槍の使い手、その一戦
オーレンからどつかれるようにして場内に押し出されたのは、レナート。そして、ライサから頑張れとの声援を受けて手を挙げたのは、ジェニスだ。
いくら普段から女性物の服を着ているとは言え、明らかに鍛えられた体を持つジェニスが私達と同じ観戦組に回らないことを、不思議には思わない。けれど、場内に現れたジェニスが手にする武器を見て、私は思わず「え」と声を漏らしていた。
ジェニスの背丈ほどもある頑丈そうな長物を軽々と持ち、左右に回転させ頭上で回転させ、最後に体を低くして前方に構える。ジェニスがそれを回転させる度、剣とはまた違った風切り音がびょうと鳴り、先端に宿る太陽の光が眩しく輝いた。
「槍……!?」
「どうだい。驚いたろう、ミリアム!」
私が目を瞠ると同時にぐっと肩に重みがかかり、視界の端に赤い髪が入り込む。覆い被さるように私の肩に腕を回したアレクシアが、得意顔で私を覗き込んで来た。
「ジェニスはうちの隠し玉なのさ」
「ヴィアがその強さを見込んで、勧誘したんだよ」
ジェニスは表向きには洋服店店主だけれど、フェルディーン家私兵団に所属する兵の一人でもある――アレクシアとサロモンの夫婦からもたらされた驚きの事実に、私はこれまで見たことのないジェニスの雄々しい横顔に見入った。
アレクシアとジェニスとの出会いは、ライサがアレクシアの剣を振るう姿に惚れ、騎士団に直談判しに行った時。ライサに付き添っていたジェニスの鍛えられた体を目に留めたアレクシアが、強引に一戦交えたのが勧誘の切っ掛けだったと言う。
アレクシアとジェニスとの一戦は、アレクシアの予想を覆して、あっさりとアレクシア勝利で終了。ジェニスはこれでアレクシアは諦めるだろうと安堵したようだったけれど、結果が腑に落ちなかったアレクシアは、逆にジェニスを質問攻めにした。時には、力に物を言わせて。
そして、ジェニスが西海の小国パギィラの出であること、パギィラでは槍の使い手としてそこそこ名が知れていたこと、妻を早々に亡くし、幼い娘を守る為に戦の気配が漂い始めたパギィラを出奔したこと、その後は行商人として服や小物を売り歩きながら各地を転々としていたこと、エリューガルを気に入り、ここで暮らしていくことに決めたこと、剣でなく槍であればアレクシアには負けなかっただろうこと……等々を聞き出したのだとか。
結果としては、アレクシアでさえもジェニスの洋服店を営みたいと言う強い希望を折れさせることはできず、ジェニスの噂を聞きつけてあとから動き出した警備兵団も勧誘に失敗。それでもどうしても諦めきれなかったアレクシアが、ジェニスの納得する条件を提示して、どうにかこうにかフェルディーンの私兵団に引き入れることに成功したのは、ジェニスとの出会いから一年後のことだった。
「あの時ほど必死なヴィアも珍しかったね」
「そりゃそうさ。ジェニスほどの槍の使い手は、ここらじゃ見ないんだ。必死にもなるってものだろう」
それからは、ジェニスは定期的にフェルディーン家で鍛錬し、また、槍の指導も行っているのだとか。
まさか、剣ではなく槍を扱う人に、こんなところで出会うとは。
庭園にやって来た時に使用人に手渡していた、布に包まれた細長い棒状の何かの正体もようやく判明して、私は改めてジェニスの握る槍にも注目する。
ジェニスの手に馴染む太さの柄は、よく使い込まれて艶を帯びた赤褐色。柄に被せられた槍頭は長く、刃は潰してあるものの鋭く尖り、ジェニスに扱われることを今かと待っているようでさえある。
レナートも己の体の一部かのように剣を扱うけれど、ジェニスも恐らく手足の如く扱うのだろう様が、槍を構える姿からありありと浮かんでくる。これはもしや、見応えのある一戦が見られるのではと仄かに期待する私の隣では、アレクシアが自慢そうにする話に、ラッセが呆れを覗かせていた。
「そんなこと言って……結局、母さんが全力でぶつかれる相手を欲しがってたってだけだよね、その話」
「お前はお黙り!」
鋭く放つと同時に、アレクシアの握った拳の甲が素早くラッセの頭に落ちる。さほど力は入っていないようだったけれど、ラッセはこれ見よがしに大袈裟に痛がった。
「酷いよ、母さん! 暴力反対!」
「ちょっと小突いただけだろう。毎度毎度大袈裟だね、お前は」
初めの内こそ、目の前で繰り広げられる親子のそんなやり取りに本気で狼狽えていたけれど、今ではすっかり私の日常の一部だ。また始まったとサロモンと目配せし合って、私は修練場へと視線を戻した。
審判の合図で二人が動き出すのを目で追いながら、気持ちだけは身を乗り出してジェニスの槍捌きに見入る。
剣とは違い、槍は柄が長い分、当然のようにその間合いは長い。そこに更に、大柄な体格からは想像もできないジェニスの素早い動きも加わって、珍しくレナートが攻めあぐねているようだった。
ジェニスの風を切る槍の穂先がレナートへ斜めに斬りかかったかと思うと、すぐさま翻って鋭い突きとなってレナートを襲い、今度は頭上から叩き付けるように振り下ろされる。がん、と鈍い音を立てて槍を受け止めたレナートの眉間が、状況の厳しさを表すように深い皺を刻んでいた。
槍を力で払い、追撃を食らわないよう大きく距離を取って息を吐く。視線は決してジェニスから逸らさず槍の穂先の位置を捉えて、レナートは面白くなさそうに口を曲げた。
まだ序盤。どちらにも呼吸の乱れは見えないけれど、好戦的な笑みを薄く湛えるジェニスとは裏腹に、思うように攻められていない分、レナートの方が余裕はなさそうに見える。
流石のレナートでも、常日頃から慣れ親しんだ剣とは勝手の違う槍相手では、思うようにいかないと言うことだろうか。再びジェニスへ向かうものの、その剣筋にはいつもの切れが見当たらない。
「ジェニス殿の槍捌きは、相変わらず見事ですなぁ」
「レナートが情けなさすぎるのさ。ジェニスが遊んでやっている間に踏み込めないんじゃ、まだまだだよ」
「これはこれは。流石は元騎士団長殿、ご子息相手でも実に手厳しいお言葉ですな」
「散々ジェニスとやり合っているのに進歩がないんじゃ、厳しくもなるだろうさ」
ハラルドとアレクシアの間で交わされる会話を聞きながら、私ははらはらする気持ちと共に両手を握り締める。
少し離れた場所では、再び始まった剣と槍の攻防に盛り上がる観客の中から、オーレンとライサ二人の声が一際大きくジェニスへ向かって放たれていた。
「父さん、行けー!」
「レナートの野郎なんざ瞬殺しちまえ、ジェニス! 絶対、あいつに菓子を食わすなよ!!」
純粋に父を応援するライサに対し、オーレンのそれは、自分が負けたことに対する悔しさが理不尽な八つ当たりとして現れて、周囲の笑いを誘っていた。レナートの耳にもその声はしっかりと届いたようで、煩そうに眉間の皺を深くさせ、同時にその目つきが鋭さを増す。
瞬間、有利に試合を進めていたジェニスが慌てて攻撃の手を止めて距離を取り、油断なく構えた。レナートは反対に、今の隙に一撃を入れられなかったことを悔しがるように目を眇めている。攻撃に向かう為に中途半端に上がっていた手が下がり、今一度柄をしっかりと握り直した。
「初戦で槍相手はきついな……」
「いやいや、こっちも危なかった。坊ちゃん相手じゃ、ちっとも油断できやしない――ねっ!」
両足を開き、腰を落とした低い姿勢から、言葉尻に合わせてジェニスが力強く大地を蹴り、飛び上がる。振り下ろした槍はレナートの掲げた剣を打ち据え、わずかにレナートの動きが止まった。槍より半瞬遅れて着地したジェニスは即座に跳ねるように身を引き、引いた瞬間強く踏み込んで、レナートの胴を目掛けて槍を薙ぐ。
それは勝敗を決める一手だと、誰もが思った。けれど、ジェニスの槍は何故か鋭く空を切る。
ジェニスがはっと目を見開いた時には、レナートの姿は槍の下にあり、間を置かず槍の柄を剣の腹で思い切り跳ね上げていた。槍の勢いにジェニスの体が振れ、今度はレナートが、ジェニスの空いた胴を目掛けて剣を横薙ぎに一閃する。けれど、確実に仕留められる筈だった一撃はこちらも空しく空を裂き、確かな手応えはない。
既にその動きを見切っていたレナートが鋭く見据える先には、跳ねた槍の石突を地に付き軸にして体を空中で一回転、レナートの上を飛び越えたジェニスが大きく肩を揺らす姿。
その息つく間もない二人の攻防は、初めて祈願祭の試合を見た時以上の衝撃を私に与えていた。特にジェニスの動きは、ライサが猫ならばこちらはさながら豹のようで、見た目よりもよほど柔軟な動きとその力強さは、一時呼吸を忘れるほどだった。
けれど、アレクシアにとってはどうもお気に召すものではなかったらしい。それとも、ただ単に他者の試合を観戦しているのが耐えられないのか、見ていて早く自分も次の相手と剣を交えたくなったからなのか、場内の二人へと容赦のない喝が飛ぶ。
「今ので仕留めきれないでどうするんだい! だらしないねぇ、レナート! ジェニスも、やるならちゃっちゃと終わらせな! 次がつかえてるんだよ!」
「そうだそうだ! レナートはさっさと負けろー!」
ちゃっかり便乗するオーレンの野次は二人にはさらりと無視されたようで、二人はアレクシアの苦言にだけわずかな反応を見せると、再び切り結び始めた。
そんな二人の試合にようやく決着が付いたのは、それから程なくして。
打ち合っては離れ、離れては再び地を蹴る攻防が何度か続いたあと、正面からの一突きを体を捻って躱したレナートが、そのまま流れる動きでジェニスの懐へと一息に踏み込み、逃げる足より早く喉元に剣を突き付けたのだ。
「勝負あり!」
首を仰け反らせたジェニスの顔が一瞬悔しそうに歪み、盛大に息を吐き出した。レナートもようやく一本取れたとばかりに息をつき、互いの健闘を称えるように軽く手を叩き合わせる。
二人の様子に、私もいつの間にか入ってしまっていた肩の力を抜き、きつく握り締めていた手を解いた。胸に手を当てれば、心臓が激しく音を立てている。どうやら自分が思った以上に、私は二人の試合に見入ってしまっていたらしい。
余韻に浸るように目を閉じれば、瞼の裏に今しがたの光景がありありと思い出された。
ジェニスもレナートも、気付けば私の目にはどちらも輝きを帯びて、その姿は実に美しかった。それだけ二人が真剣に、正々堂々と力をぶつけ合ったと言うことなのだろう。
確かにこれは母がそう感じた通り、とても心が躍る。躍動する人の姿の何と美しいことかと、そう思わずにいられない。いつまでも見ていたくなるこの感覚は、ともすれば病みつきになりそうなほどだ。
そんなことを思いながら閉じていた目を開けたところで、大いに盛り上がる観客の中から、オーレンの絶叫が突き抜けた。
「レナート! てめぇ、この馬鹿! 何で勝ってんだよぉおおおおお――っ!!」
思わずそちらを向けば、ちょうどオーレンが大袈裟に嘆きながらレナートに掴みかかったところで。けれど、レナートは自分に向かって伸びたオーレンの腕をあっさり振り解き、何食わぬ顔で手にしていた剣をイーリスへと手渡していた。
ついでに何事か言ったのかオーレンが更に嘆く様子を見せていたけれど、それは周囲に笑いを生むばかりで、誰も真剣に取り合わない。最終的に、喚くオーレンがイーリスに腕を取られて修練場内へ引きずられていくまでの一連の流れは、まるで喜劇の一幕。離れた場所から眺めていただけだったのに、うっかりつられて、私まで笑ってしまう。
その時、同じく二人を笑いながら見送っていたレナートの横顔が、不意にこちらを向いた。そして私と目が合うや、その笑みが嬉しそうにふわりと和らぐ。
それは一瞬にして私に図書館でのことを思い出させ、私の胸が勝手に跳ねた。
「……っ!」
レナートが私の視線に気付くのはティーティスの羽根の所為だろうと思っても、レナートの突然の笑顔には、どうにもまだ慣れない自分がいる。直視に耐えられずに勢いよく顔を逸らして、私は一つ息を吐いた。
途端、今度はエイナーに至近距離から顔を覗き込まれて、私の心臓がまたしても跳ねる。
「ミリアム? 顔が真っ赤だけど……どうしたの? もしかして、今の試合のレナートがそんなに格好よかった?」
「えっ? い、いえ、そんなっ」
こちらはこちらで、相変わらずの見目のよさが心臓に悪い。早鐘を打つ心臓に手を当てて、私は反射的に首を振る。
「……ふぅん」
エイナーは素直に納得してくれてはいないようだったけれど、それ以上言葉は続かず、私はそれ幸いにと、努めて平静を心掛けるべく深呼吸を繰り返した。
そんな私の脇では、今の一戦に不満があるらしいアレクシアが、ハラルド相手に厳しい評価を下し続けている。
「まったく……何だい今の試合は。てんでなっていないじゃないか。あれでよくも王太子の騎士だと名乗れたもんだね、うちの馬鹿息子は」
「ほっほっ。これまた手厳しい」
「ふん。初戦に槍が相手じゃ調子が出ない、なんて甘ったれたことを言う奴に、甘い言葉なんてあるわけないだろう」
「あなたにかかれば、たとえ誰がどんな勝ち方をしたとしても、誰もが『なっていない』と評されそうだな。……レナートも苦労する」
「何を言っているんだい。あいつはまだまだ苦労も努力も足りないよ」
あまりにも散々な言われように心中でひっそりレナートを心配していると、いつの間にやって来ていたのか、キリアンがすぐそばにいた。見上げた顔が何やら随分と疲れた様子なのは、もしかすると、しばらくオーレンに絡まれていたのかもしれない。
「兄上、お疲れ様でした!」
「まずは一勝、ですわね。キリアン様」
席を立って労うエイナーとテレシアに、キリアンがほっと笑みを零す。
兄として、余程弟が見る前では負けたくなかったのだろう。その顔は、初戦のアレクシアに何とか勝ててよかったと、はっきり安堵していた。
そのキリアンへ、テレシアがはっとした様子で手を叩き、問い掛ける。
「そう言えば、キリアン様はもうお召し上がりになりました?」
何をと言わずとも、ここでテレシアが指すものは一つしかないだろう。勝者の褒美である、私の手作りの菓子だ。
先ほどアレクシアに勝ったキリアンには、早速食べる権利が発生している。
「いや、まだだ」
軽く首を振ったキリアンの視線が、自然とテーブルの上へと注がれた。そこには、私の作ったクッキーとタルトがそれぞれ大皿に盛られている。
「では、どちらをお召し上がりになります?」
テレシアがさっと小皿に取り分ければ、一旦、キリアンの紅い瞳が許可を求めて私を捉える。褒美用には、このテーブルにあるのとは別に用意があるけれど、私は笑顔ですぐに応じた。
どれを食べてもらったところで、味は変わらない。込めた感謝の気持ちも、変わるものでもない。私にとっては、食べてもらえることそれ自体が何より嬉しいことなのだから。
「どうぞ、召し上がってください」
「では――」
そう言って皿の中のクッキーへと手を伸ばしたキリアンだったけれど、その動きは、何故か自分の口元へと差し出された一枚のクッキーによって止まってしまう。
キリアンの行動の先手を取るように現れたクッキーの先には、労いの笑みを浮かべるテレシア。
「……テレシア、何を?」