九
会いたかった。ただそれだけの想いが、一人の少女を不幸にした。
いよいよ始まる計画を前に、織本は戦慄した。元より覚悟は決めていたはずだが、今になって恐ろしくなるのは、迷いが生じたからだ。それは、薄雲一座の舞台を見たときからである。
「影を殺したのはあいつらに間違いない」
「どうやって……」
織本と月臣は仲間だった。おそらく、仁助も気づいているが、決行されようとしている計画までもは知らないだろう。なにせ、彼は殺人者にされようとしているうたのことで頭がいっぱいのはずだ。
二人は織本が準備を進める、簡素な小屋の中で話していた。
「からくりはわからないけど、あいつらには影を殺す動機がある。……俺への報復だ」
ここでやはりと、織本は月臣の本心を確信した。
すべては舞台に願いが込められていたのだ。
「お前は、どうするつもりだ?」
「俺は……」
「誰だ!」
月臣の言葉を遮り織本が放ったのは、人の気配を感じたからだ。
小屋の扉を開けるなり、織本は相手に斬りつけた。
「…………っ!」
咄嗟に十手を振りかざし、間一髪で織本の斬撃を免れた。二人の会話に聞き耳を立てていたのは、仁助である。
「神妙にしやがれ!薄雲一座が巷を騒がす盗賊とは、お見通しだ!」
「あぁ、やっぱりわかってたんだ」
月臣は驚いた様子も見せずに、いささか暢気に答えた。だが仁助は、拍子抜けもできなかった。二対一で対峙するのは分が悪く、何より剣の腕が立つ織本がいるのでは、絶望的状況に等しい。
「悪いことをしたのは認める。でも、俺を捕まえるのはもう少し待ってくれ」
「何だと……」
「影を殺した犯人を見つけるまでは、死んでも死にきれない。その後は獄門でも何でも、受け入れるつもりだ。あんただって、俺に構っている時間はないんじゃないの?」
逃げたいがための嘘を言っているようには思えなかった。
月臣は弟を殺した犯人を突き止めたい。仁助は殺人犯にされようとしているうたを助けたいと、二人の思惑は一致している。
しかし、織本だけは違った。
「俺は約束を守らなければならない。だから、邪魔なものは排除する」
「待て……」
月臣の制止も聞かず、織本は再び仁助に斬りかかった。織本の殺気が消えていないのを感じ取っていたので、仁助は警戒はしていたのだが、やはり強い。
同心として、十手術を心得ていて、多少の剣の技も持ち合わせている仁助だったが、歯が立たないも同然だった。織本の攻撃を躱すのが精一杯である。
織本は月臣と関係があるようだが、盗賊ではない。盗賊は月臣と影臣の二人だ。では、仁助を殺そうとする理由は何であろうか。彼がうたの空蝉について関わっていることは間違いないが、まだ目的までもを仁助は知らないでいる。
なぜ影臣が殺されたのか。うたが犯人にされたのか。その裏には、とてつもない何かが、渦巻いていた。
「やめろ!」
腹を蹴られた仁助が地面に手を突いた隙に、織本は仕留めの一撃をくり出そうとした。
そのとき月臣には、後方から駆けてくる少女の姿が見えていた。彼女を傷つければ、織本は悔やんでも悔やみきれない。だから月臣は必死に彼を止めたのだ。
刀を振り下ろした先に、仁助を庇おうと彼の前で手を広げるうたがいる。このままでは、うたは斬り裂かれてしまう。そんなことは望んでいないと、織本は寸でのところで動きを止めた。
斬撃は、うたの首を刃先が僅かに掠めただけで、収まった。
もう少しで、自らの手でうたを殺しそうになった織本は、荒い息を吐いている。一歩遅れてしまった月臣はその場に頽れた。
「記憶が戻っていないのに、なぜだ……」
うたには自身の記憶も、彼女の記憶もないはずだ。
「……!」
じっと睨みつけるうたの強い眼差しから、織本も、仁助も悟った。
「うた……」
「何度忘れたって、そのたびに思い出します。私の大切な人は、ここにいる」
待っていた結末は、訪れなかった。ただそれだけのために生きてきた織本は、うたを見て、打ちひしがれている。織本の戦意がなくなったことで、張り詰めていた空気は弛緩した。
「いつ、思い出したんだ」
仁助が尋問したときには、まだ記憶が戻っていなかった。うたがうたであることを思い出したのはいつかと、月臣が聞いた。
「つい先ほどです。仁様がいなくなってから……あの高台で、影臣さんの霊を見たあとで、思い出しました。影臣さんが事件の手がかりになることを言ってくれたから、仁様に伝えなきゃって、それで思い出したんです」
「影が……」
すでにうたにしか見えなくなってしまった影臣は、この世を彷徨っている。やはり影臣は、何者かに殺害されたのだ。
「…………よかった…………忘れられたままならどうしようと……」
仁助は盛大に、安堵の溜息を吐いた。
「ごめんなさい……仁様のことも、皆のことも忘れてしまって……私……」
もしもこのまま思い出せずに、江戸を離れる道を選んでいたら、一体どれだけの人を傷つけただろうか。記憶損失になったうたのことは一切責めずに、側で支えてくれた、大切な人たちなのに……
今だって、仁助は何も責めずに、いつかの記憶にあるようにうたを抱きしめる。また、もう一度。
「……結局、須磨の術は失敗していたのか」
すとんと落とすように呟いた織本に、月臣が言った。
「いや、失敗していなかったんじゃないか。そうだろ、うた」
うたをお蓉と言い張った月臣は、今度はうたと呼ぶ。奇妙な光景だ。
「はい。まだ私の中にいるはずです」
「ならどうして……」
「……はじめから、話してもらおうか」
やや緊張めいた仁助の言葉に、織本は刀を収めた。そして、意を決して話し始める。
「お蓉は、俺の妻だ」
織本は通称を又十郎といい、とある藩の下級武士だった。剣の腕は良かったものの、太平の時代には意味もない。僅かな禄を食む生活だったが、特に不満も持たずに、日がな一日を過ごす平凡な武士だった。
ある日、織本は石を投げつけられている女を見た。女が一方的に石を投げられているのを見て、つかさず止めに入ったのが、お蓉との出会いである。
『私ね、幽霊が見えるから気味が悪いみたい』
それだけの理由で石を投げられていたお蓉が、哀れだった。しかも石を投げていたのは、両親を亡くしたお蓉を引き取った親戚で、ことあるごとに虐められているという。
『誰が何と言おうと、俺はお蓉のことを、気味が悪いなんて思わない』
お蓉にはこの言葉が衝撃的だった。実の両親以外で、そんなことを言ってくれたのは、織本だけである。
二人は自然に惹かれ合った。お蓉が哀しい思いをするならと、織本は国を出る決意をする。お蓉がいなくなっても彼女を嫌っている親戚が追いかけてくるはずもなければ、下級武士の一人が出奔したところで、織本もまた、追手などかからない。
人里離れた田舎で、二人は夫婦として生活した。だけどその生活は、二年で終止符が打たれた。
夫婦になって一年目にお蓉が病気になり、その一年後には亡くなってしまったのだ。
織本は哀しみを紛らわすように、人混みに溢れる江戸にやって来た。
いくら人混みが多いとはいえ、哀しみは消え去ってくれない。いっそのこと、死んでしまおうか。そうすればお蓉に会えると思い始めていたとき、神社の境内で兄と遊ぶ、うたを見つけた。
瞬間、織本に生気が宿った。うたの容姿が、お蓉にそっくりであったからである。
江戸に来たのは運命だった。
須磨に話しかけられたのは、そのときだ。
『貴方の恋しい人は、まだこの世を彷徨っているわ。私なら、その人を蘇らせることができる。器があれば、ね……』
はじめは半信半疑だった。
空蝉という術で、うたの身体にお蓉の魂を入れる。十二年後、うたの中に眠るお蓉が目覚め、蘇ってくれるなど、荒唐無稽な話だ。
『その代わり、貴方にしてほしいことがあるの』
須磨は何十年も前に、将軍によって取り潰された鷹取家の末裔であるという。そして須磨や、他の末裔たちが徳川幕府の転覆を計画していると、織本に打ち明けた。月臣と影臣、西崎家もまた、鷹取家の末裔であった。
『計画は十二年後に決行する。そのとき、貴方には力になってもらうわ』
お蓉を蘇らせる代わりに、計画の手助けをしてほしいと、須磨は持ち掛けた。
——あの人に会えるのならば、どんなことだってする。
織本は須磨の話を承諾し、お蓉が目覚める十二年間は、江戸より離れた場所で身を潜めていた。そして十二年が経ったいま、また江戸に舞い戻ってきたのである。
「お蓉さんが目覚めようとしているときに、須磨たちがうたを攫った……それは家人にうたは殺されたと思わせるためだとして、どうしてあんたがうたを攫ったんだ」
仁助は緊張を崩さずに、月臣に尋ねた。
「うたが中々目覚めなかったのと、人質にでもされたら危ないってんで、織本にお願いされたんだ」
「……勝手だな」
吐き捨てるように仁助が言った。
同情はあれど亡くなった妻に会いたいという理由で、うたを犠牲にしようとしたのだ。自分の幸せのために、誰かを不幸にする。そんなことがあっていいわけがない。
一つだけ、疑問が残る。
「でも、どうしてお蓉さんは現れないんだ」
自分の中にお蓉がいると言ったのは、うたである。空蝉の術は成功していたのだ。
「まぁ、俺には何となくわかる気がするけど」
「私も、わかる気がします」
月臣とうたは続けて打ち明けた。
お蓉の魂が目覚めていても、うたに成り代わらない理由とは……
仁助は思考してみる。こんな想像は罰が当たるかもしれないが、大切な人が亡くなったとして、須磨に空蝉の話を持ち掛けられたら……
「そうか……お蓉さんは、望んでいないんだ。お前だって、本当は気づいているんだろう」
「…………」
自分が蘇ることで、他人が不幸せになってしまうことを、その人は望んでいない。織本の決断を否定して、正しい道に行ってくれることを、願っている。
「本当は、貴方にすごく会いたい気持ちで溢れている。だけど、お蓉さんは優しいから、織本さんに出会ったときのような優しさに戻ってほしいから……」
わかっていた。この愚かな決断に、お蓉がよろこんではくれないことを。だけど、気づいていないふりをして、会いたい一心で、うたを不幸にしようとした。
「俺はずっと、あんたの気持ちがわからなかった。でも、影が死んで、少しだけわかった気がする。もし何も知らないで俺が同じ状況に立たされたら、俺も愚かな人間になっていたかもしれない」
失ってみなければ、愚かな心は芽生えなかった。
「すまなかった……」
織本はうたの前に首を垂れたのだが……
「でも私、織本さんのことは恨んでいません」
「うた……」
「仁様と知り合えたのも、お蓉さんのお蔭だって思っています」
お蓉の魂を宿されたうたは、お蓉の影響を受けて霊視の力が身につき、家族に疎まれた。しかし、もしもうたに霊視の能力がなければ、仁助と出会うこともなかったかもしれない。出会えたとして、親密にはならなかっただろう。
うたが許したところで、織本の罪は罪だ。決して取り返しのつかないことをしたのだ。
仁助は十手を、織本に向けた。
「ようやく、悲願が果たされる……」
誰もいなくなった薄雲一座の舞台で、須磨が勝ち誇ったように呟いた。
隣にいるのは、鷹取家の末裔、兵馬である。
「いつか、滅びる光景が見たいと言っていたわね」
「ああ」
もうすぐ、半鐘の音が聞こえる頃だ……
「おや……」
真っ暗な舞台には、左右に一本ばかりの蝋燭を灯しているだけだ。その蝋燭の火が、大きく風に揺れた。
「西崎さん……いや、鷹取兵馬、並びに須磨!お前たちを捕えに来た」
客席から見て、舞台の左端には須磨と兵馬が、右端には仁助とうたがいる。
「どうして鷹取家の名を……」
「おそらく、深萩神社の宮司が調べたのでしょう。……二人がいるということは」
「お蓉さんは私の身体から出て行きました」
うたが自分をとり戻したことを、兵馬はすぐに察した。
「まさか……」
「愚かな夫に嫌気がさしたのか……私たちにはどうでもよいことです」
「ふざけるな!織本の心を利用して、悪事に加担させたのはお前たちだろう」
「私とこの女狐を一緒にしてもらっては困ります。空蝉の術は、勝手に女狐がやったことだ」
「随分と酷い言いざまね」
仁助が十手を携えると、兵馬は余裕に言った。
「まずは影臣の事件から、説明してもらいましょうか」
すぐに二人を捕まえたいところだが、あえて仁助は兵馬に乗ることにした。
「影臣を殺したのは、お前だ」
仁助が十手を向けたのは、須磨だった。
「うたが舞台で唱えたアワノウタ、あれは呪いの言葉だった」
かつてうたが、深萩神社の儀式で神子を務めたことを須磨から聞かされた月臣は、舞台で同じアワノウタをうたに唱えてほしいと、須磨にアワノウタを教えてもらったという経緯がある。儀式を見ていた須磨は、アワノウタを知っていたからだ。
だが、須磨が実際に教えたのは、アワノウタを逆から読んだ、呪いの言葉だった。
「アワノウタを知らない月臣も、記憶をなくしていたうたも、呪いの言葉だとは気づかない。お前の目的は、舞台でうたに呪いの言葉を言わせ、影臣を殺させることだった。でもうたが呪いの言葉を変えるという、誤算が生じた」
うたは直前になって、科白を変えてしまったのである。
「これは言ってはいけないと、感じたんです」
眠っている記憶が、本人の計り知れないところで、危険を告げていた。
「そこで計画を変更して、影臣を転落死させることにした」
「ですが、影臣が転落したとき、須磨も私も同じところにいましたよ。貴方の密偵が証人です」
環游が見張っていたことを、兵馬は承知していたようだ。
「影臣は突き落とされたんじゃない。毒を盛られたんだ」
よもぎ餅が好物であった影臣は、高台に作った棚に、いつでも食べれるようによもぎ餅を常備していた。これは一座の人間なら誰でも知っていることで、一座の人間から、あるいは実際によもぎ餅を食べるところを目の当たりにして、須磨は好物を知った。
そのよもぎ餅に毒を仕込み、時間が経てば毒が身体に回り、不安定な場所で身を崩して、転落するといった流れだ。
うたは梯子にたどり着くことに必死で、影臣が苦しんでいたのがわからなかったのだ。
霊となった影臣が告げた、よもぎ餅を食べるなという言葉で、仁助は真相を突き止めた。実際に、うたが影臣からもらったよもぎ餅には、毒が入っていたのである。
「意外と早く、見破りましたね」
「もう謎解きは終わりだ。観念しろ!」
「…………」
兵馬は半鐘の音を待っているのだが、一向に鳴らない。
「どうやら、我々の計画は失敗したようですね」
「どういうこと……」
「江戸の町に火をつけて、混乱に乗じた隙に、将軍を暗殺する。火をつける場所も、月臣たちが盗んだ金品を売って買った武器の隠し場所も、織本が全部吐いた」
愛する者のために計画に加担した織本だけは、絶対に裏切らないという自信があった。織本はお蓉を蘇らせることに、執着していた。
火をつける場所は十ヵ所あり、織本がすべての場所を把握していたので、今ごろ伝吉たちが未然に防いでいるところだろう。武器の隠し場所は、あろうことか海野家の屋敷にあった。
鷹取家とは何の縁もない老中が手を組んだのは、将軍が没したあとの権勢を狙ってである。老中の権勢欲を、須磨たちは利用していたのだ。
狼狽えるのは須磨だけで、兵馬は冷静だった。
「やっと、悲願が果たせると思ったのに……」
「どんな理由であれ、関係のない者を巻き込むのは間違っている。……西崎さん、なぜそんなに落ち着いていられるんだ」
つい癖で西崎と呼んでしまったが、彼は気にもとめていなかった。
「私には興味がないからですよ」
須磨が信じられないような目で、兵馬を見た。
「先祖の恨みなんて、私には関係ない。端から興味はなかった。だから父上のことも理解できない。でも、須磨にだけは興味があったんですよ。須磨は鷹取家が酷い仕打ちにあったときの人間でしてね……今は人間とは呼べませんが……ともかく、何十年も他人の身体を奪って生きながらえて、復讐をすることだけを考えていたんです」
「そんな昔から……」
空蝉の術を使えば、何十年、何百年も生きながらえることは可能だ。須磨は恨みながら、何十年もの間、生きていたのだ。
「ただ復讐だけを考えて生きてきた人を、単純に美しいと思った。でも、違ったんですよ」
「……?」
「計画のことだけを考えていれば、私は本気で父上たちの味方になっていたはずです。この女狐が空蝉を使っていたのは、自分が永らえたいためだけではない。美しい顔が、ほしかっただけなんですよ」
「だから小町ばかりを……!」
本来の寿命を無視して、生きながらえたいという理由も正当性はないが、美しい顔がほしいという理由で、娘たちを攫ったとすれば、悪女甚だしい。
「飽きたら新しい娘を攫う……幕府転覆などというたいそれたことを考えている人が、することではない。美しくなど、何でもなかったんだ」
「ならばどうして、月臣が止めようとしたように、悪事を止めようとはしなかったんだ」
「私は貴方みたいに、善人ではないですからね。言ったでしょう。計画が成功してもしなくても、私には興味がない。それに、私たちがやらなくても、いずれ幕府は滅びる気がします。今までの歴史が物語るように」
「同心の口から、そんな言葉は聞きたくなかった」
「ふっ……何を言っているんですか。同心なんて、ろくな人間はいませんよ。商家に入れば袖の下は当たり前。勘違いして捕まえた人間を、拷問で自供させる。そういう人間ばかりですよ」
兵馬の言ったことは、あながち嘘ではない。仁助は袖の下をもらったことも、拷問をしたことも一度もないが、中にはそのような同心が江戸を闊歩していることは事実だ。それでも……
「他人がどうではなく、自分がどうかだ」
「今は善人でも、いつか闇に落ちることもありますよ」
この兵馬の言葉は、うたに向けてでもあった。
「仁様はそんな人ではありません」
「……まあ、神山さんがどうなろうと、それも興味はありませんが……さて、私たちを捕まえると豪語していますが、この女狐をどうするつもりですか?お美津をとり戻したいんでしょう」
そう、須磨の身体は、三笠屋の娘のお美津である。このままでは須磨を裁くことはできない。
兵馬はすっと蝋燭をとって、客席の方へと投げた。
「火が……!」
油を敷いていたのか、激しい勢いで小屋が燃えてゆく。
「ここからすぐに逃げるか、我々を捕えるか……さあ、選んでください」
仁助は躊躇した。早く逃げなければ、煙に巻かれて命の危険さえある。だが、ここで須磨と兵馬を逃がせば、一生捕らえることはできないように感じた。
「貴方が選ばないのなら、私が選びます」
兵馬は迷いもせず、仁助に向けて刀を抜いた。迫りくるのならば、応戦しなければならない。兵馬は織本ほどの剣の腕はないが、並みの仁助よりは腕が立つ。
「仁様!」
「うた、逃げろ!」
性格上、うたは仁助を置いて逃げたりはしないが、秘かに逃げようとする須磨を捉えて、急いで後を追いかけた。
「お美津さんを返してください!」
うたは須磨の前に立ちはだかった。須磨に武術の心得はないが、それはうたもである。
対峙する二人は、上から落ちてくる木の板に気づくの遅れた。火は、天井まで燃え移っていて、次第に崩れ落ちている。
「……!」
「うた!よけろ!」
激しい音を立てて、天井が崩れ落ちた。
うたは運よく免れたものの、倒れ込んだ隣には、板の下敷きになった須磨がいる。すぐさま板をどけようとしたうたの襟元を、須磨が思いっきり引っ張り……
「傷がある身体なんか我慢できない。今度は、貴方になる」
須磨はうたの口に吸い付いた。空蝉の術を使ったのだ。
お美津の身体からは須磨が去り、残されたのは……
「うた!」
仁助が駆け寄ったとき、目の前にいるのは、
「仁様、私は大丈夫です。早く、お美津さんを」
紛れもないうただった。うたが須磨の術にかけられなかったのは、仁助も知っているある計画によるものである。
仁助はお美津を背負って、見る影もなくなった小屋から脱出した。
鷹取家が企てた計画は、織本によって露見する。仁助たちは投げ文という形で、南北の奉行所に鷹取家の計画を知らせ、火事を未然に防いだ。老中の屋敷からは大量の武器が発見され、企てに加担したことを言い逃れることができす、見つかったその日の中に海野左衛門佐と。兵馬の父、兵之丞は腹を切った。
幕府転覆の計画があったなど公にはできず、江戸の町に暮らす民は、何も知らない。事件の翌日まで、仁助たち役人は、後始末に追われて奔走した。が、それも過ぎれば、平素の日常である。
芝居小屋の焼け跡からは、兵馬の死体は見つからなかった。彼はどこに行ってしまったのか、それだけが未解決のまま、江戸の町は何事もなかったかのように、時が過ぎた。
「旦那、そろそろ手柄を立てないと、やばいですよ」
「そうは言ってもなぁ。事件はない方がいいじゃないか」
仁助は相変わらず、うだつが上がらない同心だった。
最近は目立った成績もないから、筆頭同心の吹田には、毎日のように怒られている。
「うたにやっぱり一緒になれないって、見放されますよ」
「あり得ないだろうなぁ」
「……まったく」
「見廻りに行こうか、伝吉」
のんびりと歩く同心を追いかける少女がいることに、仁助はまだ気づいていなかった。
数日前のことである。
「うた……!」
ぼんやりと陽の光を浴びて目を覚ましたうたがはじめに見たのは、兎之介だった。彼はうたが花鳥屋に帰って来てから、一睡もせずに、うたに寄り添っていた。それは兎之介だけではない。
「兄さま……父さま、母さま……」
眠りについたうたが、また記憶をなくすのではないかという恐れは、兎之介の杞憂に終わった。
炎の中で、須磨に空蝉の術をかけられたうたが、身体を乗っ取られなかったのは、お蓉に助けられたからである。兵馬と須磨の前で、お蓉は身体から出ていったとうたが断言したのは、そう思わせるための嘘である。
うたの中にお蓉がいれば、須磨に術をかけられても、須磨が身体の中に入ることはできない。確信はなかったが、もしものときのために、はったりをかましたわけだが、功を奏したという結果になった。
須磨が乗っ取っていたお美津も、木の板の下敷きになったことで怪我はしてしまったが、一命はとりとめた。しかも須磨は、うたに空蝉の術をかけたときに、お美津の身体から離れていて、戻ることもなかった。うたの身体にも入れなかった須磨は、どこかに消えてしまったようである。
うたは芝居小屋から脱出した後、丸一日眠っていた。
「おかえりなさい」
今度こそはちゃんと、両親は起き上がったうたを抱きしめる。うたは子どものように甘えた。
「神子様に会われなくてよいのですか」
深萩神社の前で、織本と月臣を見送る宿禰が、愛想よく二人に言った。
「罪人が同心の奥方様には会えないだろう」
織本が冗談交じりに答えたのは、未来の話だ。
鷹取家の企てに加担した者と、盗みを働いていた者。二人はどんな罰も受け入れるつもりであったが……
「見逃してもらって何だけど、あの同心、優しすぎなんじゃない」
見逃してくれた仁助には嫌味ではなく本心で、感謝せざるを得ない。
「では、お気をつけて……」
二人は江戸を離れ、二度とは戻ってこないつもりだった。織本は昔、お蓉と住んでいた場所へ。月臣はまだ、行く先を決めていなかった。
「気が向いたところに住むつもり」
と、何とも彼らしい考えだった。
宿禰と一太に見送られて、二人は旅立った。
街道筋を歩いていると、織本の目の前に、忘れもしない人が現れた。その人は優しく微笑んでいる。が、瞬きをすると、その人は消えてしまった。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
願いは果たされた。
「仁様!」
仁助は弾かれたように振り返った。
「うた……もう、大丈夫なのか」
「はい。ご心配をおかけしました」
「そんなにかしこまらなくてもいいじゃないか。そうだ、今日は仕事が終わったら、さっそく式の日取りを決めよう」
「ほんとですか!」
「…………」
「仁様……?」
うたが目覚めたうれしさと、未来の話で和気あいあいとしていれば、ただならぬ形相で睨みつける兎之介の姿が見えて、仁助は何も言えなくなてしまった。
「祝言はそんなに急がなくていい。まだ花嫁衣裳の仮縫いも終わってないんだ。職人には一年くらいかけて作るように言うつもりだからな」
「真面目に言ってるんだから、旦那の先が思いやられるぜ……」
「もう、兄さまったら……お仕事中にごめんなさい。では夜に、お待ちしていますね」
これも、仁助の日常だ。
様々な超自然現象と出会ってきた仁助とうたであるが、この後、仁助が怪異の絡んだ事件に出会うことも、うたが霊を見ることも、二度となかった。
ただ、超自然現象を信じるかと問われれば、信じると、仁助は答えるのであった。




