七
かつて自分が火傷を負わせたに等しいおみのと、同じ傷痕ができたうたを見て、久兵衛は何を思ったのだろうか。
それは、畏怖だ。
おみのとの間にできた一太を、老中の子であると偽ろうとしている久兵衛は、何よりもその企てが露見してしまうことを恐れている。すでに亡くなっているはずのおみのと同じ傷が、しかも急にうたの顔に浮かび上がったという現象そのものにも恐怖を感じたが、久兵衛にとって一番恐ろしいのは、老中に本当のことが露見してしまうことだ。
偶然に、おみのと同じ所に傷ができたはずはない。そもそもが説明できない超自然現象である。
そんな現象が存在するならば、うたはおみのであるかもしれないとも考えてしまった。
このままうたを生かしておけば、一太は老中の子ではないということが、明るみになってしまう。
排除しなければならない。
彼女の死と引き換えに、老中の子の母を斡旋したとなれば、巨額の富を得ることができる。どんな悪事をしたって、裁かれることもない。極楽のような生活を送れるのだ。
調べる中に久兵衛という人物がわかった仁助は、久兵衛がうたを始末しようと考えているのではと、急ぎ深萩神社に向かっていた。
ちょうど鳥居の前まで来て、神社から出てくる男に気づいた。
どこかで見たとこがある。その思考の前に、仁助は十手を持っていた。
久兵衛がうたを殺すとすれば、雇っている用心棒を差し向けるに違いない。おくまの場合も、用心棒を差し向けたのだろう。そして、一太を攫おうと神社に押しかけてきた男たちもだ。又良殺害の際は、いつ子、もとい木花屋を陥れんがために、自らが主役となった。
ともかく、神社から出てきた男は浪人の風体で、波川屋の用心棒、つまりうたを殺しに来た男ではないかと踏んで、身構えていた。
「お前は……」
うたに危害を加えたのであれば、ただでは済まさない。という怒りは、男が誰であるかを思い出して、霧散した。
仁助は深萩神社の儀式で、彼を見ていた。
波川屋でうたを助けた織本という用心棒は、その彼であるとはうたから聞いていた。つまり、波川屋の用心棒の中でも、唯一のうたの味方であるはずだ。
織本は何も言わずに、仁助と伝吉の横を通り過ぎて行った。
「旦那、野郎を捕えなくていいんですかい?」
「…………」
織本を見逃して、うたの元に急ぐ選択をした。
この場において勘で動くのはいただけないが、むしろ勘というよりも、織本に対する警戒心が彼を追わせてはくれなかった。
織本には底知れぬ何かがある。深入りしては危険だという何かが……
「仁様!」
「無事だったのか……!」
取り越し苦労か、襲撃前か。うたは顔の傷を除いて、無事な姿をとどめていた。
驚くべきことに、うたがいた部屋の中には、数人の男たちが意識を失って、倒れている。
「こいつは、一体……」
伝吉が倒れている中の一人を見ると、見事に峰打ちが決め込まれていた。
「てっきりガキ……一太を攫いに来たのかと思ったら、うたを狙いやがったんだ」
兎之介は無我夢中で、妹を守ろうとした。
妹が手にかけられようとしたので庇い前に出て、衝撃を待ったが……
「織本様が助けてくれたんです。間一髪で、私も兄様も助かりました」
「…………」
あの男は何者なのだ。なぜうたを助ける。
見た限り、織本は怪我をしていなかった。あっという間に、一太刀で次々とやっつけていったと、その光景を目の当たりにしていたうたは、勢い込んで語る。
ただの、浪人なのだろうか……?
うたに対しては優しく微笑んでいたという織本を恐ろしいと、仁助には感じられた。
「仁様……?」
「いや、何でもない。伝吉、こいつらをしょっ引くぞ。いよいよ大詰めだ」
「へい!」
今は織本のことよりも、波川屋久兵衛だ。
通常、寺社で起きた事件は町方の管轄外であるが、一太とともに戻ってきた宿禰が、寺社奉行に顔が利くからうまく手配をすると、約束してくれた。
あらかたを打ち合わせて、仁助と伝吉は男たちを捕縛して連行した後、波川屋へと向かった。
「何で睨んでるの?」
陰から仁助のことをじっと睨みつけていた兎之介に、一太は素朴に聞いた。
「わかってる、お役目中だ……あとでとっちめてやる。くそっ……誰が可愛い妹をやるものか……!」
とうとう頭を抱えて、兎之介は嘆いていた。
「頭痛いの?ねぇ……」
大丈夫。絶対にばれはしない。
万が一ばれてしまったとしても自分は助かると、久兵衛は庭で植木を剪定しながら考える。
今頃、おみのと同じ傷ができた、あの奇妙な娘が手にかけられている頃だろうか。うたがいなくなってくれれば、もう、恐れるものは何もない。
人の前では微動だにせず、切られるがままの植木の如く、容易く邪魔なものを排除できるだけの力があるのだ。
ばちんと小気味いい音を響かせながら鋏を動かしていると、店の方が騒がしくなっている様子が聞こえてきた。
また面倒なことが起きたのかと、久兵衛が動じることなく振り返った先には……
「覚悟しろ!波川屋久兵衛!」
十手を向けて叫ぶ同心と、御用聞きの姿があった。
久兵衛にとって、この光景は二度目である。
「私の疑いは晴れたはずですが……」
「うるせぇ!お前の悪事は調べがついてるんだ!さっさとお縄につきやがれ!」
伝吉が捕縄を手にしたとき、裏戸から音もなく忍び寄った西崎兵馬が姿を現した。
「西崎さん、邪魔はしないでください」
兵馬の許婚は老中海野左衛門佐の養女で、その老中と久兵衛は蜜月な関係にある。立場上、兵馬は久兵衛捕縛を止めに来たに違いない。
「邪魔はしません。私は見物というか、貴方の推理を聞きに来ただけですから」
意外な返答に、一番に驚いたのは久兵衛だった。
味方であるはずの兵馬の態度に、どういうことかとその目は問いたがっている。
何を考えているかまったく読めない兵馬だが、慎重に様子を見ることにして、ご所望の事件の紐解きを披露することにした。
「そもそもはそこにいる久兵衛のとんでもねぇ計画が始まりだった。久兵衛は自分の子を、あろうことか老中の子だと騙ろうとしたんだ」
真相を知りたいということは、許婚の父親の闇をも知るということだ。果たしてすべてを聞いたとき、兵馬は常の冷静な態度でいられるだろうか。
(面白ぇ……こっちは本気でいくぜ)
お役御免は免れない、自ら選んだ道を示すしかないようだ。
「な、何を馬鹿なことを……」
久兵衛の方はすでに狼狽している。
「あんたは老中に女中を差し出していた。その中の一人で、おみのという女中が、実は老中の子を身籠っていたという筋書きらしいが、おみのは一度も老中には渡していなかった。そうだろ?おみのはあんたが独り占めにしてたって話じゃねぇか」
伝法の神様が憑依したように、仁助はすらすらと久兵衛を問い詰める。
「つまりおみのの子は、老中の子ではありえないと」
「出鱈目だ!たしかに私は、この店の女中を差し出していた。それは認める。だが、おみのは紛うことなき海野様の子だ」
「自分の子なのに、責任感のねぇ奴だ。おみのだけは老中に渡さなかったことは、元女中の証言でわかってるんだよ。あんたはその元女中から企てが露見しねぇように、殺そうとした。元女中の方は未遂で終わったが、木花屋の娘が目撃した又良も口封じに殺したんだろ」
一太が老中の子ではないと知っていたのは、元女中のおくまと、おみのの親戚で一太を引き取った又良だけである。おくま以外の元女中については、わざわざ口封じをせずとも、充分に話せるような状態ではない。おくまと又良を殺害すれば、ことが露見することはないという、おぞましい思考だ。
「なるほど……」
久兵衛、それに老中の所業を聞いても眉一つ動かさないということは、兵馬は二人の所業についてはすでに知っていたのだろうか。
思っていたよりも反応が薄いが、兵馬を追い込みたいわけではない。
糾弾すべきは、自分の子を老中の子に仕立て上げようとした、恐るべき愛情とも呼べない計画を企てた久兵衛である。
「しかし、この男には又良の殺害は不可能だったはず」
「そ、そうだ!私が料亭にいたことはお前たちも調べたことだろう」
強力な後ろ盾よりも効力があるのは、又良殺害の時刻には料亭にいたという確たる証言である。
「自信があるようだが、もう一度一緒に、確かめに行ってもいいんだぜ」
「私を連れて行かなくても……」
「そうだよなぁ。あんたは料亭に行けないはずだ」
「……まさか」
さすが有能な同心は、いまのやり取りだけでからくりを見破ったのかと、仁助は感心してしまった。こういうところはいくら伝法になっていても、中身は相変わらずの仁助である。
「ある絵師にあんたの絵を描いてもらって、料亭に行ってもらったんだが……」
そこまで聞いて、久兵衛の顔は青褪めた。
「料亭に来た波川屋久兵衛は、あんたとは別人だったとよ。じゃあ料亭に来た久兵衛は何者なのかと、また絵師にその人物の顔を描いてもらったら、やけにこの店の番頭に似ているじゃねぇか」
見破れば単純なからくりだった。
料亭を訪れたのは久兵衛ではなく、久兵衛だと偽った波川屋の番頭であった。
犯行には不可能な距離の料亭を選んだのには、自分の顔を知られていないという条件も含まれていたからだった。しかもその料亭へは事件の日の一度しか、波川屋は訪ねていない。常連ではない店をもってして、偽の波川屋久兵衛をでっち上げたのだ。仮に客の中に波川屋を知っている者がいたとしても、店の人に波川屋さんと番頭が呼ばれていたとしても、不自然ではなかった。
「証拠がありませんね」
久兵衛が料亭に来ていないという裏は取れた。動機や証言も充分である。
だが、状況証拠に過ぎない。
久兵衛が又良を殺害したという証拠がなければ、はじめの二の舞になる。
唯一の証拠は、又良殺害で使用した凶器の匕首だった。
(どこだ……どこに隠してやがる……)
誰も近づかない場所。隠すにはうってつけの場所……
——辞めたときに久兵衛自慢の植木鉢の一つでも壊しときゃよかったよ。
おくまが言っていたのは……
「伝吉!」
仁助の視線が注がれた場所に、伝吉もぴんときたようだ。
すっ飛んで地面に叩きつけたのは、久兵衛自慢の植木鉢である。
「やめろ……!」
破壊の音とともに、久兵衛は頽れる。
植木鉢の土の中に隠されていた、血のこびり付いた匕首は、不気味な色を湛えて、白日の下に晒された。
波川屋久兵衛が捕縛されて二日後、牢に閉じ込められていた久兵衛は、気が気でなかった。
一体いつになれば解放されるのか。老中は何をしている。事件を揉み消すだけの権力を、なぜ早くに使ってはくれない。
「頼む、助けてくれ……!」
西崎兵馬の姿を見て、思わず久兵衛は叫んでいた。
見張りはいつの間にか消えている。兵馬が人払いをしたようだ。これで気兼ねなく話せる。
「見苦しいですよ。知らないようですから教えてあげますが、老中は助けてはくれません」
「な……」
「貴方にはもう関りがないと、奉行所に通達したのです。ですから貴方は裁かれる。あのお気楽者も命拾いしたものですね」
久兵衛を裁く前に、障害はなかった。
老中からの圧力もない今、仁助は手柄こそもらえても、お役御免となる謂れもないのだ。
「老中は貴方の企てなどお見通しでしたよ。あの人は種無しですからね。正妻や妾に一人として実子ができない。数多く手をつけた波川屋の女中でさえ兆しはなかったのに、疑問に思わない方がおかしい」
「では何故、はじめは私を助けたのだ……!」
「私がお願いをしました。だって、その方が面白そうだったんでね。罪のない娘は噓吐き呼ばわりされて、お役御免になると言っているのに、事件に首を突っ込む青臭い同心もいて、見ていて楽しかった」
楽しいと語っている兵馬の顔は笑っていない。それが却って、久兵衛を身震いさせた。
「まあどのみち、老中を騙ろうとした時点で、貴方の終わりは決まっていたんです」
「待て……私を見捨てるなら、お前たちのこともすべて白状してやる!それに知っているんだ。お前の許婚は乙若屋の……」
そこで久兵衛の声は途切れた。
一瞬のうちに、兵馬は刀で久兵衛を貫いたのである。
「私も貴方と同じで、知っている者は排除する。ヘマをしないところは、貴方とは違いますが。こちらも女狐が大人しくしていれば、仕事は減るんですけどね……ああ、言っても仕方ありませんね。地獄に落ちた貴方には、恨みながら死んでいった方たちの怨言しか聞こえていないでしょうから……」
事件が解決した後も、うたの傷痕は消えなかった。
もうこうなればお祓いをするしかないと宿禰は言ったのだが、あと少しだけ待ってくださいと、うたは答えた。
うたとしても、このまま一生傷が消えなかったらと不安にならないわけではない。しかし、霊を強制的に追い払うことは、可哀想で決断できなかったのである。
そして、ある夜半のこと……
「ごめんなさい……もう、消えるから……」
泣き声が混じった女の声で、うたは目を覚ました。
黒い靄が、自分に圧し掛かっている。起き上がると、靄は身体から離れた。
恐怖はないと言えば嘘になる。だが、うたは叫ぶことも、逃げることもしなかった。
一太が話してくれたくろという存在はきっと、目の前にいる黒い靄だ。声は、はっきりと靄から聞こえた。どうしてこの存在は、黒い靄の形をしているのか。本当の姿を見せられない理由は……
「一太くんは私を見ても怖がらなかった。それに、お母様を恋しがっている」
一太は赤子の時分に亡くなった母を覚えてはいない。自分の母はどんな姿だったのか。優しい顔をしているだろうか。していてほしいと、幻の母の姿を描いている。
でも、実際は頬に酷い火傷の痕があるのだと、知られたくなかったのだろう。息子がその姿を見て、怯えるに違いないと、彼女はずっと本来の姿を黒で隠していたのだ。
くろはおみので、うたに影響を及ぼした霊もおみのだ。
何かを感じ取ったのか、一太はおみのの影響を受けたうたに、母恋しさの情を募らせていた。
うたの隣で眠っていた一太が目を覚ました。
「くろ……?」
「もう安心して眠っていいのよ。一太が眠るまで、子守唄を歌ってあげる」
優しい子守唄を口ずさんでくれる、女の人は誰なのだろう。頬に傷があるが、うたではない。
もっと話したいけれど、子守唄が心地良くて、瞼が重い。
小梅村にいたときに、子守唄を歌う母親に背負われている赤子を見たことがあった。自分には、子守唄を歌ってくれる母がいない。とても残酷で羨ましい光景だった。
もしも母がいてくれたのならば、こんな人が母であってほしいと、一太は子守唄を歌う女の姿を目に焼き付けて、眠りに落ちた。
翌日、うたの傷痕は消えていた。
くろは二度と、一太の前に姿を見せることはなかった。又良と父親についての真実を知らぬまま、一太は深萩神社に引き取られることになったのである。
数々の事件で裁かれるはずだった波川屋久兵衛が、牢内で自害したという知らせは、後味の悪さを残した。
「すっきりしないな……」
仁助が非番の日、うたは神山家を訪ねていた。仁助の母である沙世と会うのが目的であったが、なぜか仁助が非番の日には、沙世はどこかに姿を消してしまい、仁助と二人きりにさせられるのである。
「裁きを受けて罪を償わせたかったが、もしかしたら久兵衛は地獄で裁きを受けているかもしれないな」
うたが聞いたという怨言とともに、久兵衛は地獄に落ちたのではないか。そうでもしなければ、久兵衛を恨む生者も霊も浮かばれない。
「いーちゃんの笑顔が戻ったのが救いです」
噓吐きの汚名を無事に返上できたいつ子は、常の明るい調子に戻っているという。
あれだけ噂を信じて、いつ子を嘘吐き呼ばわりしていた人たちが、何事もなかったように木花屋に通っているというのだから、呆れて物が言えない。しょせん他人なんて、そんなものだろうか……
だが、いつ子にはその中でも、信じるべき友人たちが見えたというところだ。
「今ごろ、伝吉さんと楽しんでいるでしょうね」
伝吉も休みなので二人で遊びに行くのだと、いつ子から聞いていた。
「もしかしたら、出合茶屋に行っているかも」
「な……!大胆なことを言うな……」
「……?出合茶屋って、好いた方と行くところですよね」
「まあ、間違ってはいないが……」
「私もいつか、行ってみたいです!」
きらきらした目で言われて、仁助は慌てる他なかった。いくら世間を知ってきたとはいえ、年頃の娘が口にしてよい言葉ではない。
ここはちゃんと叱るべきかと思っていると、特別なお菓子でもでるのかなと、うたは純粋なままで、意味をわかってないのだと安心した。
「好きな奴とって、誰に教わったんだ」
「親分です」
伝吉め。きちんと説明をしなかったなと、しかし自分も説明することを躊躇っている。
「いいか。好きな奴ができても、行ってはだめだ」
「どうしてですか?」
「どうしてもだ」
「どんな場所なんですか?」
「…………」
「……仁様の意地悪」
頬を膨らませる姿が、やけに子どもっぽい。まだ出合茶屋を口にするなど、うたには早いようだ。
「いつか教えてやるから、もう出合茶屋の話は誰にもするなよ。……そうだ、母上がうたに買っておいた特別なお菓子があるんだった」
「食べ物で誤魔化されません」
そう言った割には、甘い羊羹を食べてすっかり機嫌が直ったうたであった。




