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神が隠した現しおみ  作者: 夏野
最終話 黄昏ノ空蝉
34/38

 辺り一面に立ち込める濃霧の所為(せい)で、ここがどこなのかが判別できない。白い霧が(ほお)を掠めるのに、寒さは感じられなかった。

 不安に(さいな)まれないのは、前にも来たことがあると、(おぼろ)げな意識の中で感じているからだ。

 ふと、隣を見やる。誰かがいるような気がした。でもそれは勘違いだったようで、辺りには人一人としていない。

 誰かがここで、手を(にぎ)ってくれた。大きくて、ごつごつとした手が温めてくれた。恥ずかしくなる理由がまだわからなかった頃の、出来事だった。

 無性に、泣きたくなる。

 誰が温めてくれたのか、思い出せないのだ。

 それはきっと、忘れたくないことだったはずなのに……

 目の前に、小さい女の子の姿が浮かび上がった。

 貴女は誰……?どうして自分はそんなことを彼女に問おうとしたのだろう。

 覚えている。神子の想いが込められた存在も、焦がれている彼のことも。

「人は愛する者のためには愚かになる」

 みこ様……そう叫んだはずなのに、声にはならなかった。視界も白く(にじ)んでゆく。

「そなたは忘れるな」

 うたは一瞬で目を覚ました。今度は暗闇の世界が広がっていたが、生々しい感触から、夢から覚めたのだと理解する。

 目の前には見慣れない天井が見えた。がばりと布団から身を起こしたが、急に眩暈(めまい)が襲った。それでも弱々しい身体を叱咤(しった)して、出口を探す。

(帰らなきゃ……)


「まさかお上の御用を務めてから、盗人の真似事をするなんざ、思いもしませんでしたぜ」

 風の音すら聞こえない夜半(よわ)、海野家の前で盗人よろしく様子をうかがっているのは、同心の仁助と御用聞きの伝吉である。

 金品を盗むのが目的でないとはいえ、二人が盗人の扮装をしているのは、滑稽(こっけい)にも、(あき)れかえる光景とも映ってしまう。

「これも貴重な経験かもな」

「まったく、これからってときに……」

 と仁助は言ったが、内心ではうたを助けたい焦燥(しょうそう)と、老中の屋敷に忍び込むという命知らずな行動の前の緊張に溢れかえっていることを、伝吉は知っている。いざというときには、仁助とうたを逃がして、己が犠牲になろうと考えている伝吉もまた、手に汗握る思いだった。

「旦那、あれは……」

 海野家の屋敷の塀には、仁助たちよりも先に、何者かの影があった。


「賊だ!」

 にわかに屋敷の中が騒がしくなった。

 黒衣に包まれた人影が一人、金目の物を物色しているのを用人が見つけ、抜刀したのを皮切りに、身軽な動きで逃げる二人を追いかけ、激しい物音やらがひしめいている。

 (ちまた)を騒がす盗賊が、海野家に侵入したのだ。

「随分つまらないことをしてくれるじゃない……」

 落ち着いた態度でこぼす須磨の目は、冷たかった。

 その頃うたは、騒ぎの音を聞きながら、鍵のかかった扉を懸命に叩いていた。内側の鍵は開けられても、外にかかる別の鍵が、扉を開けさせてはくれない。

 次第に、扉を叩くうたの力が弱まってゆく。うたは薄れゆく意識の中で、ここに来る前の記憶を思い出していた。

 花鳥屋で外出する兄を見送った後、部屋に戻る途中で、自分を呼び止める声が聞こえた。声のする方へ行くと、裏木戸の向こうに女が立っていた。

(そうだ……あの人に手招きされて……)

 面立ちの整った女だった。その顔に見覚えはなかったけれど、前にも一度、会った気がした。

 遠い記憶が呼び戻すように、連れ去られるとも知らず、女の元に行ってしまった。

(帰らなきゃ……)

 きっと、大切な人が待っている。

 扉はびくともしない。早くここから出なければ、自分が自分でなくなってしまうのではないか。

(私は……)

 何者なのだろうと、ずっと悩んでいた。両親の言う通り、取り替えられた子なのかもしれない。家族が不幸になってしまうならば、自分なんかいなければいいと、本気で思ったこともあった。

 好きで霊が見えるようになったわけではない。この能力をありがたいと思ったことはない。なのに、家族は自分を(うと)んじる。

 霊が見えると知っても普通に接してくれたのは、彼がはじめてだった。今では、会いたいと、忘れたくないと思えるのは、彼だけではない。

 うたは無意識に、一太が忍ばせた呼子笛を(にぎ)っていた。


 海野家の前には、続々と南町奉行所の役人が駆けつけた。盗賊が海野家に入っていくのを見たと、伝吉が奉行所に知らせたためである。南北力を合わせてと(うた)いながら、北町奉行所には協力を仰がなかったのは、手柄を横取りされたくなかったからだろう。(はなは)だ失笑する話だが、仁助はこの好機を逃すまいと必死だった。

 一か八か、海野家に忍び込もうとしていた仁助であったが、予想だにしていない盗賊が海野家に侵入し、騒ぎに乗じて屋敷に忍び込みやすくなったのだから、盗賊様様である。

「逃げたぞ!」

 黒い影が一つ、塀に踊り出して、颯爽(さっそう)と夜の町を逃げてゆく。役人たちは一斉に、宵闇に溶け込みそうな影を追って行った。

「あっちは俺に任せて、旦那はうたを!」

 と、伝吉に背中を押され、仁助は屋敷に侵入した。

 盗賊が潜り込んだ屋敷の中は、喧騒は去ったものの、まだ平素の落ち着きをとり戻してはいない。門の前には家臣が張りついていて、家人たちは屋敷の中の一所に集まっている。

 うたが囚われているであろう部屋は、屋敷の一番奥に存在していて、いま侵入するのは容易(たやす)い。

 屋敷の図面は頭に叩き込んだ。周囲に気を配りながらも一直線に、部屋へと向かう。うたと、叫びたかったが、さすがに大声を上げれば、誰かに気づかれてしまうのでできなかった。

 仁助はやっと、最奥の部屋にたどり着いた。

 一太の言っていた通り、鍵のかかった部屋である。扉を開けようとするも、やはり鍵がなくてはだめなようだ。

「うた!いるのか!」

 (まぶた)を閉じれば、再び深い眠りについてしまいそうだった。一度閉じてしまえば、扉を隔てた先にいる彼に、会うことができない。うたは懸命に、扉に(すが)った。

 声はもう出ない。どうか彼が、気づいてくれますように……

「くそ……!」

 大きな物音は立てたくなかったが、仁助は持っていた刀で、錠前を壊した。

 すぐそこに、うたがいる。

 仁助は(はや)る気持ちで、扉をこじ開けた。

「うた……!」

 扉の前に倒れ込んでいるのは、紛れもなくうただった。

 確かに二人は目が合った。色々な感情がせめぎ合っていたが、手を伸ばして、ただ助けることを、助けを乞うことに全力を注ぐ。

 あと少しで、触れ合えるはずだった。

「……!」

 急に白い煙が立ち込めて、思わず仁助はむせてしまう。微かな物音が聞こえていたが、確かめようにも、目を開くことさえままならない。

 煙が薄くなり、視界が開けるようになったときには、うたの姿がなかった。

 後ろを見やれば、遠くに動く人影が見えた。

 うたは何者かに——黒衣を(まと)った盗賊に抱えられて、連れ去られてしまった……


 深萩神社の一室は、重い空気に包まれている。

 あと少しだった。あと少しで、うたを奪還できたはずだった。

 うたは助けを求めていた。なのに、あんなに近くにいたのに、助けることできなかった無力さに、仁助は押しつぶされそうになる。

「神山様が悪いのではありません。理由はわかりませんが、盗賊は意味もなしに神子様を攫ったのではなく、元から、神子様が目的だったのではないでしょうか」

 海野家の屋敷から逃げたと思われた盗賊が、うたを攫って行った。

 しかし盗賊は、屋敷を去ったあと、駆けつけた役人たちに追われていたはずで、その中には伝吉もいた。

「面目ねぇことに、途中で見失っちまいましたが、とても屋敷に戻れるわけもねぇんで……」

 北町奉行所の役人が総出で盗賊を追ったのにもかかわらず、盗賊には逃げられてしまった。海野家の方には被害がないようで、盗まれた物もなく、怪我(けが)を負った者もいなかった。

 後からうたを連れ去った盗賊を追った仁助も、すぐにその姿を見失っている。

「ということは、盗賊は二人いたのでは……」

「宮司さんの推量通り、うたを攫うのが目的だったとすりゃ、俺たちが追った盗賊は、役人を引き付けるための(おとり)で、秘かに忍び込んだもう一人の盗賊が、うたを攫った……」

 常ならば仁助も推量できるところを、彼は事件の概要を考えられないでいる。

 手法がどうであれ、うたはまた、何者かに連れ去られた。今度は盗賊が連れ去ったということ以外に、何の手がかりもないのだ。

「こうしちゃいられねぇ……!」

 矢も(たて)もたまらず立ち上がったのは、兎之介だった。

「待てよ、うたがどこにいるのかもわからねぇんだ」

「何もしねぇよりましだろ!」

 伝吉の制止を振り切って障子戸を開ければ、ちょうど来たところのいつ子とぶつかりそうになった。

 いつ子はびっくりした声を上げたが、すぐに切り替えて、ある紙を皆の前に掲げる。

「これ見て!薄雲一座の次回公演なんだけど……」

 薄雲一座とは、うたと兎之介が見に行くのを約束していた、猿若町で人気の芝居小屋であった。

 どうやらいつ子の持ってきた紙は、薄雲一座の次回公演についての宣伝らしい。

「こんなときに何考えてやがる!」

「うーちゃんに関係があることなの!ほら、ここに……」

 いつ子の指差すところには、次回公演の内容が書かれていた。

『アワノウタをうたう巫女』

 神々しく儀式でアワノウタをうたった神子の姿を、皆は瞬時に思い描いた。


「須磨の術が失敗しているってことは?」

 目鼻立ちのすっきりした青年が尋ねたのは、(かたわ)らに立つ織本だった。

「俺もそう考えたが、うたは霊視の能力を身につけている」

「そういや()()()も、そんな能力があったって言ってたな」

 二人が見下ろす先には、布団に横たわったうたの姿がある。うたは一度、目覚めたはずだった。しかし、青年が連れ去ったときには再び眠ってしまったようで、今日に至るも目覚めてはいない。

「次に目覚めたときには……」

「……そんなに会いたいのか?」

「この十二年、ずっと待っていたんだ」

「…………」

 青年には理解できない感情だった。でも、もし自分が同じ立場になったときにも理解できないのだろうかと、ふと考えてみる。やはり同じ立場にならなければ、わからない答えだった。

「ん……」

「「…………!」」

 うたが微かに(うめ)いた。続いて指の先がぴくりと動き、徐々に瞼を開ける。

 二人は固唾(かたず)を呑んで、うたを見ていた。

 果たしてうたは、何者なのだろう。

「誰……?」

 青年は自分に問われている言葉だと思った。しかし、面識のあるはずの織本のことも、不思議そうに見ている。

 うたでも、違う誰かでも、あり得ない反応だった。

「あんた、何者だ……?」

 青年に問い返されて、うたは戸惑う表情で答えた。

「……わからない。何も、思い出せない」

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