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神が隠した現しおみ  作者: 夏野
第一話 夢中ノ涙花
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 神山(こうやま)仁助(じんすけ)が定町廻り同心の職を継いだのは、二年前である。

 いまだに目立った手柄も立てられていない男であるが、頼まれれば手柄にもならないような事件まで引き受けてしまうのだから、お気楽者よと揶揄(やゆ)されることもしばしば……

 その仁助が南町奉行所を出ると、御用聞きの伝吉が待ち構えていた。すぐに番屋まで来てほしいと乞う伝吉は向かう道すがら、

「いなくなった娘の名はおいね。歳は十七で、住まいは神田同朋(どうぼう)町。両親とまだ小せぇ弟二人と暮らしてるそうで……」

 と、ことのあらましを説明した。

 昨日、夜になっても勤め先の茶屋に行ったきり帰ってこない娘を案じて、夜のうちに両親が番屋に届け出たという。何人かの近所の衆と辺りを探したものだが、今日になっても娘は帰ってこなかった。

「友達の家に遊びに行ってるんじゃねぇのか?」

「おいねの知り合いの家にはあらかた尋ねまわったそうですが、どこにもいねぇようで……それに、今まで一度も家に帰ってこない日なんかなかったってんですから、何かあったんじゃねぇかとそりゃあ親が心配してるんでさ」

「とすると男の家にでもいるのか……事件に巻き込まれていなければいいが……」

 両親が届け出た番屋に行ってみると、まだおいねは帰ってきた様子がないという返事である。

 番太いわく、おいねにはとりわけ悪い噂もなければ、家族仲も良好な、いたって平凡な娘だという。親を心配させるような娘ではないので、おいねが帰ってこない理由については首を(かし)げていた。

「年頃の娘ですし、万が一と考えますと親としてはいてもたってもいられないんでしょう……その(うち)ひょっこり帰ってくるといいんですけどね……」

 想像しうる最悪の事態などではなく、つい知人の家に長居をしてしまっただとか、親と喧嘩をして家に帰りたくなかったというありふれた結果でありますようにとは、誰しもが願うところであった。

 町人の安全を担う同心としては、最悪も想定しなければならないのが辛いところだ。

「俺は娘が働いている店に行ってみる。お前はおいねの家族をあたってくれ」

「へい、合点でさ」

 伝吉は心得て番屋を飛び出していった。

 一方、仁助が向かったのは湯島天神の境内(けいだい)に立ち並ぶ茶店の一つで、おいねは昨年から働いていた。昨日もおいねが働きに来ていたのは店の者の証言でわかっていたので、最後の足取りがここであった。

 昨夜においねの両親から失踪についてを聞いた店の主人とおいねの同僚である娘二人の顔は、半ば青ざめている。

「何か変わった様子はなかったか?」

「いいえ、昨日も特に……お前たちはどうだい」

 仁助が差す十手に腰を低くしながら主人は神妙に答える。娘たちは身を寄せ合いながら、主人の質問に二人とも首を振った。

「よく働くし気立てもいい娘で、とても自分の意志でいなくなったとは思えません」

「誰かに恨まれるようなことは……」

「まさかそのようなこと……」

些細(ささい)なことでも構わねぇ。例えば駆け落ちするような男がいたとか」

「あの……」

 そこでおずおずと小さい声を出したのは、おいねの同僚の一人であった。

「御用の筋だ。はっきり答えなさい」

 主人に後押しされた娘は、もう一人の娘と(うなず)き合ってから仁助を見た。

「おいねちゃん、好きな人がいるって言ってました。十日くらい前なんですけど、休憩から帰ってきたおいねちゃんが浮かれていたから、私たち二人で問い詰めたんです。そしたら……」

「その好いている男と会っていたと言ったんだな。で、その男の名前は?」

「教えてくれませんでした……」

 申し訳なさそうに答えた娘からは、それきり何も聞きだすことはできなかった。

 茶屋を出た仁助が境内にとどまっていたのは、伝吉の報告を待っていたからである。待つ間もただふらふらできる身分ではないので、人通りが多い境内、()りがいないか目を()らすもそれらしい気配はない。同心や御用聞きは何となくその人を見れば掏りがわかるらしいが、仁助にはその勘がまだ働かないので難儀している。誰かが掏られた後で捕まえたことがあるくらいだ。

 無為に時間を過ごしたのは四半(とき)に満たずして、伝吉が小走りで戻ってきた。

「大したことは聞けませんで……親子喧嘩もしてなきゃ男の影すら知らねぇ、てんで心当たりがないって言うんですから」

「こっちも似たり寄ったりだったが、一つ聞き出せたことがある。どうやらおいねには好いた男がいたらしいぜ」

「旦那、駆け落ちで決まりでさ。ついこの前も娘が駆け落ちしたって騒いでたのが、近所で二件もあったんですぜ。流行ってんですよ。当の本人は二日三日もしたらけろっと帰ってくるってんで、まったく人騒がせな話だ」

 納得がいったように伝吉が(まく)し立てるも、仁助はいまいち釈然としなかった。

「駆け落ちというのは親に反対されてするものだろう」

 親は男の影すら知らなかったとは、伝吉が言ったことである。

「言わずもがな、反対されるような相手だとわかってたからってやつじゃないですかい」

「おいねの様子は浮かれていたと言っていた。駆け落ちを考えている人間が、思い詰めていたのならまだしも不自然だ」

「旦那に色恋の何がわかるんでさ。今まで旦那の浮いた話の一つも知りやせんぜ」

 仁助の前に躍り出た伝吉は、なぜか得意げな顔をしている。

 相手にしていたらきりがないと知っている仁助は、淡々と言ってみせた。

「駆け落ちにしろ、何かがあってからでは遅い。といって有力なことは何もわからないから、地道に聞き込みをするしかないだろうな」

 単なる駆け落ちの真似事と決め込んでいた伝吉にしろ、そこは仁助と気持ちが同じで、もしもがあってはならないとおいねの捜索を続行するつもりである。

 家を出ていくような前兆もない。好きな男がいたとわかったくらいでは、憶測の範囲内からは抜け出せないので、情報を集めるしかなかった。まず店からの家路をたどり、目撃者をあたってみようと二人が境内を抜けたときだった。

 ばったりと出会ってしまったのは、仁助の上役である筆頭同心の吹田(ふいた)である。

「神山、こんなところで何をしている」

 つい内心で溜息を吐いた仁助は、威圧的な声に押されるように頭を下げた。伝吉はといえば、面倒くさい人と会ってしまったという正直な顔を背けている。

「は、昨日の中に行方知れずとなった娘を探しております」

 もともと怒っていた吹田の顔が、さらにいかつく光った。

「家出娘に構っている暇があるなら、盗人(ぬすっと)の一人や二人を捕まえたらどうだ。同期の西崎は同心になって半年足らずで押し込みの一味を捕まえているというのに、差が開く一方ではないか」

 吹田は仁助だけに限らず、説教が多いので、周りからは煙たがられている人物だ。唯一、吹田の説教を浴びせられないのは、彼の言葉に出てきた、仁助の同期である西崎だけである。

 若年ながら稀代(きたい)の同心と目されている西崎は、与力への昇進も夢ではないと言われているほどである。そんな同期と比べられても、ひがむ気持ちさえ芽生えないほど差が歴然としているのだから、落ち込みはしない。しかし、会うたびに説教をされてはやる気も削がれるというものだ。無心にやり過ごすしかないと、仁助は毎回自分に言い聞かせている。

(かどわ)かしにでもあっていたら……」

 耐えることのできない伝吉が口を(はさ)めば、矛先は伝吉に向くわけで……

「うるさい!お前も手柄を上げなければ、十手を返上してもらうからな」

「返上って、そんな……」

 はじめから最後まで怒り通しのまま、吹田は言いたいことだけを言って去っていった。

 吹田が見えなくなったのを確認して、待ってましたとばかりに伝吉が言った。

「ああいう奴は家庭が寂しいって言いますからね」

「伝吉」

 立場上、仁助は軽く(たしな)める。だが、吹田の説教に辟易(へきえき)しているのは、伝吉だけではない。

「ここらで手柄を立てときゃ、少しは大人しくなるんでしょうが……」

「善処する。……お前も俺のもとで働いていたんじゃ、嫌な思いをすることも多いな」

 伝吉は仁助に手札をもらっている御用聞きである。なので常には仁助の捕り物の手伝いをしていた。

「何言ってるんですか。俺は旦那の親父様の代から仕えているんですぜ。くれぐれも仁助のことを頼むって、お願いされたんですから」

 四年前から御用聞きをしている御年二十の伝吉は約二年間、仁助の父に仕えていた。父が突然に卒中で倒れ、十日後にはいけなくなってしまったので、仁助は急きょ同心職を継いだものである。父亡きあとも神山家と伝吉の縁は続き、今は歳も三つ違いで若い二人が江戸の町を闊歩(かっぽ)していた。

「さ、早くおいねを見つけてあげましょうや」

「また兄貴風が吹かせよって。俺の方が年上なのをまた忘れたみたいだな」

「この道は俺の方が先輩ですぜ」

 思い出に浸るのも、面映(おもは)ゆくなるのもこれまでにして、仁助と伝吉はすぐに同心と御用聞きの顔に戻った。

 境内に埋もれていた桜の花弁も消え去った初夏のとき、どこからか名前の知らない花の香りが(ただよ)っていた。


 おいねの捜索は困窮を極めた。何しろ、店を出たあとの足取りがまるでつかめない。

 普段通りに家を出て店で働いた、まではおいねの日常である。ただしおいねは家に帰っていない。自らの意思にしろ他意にしろ、おいねがいなくなったのは店を出たあとである。それで家路や付近に聞き込みをしてみるも、目撃者は誰一人としていなかった。

「湯島天神も上野も人通りが多い。かえって目立たないからな」

 たとえば人通りの絶えた道を歩いていれば、他人の記憶にも植えつけられることはある。逆に他人で溢れていれば、いちいちすれ違った人を気に留めないというものだ。

 家に帰ろうとしていたのか、それとも別の場所を目指していたのか、何一つとしてわからない。

 気づけば夕暮れになって、上野は不忍池(しのばずのいけ)まで足を延ばしていた。

 池は満遍なく蓮の葉が埋め尽くされていて、花が咲くまではあと一息というところだが、茎が伸びた青々しい様は生気を感じる。だけど付近に立ち並ぶ茶店からは蓮の葉の群れを拝めるというのに、眺めている者など誰もいない。開花しなければ見向きもされない蓮の群れと夕暮れに、どこか哀愁(あいしゅう)が潜んでいるようだ。

「好いた男ってのが怪しいですけど、その男にしてもどこの誰だかわからないんじゃ、お手上げ……あっ、わかりやしたよ」

 やけに自信に満ちていて、嫌な予感はしていたのだが、

「ほう、言ってみろ」

「神隠しですよ。きっとお狐様に連れていかれて……」

 仁助は聞いたことを後悔した。

「御用聞きともあろう者が、神隠しなぞ口にするものではない」

「だって旦那、神隠しはばっちゃがガキの頃からあったって聞いてますよ。俺もガキの頃は早く家に帰ってこないと神隠しにあうって脅されてたんですから」

「お前のガキの頃など知るか。神隠しだの幽霊だの、俺は信じないぞ」

 この言葉を否定することになろうとは、仁助は想像もしていなかった。

「冷めてますね……」

 途端、伝吉が池の淵近くを凝視(ぎょうし)した。仁助もまた同じところを見ている。

 そこにはしゃがんでいる少女がいた。見入ってしまったのは、年恰好が同じくらいで、もしかしたらおいねかもしれないと思ったからである。二人からは斜めに背を向けていて、顔は見えなかった。しかし二人は家族たちから聞いていたおいねの特徴である(うなじ)黒子(ほくろ)を探している。

 少女の項には、黒子がなかった。

 おいねではないとわかっても、二人はまだその少女を見ていた。

 少女との距離はおよそ三間。途切れ途切れに聞こえる少女の声は、誰かと話しているようである。隣に誰かがいるとすれば、不自然ではなかった。——少女はまるで隣に誰かがいるかのように、無人の景色に話しかけている……

 伝吉が首を(かし)げて、一歩一歩と距離を詰めてゆく。

「おい……」

 びくりと震えた身体が振り向いた。後姿から想像した顔よりは幼くて、大きい瞳が二人を見つめ返している。

 少女は(おび)えながら立ち上がって、すぐに逃げるようにいなくなってしまった。

 再び不忍池に視線を戻せば、夕日に反射して一瞬、きらりと輝く何かを仁助は見つけた。それは先ほどまで少女がいたところに落ちている。近づいてみれば、そこには(かんざし)があった。

(あの娘の物か……?)

 今から追いかければ、まだ間に合うかもしれない。しかし、少女の背中を見つけることはできなかった。

 春も過ぎたのに頭のおかしな娘がいたものだと、二人はそれまでで、再びおいねの捜索を始めた。

 だが、夜の暗闇が訪れても何の成果もあげられずに、とぼとぼと歩んでいた二人は、静寂(せいじゃく)を吹き飛ばす怒声に番屋の前で立ち止まる。

 何事かと中に入れば、二度目も会いたくなかった吹田が烈火のごとく怒っていた。

 さらに驚いたのは、吹田が怒鳴りつけている相手が、不忍池で見かけた少女だったからだ。少女はぐっと口を引き結んで下を向いて座っている。細い身体が痛ましたかった。

「吹田様、何事でございますか」

「何事もあるか!この娘がふざけた投げ文をよこしたのだ」

 仁助に叩きつけるように渡されたその文には、

『しのばずのいけ おいねのしたいがしずんでいる』

と書いてあった。

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