもとには守衛室があって、その向こうには栄えた街が広がっている。

「往生際が悪いですよ。クロエ姫様」

 周囲には翔以外に人はいなかった。だがその声を聴いて慌てて振り向けば、太目で高貴な服を着た大きな男達が、クロエを橋の欄干まで追い詰めていた。

 全員に魔獣の耳や尻尾、手足などがあって、明らかにヒトではない。

 唯一完全なる人型をした彼女は、高い所が怖いはずなのに欄干に登り、あろうことか大穴に背を向ける。

「貴方が夜の国の者をこちらに連れてきたのですね」

「いいえ。いいえ。違います。でも、はい。私についてきてしまったという意味では」

 どよめきと共に誰もいなかった場所に街の人達が現れる。

 そんな彼らも人ではなく、様々な種族だと一目でわかる。悪魔もエルフもドワーフも魔女も。ゲームに登場する魔獣の様なものさえも理性的に振る舞っている。

「それがどういうことかわかっているのですか」

 他人との衝突を好まない筈のクロエは、持っていたナイフを鞘から抜いて自分に向けた。

「私は、彼らと同じ、です」

「おやめなさい。何をおっしゃっているのか、判っていらっしゃるのですか。貴方は皇帝の后になられるお方。この国の美の基準であり、彼らとは似ても似つかない。それとも、アレらを知性ある文明人だとおっしゃるのか?」

 太い大理石の欄干をまた半歩後ろに下がり、見ている人たちをハラハラさせる。

「長い時間を、私は『魔女を狩る魔女』として生きてきました。誤って天使として崇められ、本質を知って恐れられ、醜いバケモノだと侮辱されました。人か人に非ざるかは関係なく、何度も殺されてきたのです」

 煤のようなもので汚れた彼女の質素なドレスの腹に複雑な文様の光が現れ、貴族たちは焦って彼女を止めようとする。

 でもクロエは聞く耳を持たない。

「ああ、純粋が故に騙された」

「なんと愚かしい」

 すると民衆から彼女の不理解を侮辱する声が聞こえ始めた。

 それが波紋を広げていく。しかし彼女は儚く笑って、お腹の紋様の中央にナイフの先を宛がった。

「貴方がたに祝福をさしあげましょう」

 貴族も民衆も顔を青くして、走り寄って彼女の足を握った。

 彼女が命を失えば、ジギスヴァルド第一王子が創った炉は自壊する。

 これからの国の方針に影が落ちることになるだろう。彼女は戦や思わぬ天災で生活が不安定になった時の補助電源だというのに。

 おだてておけば、愚かな姫君は手のひらの上で転がると思っていた。

 だがその思惑は外れて、彼女の薄い腹は自らが持つ刃で裂かれた。

 赤い鮮血が服を染めていく。激痛を堪えて、彼女は声を上げずに泣いていた。

「折角、女を好まなくなった皇帝陛下が后を選んだというのに・・・。やはり心が優しすぎると、夜の国に洗脳されるのか」

 側にいたお爺さんが小さく呟いた。

「議員は何をしていた。彼女を夜の国に近づけるなんて」

「騎士たちは何をしていた。夜の国に行く方法を誰が教えた」

「そもそも、誰が夜の国の事を教えたのだ」

「姫様。ああ、姫様」

「くそ。留守を任されたというのに。私は悪くないぞ!」

 口々に責任を押し付け合う者達を尻目に、翔は違和感を追う。誰も彼もが口にする犯人は、きっとこの騒ぎを見ているはずだ。

 ワイワイと罵りあう者達の後ろに隠れるように立つ男が一人。黒いフードの下から覗く口を、侵食された月のようにして弧を描かせている。

 翔に気付かれたことを知っても、ただ唇に人差し指を当ててシィと息を吹きかけるだけだった。

「姫様!」

「姫様!」

 痛みで意識を飛ばしたクロエの首に、橋の下から躍り出た黒い触手が絡み着く。力を失った手や足や腰を支えるように、さらに何本もの触手が巻きつく。

「クロエ!」

 叫んでも声は届かない。まるで記憶読みをした時と同じだ。

「化け物だ!」

「下を見ろ! なんだあの量は!」

「ヒィッ! この世の終わりだ!」

「穢らわしい! 逃げろ!」

 橋の逆側にもその触手は持ち上がって、存在をアピールするようにふりふりと揺れる。

 民衆は街へ逃げていく。貴族たちは城へと走った。

 クロエの華奢な身体は浮いて、大穴に連れて行かれる。

「アア、痛いだろう。すぐに治療を」

 聞き取りにくい雑音交じりの声がした。まるでガスを吸ったような不穏な声色だ。

 気持ち悪さに耳を塞いでいると、傍を容疑者の男が走り過ぎる。橋の下へ躊躇いもなく飛び降りて消えた。

 どこか見覚えのある体格だが、記憶が混乱して特定ができない。

 するすると彼女も大穴に降りていく。丁寧に、丁寧に、壊れモノを扱うように触手たちに運ばれた。

 翔は欄干に走り、その下を覗き見る。

「っ」

 ぐんにゃりと目の前が歪んだ。

 たくさんのバケモノがこちらを見上げている。笑っているのか、驚いているのかすら分からない触手の化け物。太い舌と大きな口、そして大小さまざまな目が視界いっぱいにいるために、空間が歪んだのだと錯覚したのだ。

 中には目が潰れている者もいて、真っ黒な肌が引き攣って引っ張られていたり、内臓が入らないくらいガリガリに痩せすぎていたりしている。

 そんなバケモノ達の中に、クロエは連れさらわれた。

「ッ、クロエっ!」

 叫んでも聞こえない。それは翔がこの時間この場所にいない人間だからだ。

 獣や虫に似たバケモノや、幾何学的な形をした動くものが、クロエを憐れんで連れて行く。

「待って! 待って! クロエを連れて行かないで! 俺の妹なんだ!」

 そう叫ぶと、翔の姿が見えず声も聞こえない筈なのに、触手たちの眼が一斉に集まる。ぞわっと背筋が凍った。

「食べはしない。しかし帝国の昼にはいられない。私達といることを選んでしまったから」

「・・・選んだ?」

 ヴェンディゴというアンデットの統括者である巨人が、大きなドアをくぐって城から出て来る。

「夢見の少年。彼女の傷は我らが癒す。安心しなさい」

 彼の後ろからも、意思疎通ができない歪な獣や魔物が出てきて、次々に橋から飛び降りる。

「龍は見境なく敵を配下にした。それは正しく優しいが、根本を間違っている。光と闇はどうしても相容れない。昼と夜は棲み分けねばならない」

 ウェンディゴは欄干に足をかけて、翔の方を流し見た。

「この時間の彼女は神の国で、一つ目のひずみを開いた。心しておくことだ。君は信用できる者だけを頼りなさい。弱き者たちに殺されたくなければ、力を持ちなさい。さもなければ、いずれ寝首を掻かれよう。それが龍種の宿命だ」

「ウェンディゴ様?」

 下から先に行った者たちが呼ぶ。

「ああ、今行く」

 ウェンディゴがぴょんと大穴に飛び込むと、触手たちと共に深い所に潜っていった。

 分からない。まずここはどこなのかすら分からない。

 でも彼女が翔の前から、皇帝の腕の中から奪われたことだけは確かだ。

「ええっと、そうだ。王様に言わなきゃ」

 そう確信した途端に、その夢に足元から罅が入って穴に落ちた。

 はっと眠りから覚める。見慣れた天井。ここは現実だ。

 頭が痛い。凄く凄くリアルな夢だった。

「王様に、言わなきゃ」

 パジャマのまま、寝ぼけまなこでベッドから落ちる。

 時計はまだ4時38分を指している。しかし二度寝なんてしていられない。アラームを解除し、慣れた手つきで素早く支度を整える。

 ウェンディゴが言った『夢見』というものがどんなものか、翔は知っている。

 完全なる『未来視』ではないが、対策をしなければ高い確率で現実になる高等魔術。そう魔術書にあった。



 寒い朝が明ける。通勤ラッシュの時間だ。会社の前をゾンビのようにふらふらと人間達が一方向に歩いていく。

 ぞろぞろ、ぞろぞろ。ぞろぞろ、ぞろぞろ。

 二階の廊下一面に嵌め殺しされたガラス越しに、アンゼルムは見ていた。

 人間はかくも無害になったのか。どこか失望にも似た感傷を抱く。

 昔、彼らと戦った。神と混ざった者さえいた。

 戦いを生き残った人間は龍の目、角、足、鱗、肉。余すところなく喰らい尽くす。

 奴らに喰われた親戚は、一人二人ではない。今もどこかの博物館に角から作られた剣や、魔眼をはめ込んだ盾が飾られている。

 心臓を喰らい、死を克服した者は、まだ死に方を求めて彷徨っている。

 一度は、奴らを根絶やしにすることを望んだ。純粋なる武勇として。

 それが『母なる大地』に唆されたものだったとしても、アンゼルムは人間を強者として認識していた。

 人間はある種において強かった。死に物狂いと言うものは、往々にしてありえない活路を見出す。それが実に面白い。

 北欧の街を襲って領土を広げたことも懐かしい記憶だ。歴史には災害として残っているが、紛れもなく龍種の仕業。

 当時、人間達の目は生きていた。生きるために、愛する者を生かすために剣を奮った。

 だが今はどうだ。

 ふらふらと歩く奴らは、それほど幸福そうではない。真の幸福を見つけていない。

 だが、神父は彼らをよく働かせていた。うまく調整して、フォローしてやれば、あんなに生きがいを持って真面目に働くらしい。

 今を生きる人間は環境に生かされ、環境に殺される。

 それがこの日本に住む人間の特性と言われれば、なんとも面白い。あれだけ剣を奮い、馬に騎乗して、秩序と蛮勇あるいは暴走を繰り返していたというのに。

 人間種としての連帯感はもはや消滅している。人間種以上の脅威を忘れてしまったからだろう。

 いつの時代も人間種に共通するのは、幸せに強く餓えていること。

 与えてやれるなら誰でもいい。あの不幸でいっぱいの目に、欲しいものを与え、甘い蜜に付けてやれるなら、それこそ悪人でも悪魔でも。

 だが完全なる庇護下に置くべきではない。

 人間の良い所は、最後まで抗う気骨と貪欲さ。

 たとえ地震や津波が来ようとも、いつの日か暮らしを立てなおし、幸せを探す道へ戻る。魔法や魔術がつかえなかろうと、その生きざまは太く短いからこそ素晴らしい。

 だが父王ゲレオンはそれを許さない。ロマンがないのだ。

 ただ血を求め、全滅を望む。

 強い相手との鎬を削る、噴火する岩漿のような楽しみはそこにない。赤く明くこの身さえ焼く、あの激しい快然たる闘争はない。

 逃げ惑い、請い願う者を殺して何が楽しいのか。

 絶望に漬かってもなお燃え滾る焔こそが、ヒトであるというのに。それを消してどうする。

 幼いアンゼルムはそんな王に作られた、希望を摘む大量殺戮兵器だった。

 もしあの龍殺しの英雄に出会わなければ、強者に勝つことの喜びを知らなければ、あるいは循環する命や文明の輪の存在をクロエから学ばなければ、きっとゲレオン前王と同じ末路を辿っていたことだろう。

 だからこそ『母なる大地』の望む、『これからの地球上全ての生は、平等に祝福し尊ぶ』という意志を飲み込むことができた。

 アンゼルムは歩いていく人間を見下ろしながら、僅かに恍惚として口角を上げる。

「いつか必ず」

 あれらと同じ人間だったクロエは、アンゼルム王子によく問いかけをした。

 自分が考える事ではないと返すと、怒るでもなく卑下するでもなく、ただ現実を知らされない若い王子を憐れんだ。

 彼女はいったい何が言いたかったのか判らなくて、判らなくて、何の仕事も手に付かず。

 剣を振って苛々していたところに、ジギスヴァルド兄上の手紙がやって来た。

 検閲済みの手紙の中に、どうやって混ぜたのだろうか。内容は永世中立学園の入学案内だった。

 存在だけは知っていたが、帝国にはおよそ関わりのない、遥か彼方の奇特な者だけの機関だ。

 この世の全ての学問を知ることができる。それだけに知識欲が収まらずに国へ戻らない者も年に数名発生する。そのため敵視する支配者もいる。

 ゲレオン王もそのうちの一人だった。

 クロエは頭もあまりよくなくて、よく選択肢を誤る。しかし付け焼刃でも知識量においてのみ、全く太刀打ちできなかったのが悔しかった。

 アンゼルムは入学を即決した。そして世界を知ったのだった。

「ん?」

 ぱたぱたと何かが廊下を走る音を耳がキャッチした。アンゼルムがいるのは二階ホールからは死角だ。

 顔を出すと、汗を掻いた翔とばっちり目が合う。

「よかった! いらっしゃった!」

 走り寄って来た翔の右の眉に、キラキラと光る粒が煌めいていた。それを見ただけで、彼が夢で何かを覗き見たのだと察する。

「流石、兄上の息子か・・・」

 ぜえはあと膝に手をついて肩で息を整える。そして夢で何を見たのかを全身全霊を込めて説明した。

 きっと卓越した『夢見』の能力者であれば、関係者に伝えないだろう危うい内容だ。知らされたアンゼルムの方がそう思った。

「クロエが夜の国につく、か」

「夜の国って何ですか? あの触手たちと何か関係が?」

 考えられない事ではない。寧ろ彼らの存在を知れば、彼女は真っ先にその街を見に行くはずだ。

「彼女自身の置かれてきた環境を考えれば、妥当ではある。いずれ俺も選ばされるということか。そして翔、お前も」

 そうアンゼルムは独り言を呟く。

「選ぶって、何を?」

 汗の煌めく翔の眉から、キラキラの砂粒を払う。するとつい今しがたまで臨場感たっぷりだった夢から現実味は消え、遠い夢のように一気に薄れた。

「クロエを助けないと」

「悪い予知夢を変えたいと願うのは、正当な感情だ。だが、立ち止まって考えよ。それを変えられることを本人が望んでいるか」

「だって、彼女はお腹を自分で刺して。それに貴方から引きはがされて、クロエが幸せになれるとは思えないんです」

 その頭をぐりぐりと撫でられる。アンゼルムは優しい笑みを浮かべていた。

「ああ、そうだな。これ以上の嘘を吐くなというそのお告げは放置しない。だが彼女を奪うのが奴とは。ははは、まさにダークホースだ」

「・・・嘘?」

 何かを悟った上で焦ることもないアンゼルムに、翔は言わなければよかったと思った。愛する人が失われる事を、どうして肯定できるのかが全くわからない。

 辛いことが待っているなら尚更だ。それなのに、彼はその運命を否定しない。

「お願いします。クロエを助けてください」

 肯定も否定もせず、皇帝陛下はただ微笑むだけだった。

 その眼がふと外に向けられる。

「噂をすれば」

 この建物の玄関からぱたぱたと、蒼いリボンの大きな白い帽子が走り出てきた。守衛から見えないように花壇の中に入っていき、水撒きのポンプの上に乗る。そのまま塀の上までよじ登って、その先の高さに怯えている様だった。

「しかし、誰が彼女に道順を教えたのか」

 スカートが引っ張られて黒いぱんつを晒しながら、ゆっくりゆっくりと細い両腕で自分を支えて下ろす。その下にはプラスチックの大きなゴミ箱があり、軽い彼女は難なく乗った。

「くくく、なんだあれは」

 まるでコメディを見ているようだ。

 プラスチックの箱から降りた彼女は、守衛室の前をかがんで進み、通りへ飛び出した。帽子に頭を押し込み、ズレたサングラスをかけなおす。

 小さな兎のポシェット一つで飛び出した彼女は、横断歩道を渡って向かいのカフェに入っていった。

「そこで終わりか」

 アンゼルムはタブレットを呼びだし、メールに『外出する』とだけ記入してオーレリアに送る。

「王様!」

 夢の内容を伝えた途端に、彼の雰囲気が変わった。何か悪い決意をさせてしまったようで、夢見の能力の恐ろしさを思い知る。

 必死に叫ぶ翔に手を振って、彼は階段を降りて堂々と玄関を出て行った。

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