一
「あの子なら……」
いつからか見えるようになった存在が、感情の読み取れない声で囁いた。
彼は使命を背負って生まれてきた者である。見える存在もまた、そうなのかもしれない。
境内に咲き乱れた萩の花弁が風に乗って、届いた先は……
「こんなところに神社があったのね」
と言って沙世が足を止めたのは、うたが吸い込まれるようにその神社を見ていたからである。
古いが威厳のある鳥居が一つ、僅か五間ほどの参道の先には本殿が見える。規模からいえば町中にあるありふれた神社なのに、参道の脇に咲いた萩の花がちょうど見頃で、その美しさに沙世もまた、目を奪われた。もっとも、うたは萩に見惚れていたわけではない。気づかずに通り過ぎてしまうところを、身体が勝手に、神社を向いたのである。
「沙世様、ここに寄ってもいいでしょうか?」
「そうね。拝見させていただこうかしら」
沙世の返答に、うたがふわりと笑った。
最近は自然に笑えるようになったと、沙世は思う。会ったばかりの頃、うたはまったく笑わない人間であった。感情が乏しいというわけではなく、笑うことを知らなかったかのように、笑顔を見せてはくれなかった。ここ何ヵ月か一緒に過ごす中に、うたの表情は豊かになっていたのだ。
うたと沙世が今日、深川相川町まで来たのは、沙世の叔母に会うためだった。
というのも、はじめは茶屋巡りをする程度だったのが、お節介心が芽生えて、沙世はうたに色々な習い事を勧めていたのだ。大店の娘なら、ある程度の習い事はしていようものを、うたはずっと家に引きこもった生活を送っていたため、女中に教えられた手習い以外を経験していない。なのでもしうたが嫌でなければ、今からでも何か習ってみたらどうかと沙世が勧めていたのだ。うたもその気になって、両親に習い事に通いたいとお願いしたのだが……
「うたは病気だからだめよ」
という返事をされてしまい、断念せざるを得なかった。
うたの身体は病魔に侵されてはいない。両親が懸念しているのは、うたは病気の設定で世間に通していて、しかも呪われた子などどいう悪し様な噂も立っている。そんなうたが習い事に通えば、さらにどんな噂が立てられるかもわからないし、うた自身も嫌な思いをしてしまうかもしれないという思いから、両親は習い事に行かせたくなかったのだ。
沙世は、ならば自分が教えてあげると張り切って、たびたびうたを自宅に誘っていた。ちなみに裁縫は、貧しい人たちや訳あって手習い所に通えなかった人たちのために開いている塾が神田にあって、塾の先生は裁縫も教えており、沙世が知り合いであったことから紹介され、うたはその塾に通っているのであった。沙世の叔母は高名な茶道の師匠の弟子であり、沙世が頼んでうたは個人的に教えを乞うていたのである。
その叔母に茶道を習った帰り道、何度も通っているはずなのに気に留めなかった神社に、二人は足を踏み入れた。
紫色の小さい花弁が無数に、秋の涼しい風に揺れている。擦れ合う音がまるで鈴が鳴るようで、耳に心地よい。萩の演奏の合間を抜けて、まず本殿に向かい参拝を済ませてから、再び萩の群れを観賞した。
「この前、沙世様からいただいた萩の花は、兄さまの部屋に飾ったんです」
いくつかの習い事を経験してみて、うたが最も好きなのは華道であった。
華道は直々に沙世から教えてもらっているのだが、沙世と話も弾むし、花の香りや風流を嗜む楽しみを覚えていたのだ。
萩の花はつい先日に沙世からわけてもらったばかりの花で、手ほどきを受けた腕で兄の部屋に飾っていた。
「兎之介さん、よろこんだでしょう」
「仕方ないから飾ってやるって……いらないなら自分の部屋に飾るって言ったら、今度は俺の部屋に飾れって譲らないんです」
「ふふっ、相変わらず面白い方ね」
蟠りのあった兄妹だが、和解して少しは兄妹らしくなったものの、兎之介の天邪鬼ぶりは変わらないらしい。沙世からすれば微笑ましい限りだった。
「いかがですかな。今年も見事に咲きましたが、見てくれる人は少ない寂しい場所でございます」
目元の皺が柔和な印象を与える男が二人に話しかけた。袴を着た神官の格好をしているから、この神社の者であろう。
「私どももこんな素敵な神社があるなんて、初めて知りましたのよ」
「どうぞまた足をお運びください。……このお方は貴女様のご息女でいらっしゃいますか」
男が優しくうたを見据えた。
「いずれはそうなるかもしれません」
「沙世様……!」
この頃は沙世の言葉の意味もわかるようになってきたうたである。本人たちの気持ちは、いま一つ足りないような気もするが、いつか息子の仁助とうたが一緒になってくれればというのは、沙世の願いであった。
「左様でございますか。不躾ながら深萩神社の宮司、安形宿禰がお頼み申し上げます」
宿禰と名乗った男は、うたに向かって頭を下げた。
「この神社では五十年に一度の儀式が一月後に行われるのでございます。儀式では神子が祝詞を神に捧げるのですが、その神子になっていただきたい」
同時刻、神山仁助は同じく定町廻り同心を務める西崎兵馬の家に赴いていた。十二年前に、うたが行方不明となった事件の真相を追っている仁助は、事件を担当していた――今は同心職を退いている兵馬の父、兵之丞を訪ねていたのだ。
「すでに隠居をされている身ながら、過去の事件のことでお伺いして申し訳ございません」
「いや構わぬよ。さて、十二年前の事件というと……」
「失礼いたします」
仁助と兵之丞のいる部屋に、若い女が茶を持ってきた。身形からして、女中ではなく武家女である。兵馬に妹がいたのかと頭を巡らせていると、兵之丞が説明した。
「兵馬の許婚の須磨殿だ」
「これは……」
容姿の整った美しい女である。だがどことなく冷たそうな印象があると、仁助は頭を下げながら思った。
須磨が去ってから、仁助は口を開いた。
「花鳥屋の娘うたが行方不明になった事件です。何か手がかりになるようなことがあれば、ご教示いただきたいと思い、尋ねさせていただきました」
「あの事件は調書にある通りだ……といっても、私は神隠しにあったのだと思っている」
「本当に神隠しなどと……」
「誰かに連れ去られたとして、犯人らしき人物からの接触は何もなかった。何しろ戻ってきた本人の記憶がなかったゆえ、手がかりというものは何もない。無傷で帰ってきたのだから、酷いことをされたわけでもあるまい。しかしどうして、あの事件が気になるのかね」
「それは……実は花鳥屋の娘とは知り合いで、気になったまでにございます」
「ほう……」
どうやら調書に書かれている以上のことは得られないようだ。小さい手がかりでもと考えていたのだが、またしてもうたの力にはなれなかったようである。
手がかりもなく、しかも十二年前の事件を、今さら解決しようとする方が難しいのかもしれない。
仁助が西崎家を辞した後、隣の部屋で聞き耳を立てていた兵馬と須磨が姿を現した。
「まさか気づかれたわけではないだろうな」
一転、愛想笑いを引っ込めた兵之丞の低い声が響いた。
「ご安心を。お気楽者が我らの企てに気づくはずはありません」
「そう遠くない未来で、嫌でも知ることになりましょうぞ」
「いよいよか……」
須磨は妖艶な笑みを浮かべた。
「あの男が、江戸に帰ってきていますよ」
計画は着々と、秘密裏に動き始めていた。
神子がその身に宿る霊力をもって、神に祈りを捧げる儀式のはじまりは、江戸幕府の創成期頃の、元和五年である。その年、我に祈りを奉じよという神の宣託を受けた深萩神社の巫女が祝詞を謡ったところ、江戸の地に豊穣をもたらした。神は巫女の祝詞に大層満足して、五十年に一度、必ず祝詞を捧げることを宮司に約束させた。以来、深萩神社では巫女――今では神子と呼ばれている少女を選出して、祭礼を司っている。そして今年が儀式を行う年であり、現宮司の宿禰が神子に望んだのが、うたであった。
先日、沙世と深萩神社を訪ねた際にも宿禰から、儀式については説明されていたので、うたが聞くのは今日で二度目である。というのも、今日は宿禰が花鳥屋を訪れて、うたの両親に説明していたためだった。
「その儀式の神子を、うたにやってほしいということですか?」
「はい。何卒お願い申し上げます。彼女であれば、ご立派に神子を務めていただけると確信しておりますれば」
宿禰が訪ねるよりも前に、うたは両親に自身が神子に選ばれたことを知らせていた。
湯島天神や神田明神ほど立派な神社ではないにしろ、伝統ある儀式の神子に選ばれたと言えば、両親はよろこんでくれると思ったのだが……
「うちの子には無理です」
両親の反応ははかばかしくなかった。そもそもうたが説明したときには半信半疑であったし、宿禰に説明されても顔色は変わらない。
うたはたまらず母に言った。
「母様」
「お前はお黙り」
容赦のない母の声に、びくりと肩を震わせたうたは俯いた。
「決して怪しい儀式などではございません。我が神社は権現様がおられるよりもはるか昔より、この地に根付いた神社でございます。どうぞ寺社奉行様にお尋ねいただければ……」
うたの父にして花鳥屋の主、田左衛門が宿禰の言葉を遮った。
「うたは長年、病を患う身でございますれば、とても神子の役目は務まりません」
「しかし……」
とても病持ちには見えない、彼女にしか務まらないと懇願する宿禰は長い時間をねばっていたが、両親の許しを得られることはなかった。
うたは沈んだ気持ちのまま部屋に戻ったものの、とてもいつものように折り紙やらをする気にはなれない。
たった一言でいいから両親に褒めてもらいたかった。頑張ってと言ってほしかった。何より神子に選ばれたことがうれしかったし、儀式を遂行してみせたかった。
悔しい気持ちが溢れ出して、もうすぐ涙になりそうである。
「うた」
小さく、辺りを憚りながら聞こえた声に、うたは伏せていた顔を上げる。急いで下駄をはいて、声の主がいる裏木戸に向かった。
うたが来たのがわかって裏木戸を開けようとするのを、間髪入れずにうたは制した。
「開けないでください」
声は隠しようもなく震えていた。泣かないように踏みとどまれば余計に、目頭が熱くなってゆく。
裏木戸越しにいた仁助は、うたが神子に選ばれたことを母の沙世から聞いていて、うたの様子からは両親に反対されてしまったことを察した。
「見ないから、せめて思いのたけを打ち明けていい」
泣きそうなうたにどうしてあげるのが正解なのか、仁助にはわからない。慰めてあげたくても、下手に傷つけてしまうのではないかと怖かった。
少しでもうたの気持ちがすっきりできればと思うことが、落ち着いているようで仁助には精一杯である。
「私でも役に立てるって……神子の想いを繋ぎたかった」
うたには霊視の能力がある。宿禰がその能力を感じ取っているのかは定かではないが、忌み嫌われた力を誰かのために使えるならと、使命感さえあった。
だが、両親はうたの力を良いようには見ていない。霊が見える、ただそれだけのことと、いつか言ってくれた仁助とは違う考えを持っているのだ。
「こうして言わなければ伝わらない想いもある。分かり合えはしないと、決まっているわけではない」
そこでうたの涙がきゅっと止まった。
長年の隔たりがあった兄とも、素直な気持ちを吐露し合って、ぎこちないながらも今では上手く兄妹であり続けている。うたにとっては、両親は兄よりも難しい存在だが、想いをぶつけてはならないという理由はないのだ。
「俺も、お前の兄様だって味方だ」
沙世から多くを教わって、感情が豊かになっても、こうして背中を押してくれなければ、いまだに前に進めない。情けなくなるのと同時に、うたの心は高揚していた。仁助にもらった力をひしひしと感じていたからである。
開けないでと言ったのは自分なのに、うたは今すぐ仁助の顔が見たかった。
「……まあ、言わなくてもわかることもある」
「え」
「うたにはわからないか」
おこがましいけれど、もしも、会いたいという気持ちが同じなら……うたは裏木戸を開け放った。
「ふざけんじゃねぇ!何で断りやがったんだ!」
それはうたが裏木戸を開けて仁助と対面したと同時に聞こえた、兎之介の怒声であった。
強風に吹かれでもしたように、二人はそれぞれ圧倒される。二人だけの穏やか時間が流れていたのが一瞬にして、雰囲気はなくなってしまった。
「兄様が暴れ出す前に、早く行ってやれ」
「もう暴れているかも……」
家に引き返そうとして身体を翻し、もう一度振り返ったときには、仁助の姿は見えなくなっていた。励ましてくれたお礼を言い損ねてしまったが、兄の怒声は酷くなるばかり。急いで騒ぎの場へ駆けつけると、番頭と手代に身体を押さえつけられている兄の姿が映った。
「落ち着いて、兄様」
「うるせぇ!お前も言いたいことがあるなら、こいつらに言ってやりゃあいいんだ!」
過ぎた行動かもしれないが、兎之介は兎之介なりに、神子になることを許してもらえなかったうたを思いやっていた。両親は兎之介の口の悪さに辟易しているようである。
身近に自分の味方がいることを頼りに、うたは床に手をついた。
「父様、母様、お願いします。私に神子をやらせてください」
今まで大人しかったうたの変化を感じながら、両親は同時に溜息を吐いて、仕方ないと頷いた。
「これ以上、兎之介に暴れられたらたまりませんからね。恥ずかしいことはしないでおくれよ」
ふてくされた兎之介の横で、うたは両親に頭を下げ続けている。とりあえずは、神子になることを許してくれたようだ。




