05-2先生の記憶
二つ分くらいの長さがあります。
ふと翔は目を覚ます。気づけばどこか知らない所に立っていた。
魔力が濃く溢れる秋の木々がどこまでも広がっていた。心地よい風にさわさわと木々がそよぐ。
もうすぐ冬がやってくる。どの生き物も忙しなく、冬眠の準備が始まっていた。
一陣の強い風と共に、枯葉がさらさらと雨の様に落ちた。不安が一瞬だけ木のうろをお化けに見せる。土の匂いが充満していて、キノコや木の実が美味しそうだ。
「これはおそらくは魔導書にあった『ダイヴ』かな。引きずり込まれたのは初めてだ」
クロエの記憶とは違う季節だ。そして規模がおかしい。
少なくとも現在位置は300年以上前。座標がズレた理由はそこにあると思われる。当然ながら、こんなに膨大な記憶を相手取ったことはない。
まずは状況を掌握しなければ。
「・・・ん?」
落ちた枯葉に混ざって何かが聞こえる。翔は聴感覚を強化してそちらに向かった。
同じ方向に何かが移動している。どうも落ち葉の下を這っているみたいだ。
「これは・・・虫?」
小指ほどもある蟻や百足、ゴキブリや何かもわからない甲虫。翔と同じく落ち葉を割りながら、カサカサと進んでいた。
噎せ返る血の匂い。誰かが怪我をしている。これは記憶の世界だから、その人を助けられない。それでも足は自然にその大木へ向いた。
「うっ」
蟻、カブトムシのような甲虫、傷口を這うウジと、たくさんの蝶が血を吸っている。
べきりと音がして、人の形をした子供の左肩が巨大な蟻に解体された。
「・・・ぅ」
肉の塊になりつつある子供が小さく声を漏らす。驚くことに、まだ死ねていないらしい。
足元を歩く蟻が持つ塊は、美しい薄桃色の瞳をした眼球。そして異様に短い髪は影が蒼く光沢のある銀である。
「銀髪に薄桃色の目・・・? この色、どこかで見た気が・・・そうだ、クロエを初めて見た時に浮かんだ色。・・・っやられた。認識阻害魔術。こっちが本当の色か」
彼女の四肢はもう動かせない。じがじがと身体中が痛み、耳を介さずにひっきりなしにゴリゴリと聞こえた。
その苦しみと、こうなった経緯が翔に伝わってくる。
熊が出るからと彼女の父は銃を持っていた。一緒に山の奥までやってきて、そこで待っていなさいといったきり、父は迷子になってしまった。
その男親には捨てられたのだと誰にでも判るが、彼女は違う。ずっと父を待っていた。
最初の夜は眠れなかった。野生動物の遠吠えや、木々のざわめきが幽霊の笑い声に聞こえた。バスケットにあったパンで飢えをしのいで、小さくなって気絶するように眠った。
3日目の夜には水がなくなった。迷子の父が戻ってきてもいいようにバスケットをそのままにして水を探しに行った。
水源はすぐに見つかり、瓶に注いで戻ってくると、野生動物にパンが喰い散かされていた。
5日目には残ったパンくずもなくなった。お腹空いた。でも水があるから平気。明日は木の実を探すことにして眠った。
そして6日目。身体が重くて、それでも食べ物を探そうと起き上がったその時に、首根っこを掴まれた。
家畜を持つ時と同じ。そして足音と吐く息の癖で背後にいるのが父だと分かった。
よかった。父は無事だった。
『悪く思うな』
その冷たい声は、翔の耳にもはっきり聞こえた。
村人達が『奈落』と呼ぶ大木の裂け目へ、ぽいとぞんざいに投げ込まれる。
出っ張った蔦や根っこにぶち当たって、クロエはひらひらと落ちていく。耐えがたい痛みに気絶した。
どれだけの時間が経ったのだろう。いつの間にか彼女はこの森に落ちていた。
お腹が空いていて、腕や腰が折れていて動かせない。
生きているのは奇跡ではなく、地獄の始まりだった。
枯葉のベッドはふかふかしていて、虫が肌をつつく。
ちくちく、ちかちか。じがじが、じくじく。まだ生きているのに。バラバラになっていく。彼らはクロエの腹を食い破り、中でキイキイと喧嘩していた。
翔はそんな事まで判ってしまうのに、どうすれば彼女を救えるのか判らずに呆然としていた。
ダメ元で少女の脇腹に乗った甲虫を掴むが、何も感触もなくすり抜ける。記憶の中だから、彼女にも虫にも触れられない。
「・・・っ。誰でもいいからっ」
祈る神を持ち合わせていない翔は、虚空に強く頼み込む。
それが聞き入れられたかのように、突風で枯葉が舞い上がった。大きな影が上空を通り過ぎて行く。
「・・・ドラゴン?」
少し先の空中で小さなものに変化し、森を壊さないように、枝の隙間から着地する。
さくさくと踏み締める音が近づいてきた。
「新しい裂け目のあたり・・・だったか?」
焦げ茶のフードを目深に被った男の声が、クロエの壊れた耳にも籠って聞こえた。
「ああ、これだな」
クロエは足音が父でないことを何となく察したらしい。隠れないといけないと微かな思念が浮かぶ。
呼吸すら自由にならない彼女の首根っこを、その男はぐいっと掴み上げた。ボロリと右手と左足が落ちる。口から歯と血がぼろぼろと零れた。落ちた時の衝撃で顔がひしゃげている。
「ふむ。何が迷い込んだのかと思ったら、・・・これは、人間か?」
ちくちく刺していた虫が払われた。
横にして、少女の腹の大穴に手を突っ込む。体内に産みつけられた卵をナイフで除去し、赤く染まった虫の親を引きずり出しながら回復術をかけた。腕も足も眼孔も、不快感や痛みがなくなっていく。
その手際はすこぶる良い。まるで何十年も医者を務めたベテランだ。
俯くとフードから髪の毛が零れた。下の方だけが金鉱石の様にキラキラ輝いている。
蟲に破られていた鼓膜を治癒されると、低くはっきりした声が聞こえた。
「ゴブリンサイズとは、まだ幼い。それにどこも美しい色をしている。アタリだな」
男は宙に本を召喚して、それに書き込みながら手術を続けた。
四肢は人形のように完璧に継がれ、古傷も無くす。生前から胎にいた寄生虫も駆除し、本人も知らなかった血液の病気も、その場で薬を投与して治療した。
惚れ惚れする手腕だった。最後に血塗れの手をハンカチで拭って手術を終える。
本が自動的にぱたぱたと捲られて行き、とある女性の絵で止まった。
「はい。ジギスヴァルドさま」
「教えて欲しいことがある。国境付近の森で弱った生物を採収しているのだが、自然にできた転移の裂け目に落ちたようだ。いや、落とされたのかもしれない」
治癒は終わり、服を取って持ち上げる。すると徐々に首が締まっていった。
「あ、ぐ」
「ジギスヴァルド様。お傍でどなたか窒息していませんか?」
通信相手が指摘してくれて、事なきを得る。クロエの尻を抱きかかえる。
「驚いた。戦士でない人間は、この程度で死ぬのか」
「人間は腕一本でも致命傷になります」
久しぶりに自分以外の体温を感じた。もともと朦朧としていた意識が深みに降りていく。
「人間のメスですね。それにしても珍しい・・・。突然変異のアルビノ、でしょうか。髪が異様に短いのは、人間達が高く売買しているからでしょう。もったいないわ。きっと最後は伸びるのすら待てなくて、口減らしで捨てたのね。目も抉ればかなりの金額にはなるけれど、破裂させずに取り出すには技術もいるし、脳も損傷するから摘出後の死亡率は100%。施術者は殺人の罪を負うから口止め料も嵩増しされるし、一度で済めばいい方。下手をすれば借金を作ることになるから、懸命な判断ね」
頭を撫でられて、クロエは安心しきって眠りに落ちる。彼の洋服をぎゅっと握りしめた。
「捨てられた可能性が高く、追ってくる者はいないな。研究棟003に連れて行く。お前も見たいだろう?」
「ええ、実は生の人間はまだ見たことなくて。しかもアルビノは身体が弱いから、めったにお目にかかれないのよ。お仕事が終わったらすぐに行きます」
うきうきした彼女の声が切られ、ジギスヴァルドはクロエを優しく抱きしめた。
前触れもなく彼の腰に黒く大きな爬虫類の羽根が生えて畳まれる。
ローブの中に彼女を巻き入れ、屈伸して飛び上がれば、枝の隙間から空へと飛びだす。天空で両羽を広げて羽ばたいた。
「ドラゴンだ!」
翔は目をキラキラさせる。自分も御伽噺に近い力を有しているが、アレは比べ物にならない。神々に匹敵する生き物だ。
そうやって感動していたせいで、翔は一人取り残された。きょろきょろしていると、地面が横に引っ張られて滑りこける。
「・・・乱暴だな」
その場に記憶の主がいなくなったのだから、舞台が消滅するのは当たり前だ。翔は研究室の三階に転移させられていた。
あのまま放置されれば、意識が現実に戻せなくなっていた可能性もあるので安堵する。
3人川になって寝ても快適に過ごせそうな、大きな木造りの天蓋ベッド。閉じられたカーテンの向こう側に、銀の髪をしたクロエが横たわっていた。影は蒼く美しいが、如何せん栄養の偏りから荒れて白に近い。
男は上を脱いでおり、翔は薄いカーテン越しにその筋肉に見惚れた。
「・・・ん」
右腕に管を繋がれ、点滴を受ける痩せた少女が目覚めた。隣で本を読んでいた男は彼女を覗き込む。
薄桃色の瞳は、問題なくきょろきょろと動く。
気持ち悪いのは全部なくなっていて、視覚も聴覚もクリアで痛くない。
「んぅ」
筋弛緩剤を打たれているのか、四肢はぴくりとも動かない。真っ白なTシャツを着せられている。
ごそごそと左の側で男が動いた。
「おはよう」
挨拶をされたら返さないと。母親にぶたれて、次の日の朝ごはんまで食べさせて貰えない。
「あ、ぉは」
うまく言葉が出てこなくて焦る。変な声を出したらお尻を叩かれるのに。
しかし男は叱らずに撫でた。
「お前は親に捨てられた。わかるか? 山に遺棄されて、一度死んだのだ」
二人はいつも怒っていた。早く死んでおしまいって母は叫ぶし、頭の弱いごく潰しって父に怒られていた。
「あぅ」
舌足らずに呻くばかりのクロエに男は手を翳した。舌が何かに無理矢理引き出されると、光で出来た魔術陣が浮かび上がって消えた。
「名乗ってみよ」
「名、前? ・・・クロ、エ」
「それだけか? 人間は皆、姓を持つのではないのか?」
クロエは目をぱちぱちする。
「わから、ない。でも私、身体が弱くて役立たずだから。多分・・・」
「なんだそれは。子に姓を名乗らせぬなどと、お前の親は余程頭がおかしかったのだな」
男は幼いクロエを抱きしめる。体温を分け合うのは初めてに近い行為だ。
「私は帝国第一王子ジギスヴァルド。お前は今日から俺のものだ」
「・・・はい」
実の父母を思い出す。いつかその日がくると判っていた。あの人たちはもう側にいてくれない。実の両親に死ねと思われ、ついにその手で殺されたのだ。
「悲しいか?」
今度こそ意味が分からずにぽかんとした。悲しいか、父母といられなくなって、と言われていることに気付くのに数十秒を要した。
「お金にならなかったの、私。やせっぽちでお馬鹿だから。肌が石鹸より真っ白で、髪もヤギより白くて、目もピンクなんて気持ち悪いから。それが悲しい。私が売れたら、二人ともたくさん喜んだのに。お酒が買えたのに」
「売る、とは。人間は子を売買するのか」
「はい。頭がいいとお金持ちのお客さんが、お金を払って可愛がってくれる。でも私は・・・勉強させるだけ手間がかかるから。痩せているし、気持ち悪いし、お金貰っても要らないって言われた」
この少女は売春宿にも見捨てられた。肉のないお腹を撫でて、たくさん喰わせようと決めた。男はクロエに触れながら始終楽しそうだ。
「明日には全身麻酔が切れる。この足は折れたまま医者に掛からず放置していたのだろう? 悪い接がり方をしていたから、正しく治癒した。腹に巣くっていた寄生虫も摘出した。僅かにだが血が止まりにくい病気もあったので治してある。体力を底上げし、病にもかかりにくくした。ただし、日焼け止めは欠かすな。目が覚めたら風呂に入れ。似合うドレスを仕立てよう」
「・・・はい、わかりました」
ジギスヴァルドは礼儀正しい答えに満足そう。
「今日は寝なさい」
はいと答えると、男はいい子だと優しい声で囁き、額にキスをして離れて行った。
ジギスヴァルドは傍に浮かんでいた魔術書を手に取る。
人間は同士討ちを是としている。例えば『魔女狩り』と称して、同じ人間をも炎にくべては、苦しんで死んでいくのを楽しむ。あんな醜悪な生き物はそういない。
この娘はそんな奴らにさえ能力が劣ると判断された。見る限り魔術回路も貧弱だ。
しかし素養基礎値は並の数千倍。短時間での虫の集まり具合から、元々の気質が自然のマナに好かれる傾向が見て取れる。
最後に大自然に解体されて死亡したことにより、胎が母なる大地と繫がった。
「神々が作ったヒトは、母なる大地とは無縁の存在。どんなに働きかけても反応は帰ってこないはずだ。だがこの娘は岩漿とリンクすらしている。かなりのレアケースだな」
くくくと笑いながら、細くて肉のない少女の手を撫でた。
「お前達が捨てた子供が、お前達の毒となるか」
ジギスヴァルドは天蓋から伸びるカーテンから右手を出す。机の上に置いてある『ハムスターの飼い方』の本を呼び寄せると、宙を滑って手元にやって来た。
「まぁ、同じ脊椎動物・・・だしな」
研究が行き詰まった気まぐれから、メイドに面白い本を紹介させたところ、これを差し出された。もふもふの可愛いハムスターがお気に入りだという。
ただの傍観者になっていた翔は、カーテンを開いて出てきたジギスヴァルドを見て、驚きに腹がキュッと縮こまった。
下半分が金鉱石並みにギラギラしている焦げ茶の髪に、金の瞳。ここは300年以上前なのに、あの日銃で撃たれた時より、少し若い程度。
「父・・・さん?」
目の色こそ違うが、顔はまさに父、藤間龍堂その人である。
「だから、クロエは俺を先生って・・・」
ハムスターの飼い方の本を熟読して、クロエを飼おうとしている姿が、自分の知る父とは重ならない。
しばらくすると細い枝のような角に小さな飾りをたくさんつけた美しい女性がやってきて、怒ってジギスヴァルドから本を取り上げる。
しゃらしゃらと金属のぶつかる綺麗な音がする。
「殿下。これはあんまりです! ハムスターと一緒くたにするなんて!」
「待て・・・ステラ。違うのだ。先日メイドに面白い本をだな」
「問答無用です」
ぷいとそっぽを向いた女性も。翔には見覚えがあった。
「まさか、ステラって・・・母さん?」
ステラはクロエを覗き込み、嬉しそうに撫でる。
「ああ、なんてかわいいの。人間はこの子を愛らしいと思わないのかしら」
「食い繋ぐので精いっぱいなのだろう。まぁ、娼婦にしようとはしていたようだが」
すうすうと眠るクロエを起こさないように、ステラは柔らかく抱きしめた。
「明日、ドレスを見繕ってやってくれ」
「じゃあ、お腹の子の・・・、この世に生を受けたという順番では妹だわ。ああ、嬉しい。お兄ちゃんが生まれてくる前に、妹までできるなんて」
翔の鼻がつんと痛くなり、涙をこらえる。
あの日突然話ができなくなった二人が、目の前でいきいきと会話している。不可能なことは重々承知だが、その中に混ざりたかった。
そんな感動ばかりしていたから、『お兄ちゃん』という言葉に気付くのが遅れる。
「待って。腹の子って・・・」
ステラは自分の腹を愛おしそうに撫でる。
「妹はひ弱な人間なの。護ってあげてね、お兄ちゃん」
何故クロエを護らねばならないと強く思うのかの正解がそこにあった。彼女は妹であれと母が望んだ女性だったのだ。
両手を握りしめて、ぐっと目を閉じた。両親が翔に護るように望んだ妹。合点がいき、腑にも落ちた。大きく深呼吸して目を開く。そして妹は必ず守ると拳に誓った。
「ん? あれ? 俺は人じゃないのか?」
そんな疑問をようやく浮かべた翔の後ろに、こつこつと少女が近づいてくる。
「あの・・・どう、ですか?」
幼い少女の声がして振り返る。
白いワイシャツと緑色のエプロンドレス。黒いタイツに革製のブーツをはいた幼いクロエが、もじもじしながら翔を見ている。人間の母により切り落とされていた髪は、ジギスヴァルドの薬によって肩まで伸びていた。
「あ、えっと」
一歩二歩後ずさりをしていると、代わりに翔の身体を貫通してジギスヴァルドが足を踏み出す。黒く軍服に似た重い正装を身に着けた彼は、クロエの周りを歩きながらまじまじと観察する。
「ステラ。君の見立ては正しかったようだ」
「思った以上に可愛いわ。連れて歩いたらきっと、悉く男の子たちの目を奪うわね」
翔の母はコートをジギスヴァルドに着せる。きらきらと細かな金刺繍が煌めいた。
周囲には白い柱や壁があり、外を見ると高い城の中のようだった。金細工や高価そうな美術品が至る所にあしらわれている。
「あの、せんせ」
「クロエ。私の事はお父様と呼んで欲しい」
「私はお母様と」
ベッドに座るステラの腹は少しだけ出っ張っていた。
「そして、この子はお兄様よ」
「でも私は人間です・・・」
「・・・お前が何と言おうと、私達はお前を実の娘として扱うつもりだ」
騎士達や研究員、貴族に対する時と同じ鋭い瞳でクロエをたじたじにさせる。
「怖いお父様ねぇ」
「龍族は子が生まれるのに数百年かかる。その間に意識を変えさせてやればいい」
ジギスヴァルドに抱き上げられてステラの隣に座らされると、ぎゅうっと抱きしめられた。膨らんだお腹に手を当てると、ステラの手も重なる。隣にジギスヴァルドが座って、クロエは挟まれた。
「私達の娘だ」
何年分の幸福をたった数日で得ている状況に怖くなる。声もなく泣き始めた彼女にも、こんな幸せな時期があったのだ。
ほっこりとしていた翔は、突如として何かに弾かれ転倒し世界が暗転する。近くに生き物の気配が全くない。
「ヤバいな。迷ったら出られなくなるぞ」
目を閉じてクロエの気配を追う。かなり遠くに見つけたので、手を伸ばして掴んで引き寄せる。
「それは・・・いけません。御師様」
ジギスヴァルドに行く手を阻まれ、壁に追い詰められたクロエは今にも泣きそうだった。顔と腰の横に腕を突いた壁ドンだ。
少し成長したクロエは中学生くらいの見てくれになっていた。翔を遠くに置き去りにしたのは、あまりに他人に見られたくない記憶だからかもしれない。
「頼む、クロエ。一度でいいんだ」
何を言っているんだアンタはと、翔は思わず叫びそうになった。
「臥せっていらっしゃる奥様の代わりに、パートナーとしてパーティに出よとはあんまりです。奥様がお可哀想。パーティとは正式な奥様、あるいは婚約者でないとだめなのではないのですか」
娘としての同行ならまだ赦せた。しかし、婚約者・・・つまり将来は側室になる女として出席しろと言われては、困惑するしかない。
「・・・そこは大丈夫だ。ステラが臥せっていることはみんな知っている。だから、いてくれるだけでいい。主賓である神ノ国の外交官にはどうでもいいことだ」
「しかし・・・こんな変な色で魅力も何もない私ごとき、貴方が笑われてしまいます。帝国の百合とまで言われる、奥様の代わりなんてできない」
両手で左右の髪を掴む。そして下を見るとすとんとした胸と床が見える。ステラの大きな胸をみた後では、クロエなど貧相極まりない。
「容姿は申し分ないし、気になるなら体型はごまかせる。お前の目も髪も肌も素晴らしい。皆見惚れることだろう」
「うそ、嘘よ。帽子を被らずにここを出たら、きっと石を投げられます」
なおも拒否し続けるクロエは、ジギスヴァルドを真っ直ぐ見上げた。必死のその様相に、彼女は悪いことをしている気になってくる。
「・・・奥様に会わせてください。奥様から頼まれたら行きます」
「そうか! おいで」
すぐに腕を引いてジギスヴァルドは速足で彼女の部屋に向かう。クロエは転びそうになりながら必死に足を動かした。
あの天蓋付きベッドの中で、ステラは顔を真っ赤にして息も荒く眠っている。
「今ようやく眠られましたので、面会は・・・」
耳のとがったメイドが二人を部屋から追い出す。
繋いだ小さな手が震えている。ジギスヴァルドは使いたくなかった次の手を執行した。
「これは師としての命令だ、いいね」
有無を言わせない言葉に、これ以上は抵抗できない。クロエは腰を抱き上げられ、問答無用で連れて行かれる。
「クロエは私が嫌いか?」
「いいえ、大好きです。先生も奥様も大好きです。だから、私がいることで生まれる不和が嫌い。二人目の女性の存在はよくないと本にも書いてありました」
「不和か。クロエは難しい言葉を知っているな」
首に抱き着いたまま、クロエは目を閉じる。本当は彼を男性として慕っている。けれど、美しく優しい奥様がいるから。彼女には幸せになって貰いたいから。
彼女が大変な時に断りもなく側室にするなんて、もしかしたら恨まれてしまうかもしれない。いやだ。彼女にだけは嫌われたくない。
彼は研究室の階段をどんどん登っていく。最上階の彼の部屋に入ると、目が潰れそうなほど光に溢れた部屋だった。壁も柱も白く、窓の外は今まで見たどの景色より高い場所だった。
いつのまにか城にある第一王子夫婦の部屋に転移している。
床にも金が散りばめられていて、天井には雲を侍らせる黒い東洋龍の絵がある。
「綺麗・・・」
クロエはベッドに寝かされ、起きないように指示される。ジギスヴァルドは三本の筆と絵の具箱を持ってきた。両手を顔の横に置いている無防備なクロエを覗き込む。
ぷつりとボタンを外す。その内いくつかが毟り取られた。
「だめ、ですっ」
ワンピースのボタンが全部外れて、下着姿にされる。
「大丈夫。ただ君が不安なようだから、鍵をかけておこう」
パレットに魔力を含んだ呪術用の絵の具を出し、へその中心から柄を描き始める。
「ンっ・・ぁ」
筆が白い絵の具で文字と絵と線を腹に刻んでいく。クロエは息を上げた。
翔は彼女を助けたかった。でも、父にも思う所があるのだと自分を律する。
「貞操守護術。これで、誰も君を抱くことは出来ない。これなら手が出せないと判る。彼女はそんな邪推などしないだろうが、ステラだって理解してくれる。君の危惧することは起こらない」
絵の具が白く発光して肌に定着し、消えて行った。同時に快感に喘いでいたクロエもこらえきれずに意識を失った。床に垂れる幼い脚を透明な粘液が伝って落ちた。
「・・・私は悪い師だな」
机の上に置いてある契約書を持って来て、クロエの指へ近づけた。するとパチパチと赤い火花が散ったので、翔は側に寄って覗き込む。
「・・・えっと・・・側室婚姻、同意書っ?」
それには彼女をいずれ娶ることに同意すると書いてある。
「ここまでする必要が・・・ある、パーティなのか?」
「すまない。クロエ」
どうして父がこんなことをしているのかが判らなかった。この人は仕事一筋、母一筋で、女に転ぶような人ではない、はずなのに。
「・・・娘を弟に奪われないためにここまでするのは馬鹿親だ。しかし、アレは女の扱いがよくない。きっと君に・・・手を出してくる」
つまりはアンゼルムに奪われないために、自分の側室として登録をしたと言い訳したいようだ。
翔は少しほっとしたが、他にもやり方があっただろうと憤りも感じた。あれのせいで、クロエはいつか娶られると思って苦しんでいる。
同意書をくるくる丸めて、クロエのはだけた服を綺麗に戻す。大きな布団に横にして、掛け布団をかけた。
「お休み。愛しいクロエ」
額にキスをして去ろうとしたジギスヴァルドは、扉の前で立ち止まる。
もう一度戻って来て僅かに躊躇い、あろうことか唇にキスをした。それは義理とはいえ、娘に対しての感情ではない。
「・・・父さん、アンタ」
聞こえていないのは重々承知の上で、何かを言ってやりたかった。しかしまた眩暈がして、記憶が暗転する。
ドレスやキラキラした装飾具で着飾ったクロエは、壁に尻をくっつけてシャンデリアを見上げている。パーティ会場で一人になってしまったようだ。
落ち着いた紺の綺麗なレースのドレスを身にまとっても、大きくて青い髪飾りをしても、成長限界は人間の物。
周りに立っている龍族の女性はすらりと高いし、おっぱいだってお尻だっておっきい。
でも、瞳や髪の色を馬鹿にする人は皆無だった。
はぐれてしまったら動かないように言われていた。だから外を眺める。
「・・・ここにいていいなら、私いなくてもいいじゃない。はぁ、退屈」
部屋に戻って教科書を読みたい。人間の文字は読めないけれど、龍族の文字なら難しいものも読める。クロエの読む魔術書は最高位のもので、人間でいう神の領域なのだそうだ。
そんなことどうでもいい。たくさん勉強して、たくさん先生の役に立つのがクロエの夢。だから、こんな変なパーティなんてどうでもいい。
そんな彼女の方へ足音も大きく、それでいて質のいい黒いスーツをきた男がやってくる。傍のにやけた男をぞんざいに振り払った。
彼の機嫌が直るまでそっとしておくことにしたのか、コバンザメをしていた者は散る。
「はぁ、戦というものがどれだけ退屈なものかも知らぬ癖に」
奈落より深い黒髪が彼の腰を撫でている。それは帝国の敵が恐れる第二王子アンゼルムだ。会ったら逃げろと言われていたが、まさかあちらから近づいて来るとは。
眉間にしわを寄せて、どうもイライラしているみたい。クロエの周りにはいない新しい種類の人だった。ぷんぷん怒る彼を観察する。その不躾な視線に苛立ちで返す。
「なんだ?」
「いえ。・・・殺すのが退屈なら、殺さなければいいのではないかと」
クロエは真ん丸目をして、ただ思いついたことをつらつらと述べる。
「生き物は殺さなければどこまでも自分勝手に動き回りますし、それを御す方が殺すより何倍も大変です。退屈はないでしょう。それに殺すと技術も死にます。例えばエルフの国の伝統技術で作られる傷薬や織物も、彼らを殺せば手に入らなくなります。生かせば技術は継承されて昇華されますから」
「お前は戦争反対派なのか?」
クロエはぶんぶんと首を振った。
「申し訳ございません。私は戦争と言うものが分りません。ただ、私達が1から10に辿り着こうとした時に、2から9の技術が失われるのは悲しいです」
そう言ったっきり、また外を眺め始める。話しかける前に普通は挨拶をするものだが、彼女はそれさえも頓着していなかった。
母は寝込んでおり、父は社交界が大嫌い。ルールの伝授をしないままだから、彼女にはわかりようがない。
「ふむ。お前の方こそ退屈なのではないか?」
図星を突かれて、クロエがにへらと笑うと彼は驚いた。隣に背をつけて彼女を観察し始める。
「お前は美しい声をしているな。それに可憐だ」
「・・・は?」
ようやくクロエは彼をはっきりと真正面から見上げた。怪訝な顔をしている。
「なんだ。言われたことがないのか?」
長く伸びた髪を両手共に握り、きゅっと首にくっつける。表情は『何だコイツ』と言わんばかりだ。素直にころころ変わるそれがまた面白い。
傲慢な青年は、クロエの顎を掴んで引き上げた。
「ああ、兄上が入れあげている女・・・か」
何を言っているか判らなかった。あの同意書の存在は、意図的に彼女へ知らされていない。正式な書類では、クロエは婚約済みの側室とされていた。
「名は?」
「クロエと申しま・・・」
その隙を狙われ、ちぷと唇を奪われる。クロエは目を見開いて驚いた。いけないと判っていたが、手を振り回して彼を突き飛ばそうとする。
頬をパチンと叩くもアンゼルムはびくともせず、満足してようやく離され、転げてスカートがめくれ上がった。
必死にスカートを引き下げるが、折り目がついている所を引っ張っているので、太ももの裏が隠れない。
それに手を差し伸べたのは、こうした張本人だった。
むっとしたクロエは立ち上がることを思いつき、その手を払ってスカートを踏まないように立ちあがった。
「おかしな娘だな。普通は手を取るだろ」
「お生憎様です。私は偉い方達のマナーなんて知りませんから」
本当に楽しそうに笑う彼に背を向けて離れようとした。
「こら。お前はここにいろ」
彼はクロエの腰を抱いて引き留める。腕を必死に剥がそうとしてもピクリともせず、頬を膨らませる。
「降ろしてくれませんか?」
クロエの足は真っ直ぐ延ばしてようやく床につく位、片手で引っ張り上げられている。
「降ろせば逃げるだろう?」
「当たり前です」
「ならば断わろう。お前はここにいろ」
そうしてクロエの知識量を計ろうと色んな質問をしてきた。それを翔は近くで眺める。
何がしたいのかわからなかったが、彼の出す難しい問題を楽しそうにクロエが解いていく。彼女の緊張がほぐれていくにつれ、翔には二人が微笑ましく感じる。何度か声を荒げて言い合いになったが、おおむね楽しいひと時だった。
「・・・本当は負けず嫌いなんだな、クロエは」
2時間近くは話していただろう。突然ぱちぱちと拍手が巻き起こる。王様が締めの挨拶をして、少しずつ退席が始まる。
クロエに絡んでいた第二王子は、細くて白い手を取って膝をつく。
周囲の人たちが一気にざわついた。目下の者に膝をつくなどあってはならないと、大臣や使用人が諫めるが聞く耳を持たない。
「クロエ。私はアンゼルム。帝国の第二王子だ。兄の側室ではなく、私の正室になってほしい。私なら君をこんな風に退屈させない」
「・・・そくしつ?」
何が起こっているか判らなかった。あと少しでベッドに戻れるのに。どうして求婚されているの?
握られた手を引きはがしていいのかわからない。
「ぁ、ぅ」
どもってばかりいると、美しい顔でにっこりと微笑まれる。その間に大きな体が入って手を引き剥がされた。
「何をしている」
「御覧の通り、求婚ですよ。兄上」
アンゼルムは立ち上がり、笑いながら兄に手を差しだす。
「ステラしか見ていない兄上とは違う。聞けば、彼女の代わりというではないか。側室契約の存在すら知らないようだ、可哀想に」
そのことは雑談から推測した。
「わ、私」
ジギスヴァルドはじっとクロエを見下ろす。怒られると思った。野生生物に間違った接し方をしようとしたときの目と同じで、冷たくて恐ろしい。
「ごめ、なさ」
決して彼に不利なことを言ったわけではない。自分でも何に謝っているかわからない。俯いて、顔を手で覆った。
「顔を上げて、クロエ」
ジギスヴァルドに乱暴に顎を掴み上げられて、唇を奪われた。ふにふにの唇がくっついている。ぺろっと舌が触れた
「ひゃっ」
驚きに唇が開くと、舌が捻じ込まれる。クロエの舌がそれに『掴まれた』。思わず目をぎゅっと閉じる。
くちゅくちゅと舌であるはずの分厚いなにかに口内を磨かれる。足をもじもじと擦り合わせると、力が入らなくなってくる。
せんせ。どうして。
触られてないのに胸の先までゾクゾクする。下腹部が疼く。薄く目を開くとジギスヴァルドに白目がなく、眼球全体がどろりとした金色になっていた。
手足に力が入らず、まるで蛇に捕食されている感覚。
彼が離れていく。クロエは必死に舌を出しているのに、ジギスヴァルドの舌は喉の奥から一向に抜けきらない。
ようやく離れると彼の舌は首の付け根まで伸びていて二股をしていた。歯は一本一本が尖っていて、まるで爬虫類。
しゅるりと口の中に舌が戻ると、興奮しきった彼の目も人間離れした歯も元に戻った。
「これで満足か?」
「・・・ええ、とりあえずは見せかけの書類ではなさそうだ」
腰が抜けたクロエはへたり込んだ。ジギスヴァルドに抱き上げられる。もう首に抱き着くこともできずに退室した。
その後、クロエは3日間部屋から出てこなかった。泣いて、泣いて、何が悲しいのかわからなくて。部屋の前に置かれるご飯も食べなかった。
翔は早送りで日が滑っていくのを窓越しに見ながら、彼女を傍で見守っていた。
4日目の朝、元気になったステラがドアの前で仁王立ちしていた。
「クロエちゃーん。宣言通り、踏み込みまーす。さん、にい」
脚力を強化した足で鍵付きドアを踏み倒す。ベッドの上で気絶したクロエを見つけた。
「人間は本当に弱いわよね。3日飲み食いしなかっただけでこんな」
抱き上げて一階に連れて行く。クロエが何故気に病んでいるのかをステラは全て知っていた。
「ショックは大きいわよね。お父さんって呼んでって言ってた奴に、実は嫁にしたいと思われていた上に、べろちゅうまでされちゃって・・・ロリコン」
「誤解だ」
珈琲を飲みながら、ジギスヴァルドはふんぞり返って座っていた。
「何が誤解? 初めて彼女を見た時から、こうなることは察しておりましたよ、わたくし。だってお人形さんみたいに可愛くて、全部が特別であなた好みだもの。何かの拍子に『自分が』手を出さないように、貞操守護術をつけたんでしょう? 最近貴方の理性はグラついていましたからね。クロエちゃんのおしり、偶然を装って触っていたし。ああ、可哀想に。お父さんが認める人じゃないと、好きな人とこっそりセックスもできないわ」
ステラのマシンガントークでの責めに、ジギスヴァルドはたじたじ。
「・・・そもそも婚前交渉は」
「クロエとのキス、気持ちよかったのでしょう? 興奮しすぎて、人前にも拘らず変化が解けかけたらしいじゃない? そんな人に言われてもね」
ソファに横にして、まずは唇を湿らせる。
「ん・・・」
唇が水を求め始めたので、少しずつスポイトで摂取させた。
「貴方がクロエを娶ることに異論はないわ。寧ろ賛成。他の奴に渡したくないもの。でも、アンゼルム殿下も諦めないわよ」
「判っている。しかし、剣を奮い、血を浴び、殺せればよく、権力に無頓着だったくせに、クロエとの歓談から次期王の座を狙っている節がある。新たな戦術を試してみたいと言い出して、アマゾネスの城を無血で落としたと言うではないか」
首や脇、足の裏に薬草の湿布を張って、また水を飲ませる。
「貴方からクロエを奪えるのは王だけだもの。まぁ、そういうことなのでしょうね」
「あのアンゼルムがクロエとは積極的に討論していたと聞いた。触発されて、政治に目覚めたということか」
「流石、私の娘。アンゼルム王子をボコボコに論破したのね。学ばせた甲斐があると言うものだわ」
ステラはクロエを安心させるために、頭や肩やお腹を撫でる。
「もしや母なる大地に愛された『マナの子』だと知れたのではないだろうか」
「お腹にある『岩漿の炉』の使い方はある程度教え込んだけど、そもそも魔術回路や魔術孔が細いのが問題ね」
「・・・おかーさま」
意識を取り戻したクロエがステラを見た。
「クロエ。・・・そう、そうよ。お母様よ。安心して、大丈夫だから」
初めて母と呼んでくれたことに涙ぐみながら、また少し水を飲ませる。ジギスヴァルドは少し罪悪感を覚えていた。
その日から、彼女はステラの事を母と呼ぶようになる。
翔はほっとして椅子に座る。顔を手で覆い、目の周りをマッサージする。少し疲れてしまったみたいだ。
未だクロエの髪を褒めた者が誰かはまだわからない。
不意に喋り声が遠くなってきた。




