一
身近にあっても、一度も入ったことない花鳥屋の蔵の中は、普段も人が出入りしているのだろう、埃っぽくはない。
蔵の一階には、店で使う物やらが置いてあり、商用のために使っていて、二階には、花鳥屋の家族の品を置くところとなっている。その中には亡き祖母の遺品もあって、うたは箪笥をがさごそと漁り、何かないかと探していた。
つい昨日のことだった。
嫌がる兎之介は両親に説得されて、何とお見合いに行ってきたのだが、首尾はどうだったのかと待ち侘びていたうたは、まず帰ってた兎之介の怒声を聞いた。兄が怒るのはいつものことだが、かなり怒っている様子に、どうしたのかと声の元を辿ると……
「お見合いのときくらい、大人しくできないのか」
「妹を貶されて、黙っていられるか!」
父の諌めに反抗した兎之介の言葉で、うたはすべてを悟った。
お見合いの席で、相手側が何かしら自分のことに触れたのだろう。花鳥屋の娘は呪われている。どこまでその噂が広がっているかはわからないが、知っている者ならば、聞かずにはいられなかったのかもしれない。
両親は今でも、神隠しにあったときに、取り替えられた子だと思っているのだろうか。家族の中で味方は、兄だけなのだろうか。
果たして自分は何者なのだろうかという虚しい気持ちの他に、自我が芽生えたうたは、自分がここにいない方がいいのではと思うようになっていた。
自分という存在が、兄の縁組に支障をきたしている。両親にとっても、邪魔な存在だとすれば……
ただこんな気持ちを兄に相談することもできず、うたは幼い頃たくさん可愛がってくれた、亡き祖母の想い出に縋りたくなって、祖母の遺品を探しに、蔵にやって来たのだ。
(これ……)
箪笥の中にあった櫛には見覚えがある。
記憶にある祖母は、この鼈甲の茶色い櫛を挿していた。
うたは櫛を手に取って、自分が挿していた櫛を外して頭に挿し、ちょうど近くに置いてあった鏡台で、姿を確認してみる。
祖母がいた頃はまだ、稚児髷にもしていない幼子であった。櫛を挿せるようになったのはずいぶんと前のことだったのに、何だか感慨深くなる。
「うた」
ふいに名前を呼ばれて、うたはびくりと体を震わせた。
蔵に入るために家人の許可はとっていたが、勝手に祖母の櫛を挿していたことを見咎められたと思ったのである。
恐る恐る鏡を見ても、誰の姿も映っていない。うたは見えない相手に、振り返りながら謝った。
「勝手して、ごめ……」
あまりにも懐かしかった。だって、いま一番に会いたいと思っていた人だから、うれしくて、破顔した。
「おばあさま……」
鏡の世界に映らず、うたの背後に現れたのは、亡き祖母だった。
もう会えないと思っていた。死後も会いに来てくれた祖母は、いつの間にかいなくなってしまった。だから成仏したのだと思い込んでいたが……
「私の所為で、辛い思いをさせちゃったわね……死んだことはわかっていたけど、寂しくて、皆に会いたかった。それに、うたのことが心配だったのよ」
うたが行方不明になって無事に帰ってきた直後、祖母は幽体となって会いに来た。しかし祖母の姿はうたにしか見えなかった。皮肉にも、うたには霊視の能力があると証明してしまったのは、祖母である。
「おばあさまにもう一度会えてうれしかった。今も、同じ気持ち」
祖母は切なそうに微笑んだ。
幽霊が見えるようになって家族に疎まれたのは、祖母の所為ではない。何が原因で、誰の所為だとかという問題ではないのだろう。
きっかけが幽霊ではなくても、疎まれる定めだったのだ。
「うたは優しい子ね。その櫛も全部、うたにあげるわ。良く似合ってる」
祖母の手がそっと、幼い頃そうしてくれたように、うたの頭を撫でた。
伝わる熱も感触もないけれど、虚しいだけではない。
「おばあさまは成仏できないの……?」
「しようとしてもできなかった。心残りがあるうちは、ここに帰ってきてしまうみたい。ねぇ、うた。お願い。佐原に、連れて行って……」
下総国佐原は、祖母の故郷である。
奇しくも兄の佐原行きが決まるのは、すぐ後のことだった。
日に日に肌を刺す外気が凍てつくこの頃、浅草橋の下で男の死体が発見された。早朝、町中に野菜を売りにやって来た百姓が、舟で川を渡っていると、身体の半分が筵で隠れた人間が横たわっているのが見えて、てっきりおこもかと思い、気にせず通り過ぎようとしたのだが、彼の視線は、横たわっている者から離れなかった。
椿が、落ちている。
筵の下からは、赤い花が数個見えて、近くに椿の木もないから、やけに気になってしまった。
舟が進むにつれて見えた光景に、彼は悲鳴を上げた。
横たわっていた男は、苦悶の表情を浮かべていて、ぴくりとも動かないではないか。椿の赤い色が強烈で気づかなかったが、赤錆色に変色した血が、筵の下に池を作っている。
「江戸の人間じゃなさそうだな」
男は刃物で胸を一突きにされたのが致命傷となっていた。つまり殺人事件があったという知らせを聞いた仁助が男を見分すると、男の髷や着物の雰囲気が、江戸の人間と似ているけれど、どこか違うようにも感じられる。
旅籠の多い馬喰町が近くにあるから、そう想像したのかもしれない。
「番屋には探し人の話もなかったそうですし、俺は旅籠をあたってみます」
それから伝吉は、すぐに殺された男の身元をつかむことができた。
八日前に泊まった客が、いつになっても戻ってこないのでもしかしたらと言う旅籠の主人に死体の顔を見てもらったところ、やはり間違いないとのことだった。
男の名は門次。佐原にある醤油問屋巴屋の番頭で、八日前に主人の京太郎と二人、商用で江戸に来たのだという。江戸には五日間、滞在する予定と初めに聞いた通り、五日目を迎えたのだが、その日の夜は、門次が戻らなかったそうだ。
せっかく江戸に来たのだから、最後の日くらい自由にさせてあげたいと、京太郎は門次がどこぞで羽目を外していると思って、あまり気にしていなかったらしい。しかし出立の朝になっても帰って来ず、京太郎は一刻ほど待っていたのだが、とうとう先に佐原へ帰ってしまったそうだ。
「何かあったら連絡してくれって言付かりましたよ。奉公人の、しかも番頭さんがいなくなってもあまり心配そうにしていなかったのが気にかかりましたので、よく覚えています」
旅籠の主人は、京太郎が怪しいと言いたげであった。
検死をした医師によると、門次は死後、三日くらいを経過しているらしい。京太郎が江戸を出立する前に門次を殺したという仮説も立てられる。
「五日目の日、京太郎はいつ旅籠に戻ってきた?」
「宵の五つには戻ってきたと思います。夕餉を食べてきたと……」
「門次を気にかけなかったこと以外で変わった様子は?」
「いえ、特に……」
「その日も、二人は商用で一緒にいたのか?」
「はい。朝はお二人でお出かけになられて、たしか用が終わった昼の時刻には別れたと、そう仰っていましたんで……」
二人が商用でどこに出かけていたのかまではわからないと、付け加えた。
旅籠を出た伝吉は、真っ先に言ってみせた。
「巴屋の主人が犯人に、間違いありませんぜ」
門次の懐には多少豊かな路銀が納められたままで、物取りの仕業ではないことは一目瞭然だった。持ち去ったのか、すでに捨てられたのか、凶器は見つかっていない。
「先入観はよくない」
奉公人がいなくなって、わずか一刻しか待たず、先に帰ってしまえば怪しまれるというもの。それとも江戸で犯行に及べば、誤魔化せるという自信があっての犯行なのか。
「気になるのは椿、か……」
死体の側に置いてあった椿たちは、わざわざどこぞから持ってきて置いたものだ。意味もなく、椿を置いたわけがない。死体に花を添えるのは、ほとんどは鎮魂の意味だ。犯人が椿を置いたとして、殺した相手の死を悼むはずはない。
何か、意味があるはずだ……
その後、二人は門次が殺されるまでの足取りを追った。
「商用以外での足取りはまったくつかめませんで……確かに五日目は、昼には巴屋の主人と門次は別々に行動したようですが、それぞれどこに行っていたかまでは……」
「江戸で手がかりがなけりゃあ、行くしかないみたいだな。伝吉、旅支度をしておけ。お奉行に願い出て、佐原に行く手筈を整える」
もうすぐ、会える。ずっと待っていた人。
この世には、目には見えない不思議な存在が蔓延っている。自分には見えなくても、身近に感じていた。ならば神という存在も信じよう。
織本は深萩神社の前で、祈った。
あまりにも熱心なその姿を見た宿禰の目には、印象深く焼きついた。織本は一体、何を祈っていたのだろうか。
時折、深萩神社に訪れる織本の目的は、今日のように参拝が目当てではなく、うたに会いに来ていた。
うたは毎月決まった日に、深萩神社に来て雑多な手伝いをしている。先日引き取った一太のよき遊び相手でもあった。その日には必ず織本も姿を見せていて、一太を引き取ることになった事件で知り合ってからも、気にかけてくれているのだと、うたは好印象を抱いている。宿禰も織本に対して、不快な感情などないのだが、最近どうも気になることがあった。
それはうたに向ける織本の感情である。
はじめは娘か、歳の離れた妹のように可愛がっているのかと思ったが、どうもそうではないのではと、考えるようになっていた。というのも、うたを見つめる織本の目が、仁助のそれと似ていたのだ。優しさの中に熱のこもった情を、垣間見た気がした。
思い過ごしかもしれないのだから、こんなことを仁助に相談するのも憚られて、一人胸に秘めていたのだが……
「今日は来ていないのか」
宿禰は織本に話しかけられて、はっとした。すぐに平静を装って、答える。
「神子様はしばらく佐原に行かれております。ご親戚のところに用事がおありとか」
「佐原……遠いな」
独り言のように呟いた織本は、軽く宿禰に頭を下げて神社を後にしようとした。
鳥居の真下に、女の子が一人立っている。一太の友達だろうか。思わず織本が立ち止まったのは、女の子がじっと、にこりともせずにこちらを見てきたからだった。
「誰が隠した?」
一陣の風が、強く吹き抜けた。
目の前に手を掲げて目を閉じたのは、女の子の問いに対する後ろめたさからだったのだろうか……
まさか、こんな子どもに気づかれるはずはない。違う。女の子は自分の大切なものを失くしてしまって、探している最中なのだと思い直したのと、風が止んだのが同時だった。
織本が再び目を開けたとき、すでに女の子はいなかった。
慣れない旅支度を終えて、仁助は神山家を出立しようとしていた。
事件の真相を追って佐原に行きたいという仁助の願いはすぐに聞き届けられ、十日間の旅路が許されたのである。
と仁助が母に告げたのが昨日のこと、沙世からは意外なことを教えられた。
「向こうにうたちゃんがいてくれたら私も安心だわ」
偶然にも一足先に、うたも佐原に向かっているというのだ。
親戚が佐原で呉服問屋を営んでいて、近々その店が代替わりをするので兄と一緒に挨拶をしに行くと、うたは沙世に告げていた。
ここ数日は事件の捜査に忙しくて、うたとは会えていなかった。うたが佐原に行くと知ったのも、つい昨日のことである。しばらく会えなくなるところを、明日には顔を拝められるのだ。
「よかったじゃありませんか。よくよく、縁があるんですよ」
女中のおとらはにやにやしていて、沙世も楽しそうにしている。
だから仁助は、
「俺はお役目で行くんです」
と言ってみても、二人はふふふと微笑むばかりであった。
その頃、花鳥屋の一行は、佐原の呉服問屋の藤壺屋に着いていた。
藤壺屋はうたと兎之介の祖母、うのの実家である。前当主はうのの兄にあたり、すでに故人で、現当主は息子の文右衛門が店を継いでいる。年が明けるとともに、家督が文右衛門の息子、長吉が継ぐことになっていて、親戚や商人仲間を招いての代替わりのあいさつが行われようとしていた。
それではるばる花鳥屋にも声がかかって、花鳥屋からは兎之介と番頭が行く予定だったのを、祖母の願いを聞き届けたうたが兄と両親にお願いしてついて行くことになり、運よくうたの佐原行きを知った絵師の京斎環游までが、一行に加わった。
「お行儀が悪いからびしばし鍛えてほしいって、花鳥屋さんからの文には書かれていたけど、二人ともしっかりしたいい子じゃない」
と、文右衛門の内儀、蕗が快く迎え入れてくれた。
一行はしばらく、藤壺屋に身を置くことになっており、両親の願望で、兎之介は商いの手伝いをすることになっている。
「いつ本性がばれるのか……」
聞こえないくらいで呟いたはずの環游の声は、しっかり兎之介の耳にも届いていたようで、陰で思いっきり太ももを抓られるはめとなった。
「まったく、兎之介は誰に似たんだか……」
藤壺屋での歓迎をよそに、江戸では花鳥屋の夫妻が頭を悩ませていた。
「嫁をもらえば落ち着くと思ったが、お見合いの場で怒鳴り散らすとは……」
そもそも兎之介は、お見合いの話には不承不承だった。嫁をもらうのはうたがお嫁に行ってからと決めていて、今回のお見合い話は、両親がうるさかったからという理由で、重い腰をあげていたのだ。
お見合いのときは大人しくして、あとで丁寧に断ってくれるように両親に頼むつもりであったのだが……お見合い相手の親が、うたは病気だと聞いたがうつることはないのか、ずっと家にいるのかとあれこれ図々しく尋ねてきたので、兎之介はかっとなってしまった。
もちろん縁談話はご破算である。
「うたが先にお嫁に行ってくれれば、変な噂もなくなるだろうに……」
大店の若旦那といえば、縁談話は引く手あまただろうに、兎之介に限ってはまったくといってなかった。障害となっているのは、兎之介の元来の性格もあるだろうが、うたにまつわる呪われた子という噂といえた。
「江戸じゃあ無理だろうから、うまく佐原で縁づいてくれたりしないかしら……」
「佐原は遠いだろう」
田左衛門の意外な言葉に、おかじは声を荒げた。
「今まであの子のこと、可愛がっていなかったじゃない」
で、田左衛門も応戦するような形となった。
「お前だって、晴れ着の一枚でもあげたのは、最近の話じゃないか」
幽霊が見えるようになってしまった我が子を、気味が悪いと感じていた。本物のうたはずっと帰ってきてはいない。行方不明になったときに取り替えられたのだと、信じて疑わなかった。
だから、家に閉じこもって大人しくしてくれなければ、安心できなかった。
こそこそと家を抜け出すようになったときも心穏やかではなかったし、世間体さえも気にした。だが、うたはいつの間にか兄と和解していて、色々なことを覚えて、友人もいる。
生き生きと過ごしているうたの姿を見ていると……
「……あの子は、取り替えられていないのかもしれない」
と思うまでになった。
意味のない問答をくり返して落ち着いたおかじが、そっと呟いた。
真実うたが取り替えられていなかったとしたら、十年以上、我が子を部屋に閉じ込めて、何もかもを奪ったことになる。一日も話さないときもあった。犯してきた罪が恐ろしくて、二人は今もうたに向き合うことはできていない。
総勢五十名ほどが集まった宴は、華やかに幕を開けた。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます。かねがね考えておりましたところ、良縁に恵まれ、息子長吉は明くる年に嫁をもらい、この藤壺屋の跡を継がせることにいたしました。どうか、今後とも変わらぬお付き合いをお願いしたく、一席設けさせていただきます……」
文右衛門の挨拶が終わった後は、続々と豪勢な料理が運ばれてきて、うたは夢中になって舌鼓を打った。
宴には親戚一同に加え、近在の顔なじみの商人仲間が鎮座している。酒が充分に回るころには、賑やかさも増すところであった。
「巴屋さん、どうも」
一同に酒を注いで回っていた蕗は、藤壺屋と馴染みの深い巴屋の主人、京太郎に愛想よく応じた。
「ご立派なご子息が継がれるのであれば、ますます藤壺屋は安泰でしょうな」
「まだ頼りないところもありますよ。それを言うなら、万太郎さんこそ佐原一番の孝行息子だって、もっぱらの噂じゃありませんか」
蕗は京太郎の隣に座っている万太郎に視線を移した。
遠慮深く頭を下げた青年の顔は、凛々しく整っている。若い娘が彼を見たならば、そのほとんどがうっとりしてしまうほどに、きれいだ。
話題となった万太郎は、少し落ち着いていないような、困ったような感じである。実はこの万太郎、左斜め前にいるある人を見てから、食事も手につかなくなってしまう有様だった。
「あのお嬢さんは……」
思い切って、万太郎は蕗に尋ねてみた。
「うちの親戚で、お江戸からお兄さんと一緒に来てくださったんですよ」
宴の席で誰よりも美味しそうに料理を食べているその人の顔は、まだ幼い。けれど子どもとは思わず、胸が締めつけられるような、そんな感情に万太郎は支配されてしまった。
苦しくて、目が離せない。




