一
軒下に吊るした風鈴はちっとも音を立てずに、聞こえるのは蝉の大合唱である。動いていてもじっとしていても、かんかん照りが続く夏の日。沙世は滅入りもしないで黙々と、縫物に没頭していた。
何事にも動じない様は、武家の女の鏡に見えるが、沙世の場合は従来の性格である。
よく言えば穏やかな、悪く言えば暢気すぎる質を、亡き夫には偶に苦笑されたものだ。母ほどではないが、沙世の息子もいささか暢気なところがある。同心にしては尖ったところがなく、先日やっと手柄を立てたばかりの息子にも、沙世は小言一つ言わないで、いつも笑顔で見送ってあげるのだった。
その息子のために足袋を縫っていた手を止めたのは、無性に冷たいまくわ瓜が食べたくなったからだ。井戸の中で冷やしているのを思い出して立ち上がりかけたのを、けたたましい足音が制した。
「奥様!大変です、奥様!」
額に玉の汗を浮かべて部屋に転がり込んできたのは、神山家の忠義者の女中、おとらである。
おとらが些細なことで騒ぎ立てるのはいつものことだった。
「これが、坊ちゃまの部屋に……」
おとらの掌には、一羽の折り鶴が収まっている。なぜ折り鶴が大変なのかと思う前に、沙世は素直な感情を吐露した。
「まあ、きれい」
「見惚れている場合じゃございませんよ、奥様。坊ちゃまが折り鶴を持っているなんて怪しいじゃないですか」
「怪しいって?」
「だって坊ちゃまがこんな殊勝なものを欲しがるわけありませんよ。きっと誰かからもらったんです。どこの誰だかわかりませんけど、好い人でもできたんじゃないですかね」
「そういえばあの子……」
「奥様も思い当たる節があるんですか」
身を乗り出したおとらの顔は、実に楽しそうである。
「朝餉を食べているときに、母上は父上からもらった物で、何が一番うれしかったかなんて聞いてきたわ」
祝言を挙げることが決まったときにもらった櫛かしらと、沙世はそのときの答えとともに、昔を懐かしみそうになった。が、おとらはそれを許してはくれない。御用聞きの伝吉にでも問いつめてみようと意気込んでいるようだ。
「あの子もいい年頃だもの。どんな人かしら……」
まくわ瓜を食べたかったことはもう忘れてしまって、二人は話に花を咲かせる。
風鈴は思い出したように、一度ちゃりんと鳴った。
「へくしっ!」
奉行所の史料室は埃っぽくて仕方ないと心の中でぼやきながら、積み上げられている調書の一冊を仁助はやっと見つけた。仁助が探していたのは、十二年前の事件についてが記された調書である。
文化四年如月の十日、呉服問屋花鳥屋の五つになる娘のうたが行方不明になった。昼の刻、母のおかじが少し目を離した隙に、庭で毬突きをしていたはずのうたが忽然と消えてしまったという。当初は誘拐かと思われたが、一向に犯人らしき人物からの要求もなく、事態はようとして知れなかった。
うたは黙って一人でに外に行ってしまうような子どもではないと、両親は口をそろえて言ったものだが、真昼に忽然と消えてしまったのは事実である。目撃者もいない状況は、先日仁助が解決したおいねという少女が行方不明になった後に殺害された事件に似ていた。しかし、おいねの事件に関しては、おいねの足取りが途絶えたのが繁華な場所であったため、他人の意識の中に潜り込めなかったという状況から目撃者が現れなかったのだが、うたの場合は違う二つの可能性が考えられた。
庭で遊んでいたうたがいなくなるとすれば、庭に面した裏木戸からである。正面口から出て行くとすれば店の中を通らなければならないため、奉公人や家人の誰かが絶対に目撃しているはずである。したがって、うたが消えるとすれば裏木戸からだったのだが、裏木戸を出た先の道は人通りの絶える場所で、目撃者がいないのも道理である。
もう一つの可能性は、言葉通り忽然と消えてしまった可能性だ。
そんな非現実的な可能性を考えてしまったのは、誘拐の可能性が皆無だったからである。
裏木戸の前で寝ているうたが発見されたのは、行方不明になってから五日後の早朝だった。うたは行方不明になっていた間の記憶がなく、何事もなかったように——うたの中では何もなかったのだが、戻ってきたという。うたの身体に傷は一つもなかった。
——もしかしたら、神隠しにあったのではないか……
そうとしか納得のできない、事件である。
調書には現実性のないことは書かれていなかったが、仁助もまた、本気ではないが神隠しなのかと疑ってしまった。うた本人から聞いた内容とも、調書に齟齬はない。調書を見れば何かがわかるかとも思ったが、不可解なままだ。
(この事件を担当したのは……)
「父上が担当した事件ではないか」
当時の同心の名を見つけたまさにそのとき、後ろからかけられた声に、仁助はわっと声を上げる。
彼は音もなく忍び寄ったのか、それとも仁助が調書を読むのに集中していて気がつかなかったのか。驚いてしまったことを少し恥ずかしく感じながら、仁助は彼の名を呼んだ。
「西崎さん……」
そう、調書には西崎兵之丞の名がある。うたの行方不明を担当していたのは、南町きっての町廻り同心と目されつつある、西崎兵馬の父であった。兵馬も仁助と同じで、父の同心職を継いでいた。
「この事件が、どうかしたのか?」
切れ長の鋭い目が仁助を見る。声は普通の調子なのに、威圧するような、尋問するような気配が含まれていた。
同心とはかくあるべきなのかと、仁助は気楽にもそんなことを頭の片隅で考えてから答える。
「いえ……後学のために拝見しただけで。失礼」
兵馬からすれば、父の事件を、しかも一応は解決した事件を調べられたのでは、不快なところであろう。ただでさえ自分のことを相手にしていないような雰囲気が、普段より兵馬から感じられたので、差し障りのない程度でその場を後にする。
記憶をなくしているときに何があったのか、知りたいが自分の正体を知ってしまいそうで怖いと、うたは言っていた。このまま、知らずにいた方がうたのためなのか。はじめはそう思ったが、不透明なままでは、うたは自分が何者かがわからないまま生涯を終えてしまいそうで、できる限り当時の事件を調べてあげたいと、秘かに仁助は心に留めていた。といって、調べる術もないのだが……
「気づかれてはいけない……」
仁助が去ったあと、兵馬は一人ぼそりと呟いた。
*
妹が急に姿を消した。手習い所に行く前には普通にいて、朝餉も一緒に食べていたのに、帰ってきたときには迎えてくれる姿がなかった。
家の中は慌ただしくなって、自分も気が気でなかった。
人々の口から零れるのは誘拐から神隠しへ。妹はどこかに隠されてしまったと、誰かは言う。
早く妹を返して……だけど願いは通じなかった。
帰ってきた妹は、妹ではない。取り替えられてしまったのだ。
……もう一度、隠されてしまえば、本当の妹が帰ってくるかもしれない。だから、雑踏の中で妹の手を離した。
*
うたはこの日、上野は不忍池に足を延ばしていた。亡き友人のために作った折り鶴を、池のほとりに供えるためである。
祈りを捧げ、目を閉じて。目を開けたときには、池一面を彩っている蓮の花が映った。
先月に亡くなってしまったおいねが、再びきれいな姿で生まれ変われますようにと、花に願いを込める。まだ友人を失った傷は消えないけれど、温かい夢中の想い出も残っている。もう見えなくなってしまったおいねに切なくなりながら、うたは不忍池を後にした。
「もし……」
帰る途中に呼び止めたのは、知らない男であった。
苦み走ったいい男。彼を見た第一印象といえば、特に見た者が女性なら、大抵はこう思うところだ。しかしうたは何の感想も持たずに、見知らぬ男を振り向く。
「何か……」
「実は俺、すごく困ってるんだ。見知らぬあんたには関係ないことだが、話を聞いてくれないか?」
可哀そう。話を聞いてあげないと……なぜか心をくすぐられる思いに駆られて、うたは「私にできることなら」と承知した。
すぐそこの店で話を聞いてほしいと、男が促す。
うたは男の後をついて行って、あと少しで男が店の暖簾を潜ろうとしたところで、威勢のいい声が二人の間に割って入った。
「待ちやがれぃ!」
「親分」
今度はうたの見知っている御用聞きの伝吉が、うたの前に出た。伝吉は怖い顔で男を見据え、男はしまったというような、面倒くさそうな顔を背けている。しかし、うたにはこの構図の理由がわからなかった。
「どういう了見でこの子を連れて行こうってんでぃ!言ってみろ!」
「この方、とっても悩んでいることがあるみたいで、お話を聞くところだったんです」
うたとしては伝吉が何か勘違いをしていると思い庇ってみたものの、ふんと鼻で笑われてしまった。
「出合茶屋でお悩み相談とは恐れ入ったぜ」
「親分、何を言ってるんですか?」
「いいか、この店はお前が考えているような普通の店じゃねぇんだ。お前はこの男に騙されたんだよ」
「普通じゃないって……」
とたんに、伝吉の歯切れが悪くなった。
「いや、そりゃあ……って、逃げられちまったじゃねぇか」
男は隙を見て、いつの間にか退散してしまったようだ。
逃げ足の速い奴と呟いた後に、もし自分が駆けつけていなかったらと、うたを見やる。まだよくわかっていないうたが、親分と尋ねてくる姿に半ば呆れ、半ばその仕草が妹のように感じられて可愛かった。
「出合茶屋ってどんな店なんですか?入ってみたいです」
「馬鹿言え!一緒に入った暁には、旦那に殺されちまう……うた、よく聞け。出合茶屋っていうのは、好いた奴と行くところだ」
「好いた方と……」
結局、うたはよくわからないまま、そのときは終わった。翌日、伝吉が……
「ってことがあったんですよ」
と、仁助にうたが騙されかけた件を説明した。
「そうか」
「そうか、って……旦那、心配じゃねぇんですか?」
あっけらかんと答えた仁助に、伝吉は意外に感じた。それというのも、仁助とうたは先日のとある事件で知り合ったのだが、事件が解決した後も、何かと仁助はうたのことを気にかけていたからだ。
うたは長年家に引きこもって生活していたため、世俗に疎いところがあるし、両親に座敷牢に入れられるかもしれないと聞かされてからは、放っておけなかったようだ。
だからその仁助の答えとしては、冷たくも感じられる。
「いい勉強になっただろう」
「だから旦那はお気楽者って言われるんで……」
仁助としては、やっと外の世界を知ったうたが、世間の冷たい部分も知って成長してほしいと、親のような目線で見ていた。でも冷たいだけではなく、ただでさえ孤独なうたに、頼られれば支えてあげたいと、本心は突き放すだけではない。
「あ、旦那。いいところに……」
町廻りをしていた二人を呼び止めたのは、神田須田町の自身番に勤める番太だった。
番太の形相からは、ただ事ではない雰囲気が醸し出されている。
「何かあったのか」
「殺しです」
死体の第一発見者は、長屋の差配である。殺されたのは長屋で一人暮らしをしている、小平次という三十路に差しかかる男だった。
家賃の支払い日から二日が経っても音沙汰がなかったため、差配は小平次を訪ねたという。しかし差配が見たのは……
「こりゃあ、人の毛か……」
異様な死体だった。仰向けで横たわっている小平次は目をひん剥いていて、必死に首に巻きついている何かを取ろうともがいている生前の姿が、今にも浮かぶようだ。
小平次の首にはびっしりと、長い髪の毛が絡みついている。
「あっ……!こいつ、うたを出合茶屋に誘った奴ですぜ」
伝吉は昨日会ったばかりの男の顔を思い出して驚愕する。それよりも仁助が耳を疑ったのは、戸口の外から様子をうかがっていた長屋の住人が発した言葉だった。
「きっと呪い殺されたのよ……」
振り向けば、頷き合う住人たちの姿があった。