五
「私は生贄にする気などなかった……!」
生き返るわけもなく、寧はその壮絶な死に様を見せつけて、儀式の最中に落命した。
神聖な儀式が血塗られた儀式に終わり、一室に集まった皆の顔には沈痛な色が浮かんでいた。そして天禰がたまりかねたように叫んだ。
「生贄って……神子は生贄だったというんですか!」
自身の予想が当たっていたことを、仁助は素直によろこべなかった。実は神子が生贄にされる運命にあったなどとは誰も望まない。
やはり天禰に問うおとまは、神子の真実を知らなかったのだ。
「……神はこの地に潤いをもたらしてくれる。しかしそのためには見返りが必要だった」
「じゃあ寧がずっとちやほやされていたのは、生贄になることが決まっていたから……」
神子に選ばれたのは不思議な力を持っていたから。というのは口実で、本当は生贄になることが決まっていて、短い生涯となる寧をせめて大切にしていた。
大々的に儀式を行わないのも、神子が生贄になるという事実を伏せるためだったとすれば……
大切にされている本当の理由がわかったとは、寧が自身の運命を悟ってしまったからかもしれない。
「寧を神子に選んだのは、はじめは生贄にするためだった……だが、私は殺す気などなかったのだ」
「殺すって……」
天禰が口にした物騒な言葉に、うたが反応した。
「神にささげるのは神子の御霊。御霊を器から切り離す……つまり神子を殺傷していたのは神ではなく、宮司の役目だった」
「では寧を殺したのは、お前か」
増大してゆく怒りを仁助は隠しきれなかった。
神子が実は生贄で、宮司に殺されるまでが儀式のすべてだとすれば、うたは宿禰に殺されるということだ。うただけではない。歴代の神子がその運命を辿っていたと考えれば、穏やかなままではいられなかった。
「違う……私は殺してなどいない」
「神子は宮司が殺していると言ったではないか!」
「私は本当に寧を殺す気はなかった。村の誰に何と言われようと、どんなお咎めを受けようとも、ただ寧には祝詞を奉じるがのみの役目にするつもりだったのだ。神子を殺めるときは小刀で刺しておりましたとか。あのような祟りを、私が、生きとし生ける人間ができようはずはございません」
寧は突然、大量の血を吐いて死んだ。五十年後のおとまの死に方と同じである。
儀式のとき、寧の側近くにいた者はいない。しかも飲食をしていなかった寧に毒を盛ることも不可能であり、まさに神の祟りとでもいうような死に方をしていた。
「生贄を欲するような時代錯誤な神など、崇めるに及ばない」
吐き捨てるように言った仁助は、うたの声で冷静さを取り戻した。
「神様は生贄を必要としているのでしょうか……寧さんは人々に敬われていた。でもそれは、生贄にされることが決まっていたからで、寧さんの力を崇めていたわけじゃない。誰しもが持たない力を備えた寧さんを、本当は恐れていた……」
全員がはっとして、うたを見る。
寧は死者を呼び寄せることのできる特異な能力を持っていた。寧にはその能力があると知って、全員が褒めそやすはずはない。人にはない能力を、どうして寧にだけ力が備わっているか。異常だ。恐ろしい。だって、他の人と違うから。
それは崇拝ではなく畏怖である。
神子は代々、不思議な力を宿す少女が選ばれていた。真におぞましい事実は、生贄にされることではなく、畏怖の対象を排除することにある。
行方不明になって帰ってきたとき、不思議な力を宿してしまったうたを、実の両親さえ恐れ、取り替えられたと信じている。他人にはない能力を持っている、仁助に言わせればたったそれだけのことで、人は他人の運命を決めてしまうのだ。
寧と自分が重なってしまったうたにこそ、わかったことである。
「生贄を必要としていたのは神ではなく人だと……」
宮司の役目の意味を知った天禰の瞳は震えている。天禰は寧を救おうとした。寧に畏怖を抱いていない、数少ない中の一人である。
神に生贄を捧げ、地が潤う。とは、恐れる人物を排除して、安寧に暮らしたいという人間の願いだったのだ。
「じゃあどうして寧は死んだの?宮司様でなければ、一体誰が……」
まだわからないのは、おとまの死と合わせて、寧がどうやって死に至ったかである。
「祝詞は神の言葉であったな。寧は祝詞を読み終えたときに苦しみだした。俺には祝詞が寧を殺したとしか思えない」
「では神もまた生贄を必要としていた……」
天禰の言葉を、仁助は否定した。
「ここの神は人の心を反映させると聞いている。もしも祝詞を作った人物の心を、神が祝詞に反映させていたとすれば……恐れではなく、憎しみを持った人物の心を」
「私は……」
神子が生贄になることなど露知らず、神聖な存在であると信じて、秘かに神子になりたいと願い、神子に選ばれた寧を妬ましく思っていたのは……
「だって、知らなかった……寧がいなくなったら私が神子になれる。いなくなればいいなんて、知っていたら……」
泣き崩れるおとまの姿を隠すように、部屋の中に霧が立ち込める。
恨みによって、祝詞は呪いの言葉へと転じた。呪いを謡った寧は死に至る。おそらくおとまは寧が謡った祝詞を読んでしまい、同じ死に方をした。
おとまが祝詞を読んだ理由はなぜであろう。己が恨みが死に至らしめたとは知らないおとまが寧に捧げる、鎮魂の意だったのか。皮肉にも、おとまは自分の恨みが跳ね返ってしまったのだ。
仁助がそこまで考えたとき、すでに景色は立ち込めた霧で白一色だった。
瞬きのうちに、藍と茜が混じった空が視界に映った。今度ははっきりと見える萩の花たち。遠くでは鴉の鳴く声が聞こえた。
「戻ってこれたのか」
少しだけ夢を見ていたみたいに、あっけなく、現の世界に戻ってきた。
隣には、戻ってこれてほっとしているような、あのおぞましい真実が嘘であればと、虚しく受け入れているような、複雑な表情をしているうたがいる。
寧の事件の真相を解決したと判断して、みこは現在に戻してくれたのか。だが、おとまが犯人であったとして、証拠は何もない。祝詞が寧を殺した、つまり呪いで人を殺したとして、しかもおとまは呪いをかけるつもりはなかったのだから、確かな真実を得られたわけではないのだ。
「うた、今ならやめられる」
神が生贄を欲していないという証はない。宿禰が作った祝詞が安全であるとも言い切れない。
あくまで仁助は、憶測で事件を解決した。だから、うたが無事に儀式を遂行できるかもわからなければ、再び惨劇が起きる可能性もあるのだ。
「私、やります。神子の想いを繋ぎたい気持ちに、変わりはありません。でも、今のままじゃ何かが足りない……」
神子が生贄になる儀式ならば、もう神子は選ばなくてもよい。だが、天禰は寧を生贄にはせずに、神への祈りを目的としていた。そう、天禰は忌まわしい儀式を、変えたかったのだ。
口実こそを真実にすることが目的であった。
小さく細い手の中には、使命を成し遂げるだけの精神と力が宿っているのだと、仁助はうたの覚悟を目の当たりにして思った。
「寧が謡っていた祝詞の一部だが、ヲシテ文字の順番の逆だったんだ。最後のマナハカア……逆にするとアカハナマになる」
ヲシテ文字はいろはにほへとではなく、アカハナマより始まる。
呪いの祝詞は逆の言葉であった。つまり正しい順番に直せば、呪いの逆になるのではないかと、仁助は閃いた。
「アワノウタ、ですよ」
声のした方を、二人はぎょっと振り返る。宿禰の顔を見たことで、無事に現在に戻ってきたと実感した。
「いま神山様が仰っていたアカハナマ、続いてイキヒニミウク……すべてを言い終えたとき、それはアワノウタとなります。神がアワノウタを謡ったとき、国には豊穣をもたらしたと伝えられておりますれば、神子様が謡う祝詞にはとても相応しいものとなるでしょう。ですが今からでは……」
「アカハナマ、イキヒニミウク、フヌムエケ……」
うたはすらすらと唱えてみせた。かつてヲシテ文字を使っていた深萩神社の宮司と、絵師の環游から教えてもらった仁助はヲシテ文字の羅列を知っている。しかし、うたは知らないはずであった。
「気づかないうちに、誰かが教えてくれたのかもしれません」
神子は不思議な力を持っている。その力を忌み嫌われた神子たちは生贄となった。
だがここに、うたを嫌う者は誰もいない。
仁助は素直に感心しているし、宿禰も満足そうに頷いた。
「旦那!」
「うーちゃん!」
全速力で神社まで走ってきたと思われる伝吉と、裁縫の習い事で知り合ったうたの友人、いつ子が息を切らせながらやって来た。
「どうしたのだ、二人とも」
「どうしたもこうしたもありませんよ……うたが緊急事態だっていうから、来たんじゃねぇですか」
「あ……」
現在でいえば、ちょうど自分はうたを神社から連れ去ろうとしていたのだ。
「あって、何にもないんですかい?」
「念のため調べておくか……」
と言って仁助は宿禰に向き直り、刃物を所持していないかを調べてみせる。宿禰は文句を言わず従って、刃物を持っていたのは大昔のことです、と呟いたものだから、仁助は少し罪悪感を覚えた。
二人のやり取りの意味がわからない伝吉はぽかんとしている。
「伝吉さんの大変だは当てにならないってことがよくわかったわ」
呆れた顔で口にしたのはいつ子である。
「何言ってやがる!俺は環游の野郎に言われて……って、あいつ」
遅れてやって来たのは、その環游であった。伝吉は環游に言われた、環游は仁助に言われたままを伝えただけだと、てんやわんやである。
とそこに、
「仁助、何を騒いでいるのですか」
沙世もやって来た。
「私が騒いでいるわけでは……」
「もう、仕方ないわね。儀式に間に合ってはしゃいでいるのね」
「母上……」
「うたちゃん、先生たちも来てくれたわよ」
自分の歩みをゆく沙世は、一緒に神社に来たうたの裁縫の師匠を促す。若い女師匠を筆頭に、うたが声をかけたいつ子以外の友人たちも皆、集まったようだ。
だが、一番に現れていそうな兎之介の姿はなかった。両親も……
「兎之介さんはお店があるから、もうすぐ来てくれるはずよ」
沙世に励まされて、うたは準備にとりかかる。
不安は消えていた。儀式を遂行できるという過信ではなく、ただその身は儀式のためだけに存在しているようであった。
やがて闇夜が訪れて、篝火が灯された。
小径の入り口に立ったうたに、宿禰がそっと囁く。
「ご家族の方がお見えになりましたよ」
きっと、振り返った先には兄がいるだけ。それだけでうれしい。
だから哀しまない。
振り返れるのは、儀式が始まる前の今だけである。うたは兄だけを探していた。だから、目に映る二人の姿に、目が熱くなる。
決して来てはくれないと思っていた。優しく微笑む兄と、しかと見届けようとしている両親の姿が、うたの目に映った。
うたは泣くのをこらえて、前を向く。使命を果たすために。
「伝吉、あの方たちは……」
仁助はこそと、伝吉に聞いた。仁助の視線の先にはうたの家族や友人、沙世でもない知らない二人組がいたからである。
一人は浪人のような男だった。隣には不釣り合いにも身分卑しくない御高祖頭巾を被った女がいる。
「へい。俺も気になってさっき神官に聞いたんですが、前にここの近くに住んでいて儀式のことも知っていたもんだから、ぜひ見せてほしいとお願いしてきたそうで……」
そこで仁助は、女の顔に見覚えがあることに気づいた。
(あれは、西崎さんの……)
仁助は先日、定町廻り同心西崎兵馬の家を訪ねたときに、その女を見ていた。
兵馬の許婚だと紹介された、須磨である。
まさか兵馬という許婚がありながら男と密会を重ねているのかと一瞬考えてしまったが、須磨と男は親子ほど年が離れているようにも見える。ただの知り合いだろうか、それとも歳の差はあれどか、野暮なことを考えるのはよそうと、仁助はうただけを見た。
「想像した通り、綺麗になっていた」
「やっと、貴方の願いが叶う」
言葉は夜の中に消えて、仁助たちの誰にも聞こえなかった。
澄んだ鈴の音が止み、うたは祝詞を謡う。宿禰の作った祝詞が、この地の安寧を願っていると信じて。
そして最後に、うたはアワノウタを謡った。
「アカハナマ、イキヒニミウク」
——おとまが私のことを恨んでいたのは知っていたの。
アワノウタを教えてくれたのは誰だろうか。うたは身体の中に流れてくる声に、教えられた。
「フヌムエケ、ヘネメヲコホノ」
——でも私はおとまが好きだった。
うたにはわかる。不思議な力を持った自分を受け入れてくれた人を、嫌いになれるはずがないのだ。
「モトロソヨ、ヲテレセヱツル」
——だから、神子が生贄になってしまうなんて言えなかった。
寧は生贄になる道を、そして幼馴染に恨まれたまま死にゆく定めを享受した。
「スユンチリ、シヰタラサヤワ」
——今度はまた一緒にいようねって言うんだ。
萩の花弁に誘われて、うたは上空を見上げる。幾千もの星が瞬いて、今にも降りそうな眩しい光だった。
儀式は何事もなく終わった。血塗られた惨劇が、遠い過去へと追いやられた瞬間である。
儀式が終わって数日後、うたは宿禰に深萩神社に招かれていた。
「神子様に謝らなければならないことがあります。実は、神子とは儀式にて生贄になる定めだったのです」
宿禰は父同様に、神子を生贄にする気持ちはなかった。だが、過去の凄惨な真実を告げてしまえば、神子はやりたくないと固辞されるかもしれないと思い、隠していたのである。
「知っていました」
「では、知っていて神子を務めていただいたと……」
「もう生贄は必要ありませんから」
「やはり貴女を選んで正解だった。さすがは神が選んだ方です」
「神が……」
「ええ。神子様も見えているのではありませんか」
もしかしてと、うたは聞いた。
「小さい女の子の……私てっきり幽霊だとばかり……」
こんなことを言っては罰が当たりそうだと思いながら、うたは辺りを見回したが、今はいないようだ。
神ほどの力をすれば、仁助にも姿が見えたのかもしれないと合点する。
「儚くも生贄とされてしまった神子たちの想いが集まり、それが神になったのだと私は思っております」
ならばみこと名乗ったのも頷ける。
「生贄を一番止めたかったのは、亡くなってしまった神子たちですものね……」
みこはうたと仁助に、寧の死の真相を突き止めさせようとした。ひとえに惨劇の歴史を止めたい想いからだったのだろう。
「たとえ神子の役目を終えられても、私にとりましてはいつまでも神子様であり、神子様の危機あらば、力になるつもりでございます」
「宿禰さん……ありがとうございます」
うたの居場所がまた一つ、存在した。
「おとまは自殺で片づけた」
過去に自身が作ってしまった呪いの言葉で、自身もまた生を終えた。とは調書に書けず、猛毒を飲んでの自死としたと、ある昼下がり、ひょっこり道端でうたに出会った仁助が報告した。
「寧さんと二人、穏やかな死後を過ごせているといいですね」
死後にだって絡まった糸を解せることを、仁助もうたも知っている。
想いはずっと後世に残ることは、みこ様が証明していた。
「神山様……」
「えっ!」
いきなり驚かれて、うたは目をぱちくりさせる。仁助は心底がっかりしているようであった。
「何かお気に触ることでも……」
「いや……だって、この前は……その、下の名前で呼んでくれたじゃないか」
「え?」
「神山じゃなくて……」
仁助と言ってしまったとき、後からそのことに気づいたとうたは言った。
「いーちゃんに聞いたんです。どうしていーちゃんは親分のことを伝吉さんって呼ぶのかって。そしたら親しい人は下の名前で呼ぶこともあるって、教えてくれたんです」
いーちゃんとは友人のいつ子のことである。
ということは、うたは自分のことを親しく思っていないから苗字呼びに直したのかと、仁助の顔は情けなくなるばかりであった。
「でも、お武家様に下の名前では呼べませんから……」
うたは少しづつ、世間というものを覚えている。決して嫌いになったからではないとわかった仁助は、急に意気込んだ。
「下の名前で呼んだからって、法で裁かれるわけではない。俺が許す」
「こうや……仁助様」
「そうだ」
「仁様?」
「おお、そっちの方がしっくりくる!」
よろこんでいる理由はわからずに、仁助がうれしいのであればそれでよいと、うたも機嫌が良くなった。




