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07-1螺旋くれたセカイ

 お風呂上りでつやつやの肌。この鏡はいつも誤魔化すことをしない。

 一昨日から眠り続け、ようやくさっき起きたばかりの彼女の胸元に、珍しく大きなストレスを表す出来物ができた。

 クレンジングで念入りに洗い、膿も消えて赤い腫れだけが残っている。

「・・・ああ、情けないなぁ」

 モデルになってから出来た、初めてのニキビだ。

 己を戒めるために、あえて鎖骨も露わなワンピースを着た。正確には着ざるを得なかった。

 起床して部屋のクロゼットの中を見ると、いつの間にか趣向が180度変わっていたのだ。露出の多い大人な衣装ばかりだったのに、フリルを基調とした服で視界が埋め尽くされている。着方の分からないものも少なくなく、首を傾げながらようやく白と黒で統一されたワンピースドレスを身につけた。

 胸元は台型に開いているが、腫れ物はかろうじて隠れている。

 髪の毛も丁寧なハーフアップに編み上げ、大粒の宝石があしらわれた飾りをぱちりとつける。

 続けて、さっきまで寝ていたシーツを撫で、ベッドメイキングした。

 溜息をついてお腹を摩る。貞操守護魔術を失ってから、ここに誰でも簡単に触れられるようになった。そう思ってしまうと、どうにも心もとない。

 だがこれが普通の人の感覚なのだ。

 耳にタコが出来るくらい、ヴォルトミュラーがココを犯したいと囁いていた。こんな風にしたい、あんな風にしたい。アレを挿れたい、コレに犯させたい。

 自由にならない肢体を撫で廻され、舐め上げられながら、具体的に説明して、顔を歪めることもできないクロエに嫌がらせをしていた。

 怖い。手垢がついていそう。お風呂に入って赤くなるまでこすっても、どこかまだ汚れている気がする。

「・・・穢れてはいるのよね。知らない男達に触れられたから」

 自分の肩を抱いて、少しだけさすって自分を鼓舞する。

 でも彼らに囚われていた時は、重い沼の底にいるようだった。

 契約を喪失した今では、感覚が非常に鋭敏になっている。冷蔵庫のオレンジジュースを一口だけ飲んで、その酸味と甘さに身悶えしたくらいだ。

 以前と比べて、思考もはっきりしている。四肢が自分のモノだという確信があって、神父に命じられた修道女の禁止事項に恐怖心もない。

 ちらりと流し目で、ゴミ袋に詰め込まれた三つのアイスの殻を覗いて溜息を吐いた。抑圧からの解放に酔いしれていたとはいえ、少し食べ過ぎだったかもしれない。黙ってさえいれば、多分オーレリアに怒られないだろう。

 目を閉じて大きく深呼吸した。

 オレンジの花飾りがついたミュールに足を通し、長い尾のぬいぐるみを抱いて部屋をこっそりと出ようとした。

 特に理由なんてないけど、なんとなく先生のぬいぐるみを扉の横に置く。

 廊下には珍しく誰もいない。閉じる扉にぬいぐるみの尻尾が挟まった。

 走り出したいくらい体が軽い。エレベーターの上ボタンを押して、その場でステップする。

 近くの階にいたらしく、すぐに到着のベルが鳴った。素早く乗って、屋上を押す。

 エレベーターのディスプレイに表示された時計は、真夜中を差していた。

 ご機嫌に深呼吸をすると、エレベーターの扉が閉じた。

「迷って、迷って、歩いてきたけれど、ようやく私は、私だけ」

 誰の歌でもない即興曲を口ずさむ。誰もいない自分だけの空間だと思うと、心が跳ねて頬が上気する。

 一人のライブは誰にも邪魔されずに最上階に行きつく。屋上の一段下の階に止まった。

 エレベーターのドアが開くと、そこは真っ暗。少しだけ怯んだけれど、わくわくの方が勝った。

 背後の明りを頼りに降りると、無情にも扉が閉じる。

「うぅ、暗い」

 ぺたぺた。冷たい壁に手を当てて、月明りに向かって階段を登る。屋上のドアの窓に、たくさんの仄かな明かりが当たっていた。

 早くその先を見たかったけれど、扉はきちんと施錠されている。ポケットから出した小枝を鍵穴に当てるとカチリと開く。

 扉を開けた瞬間に暴風が髪と肌を撫でて引っ張る。目を閉じてやり過ごすと、炉ビラを閉じてゆっくりと足を出した。

 銀の髪が風で暴れる。彼女は深く深呼吸をして星空を見上げた。

 地平線の向こうが少し明るいけれど、街の方が煌々と白く光っているから判りにくい。

「星が、遠い、けど・・・いけるかな」

 建物の終わりに手すりが取り付けられている。そこに腹を寄り掛からせた。

「見て・・・ください、エーヴェルハルト様。星、です。見えますか?」

 空に釘付けだった目が次第に降りる。眼下に広がる街の強い光に目がくらんで、また上げた。

「・・・ねぇ、誰でもいいから、声を聴かせて」

 両手を広げて、故郷より少ない星を仰ぐ。誰一人として、声は聞こえない。

「契約が原因じゃなかったの? もしかして、みんな、死んでしまった? 私が、消化して、しまっ、た?」

 手すりから離れ、見上げたままお腹を両手で摩った。何度か大きく大きく深呼吸して、解呪を決心した。

「剣を取れ、槍を取れ、杖を構えよ、矢をつがえよ。私を護りなさい、我が騎士達」

 両手を開いて空を見上げた。身体中に満ちていく魔力が、彼女の周りに仄かな光を纏わせる。足元に輝く魔法陣から草花が生まれ、徐々にそれが広がる。

 しかしその光が眩いものとなった途端、突如として腰にバサリと龍羽根を出現させる。

「ッあ」

 かつて彼女が持っていたものより黒く大きく、それは羽毛よりも風を捉えた。いつもとの違いには気付いたクロエだったが時すでに遅く。羽の異変を確認しようと顔を背後に向けると、それは大きく羽ばたき、意図せずに足が地を離れた。

 空に堕ちる。そんな恐怖を感じたクロエは、屋上の柵を必死に掴んだ。

 運よく両腕が引っかかり握りしめる。慌てるとそれだけ翼が羽ばたいて、さらに空へと落ちていきそうになる。

 腰や足が強く空へと引っ張られる。靴が抜き取られ、夜の街に舞い上がった。

 クロエの細腕はすぐに限界に近づいた。腕の力を強化しようとするが、この300年間魔術の全てを神父の命令に依存して来たため、杖なしに上手く発動させられない。鍵を開けた小枝も床に落ちていた。

 落ち着いて、落ち着いて。自分に言い聞かせたが、つるりと右の指が滑る。

 左腕だけで支えられる筈もなく、捻じ切られて空に舞い上がる。暴風に煽られて、クロエは目を強く閉じた。

 同時にガンと金属を強烈に叩く音がして、クロエを黒い手袋が掴んだ。

 彼女の靴がビル壁を叩きながら落ちていく。

「深呼吸をしなさい。ゆっくりと」

 恐る恐る目を開くと、クロエはまだ辛うじて地面と繫がっていた。

 彼は絶妙なバランスで手すりに乗って、彼女の腕を引いて抱きしめる。クロエの下半身は空にさらわれたまま。

 金の瞳に豊かな微笑みを浮かべたアンゼルムが、クロエの腰に腕を回している。必死に彼の高そうなスーツを強く掴んだ。

「吸って、吐いて。・・・私としては、このままずっと抱きしめていてもいいが」

「っ、私は嫌ですッ」

 背中に強くしがみつきながら反対の事を言って、クロエはすうはあと深呼吸した。

 すると龍羽根が落ち着きを取り戻し、次第に腰から下が重力を取り戻していく。足が降り切る前にお姫様抱っこすると、大きな羽が丁寧に折りたたまれた。

 手すりから飛び降りたアンゼルムは、屋上の入口に向かう。

「縮小」

 彼のたったその一言で、クロエを覆うくらい大きかった龍羽根が徐々に小さく縮んだ。ぴんと伸ばしてようやく踝につくサイズだ。

 屋上の扉は勝手に開き、二人を迎えて閉じられる。

 階段を降りて、空の見える踊り場にアンゼルムは座った。

 膝の上に座らされたクロエは、指を組んで首を垂れ、シスターが祈る姿で謝る。

「・・・申し訳ございません。空が、あまりに綺麗で」

「許そう。君は変わらないな。かつても観測所の屋根から落ちた、七度も。いずれも蝙蝠を蟲網で捕まえようとしていたのだったな」

 顎を持ち上げられると、恥ずかしくて目を逸らす。

「だが、その謝り方は好みではない。ヴォルトミュラーがさせていたのか?」

「も、申し訳ございません」

 組んでいた指を崩し、胸の上で手を重ねる。その健気さに彼は優しく笑った。

「星読みとは今時珍しい。君は占いに興味なかった筈だが」

「・・・アンゼルム。その」

 そっとお腹に手を当てて、言い淀んだ。腹のこれは大きな爆弾だ。クロエを好きだと言ってくれている彼に言ってしまったら、きっと大事になってしまうだろう。

 見捨てられる可能性だって大いにあるのだ。

「ああ、そうだな。・・・俺はその方がいい」

 突然言葉が砕け艶っぽい声色に変わり、クロエはびくっと震えた。そんな彼女のキラキラ光る髪を一房指に絡めて、月明りに照らす。

「君の事は何でも知っている。珈琲シロップと牛乳を混ぜたものが好きだが、牛乳や乳酸菌にすぐ胃腸をやられる。身につけないが、ひまわりのモチーフが大層好きだ。おや、俺の瞳と同じ色だな」

 彼の優しく包むような笑顔に、クロエは眉をひそめて俯いた。寒かった屋上とは違って、彼の体温がクロエを包む。

「なに、それ。バカみたい」

「君のおねしょ地図も見たことがある」

「アレは貴方の意地悪のせいで、夜中にお手洗いにいけなくなって!」

 クロエは顔を真っ赤にして両手で隠す。アンゼルムはそれを無理矢理こじ開けた。

「絶対に幻滅なんてしない。だから、隠さずになんでも言ってくれ」

 アンゼルムは片足を立てて、それにクロエの足を引っかける。

「あ、え?」

 アンゼルムは手袋の指先を噛んで外し、クロエの浮いた足先や足裏を摩って温める。てのひらには真新しい火傷の痕があった。翔の腹から聖剣を引き抜いた後遺症だ。

「っ、汚い、のに」

「いや、綺麗だよ。だが、氷のように冷えているね」

 クロエはキッと睨み上げた。どんなことをされたか知っているくせに。先生が禁じてくれたお腹以外は、すみずみまで真っ白に汚されたのに。

 穢れた自分を抱いて、肩をガリガリと掻いた。

「っ、私は、神父の、奴隷、で」

「毎日三食。俺の選んだ帝国の食材だけを使って、オーレリアに料理を出させた。人間の皮膚は4週間、腸の細胞は5日程度で生まれ変わる。奴らに触られた場所は、既に老廃物として捨てられている。俺の我儘で、極力男に触れさせないようにも命じた。だから君は王宮庭師が腕によりをかけた白薔薇のように美しいんだ」

 初めての討論の時に見た熱い瞳だった。彼には珍しく僅かに頬が上気している。

「君は綺麗だ。この俺が手入れをさせたのだから」

 クロエは嗚咽を繰り返して涙が落ちた。アンゼルムはそれを舐める。

 小さな右手を彼の鎖骨に当てて、するすると首の後ろまで登らせ、額を彼の肩に当てた。

 鼻をすするクロエを抱きしめてなだめる。

「先生と、奥様、もういない。でも貴方やオーレリア、翔君だっている。それなのに、私はまだ、っ、せんせ、っ、っ、に」

 アンゼルムは閉じ込めるように強く抱き締めて、ガラスの向こうに輝く星空を睨みつけ深呼吸を一度だけした。肺にクロエの甘い香りが吸い込まれる。

「クロエ。ジギスヴァルド兄上は滝になど落ちておらず、転移装置で我らの領域を離れた。逃亡の幇助も、移住先での安全保障などにも私は手を貸している。意図的に君に情報を伏せていたが、全ては兄上の希望だ。それでも俺は、君を大いに傷つけた自分が許せない。すまなかった」

 クロエは強く彼を押して離れる。大きな目いっぱいに涙が溢れ出してぽろぽろ落ちていても、アンゼルムをしっかりと見上げた。

「・・・協力の、対価は?」

「兄上と君の婚姻解消、そして父という立場で俺と君との婚姻承諾をすることだ。この計画の主旨は、どんな罪を犯してでも、帝国を滅ぼそうとしている父上を止めること。その為に兄上は全ての罪を被り、国力強化のために君という炉を完成させようとした。最短方法として、君を下等生物に下げ渡してまで・・・」

 涙に濡れそぼった少女の右手が彼の胸元を握る。300年分の恨みを込めて、300年前と同じように、彼女は皇帝陛下を睨みつけた。

 しかしなんで教えてくれなかったのかとは言えない。

 もし教えてくれていたら、ゆりかごの中から無理に出ることはなかったか。

 ・・・いや、そんな都合のいいことはない。

 きっと信じなかった。

 年に一度のお出かけで意地悪ばかりする第二王子を、大勢を見抜けない子供のクロエには信用できなかった。

 もしアンゼルムを信じていても、あの時は周りの全てがジギスヴァルドの敵だと思っていた。

 だから、結局は同じ末路を歩んだだろう。

「先生は被検体にあえて本来の実験内容を教えない場合があると仰っていた。娘とまで言ってくれた私も、今までの被検体と何も変わらないのね」

 ジギスヴァルドもステラも家族だと思っていた。ただ力になりたい一心だった。家族と言うものは助け合うものだと思っていたから。

 でも生きている彼らに辿り着けなかった。彼らには、そもそもが被検体と合流する必要がなかった。

「・・・わたし、ばかだわ」

「兄上の甘い顔には誰しもが騙される。奥方もその一人と言えるだろう」

 握りしめていた右手を緩めて、彼の胸を叩く。痛くもかゆくもないが、心にはずしんと響いた。

「・・・ごめんなさい。ずっと・・・本当はっ、っ。私っ、は、貴方が、せんせ、をっ、殺したと、っ。ごめんねっ、アンゼ」

 あの日謁見の間で、彼女はかなりの殺気を放っていた。あれは虚構にしがみつく女の目ではない。青年を仇とした者の目だった。

 二人だと意地悪だが、公の場でのアンゼルムは誠実だと知っていたが故に、『滝に落ちた』という一番の虚偽報告のみを信じてしまった。

 小さくなって震えるクロエを前にして、アンゼルムはふっと笑う。

「当時も随分と言われたものだ。だから気にしないでくれ」

 なんでもないように笑う彼を直視できず、クロエはさらに小さく縮こまる。

「怖がらなくても大丈夫だ。俺を責めた貴族は、今でも城でごまんと働いている。だが、まぁ、この様に謝られたのは初めてだが」

「・・・いいえ、いいえ」

 俯いて髪で隠れた向こう側から涙が落ちる。悲しくて、愚かな自分を責め立てる。そんな後悔や同情が、アンゼルムにとっては居心地がよく恍惚とするほど堪らない。

 髪で隠れたクロエの頬を撫でた。

 彼女がアンゼルムのことを大切に想ってくれているからこそ、話しておかなければならないことがある。

「クロエ。もう一つ、聞いて欲しいことがある」

 心を決めるために、彼女の服の裾を僅かに掴んだ。

「龍帝は二人目の子を作らない。それが宮中に伝わるしきたりだ。諍いの芽を摘むのが目的だが、我が父ゲレオン前王は后に俺を産ませた。どうしてだと思う?」

 質問に応えるために涙を拭うクロエ。彼女が見ていないことをいいことに、アンゼルムは一瞬だけ父への怒りに歯を剥きだした。

「・・・君の先生は父上似だ」

「そう、なの?」

 クロエは目を瞬いて、視界をクリアにする。その小さな仕草さえも愛おしい。彼は思わず微笑んでしまう。

「先生の子供、・・・翔君と同じことを。まさか」

 彼女が正しく選ぶためには必要なことだ。だが、出来るなら言わないでいたかった。

「ゲレオン前王は后を眠らせ、子宮に手を加えた。王の墓に眠る生前最強を轟かせた龍王の肉体や魂から、DNAや結晶を抽出。子宮の幼体に注入した。第二子だから、死んでしまっても構わない。最強の龍を創るために、恐らくジギスヴァルド兄上も研究に参加していたと思われる。・・・母は、生まれたばかりの俺を見て悲鳴を上げたと伝え聞く。それ程に醜悪だった」

 驚いて真ん丸な目をして、クロエは動かなくなった。その頬を撫でる熱い手は、彼女を離すまいと首の後ろに回り込む。

「およそ龍とは言えない、いや生き物とも思えない醜悪な姿だ。どちらかというと異界の者達に似ている。母は恐怖し育児放棄した。メイドや使用人にさえ気持ち悪がられていたよ。小さな箱に閉じ込められて、食事の時間だけ蓋が開く。長さの違う手足で藻掻いて、嫌悪と揶揄でいっぱいの使用人を見上げた」

 胸の前で腕を小さくまとめて、クロエは軋む心の痛みを堪え抱き締めている。そのいじらしい姿にアンゼルムも胸がいっぱいになって、今にでも食べてしまいたい。

「憐れに思った兄上が、変化術の会得適年齢を満たさずとも教えよと宮廷魔術師に命じてくださった。そうしてようやく人権を得た」

 自分の服を破いてしまいそうなくらいに、クロエは握りしめる。歯を食いしばって、まるで自分が受けた仕打ちのように悲愴に満ちていた。

「人並み以上の容姿を得ても、宮中の者は俺の本当の姿を知っている。今の君のように俺の気持ちを考え、共に傷ついてくれる者はやはりいなかった。ただの一人でさえ、だ」

 またクロエは俯いて、肩も落としてしまった。

 ふとアンゼルムの脳裏に黒蝶が過った。あの小さな存在と同じようにクロエに縋っている。誰を嗤うこともできない。

 あの日のクロエは、煌びやかな舞踏会の世界に居ながら、一人ぽつんとつまらなさそうにしていた。

 二言三言話し、図星を差された小さな彼女は、照れるようにアンゼルムへとはにかむ。

 それはメイドや貴族たちがする、美しく整った上っ面だけの笑顔じゃない。かつて虐めていた男が強大な龍に成長し、仕返しを怖れて怯える引き攣った笑みでもない。

 この世の何よりも美しい、混じり気なしの純粋な微笑みだった。

 あの日、あの時。思わず所有の口づけをしてしまった。すると彼女は何のためらいもなくアンゼルムの頬を叩いた。

 荒事ばかりの日常を生きるアンゼルムにとって、女とは媚びる者、あるいは戦地で献上された怯える者だ。そしてそのほとんどが貞操を売り渡し、命だけでも助かろうとする者ばかりだった。

 しかしクロエはアンゼルムを見て、怯えるどころか噛みつく。理不尽に立ち向かう。

 舞い上がっていた所に兄が現れ、この手では欲しいものを掴めないと思い知らされた。見初めた彼女は、よりによって兄の縁者であり、名実ともに婚約者であった。

 第一王子ジギスヴァルドは全てを手に入れてきた。彼ばかりを可愛がる母の背中を、アンゼルムは遠くから眺めることしかできない。母が存命中、その笑顔を終ぞ見る事はなかった。

 稽古で学友と肩を並べ、将来を語りあってみたかった。兄は研究者として名を残していったが、アンゼルムは父王に強さのみを求められ比類なき実力を魅せた。

 しかしようやく嘆きは終わる。ジギスヴァルド第一王子の所有物だったクロエが、この手の中に堕ちてきてくれた。

 彼女はこんな小さくて弱くて。それなのにもうアンゼルムを包み込もうとしている。

 奪い取るタイミングは、今しかない。

 髪の上から隠れた額にキスをすると、潤んだ目を伏せたまま顔を上げてくれた。

「俺は第二王子であり、皇帝だ。変化の術が解ければ怪物にもなる。きっと苦労を掛けるだろうし、君を怖がらせることだろう。君に嫌われてしまうことが怖くてたまらない」

 クロエの両手を握り込み、唇に強く押し付けて目を閉じる。

「それでも君が欲しい。君以外考えられない。心から愛している、クロエ。俺の妻になってはくれないだろうか。これは嘘ではない」

 彼女は何度か強く目を閉じて涙を落とす。そしてまたアンゼルムに笑いかける。

「・・・らしくない。嫌だと言わせないって言えばいいじゃない。昔みたいに」

「そんなことをすれば、事あるごとに『言わされたのよ』というだろう。君は」

 小さくて柔らかい身体がくくくくと小気味よく揺れる。

「貴方は趣味が悪いのね。石や棒きれを持たずに、私を追いかけるなんて」

「君をこの腕に閉じ込めるのに、そんなものは不要だろう? ああ、いや。花束を忘れたな」

「ふふふ、今こそ108本の薔薇が必要なのにね」

 うずくまって笑うクロエの髪を撫でて楽しむ。束を一つ取って、彼の唇が迎えに行く。そこにキスをした後に、桜の下でされた時と同じように擦り付けられる。

「もっと必要だろう。かつて薔薇を108本送っていたのだから。そうさなぁ」

「置く場所がないから、そんなにいらない」

 真剣に困り苦笑する彼に、クロエが歯を見せて笑う。

「なんだか。意地悪をしない貴方って、ちょっとかわいいのね」

「返事は待った方がいいか?」

 クロエは目を閉じて首を横に振った。頬をピンクに上気させて、アンゼルムの大きな手に小刻みに震えた小さな手を絡める。

「好きだとか愛だとか、正直もう全然分からない。でも貴方がこうやって温めてくれる。それだけで幸せだなって思うの」

 胸がいっぱいで言葉が途切れた。胸元に縋りつくクロエに、アンゼルムはまだ安心できない。

「よく、考えて欲しい。俺の本当の姿は、君に見せられないくらい」

 いつも自信でいっぱいのアンゼルムの眉間にしわが寄っている。

 自分を卑下する彼を見るのは初めてだ。クロエは目を真ん丸にした後、彼の唇に軽く人差し指で触れて続きを封じた。

「じゃあ、一つだけ聞かせて。においは、どう?」

「幼い頃はかなり酷かったが、今は身だしなみを整えているから、この姿とほぼ変わらない」

 ハの字眉だったクロエはぱっと笑った。

「なら、問題は全くないみたい」

 目を閉じて、アンゼルムの胸に顔を埋めてすうっと嗅いだ。淡いかおりが肺に吸い込まれる。デオドラントの香りなのか、それとも香水なのか、あるいは彼そのもののニオイなのかは分からないけれど、彼女の敏感な鼻は素朴ないいものとして処理した。

 彼の右鎖骨に頬を添わせて、右手を彼の首の付け根に置いた。

「異界の方々は、敵対さえしなければ、ただ私と形が少し違うだけ。貴方が言うように初めは驚いちゃうかもしれないけど、その時は中身が優しい貴方って教えて」

 クロエの髪がアンゼルムの顎に押し付けられ、彼の肺にはシャンプーやオイルの香しい匂いが満ちる。

「私の大切なお友達のミカゲも、ヨグさんって異界の方の息子さんなの。本当はこのビルくらい大きくて、真ん丸お目々がいくつもあってね。豚さんの足をしているのよ。身体はうねうねしていて、ぬるぬるがひんやりしていて気持ちよくて」

「すまない、クロエ。それ以上は嫉妬してしまいそうだ」

 見上げると、慌てて口を手で覆って不機嫌を隠そうとする。クロエは嬉しくて、腰を上げて彼の頭を胸に抱き締めた。

 ふかふかぷにぷにの胸に顔が埋まる。

「私はね、お馬鹿なのよ。あんなに意地悪されて貴方が嫌いだった筈なのに。契約も何もなくなった今では、全部楽しかった思い出なの。ひとつ前に会った時すら、顔の見えない貴方が怖かったのに」

 アンゼルムはごそごそと腰ポケットから小さな箱を取り出す。クロエは彼の頭を離し、足の上に大人しく座った。

 ぱかりと箱を開くと、立体的な彫り物がされた金環が対で収まっていた。それをとうとう彼女と自分の薬指に嵌めることができる。

 驚きすぎたクロエは両手で口を覆ったまま動かなくなる。それをいいことに、アンゼルムは左手を取って、契約の指輪を嵌めた。

「永遠を共に」

 そしてクロエの小さな唇に口づけた。目を閉じてじっと当てるだけのキスだった。

 どちらからともなく離れると、顔を見られないようにクロエはそっぽを向いた。

 指に嵌められた指輪を見た途端に、一抹の不安が湧いた。

「も、もし、浮気したくなったら、私の、見えない、とこで、ッ」

「今の話を聞いた上で、君の事しか見えていない男に、そんな意地悪を言うなんて。クロエはイケナイ子だね」

 耳の中にまで舌を入れられ、ぞくぞくと腰砕けにされてしまう。逃げようと抵抗をすれば、尻をがっしりと掴まれた。

「だって、こういうのは始めが肝心らしいし、最近そういう広告が多いじゃない」

 気に障ったらしく、爽やかな笑みを浮かべているが、腰のくぼみや乳房の下などの弱い所を撫で廻す。べろりと首筋を舐めて、右の首の付け根や耳裏を伝った。

「ちょ、っと」

「300年も君の魅力的なお尻を追ってきて、もはや君でしか勃たないというのに心外だ。今の内に他の女の影などありえないと思い知らせておかないと、これからいろいろと誤解されてはたまらない」

「わざわざ下品に言い換えなくていい! その物言い、昔の貴方そのもの。最低」

 頬を膨らませてぷいっとそっぽを向くと、彼は嬉しそうにクロエの向きを変えさせて、背後から抱き絞める。

「服に手を入れないで。これ以上は嫌いになるから」

 スカートの裾から入り込んでいた手が止まって、残念そうにずるずると出ていく。そのまま優しく頭を撫で、タコのようにクロエに四肢を絡ませる。

 自身がオカズにされていると知らされることには慣れていた。それなのに耳まで熱くて赤くなる。

 彼はふわふわな銀の髪を優しく手繰り寄せて、また口元に当てて嗅いだ。

「貴方はこの髪が好きね」

「ああ、髪も目も、声も素朴なところも、在り方も全て愛らしく思う。気を付けておかないと、俺の為に生まれてきたのだと思い上がってしまいそうだ」

 クロエはゆっくりと目を閉ざす。今は遠く煌めく美しい星より、この暖かさが愛おしい。

「・・・、アンゼルム」

 呼吸と共に膨らんではしぼむ。熱い筋肉で出来たその身体は、クロエを心まで温めた。

 やり過ぎるくらいの悪戯も昔と変わらない。

 でも、あの時以上に彼はクロエを好いてくれている。堪らなく嬉しくて、愛おしくて、まるで全てのモノが出て行ってしまったパンドラの箱の、最後に残った宝物みたい。

 お姫様とは程遠い性格で、王子様にでもすぐ怒ってしまうのに、それさえもひっくるめて愛してくれる。

「・・・幸せ」

「ああ、俺もだ。いつも不機嫌な君を笑顔にすること、君を抱き締めること、君を妻にすることばかり考えていた。何度も夢に見て、目を覚まして脱力したものだ」

「でも、私の解放に皇帝の時間と国費を使うこと、みんな容認しなかったのではないの? 帝国に帰っても歓迎されないかもしれない」

 行くではなく帰るといったことに、アンゼルムは胸を高鳴らせた。帰るべきは人間の国ではないことを、彼女はちゃんと判っている。

「帝国の城壁の特徴を覚えているか? 一々壊さず建て増ししたせいで、街を何層にも隔てた壁だ。身分差別の象徴になっていた10の城壁」

「はい。無くせたらどんなによいかと・・・」

「そうだ。そう二人でよく話していた。敵襲の進軍を都度食い止められるから必要だという意見もあったが、我が国には英雄と呼べる精鋭は多く、住民用の逃走経路も張り巡らせている。防衛も大切だが、国民の生活や交流を豊かにすることも我々の仕事だ。今では城壁は一つしかない。その代わりに街に防衛システムを張り巡らせた」

 クロエは子供のように頬を綻ばせた。

「それは、素晴らしいです」

「ああ。あれから貧民街もなくなった。人間が欲しがっていた『命の藤花』は日の届かない地下水脈に据え、それを護るように日を厭う者達が居住地を広げてくれている。住民もかなり増えて、自治会まであるんだ」

 夢として語り合っていた話が現実になっている。クロエは嬉しくてはにかむ。

「だがな、クロエ。我が国の民は良くも悪くも皇帝や貴族、議員などにいい顔ばかりするのだ。『お陰様で幸せです』としか言わない」

 クロエは遠い過去を思い出す。魚屋さんも野菜売りさんも、本屋さんも子供達も。彼女が第一王子の娘だからなのか、よく不満を零していた。『王様には言えないけどね』や『貴女に言ってもしょうがないのだけどね』とよく言われたものだ。

「そう、ですね」

「君は住民の不満を兄上には言わなかったが、私には話した」

 彼女を横抱きに戻し、髪の毛ごと頬の下を包み上げて、事あるごとに下を向こうとする彼女の眼に自分だけを映す。

「それは・・・。先生は私の提案を、能天気で夢見がちな戯言だと言われるから。でも、貴方は最後まで聞いてくれるでしょう?」

「民は君になら不都合を話せる。強くて権威を持つ帝国の職員より、貴族や騎士より。影の仔山羊達にも親身になれる、弱くて小さな君になら言える。だから、民は君の帰還を待ち望んでいる。早く取り戻してあげて欲しいと、毎年数百万枚の要望書が届くのだ。口うるさい貴族も黙らざるを得ない壮観な景色だぞ。帰ったら見せてあげよう」

 薄桃色の目が涙を浮かべる。何度も手で拭うがもう止まらない。

 大好きな帝国の民たちの為になりたかった。今ではあちらからも望まれているという幸福が、不幸の記憶を押し流していく。

「私は幸せ者ね」

 林檎のように熟れた頬を撫でると、目を逸らしたまま顔を上げる。アンゼルムはその鼻先にキスをする。

「愛している、我が白薔薇の姫」

 そう言葉攻めにしてしまうと、慣れないクロエは少しずつ甘い蜜に浸される。上目づかいでアンゼルムを見ると、彼は嬉しそうに笑っていた。

「ふふ、・・・ばか」

 口から出たのは逆の言葉だが、彼は満足そう。だからクロエも自然と笑っていた。

 アンゼルムの双眸がクロエを黙って見つめている。だから唇にキスをして貰うために、目を半分閉じて見上げた。

 少しずつ距離が近づくのを狙ったかのように、唐突にぴぴぴーっと電子音がした。

 魔導書のタブレットが宙に現れ、画面にオーレリアを映した。クロエは溜まらず、必死に顔を背ける。

『あー、・・・お取込み中、申し訳ございません。参集をかけていた各種族の王たちの多くが拒否。代わりに腹心の部下や、ご子息ご息女を寄越すつもりのようです。いかがいたしましょう』

「想定の範囲内だ。予定通りに」

『では、一時間多めにいただきます。それとシルバーベルン隊とおっしゃる6名の方が』

「ああ、所持品検査は不要だ。私に宛がった部屋に通しておけ。すぐ行く」

 アンゼルムはクロエを抱き上げて立ち上がる。裸足のまま床に下ろすと、彼女の足元にうずくまった。

 彼の両手に、ビルから落ちて花壇に散らばったクロエの靴が転送される。それを手ずから彼女の足に履かせた。

「ありがとう、ございます」

「何か困ったことがあれば、どんなことでもいい。真っ先に話して欲しい」

 もじもじしていた彼女が、途端に一途で熱い瞳をする。

「ねぇ、その・・・、アンゼルムは女の子の、む、胸を育てたこと、ある?」

 胸元で腕をクロスして隠す。

 何を言わんとしているかはすぐに分かった。彼女が控えめな胸を気にしていることは、雑誌掲載までされてしまった周知の事実である。

 意図せずにこにこと満面の笑みになると、クロエは僅かに怯えを抱いた。

『駄目よ、クロエ。形が崩れちゃったらどうするの』

 オーレリアに返答の先を越されて、アンゼルムは逢瀬の邪魔をされた気分になる。くすくすと何人かが笑う声まで背後に入り込んでいた。

 クロエは背を向けて胸元を隠す。なんだか透視して視姦されているような気分だ。

 羞恥に震える彼女の耳に、アンゼルムはこっそりと耳打ちする。

「・・・二人きりの時に試そう」

 段々と不安になって、両手で髪を掴み、顎にくっつける。

「うぅ、お手柔らかに、お願いします。それと結婚前にえっちはしませんので」

「残念。兄上の入れ知恵だな。だが君の口から出ると、こうも愛らしいか」

 掴んだ髪で顔を覆って赤い頬を隠す。

「ほら、隠すな」

「いやだ。絶対私で遊んでる」

 その腰にアンゼルムの腕が回った。

 ちゅっちゅっと首にキスをされ、髪に鼻先を突っ込まれて、すううっと無遠慮に嗅がれる。

 クロエは口に手を当てて、喘ぎ声を押し殺す。彼を喜ばせないように。その全てが手のひらの上だったとしても、羞恥で身動きができないから、そうせざるを得なかった。

「どうもお前には意地悪をしたくなる。許せ」

 髪の中から顔を出すと、見えないのをいいことに意地の悪い顔をしていた。

「嘘、口だけの謝罪。いつもそう」

「・・・クク、バレているか」

 彼女を解放する。指輪の嵌められた左手を取って口づけをすると、クロエの目付きが少し優しくなった。

「おいで」

 優しくお姫様のエスコートをする。

「明日の顔合わせには君も出て貰う。私の婚約者としておめかししてきてくれ」

「はい。かしこまりました。旦那様、がいいのかしら」

 アンゼルムが口に手を当てて俯いた。

「それはちょっと、刺激が強いな。このままベッドに連れ込みたくなる」

「なら、アンゼルム様?」

 判りやすく残念そうにしながらも、そちらにするように命じて腰に腕を回した。

「ああ、早く君と同じ部屋で眠りたい。オーレリアにバレなければいい気もするが、君に怒られそうだな」

「ええ、そうね。ネグレクトのお父様が口を酸っぱくしていたもの。婚前交渉は駄目だと」

「男女を知らぬ兄上の方針なら、無視してしまってもいいと思うが」

「私の事、大切にしてくれないの?」

 上目遣いをするとアンゼルムはノックアウトされる。

「君は自分の武器をよく知っている」

「いいえ。貴方が私に弱すぎなの。嫌いになりそうな意地悪をする勇気はあるのに、本当に酷いことは出来ないってさっき教えてくれたでしょう?」

 クロエの部屋がある階まで降りると、エレベーターのエントランスでアンゼルムの足を止めさせた。

「男の方はここまでよ。おやすみなさい。アンゼルム」

「ああ、おやすみ」

 黄金の指輪をはめた手同士を絡めると、クロエは頬を染めて幸せそうにする。

「うふふ、良い夢が見られそう」

 どんな雑誌でもしていなかった表情で、彼に手を振って背を向けた。

 無理にでも彼女を捕まえて、自室に連れ帰りたい衝動を必死に抑えながら、紳士の顔をして手を振り返す。

 彼女が部屋に入るまで見届け、大きなため息をついたのだった。腰に手を当てて胸を張る。

「婚約相手がバケモノであっても構わぬ、か。神族が怒りそうだ」

 自室に戻ると、すぐにシルバーベルン隊の報告を聞き、作戦開始を指示した。

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