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贈り物を巡って

 よかった、よかったわね、と小声で囁き交わされる言葉を聞くともなしに耳に入れ、キリアンは背凭れに背を預ける。そのまま天井を仰ぎ見て眉間を揉み、そう言えば、こうしてソファにゆっくり座るのは久々であることにふと気付いた。テレシアの茶も、ここ最近は机で仕事に向かいながらたまに口にする程度で、味わって飲むことはしていなかったか。

 なるほど、それであの喜びようかと、今しがたのテレシアの笑顔を思ってキリアンは目を細める。テレシアに心配をかけていたことを心中で詫びながら姿勢を正せば、すっかりテーブルには茶の用意が整い、対面にはイーリスとテレシアが着席していた。

 その久々の光景にほっとしつつ、キリアンは早速カップを手に取る。甘い菓子に合わせて少しばかり濃く淹れられた茶を飲めば、随分と口の中がすっきりとした。そのすっきりとした気分のまま、まずはイーリスを見やる。


「悪かったな、イーリス」

「私も、申し訳ありませんでした」


 何も知らされていなかったキリアンはともかく、知らされた上で己の主に告げられないままと言うのは、何かと気苦労もあっただろう。これまでに幾度となく似たような目に遭っているとは言え、それは慣れるものではない。

 現に、キリアンの謝罪に対して頭を下げたイーリスのその顔は、ようやく荷が下ろせたと安堵していることがよく分かるものだった。

 そんな己の騎士の表情に再び父への怒りを湧かせかけて、キリアンは振り払うように今度は隣のテレシアを呼んだ。


「それと、テレシア」

「はい。何でしょうか、キリアン様?」


 まさか呼ばれるとは思わなかったのか、目を瞬くテレシアの柔らかな表情は、それだけでキリアンのささくれ立った心を落ち着かせる力がある。つられるように微笑んで、キリアンはカニアの言う通りテレシアが喜ぶだろう一言を口にした。


「私も茶会へ行くことにした」

「まあ! 本当ですの?」

「陛下が、私は会議に出てくれるなと」

「まあ、それは……それは、本当によろしいのですか?」


 テレシアも、イェルドの性格はよく知っている。会議が場外で荒れることを想像してか、驚きと喜びを満面に見せていたテレシアの顔が、途端に何とも言えないものへと変わった。そのままイーリスと顔を見合わせても、そのイーリスも困ったように笑うしかできない。

 二人の顔が最終確認をするように同時にキリアンへと向くが、キリアンもただ肩を竦めるだけだ。


「陛下がいいと言うのだから、ありがたく丸投げさせてもらうさ。どうなろうと、私の知ったことではない」


 どうせあの父のこと、キリアンがごねて会議へ出たとしても、それならばと、そのことさえ自分の楽しみに上手く利用してしまうのだ。それを考えれば、せめてその場にいない方がキリアンの精神衛生には非常にいい。無駄に父への怒りを抱えなくて済む。

 たとえ、その代わりにアレクシアに力一杯叩きのめされるのだとしても、キリアンも久々に存分に体を動かして鬱憤を晴らせるし、城の外で何憚ることなくのびのびできる時間と言うのは、貴重なものだ。


「では……キリアン様も、急いで準備なさらなくてはいけませんわね」


 ぱん、とテレシアが嬉しそうに胸の前で手を合わせる。期待の色も窺わせるその一言に、キリアンはテーブルに出された菓子を咀嚼しながらわずかに首を傾げた。

 名ばかりの茶会、それも、気心の知れた相手の家だ。特段、準備をしなければならないものなどないと思うのだが、何かあっただろうか。処理しなければならない報告書が一つ増えたが、ほぼ仕事は終えたことで気が抜けたのか、上手く頭が働かない。

 会議への出席がなくなったことだし、今はひとまずこのひとときを楽しみたいのだが、などと思いながらキリアンが紅茶に口を付けたところで、対面の二人が怪訝な顔をした。


「殿下、お忘れですか? アレックス様主催の茶会ですよ?」

「まさか、何のご用意もなさらずに出席されるおつもりですの?」


 二人の言葉を聞いた瞬間、キリアンは盛大に咽せた。たちまち脳が覚醒し、現状を正しく認識して二人の懸念を正確に理解する。

 慌てて口元を拭い、けほ、と咳をして、キリアンの口から「まずい」と言葉が漏れた。

 欠席するつもりでいた為、完全に失念していた。


 過去に、フェルディーン家の使用人襲撃を画策したと思しき前国王派や排外主義者、商売敵達を炙り出し一斉摘発する為の偽装として、フェルディーン家が大々的に茶会を開いたことがあった。まだキリアンも生まれる前のことで伝え聞く程度にしか知らないが、イェルドの婚礼祝いだか何だかを口実とした、それはそれは盛大なものだったらしい。

 そこで、まんまと餌に釣られてやって来た標的達を、アレクシアが余興と称して袋叩きにすると言う事件が起きたのだ。更には後日、茶会を欠席した摘発対象者の元へ何食わぬ顔で戸別訪問しては問答無用で暴れ回り、騎士団警備兵団両団を巻き込む大騒動へ発展させると言う事件も起こした。

 

 この一連の出来事は「地獄の茶会事件」として一時世間を賑わせ、今も王都では酒宴の場での語り草になっているのだが、この事件及び、それ以降癖になったのか、アレクシアが茶会と称して兵士や騎士を家に集めてはしごき倒すことを繰り返した結果、アレクシア主催の茶会は総じて「恐怖の茶会」と呼ばれるようになった。

 そしていつしか、恐怖の対象であるアレクシアの機嫌を取り、少しでも茶会の時間を無事に生き延びる為に手土産を持参することが、この茶会の暗黙の了解となっていったのだ。

 ちなみに今回で言えば、主賓のミリアムへ贈り物をし、それをミリアムがどれだけ喜んでくれるか。これによって、アレクシアが物理的に力を振るう時間のキリアン達の命運が決まる。


 キリアンの剣の腕はそこそこ上で、すぐにアレクシアに負かされるようなことはない。だが、如何せん体が丈夫過ぎて痛みも大して感じない為、アレクシアもうっかり手加減を忘れて斬りかかってくるのだ。その結果、大抵キリアンがぼろぼろにされて終わるのだが、できればミリアムが主賓の場で、そんな無様は晒したくない。

 それでなくとも、あのミリアムが自分達の贈り物に喜ぶ姿は、純粋に見たいものだ。ここは是が非でも、キリアンも相応の贈り物をしなければならないだろう。


「二人は……」


 抱えていた頭を上げて、キリアンは対面の二人を窺った。

 二人共、当然何を贈るか決めているだろう。何せ、茶会は明後日なのだから。


「私はエディルの香水を。まだ王都でも売られていないものなので、フレッドに頼んで送ってもらいましたよ」

「私は少し迷ったのですけど、紅茶の茶葉ですわね。自分用の茶器を買ってもらったと手紙にあったので、いつでも色々なお茶を楽しんでもらえるようにと思って、五種類ほど。あちらでは、珈琲を飲むことの方が多くもなりそうですし」


 案の定二人の口からすらすらと出てくる言葉に、キリアンはため息で返す。


「ちなみに、他の奴は?」

「ラーシュは知り合いの養蜂家に掛け合って、蜂蜜を用意してもらったとお聞きしましたわ」

「農家の次男坊の人脈がこんなところで効いてくるのか! 卑怯だぞ、ラーシュ!」


 おまけに、ミリアムは甘いものが好きだ。テレシアの紅茶と併せて楽しむこともできるし、これは好感度が高い贈り物と言えるだろう。アレクシアに手加減してもらえることは、確定したも同然だ。


「ハラルドとオーレンはっ」

「流石にそこまでは聞いていませんよ。ですが、あの二人もそれぞれちゃんとミリアムが喜ぶものを用意しているでしょうね」


 一縷の望みをかけて他の招待客の贈り物を参考にしようとしてみたが、見事玉砕した。あの二人は常日頃頻繁に顔を合わせる間柄ではないし、当然と言えば当然か。

 それに、オーレンはともかく、祈願祭でミリアムの存在を認知してからこちら、ミリアム限定ですっかり好々爺になってしまったハラルドが、可愛い可愛い孫への贈り物を、事前に素直に他人に喋る筈もない。

 再びため息を吐いて贈り物に頭を悩ませるキリアンの前では、女性二人が呑気に会話を楽しんでいる。


「オーレンは女性への贈り物は得意だし、お洒落なものを贈りそうよね」

「あいつのことだもの。気合い入れて用意しているわよ、絶対」

「ふふ。意外と、なんて言うとオーレンに失礼かもしれないけれど、趣味はいいのよねぇ」

「あいつ、そう言うところは抜け目がないんだから。……長続きはしないけれど」


 恐らくその気はないのだろうが、二人の会話がキリアンの心に妙に刺さる。オーレンと違ってキリアンは、とでも責められているような気がして、キリアンは二人から視線を逸らしてカップを傾けた。

 そして、今更ながら強く思う。欠席するにしても、せめて贈り物だけは初めから用意して、イーリスなりエイナーなりに託しておくんだった、と。そうすれば、今になってこんなにも悩むことにならずに済んだのに。


「あら、まだ新しい恋人はできていないの?」

「そうなのよ。最近、あいつの愚痴が煩くて」

「まあ……。城の女の子、誰か紹介してあげようかしら」

「無駄よ。この間のアレックス様乱入で、一気に騎士兵士人気が下がったじゃない。お陰で、今の狙い目は文官。兵士なんて紹介しても断られるだけよ」

「そうだったわ。ちょうど会議もあるし、全国各地の文官が勢揃いだって、いつになく気合いが入っているのよね、皆」

「若い男ばかりが来るとは限らないのに」

「でも、そうなったらまた騎士や兵士に人気も戻るんじゃない?」

「そうなってくれると、私もオーレンの愚痴を聞かなくて済んでありがたいのだけど」


 主の執務室だと言うのに、菓子を食べ紅茶を飲み、再び菓子を食べながら延々と続く会話。二人は普段から顔を合わせれば言葉を交わしている筈なのに、女性と言う生き物は、どうしてこうも話の種が尽きないのか。

 贈り物選びから少しばかり思考が逸れ、オーレンにとっては傍迷惑なだけの新しい恋人予想で盛り上がる二人の会話を聞きながら、キリアンも残り少なくなった皿の中の菓子を摘まむ。

 疲れたキリアンのことを思ってか、いつも以上に甘さを重視した菓子は確かにキリアンの疲労の回復の手伝いにはなっているようだが、悩みを解決する妙案までは出してくれない。

 贈り物をされる経験に乏しいだろうミリアムのこと、親しい者からの贈り物であればどんなものでも喜んでくれはするのだろうが、はてさて本当にどんなものを贈ればいいのやら。


 服や装飾品と言った身に付ける類は、キリアンが贈るのは流石にまずいだろう。キリアンに婚約者がいないと思っている外野に、変に勘繰られても面倒なことこの上ない。未成年相手に酒は贈れないし、確実に喜ばせることのできる甘いものはラーシュに先を越された。泉の乙女としてのミリアムに役立ちそうなものはあるにはあるが、たった一日で用意できるものではないし、何よりミリアムを純粋に喜ばせる為の贈り物にはならないだろう。

 彼女がもっと幼ければ縫いぐるみなどの玩具でもいいのだろうが、流石に十六の少女にそれは、別の意味でキリアンの趣味を疑われかねない。


「何も思い浮かばんとは、参った……」


 そうして何度目かのため息と共に、いっそのこと目の前の甘い菓子でも持って行こうかと、キリアンに少しばかり自棄な考えが過った時――執務室に新たな来訪者が現れた。


「お疲れ様です、兄上」


 そう言って笑顔を見せたのは、キリアンの最も愛する弟エイナーだ。


「ああ、エイナー! お前の笑顔は、何よりも私の疲れを癒してくれるよ」


 一瞬にして思考を放棄し、駆け寄るように足早にエイナーの元へ向かったキリアンは、エイナーを思い切り抱き締める。


「もう。兄上は相変わらず大袈裟ですね」

「そんなことはない。お前の笑顔には私を癒す力が確かにあるとも」

「……お疲れなんですね、兄上」


 言葉と共に背中に回されたエイナーの小さな手が、キリアンの背中を労わるように叩いてくれる。


「ああ、ありがとうエイナー」


 世界一可愛い笑顔とこの抱擁だけで、キリアンの中に蟠っていたイェルドに対する怒りも今日までの仕事の疲れも粉微塵に吹き飛び、一時でも悩みから解放してくれるのだから、エイナーの存在は実に偉大だ。

 キリアンはしっかりとエイナー分を補充してから腕を解き、最後に感謝を込めてエイナーの頭を撫でる。そして、浮かんだ疑問を口にした。


「エイナー。それより、何故ここへ? 何かあったのか?」


 普段、エイナーはキリアンが仕事中であることを理解して、執務室へ自ら足を運ぶことはない。大抵はキリアンの方から折を見てエイナーの私室へ向かい、そこで兄弟の時間を楽しむのだ。それが突然、どうしたことか。

 エイナーの後ろに控えるラーシュに視線を寄越すが、弟の護衛騎士はいつものようににこにことしているだけで、特に何か問題が起こった様子は窺えない。


「カニアが、今なら兄上は休憩されていると教えてくれたんです。それで、早くこれを兄上にお見せしたくて」


 これ、とエイナーが手を差し出す仕草に、その時になって初めて、エイナーがその手に何かを持っていたことにキリアンは気付いた。

 キリアンの前に差し出されたのは、簡素な装丁の小箱。受け取って蓋を開ければ、中に入っていたのは装飾の施された上蓋付きの懐中時計だった。部屋の明るさに、銀の光が煌めく。


「……そうか。でき上がったか」

「はい。お茶会に間に合ってよかったです」


 キリアンの手の中にある懐中時計を覗き込むエイナーは、言葉の通り安堵とそれ以上の嬉しさを湛えていた。

 この懐中時計は、ミリアムが城を辞したあとのこの国での彼女の特別な身分を証明するものとして、作製を命じていたものである。当初は一般的な身分証に少々手を加え、でき上がり次第フェルディーン家へ届けるつもりだった。だが、茶会が催されるならば贈り物と言う形で贈りたいとエイナーが言い出し、悩んだ結果、懐中時計の形を取ることになったものだ。


「まあ、素敵! こちらの装飾は、エイナー様が?」

「うん。職人と相談をして、ミリアムに似合うようにって。あ、ラーシュにも勿論手伝ってもらったんだけど」

「いえいえ、自分は大したことは何も」

「ミリアム、喜んでくれるかな……」

「エイナー様のミリアムを思う心がこもっているのですから、喜んでくれるに決まっていますよ」


 懐中時計を覗き込んでなされる周囲の会話を聞きながら、キリアンは人知れず緊張に喉を鳴らしていた。

 ミリアムへの贈り物。キリアンが今一番、悩みに悩んでいるもの。それがまさに今、己の手の中にある――キリアンは、懐中時計の入った箱を強く握った。

 そして、意を決して口を開く。


「ところで、エイナー。この懐中時計なのだが……」


 緊張を悟られないよう、キリアンは努めて冷静に、思案する風を装ってエイナーに呼び掛けた。そうすれば、エイナーは曇りなき眼で真っ直ぐにキリアンを見上げ、兄の思いは分かっているとばかりに、すぐにその顔に柔らかな笑みを浮かべる。


「心配しなくても、僕と兄上からの贈り物だとミリアムには言っておきますよ、兄上」

「そのことなのだが、やはりここは私とエイナーから、と言うことで、私からミリアムに贈った方がいいのではないかと思うのだ」


 エイナーの心遣いには心中で盛大に感謝と感激をしつつ、キリアンは己を律してエイナーにそう説いた。緩みそうになる頬に必死に力を入れて、兄弟からの贈り物とするなら、兄の名を先に出し、兄が代表して渡すのが筋ではないだろうかと、さももっともらしく。

 この懐中時計を何としてもキリアンからのミリアムへの贈り物とする為に、それはもう真面目な顔を作って。切々と。

 だが、以前のエイナーならばまだしも、今のエイナーにそんな誤魔化しは、残念ながら通用するものではなかった。キリアンの言葉にきょとんとした顔で首を傾げつつ、エイナーがすかさず、でも、と口にしたのだ。


「兄上はお茶会には来られませんよね? それに、懐中時計のことは僕から話す方が、ミリアムにしっかり伝えてあげられますよ?」

「それが、私も茶会に出られることになったのだ。それで――」

「だったら、これは僕からの贈り物にします!」


 そう言うが早いか、エイナーがさっとキリアンの手の中から懐中時計の入った箱を取り上げ、自分の腕に囲うように抱えてしまった。

 一瞬の内に手の中から懐中時計を奪われたことに、キリアンは慌てふためく。


「エイナー!?」

「兄上がお茶会に来られないから、これは僕と兄上からと言うことにしようと言う話だったでしょう。そうした方が、ミリアムが残念に思う気持ちが少しでも和らぐと。でも兄上も来られるのなら、これは僕からの贈り物です!」


 ぷい、と顔まで逸らし、より一層キリアンから懐中時計を守るように腕に力を込めるエイナーに、キリアンはたちまち弱り顔で身を屈める。


「いや、だが、出られると決まったのはついさっきのことで……。茶会は明後日、時間がないだろう?」

「明日一日も時間があるじゃないですか」

「たった一日では、流石の私でも懐中時計より素晴らしいものを用意することは難しいのだ、エイナー」


 キリアンは必死に取り縋ってみるが、エイナーはとうとうラーシュを盾にしてキリアンから完全に逃れてしまう。ラーシュの体の陰からちらりと半分だけ出した顔が、呆れを滲ませた半眼でキリアンを見上げてくる。


「懐中時計より立派なものじゃなくたって、ミリアムは喜んでくれますよ、兄上」

「そうかもしれないが、それではお前の兄と言う私の立場がだな……」

「へぇ。兄上って、実は見栄を大事にする人だったんですね。僕、知りませんでした」

「いや、違うぞエイナー!?」


 すっかり幻滅したのか、たちまち視線を逸らしたエイナーは、行こう、とラーシュを促してキリアンに背を向けてしまった。

 その弟の姿にキリアンは愕然とする。自分の迂闊な発言を後悔しても、もう遅い。


「ま、待ってくれ、エイナー!」

「貴重な休憩中にお邪魔いたしました、兄上。僕達はもう失礼するので、残りのお仕事頑張ってください」


 背を向けたままのエイナーから、言葉だけがキリアンに突き刺さる。その背を追い掛けたいのにあまりの衝撃か足が動かず、キリアンの視界の中のエイナーの姿は見る間に遠ざかり、無情にも執務室の扉が開かれた。


「頼むエイナー、待ってくれ! 誤解だ! 私は決してそんなつもりでは――!」


 キリアンの必死の弁明は、しかしエイナーに聞き入れてもらえるどころか、ぴしゃりと閉められた扉の前に阻まれてしまった。


「ああ……エイナー……違う、違うんだ……頼む、話を……」


 伸ばした手で虚しく空を掻きながら、キリアンはがくりと膝を付いた。エイナーの笑顔ですっかり癒えた筈の疲労が、まるで何倍にもなってキリアンに押し寄せたような絶望に、立っていられない。

 そんなキリアンへと、最後にとどめの一言が頭上から降って来た。


「横着するからですよ、殿下」


 同情の欠片もない側近の言葉に、キリアンはただただ項垂れるのだった。


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