四
「どうやら五十年前に来てしまったらしい」
何ということか、この世界には若き日の宿禰の父、天禰がいる。そして寧という女は、おそらく五十年前に神子となった女性である。
うたを連れ去ろうとした仁助は、鳥居の前でみこという幽霊に行く手を阻まれ、濃霧が出現していつの間にやら時間を逆行していた。しかも神社の外には行けず、何度外へ行こうとしても再び神社に戻って来てしまうのである。
いま仁助とうたは、神社の一室にいる。どうぞ儀式をご覧くださいと丁重に客人として、天禰に迎えられていた。
「五十年前といえば深萩神社で儀式が行われた年で、おとまが巫女を辞めた年でもある。ならばただ意味もなく過去に来てしまったというわけではないはずだ」
「…………」
じっと大きい瞳が仁助を見ている。混乱していたはずのうたが落ち着きを取り戻していて、この状況で良かったと暢気なことを考えたのは、もちろん仁助だった。
「神山様はすごいです。現在に戻れなかったらどうしようとかではなくて、過去に来た意味を考えているんですね」
「……呆れているのか?」
「いいえ。神山様が冷静だから、私も取り乱さずにすみました」
やはり自分は他人が言うようにお気楽者なのかと、つくづく仁助は思った。
うたは嫌味を言う人ではないから本心で言っているのだろう。とすれば、うたに良い影響を与えられたのが幸いだ。他人からすれば頼りなくて呆けた奴に見えるに違いない。
(いや、うたにしても俺は頼りない男か……)
そうあっては男が廃ると、仁助は気を引き締めた。
「失礼します」
声をかけて部屋の中に入ってきたのは、寧ではなく他の巫女であった。寧と同じ年頃の若い女を、仁助はどこかで見たような気がした。
「お客様におかれましては不自由はございませんでしょうか」
「あっ……!」
そうか、五十年前なら彼女がいてもおかしくはないと、仁助は思い至って声を上げる。その人物は……
「おとまか」
「は、はい。この神社で巫女をしております」
皺のない若い姿でも、五十年後の姿に面影があった。後ろ暗いことがあるようだったというおとまは、まだそんな風情を醸し出してはいない。
それから二言三言だけ話して、おとまは下がっていった。
「変だな……おとまはなぜ自分の名前を知っているのかと聞かなかった。それだけじゃない。天禰も寧も、俺たちのことを不審がる様子が全くない。俺は見るからに同心で、うたにいたっては神子の格好をしているんだ。わざとにしても反応がなさすぎる」
「細かいことは気にするな」
向かい合っていた二人は、声のした障子戸の方を見やる。障子戸はおとまが去ったときに閉じられたというのに、声の主は部屋の中にいた。
「みこ様!」
うたにも、そして仁助にも見える幽霊は、おそらくこの超常的な現象に関わっている。
仁助がまじまじとみこを見れば、見た目は小さい子どもなのに、どうしてなのかは言葉で言い表せないが、たしかに呼び捨てにはできないような雰囲気があった。
「今日の儀式で寧が死ぬ」
「……!あの言葉は本当だったのか」
「え……」
神子である寧が死ぬ。それが事実ならば、ヲシテ文字で書き記されていた神子は必ず死ぬという言葉が、真であるということだ。
「謎の記号、あれはヲシテ文字だったわけだが、神子は必ず死人となる定めと書いてあったんだ」
「そんな……」
「だから俺は急いでお前を神社から連れ出そうとして……」
五十年前の世界に来てしまった。
神子が死ぬということは、うたもまた死人になる定めにあるのかもしれない。ヲシテ文字で残された言葉をはじめて聞かされたうたは、驚愕と恐怖で固まっていた。
「ここは亡き者たちの記憶で作られた世界。私にできるのは、貴方たちに世界を見せることだけ。ここで何をしようと、未来は変わらない」
淡々とみこが口を開く。みこの言葉通りだとすれば、ここは五十年前の世界ではなく、みこが見せている世界だということだ。
この世界の住人たちが仁助とうたのことを不審がらないのも、都合の良いように調整されているといったところか。寧が今日の儀式で亡くなったのが事実だとして、天禰もおとまも、五十年後には全員がすでに死人になっている。登場人物の条件が亡者だとすれば、この世界には宿禰はいないということだ。
「五十年前ではない……いや、正しくは五十年前の記憶の世界か」
みこは黙って二人を見ている。沈黙は肯定なのか、声にも顔にも感情が読み取れなかった。
「事件を解くのじゃ」
その言葉を最後に、みこは背景に溶け込むように姿を消した。まだ聞きたいことが山ほどあった仁助が待てと言っても、時すでに遅し。そもそもみこは何者なのか。考え込む仁助とは対象に、うたは受け入れるだけで一杯一杯のようだ。
「みこの願い通りに事件の真相がわかれば、死を回避することができるに違いない。そして元の世界に戻れるはずだ」
事件とは寧の死について、しかも事件と表現したのであれば、犯人がいるはずだ。犯人がわかれば定めとやらを避けられると、仁助はすっかり口数の減ってしまったうたを慰めた。
「うたはここで大人しくしていろ。頼りないかもしれないが、俺が必ず……」
仁助に続いて、うたも不安を振るいきるように立ち上がった。
「私も、調べます」
「無理はするな。何が起こるかだってわからない。約束もしたじゃないか」
「仁助様との約束は破りません」
「……」
「……?」
「何でもない……あえて言ったわけではなさそうだな」
うたはごく自然に口にしていた。今、超自然現象の只中にいるということが、一瞬どうでもよくなるくらいに、内心では和んでしまう仁助であった。
きょとんとしているうたにその理由は教えずに、仁助は念押しした。
「危ないことは絶対にするなよ」
何刻経っても、霧は晴れなかった。せっかくの萩も霧の所為で映えずにいる。空は曇天一色、太陽さえも見えない。記憶の世界の住人たちは、ただじっとしているというわけではなく、儀式の準備に取りかかっていた。
人や神社の建物を見るのがやっとという視界の中、神子の寧はひたすらに儀式の練習を重ねている。
祝詞はその年ごとに内容が変わるので違うが、衣装や手順は五十年後とまったく同じであった。
うたも元の世界に戻ればすぐに儀式が始まることだろう。元の世界に戻れるかという不安よりも、この後に起こるという危険に身が怯える思いだった。
「寧……神子様には不思議な力があって、皆にありがたがられているんです」
仁助は天禰を、うたは寧とおとまを探ることになっていて、外で寧の様子を窺っていたうたは、そっとおとまに話しかけられた。
「神子様とはお知り合いなのですか?」
「幼馴染です。神子様はこの近くに住んでいて、私はこの神社にいるから、小さい頃から見知っていて……」
「不思議な力というのは……」
「亡くなった方とお話ができるんです。口寄せっていうのかしら、呼び寄せてお話をしたり、何でも言い当てちゃうんです」
古来より、霊を呼び寄せる力を持つ者は存在していた。その能力を持つ者は巫覡と呼ばれ、神に仕える神職であり、巫は巫女を意味する。
霊を自在に呼び寄せることまではできないものの、うたもまた、霊という存在が見える特異な能力者である。だから神子に選ばれたと言われれば、納得できることだ。
だが、うたと寧で決定的に違うのは、その能力を敬われているか否かである。
ありがたやと皆に言われたいわけではないが、うたは誰からも能力を持ち上げられてはいなかった。両親たちのように気味悪がられるか、仁助たちのように気にされないかのどちらかである。だから特異な能力が敬われることがあるのかと、うたは意外に思った。
「今年の祝詞は宮司様が作られたのですか?」
「いえ、本来は私の父が作るはずだったのですが、数年前に亡くなってしまったので、私が作りました。でも私には何の力もありませんから、とても立派な祝詞ではありません」
おとまは寧と自身を比べて卑下している。また、寧のことを羨ましいと思っているのだと、うたは感じ取った。
「……私は、神子になりたかった」
うたが隣にいたはずのおとまを見たとき、すでに彼女は走り去っていた。
それはうたに訴えた言葉だったのか、独り言だったのか、ただとてつもない悔しさだけが、うたの耳に残っていた。
「貴女も私と同じような力があるのね」
今度は寧が、親し気にうたに話しかけてきた。
「わかりますか……?」
「何となく、ね」
「でも私は中途半端な力なんです。上手くお話ししたりはできませんし、知人の幽霊しか見えなくて……」
寧のように万能な能力であったならば、もっと仁助の役に立てたであろう。それでも両親は自分を忌み嫌っただろうか。
気づけばうたもまた、おとまのように寧と自分とを比べてしまっていた。
「……私はずっと小さい頃から、神様みたいに扱われていた。当たり前に受け入れていたけれど、どうして私だけが大切にされていたのか、本当の理由がわかったの」
「本当の理由……」
寧はただ哀しく笑うだけで、答えてはくれなかった。
「儀式で人が亡くなるようなことは……」
神子が必ず死ぬ運命ならば、寧だけではなく、歴代の神子もそうなる運命だったということだ。
とすれば、儀式は血腥いもので、宿禰、いや宮司たちはそれを隠して神子を選んでいたという恐ろしい可能性も浮かんでいた。
いま、仁助は天禰に詰め寄っている。
「まさか左様なこと……」
「今までに神子が亡くなるような事件があったのではないか?」
息子そっくりの穏やかな調子が途絶え、天禰は無表情になった。
「神のお言葉、すなわち祝詞を謡う神聖な儀式に、血を流すようなことは断じてございません」
「祝詞は神の言葉……」
――ここにおわす神様は、その人の気持ちに応えるのですよ。
ふと脳裏を過った宿禰の言葉から、仁助はあることを考えた。
(ならば神の言葉は神の意思にあらず)
ヲシテ文字を見せたときの宿禰もそうであったが、深萩神社の宮司は断固として他人に告げてはならない何かを隠していて、断固として教えてはくれない。たとえ拷問を受けても吐かないような、強い意志をひしひしと感じていた。
(本当に、神聖な儀式なのか……?)
天禰との短い問答を終えた仁助は、うたと二人、集まった情報を共有した。
「なるほど……おとまは神子に選ばれた寧を羨ましがっている。気持ちが延長しているとすれば、恨んでいるのかもしれないな」
「でも、幼馴染なのに……」
幼馴染とはいえ、だからこそ、僻み憎しむこともあるのではないかと、同心として人の嫌な部分を見ている仁助は言った。
仮におとまが寧を殺したいほど恨んでいたとしても、個人の恨みである。ヲシテ文字にあった神子が死ぬ定めということには当てはまらない。それに……
「儀式には裏がありそうだ」
「……寧さんは、自分が死ぬことがわかっているような気がします」
「なに……」
皆に敬われている理由がわかったと言ったときの寧は、哀しそうでもあり、ある覚悟が備わっているようだったと、うたは思った。
「なぜ神子はおとまではないのだ」
「それは、寧さんには不思議な力があるから……」
巫覡と呼ばれる神職があるのなら、能力者の寧が選ばれたことは不自然ではない。
「神子という名誉ある役目を、禰宜であったおとまの父は娘にやらせたくなかったのだろうか。寧が神子になるのはずっと前から決まっていたそうだが、どうして早くに決められていたのか。……あくまで俺の想像だが、神子とは神への生贄ではないだろうか」
「い、生贄……」
人の気持ちに応える神、ならば神の言葉だという祝詞は、神が欲しているわけではない。五十年に一度、神が求めるものは祝詞ではなく神子そのものだとしたら……宮司が秘匿とする事実が、神子が生贄であること。知っているのは宮司だけで、知らずに神子になりたかったと思っているおとまが真実を知ってしまったとき、幼馴染を恨み、果ては生贄にしてしまったと責を負って、五十年後の儀式が行われる年に抱え込んだ罪に飲まれて命を絶ってしまった。と考えれば、辻褄が合ってしまう。
「お邪魔をしてごめんなさい。儀式の準備ができました」
仁助の予想が当たっているのかを、確かめるときが来た。
夜であれば煌めく篝火も、霧の中ではぼんやりとしか見えない。本来ならば暗闇が訪れてから行われる儀式も、この世界であっては虚ろに見える。
小径を通って森の中へ、先頭は寧、後ろに天禰とおとまが付き従っていた。さらにその後ろを仁助とうたが続く。
森の広場に着けば、神子の独断場である。仁助とうたは寧の一挙手一投足を見逃さない。真実、おぞましい儀式であるのか、みこの言葉通り寧は命を落とすのか、心地よいはずの祭具の鈴の音が鼓動を激しくさせて、息も苦しかった。
寧の所作はうたが教えてもらった動作と変わらない。天禰とおとまにも不自然な様子は見られない。
儀式はいよいよ、神子が祝詞を奉じるところまで進んだ。そこで一気に、雰囲気はより緊張感に満ちる。寧の声以外は何も聞こえなかった。
「ワヤサ……ロトモ……」
粛々と祝詞が謡われてゆく。うたの時代もそうだが、祝詞は現在で使われている言葉だけではなく、太古の言葉も含まれていた。なので太古の言葉になってしまうと、意味までは分からない。うたが捧げる祝詞の意味は宿禰から教えられているが、寧の捧げる祝詞までは理解できなかった。
「……マナハカア」
どこかで聞いたような……と仁助が思ったのと同時に、寧の声が止まった。
祝詞が終わった。恐れていた事態は起きず、儀式は無事に終了したと安堵する前に、寧が地に跪いた。
天禰とおとまがどうしたのかと、寧に視線を注いでいる。つまり、予想していなかった動きを寧がしているということだ。
「寧……!」
はじめに駆け寄ったのはおとまだった。つい幼馴染のくせで呼んでしまうほどに切迫している。
さもありなん。寧は急に苦しみだした。
「あ……っ……」
胸を押さえ、目を剝いて大量の血を吐いた。身体中の血を出し切ってしまうほど、止まらない。流れ出す血が苦しみ悶える寧の全身を染める。
最後にびくりと震えて、寧の声も心臓の音も止まった。




