受け継がれる宝、抱く宝
「じゃあ、次はこいつの話をしようかね」
そう言ってアレクシアが被せてあった布を取り払うと、そこに現れたのは重厚感のある一つの箱だった。草花や蔦、水の流れを模った真鍮製の装飾が隙間なく全体を彩る、一見して高価と分かるものだ。
けれど、私を何より驚かせたのは蓋の中央、まるで泉の水面から浮かび上がるかのような意匠の中に、釣鐘型の六輪の花、交差する竜の翼、輝く一つ星――カルネアーデ家を示す紋章がくっきりと刻まれていることだった。
「――っ!」
思わず息をのむ私に、アレクシアは一つ頷く。
「こいつは、カルネアーデ家に代々伝わる代物だそうでね。エステルの娘であるお前が現れたのなら返すべきだろうと、イェルドに押し付けられちまったのさ」
「カルネアーデ家の、家宝……」
「お前がこんなものを押し付けられても迷惑なだけだと言うなら、またイェルドに付き返してやるから、遠慮なくお言いよ」
言葉と共に鍵が手渡され、私は恐る恐る鍵穴に鍵を差し込んで捻った。がちゃりと心持ち重たい音と共に、錠が外れる。
見た目の通りに重たい蓋を開ければ、赤い布張りの内部、複数の段に分かれたその中に、まずは銀製の水盆が現れた。
縁にこそ精緻な文様が刻まれているものの、これでもかと磨き上げられた盆の表面はまるで鏡のようで、これは泉の乙女が水鏡として使う為のものなのだと、すぐに推測できた。
そこに映る自分の姿を見ないよう水盆の収められた段を取り出せば、次に現れたのは装身具一式。
やはりこれも、泉の乙女の為のものだろう。明らかに女性用と分かる装身具はその全てが銀製で、使われている宝石は水の清らかさを表すような、澄んだ青や緑に煌めくものばかり。ところどころ象徴的に使われているのは、水晶だろうか。光を反射して、一層煌めいて見える。
それら装身具の更に下、最も下段に収めてあったのは、こちらも泉の乙女として何らかの儀式の際に持つと思しき、宝珠の付いた杖だった。そして杖の脇には、本来収めてある筈のものがなくなっているような、不自然な空間。
私は思わずアレクシアと顔を見合わせて、目を瞬いた。
「おや」
「これ、は……」
二人して箱の底を眺めて、沈黙する。
まさか、国王ともあろう人が中を検めずに寄越すわけがないし、中身を抜き取るなんてことは、もっと考えられない。であれば、二十五年前に王家が接収した時から既になかったと考えるべきなのだろうけれど、長く続く家の、それもこの国で唯一、王家以外に愛し子が誕生する歴史ある家の宝が、そう簡単に失われるとは思えない。
そうは思うものの、何度瞬いてみても、見間違えているわけでもない箱の底の空間には、何も出現しはしない。触れてみても、手触りのいい布の感触が何も収められていないことを知らしめるばかりで、隣にある杖の寂しさが際立つだけだ。
仕方なく、私はひとまず収められた杖をよく眺めてみた。こちらは装身具とは違い、全体は鈍い金の輝きを宿している。先端の宝珠は女神リーテを表すような深い緑。その宝珠を包み込むように水仙を模した金の花弁が広がり、それら全体を支えるように、さながら水仙の葉のように柄から伸びるのは、ティーティスの四枚翼。そして、その翼の下にはカルネアーデの紋章がはっきりと刻まれていた。こちらは箱の蓋の紋章とは違い、星から伸びた針型の葉がくるりと全体を取り囲んでいる。
それを目にして、私はこれと全く同じ紋章が刻まれたものの存在を思い出し、「あ」と声を上げた。思えば、鈍い金の輝きも見覚えがある。
「これって、まさか!」
私は慌てて書き物机へと駆け、鍵付きの引き出しを開けて、更にその中に入れてある鍵付きの箱を取り出した。ここまで厳重にして中に入れてあるのは、これまでずっと大切にしてきた母の形見の短剣、私の最も大事な宝物だ。
短剣を箱から取り出し、恐る恐る杖の脇の空いた空間にそれを収めてみる――と、予想した通り、見事にぴたりと嵌った。
「なるほどねぇ」
アレクシアは面白がるように声を上げたけれど、私は綺麗に収まった短剣を見て思わず眩暈を感じていた。よろりとソファに座り込み、両手で頭を抱える。
「お、お母様……! あなたは、何てことを……っ!」
よりにもよって、代々カルネアーデ家に伝わる宝の一つを!
しかも、よくよく考えなくとも、私はそれを薄汚れたブーツに仕込んでおいてうっかり落下させたり、人命がかかっていたとは言え縄を切ったり麻袋を裂いたり、あまつさえ人に向けて斬り付け、挙句の果てには転落現場に落として紛失――実に散々な扱いをしてきた。家宝を。……家宝を!
思わず、顔からざっと血の気が引く。
「嘘でしょ、お母様っ。信じられない……」
母が一体どう言うつもりで短剣を持ち出したのかは分からないけれど、よくもまあこんな大切なものを、今の今まで無事に手元に置いておけたものだ。いや、一度は私が紛失してしまったので、全くの無事とは言い難いのだけれど。
転落現場に、運よく残っていてよかった。騎士が見つけ出してくれて、本当によかった。そうでなければ、私は危うく母の生家の大切な宝を永遠に失うところだった。
「やれやれ。エステルらしいねぇ」
「感心しないでくださいよ、アレックスさん!」
からからと笑うアレクシアを信じられない思いで見上げて、私は今一度項垂れた。心なしか、頭痛までしてきた気がする。
そんな大切なものなら、当時たった六歳の娘だったとは言え、きちんと教えておいて欲しかった――そう思うのは、今だからこそだろうか。
「いいじゃないか。結果的に、こうして全て揃ったんだから」
「それはそうですけど……」
なかなかどうして、素直に喜べない。私は小さく息を吐いて、母の笑顔を思い浮かべる。
時に凛と、時にふわふわと優しく笑っていた母。その筈なのだけれど、今はどうにもその印象が薄らいでしまう。
当時、誰からも恐れられていたアレクシアに向かって、私が守ってあげると言い放ったなんて。母をよく知るアレクシアに、家宝を勝手に持ち出すことを「らしい」と言わしめるなんて。もしかしたら母は、私が思うよりもっとずっとお転婆な人だったのだろうか。娘の私の前では、必死に母親らしく振る舞っていただけで。
そうであれば、なるほどアレクシアと親友であっても全くおかしくないどころか、お似合いだと思えてしまう。そのことに不思議と嫌な気持ちはないし、かえって安心してしまうところがどうにもおかしいけれど。
「それで、どうする? こいつはイェルドに付き返すかい? それとも受け取るかい?」
テーブルにずらりと並んだ家宝の数々に改めて目を向けてから、私は真っ直ぐアレクシアへと顔を上げた。
「――受け取ります。これは全部、『泉の乙女』に必要なものだと思うので」
家宝に触れてみてもリーテの力は感じられなかった。けれど、こうして目にするだけでも十分理解できた。これらは全て、リーテの愛し子である泉の乙女の為に用意されたものなのだと。
そうであるならば、王家が――クルードの愛し子が生まれる家が所有していても、意味がない。
「分かった。それなら、フェルディーン家が責任を持って、お前の代わりに保管しておこう」
「よろしくお願いします」
私が受け取るとは言え、流石にこの部屋に置いておくわけにはいかない。フェルディーン家にも、商家として紡いできた歴史の中で得た、所謂宝物と呼べる代物はある。そして、それらは本邸の宝物庫に厳重に保管されている。カルネアーデ家の家宝も、現時点ではそこに預けるのが最も安全で確実だ。
いずれ、私が独り立ちをしてしっかりとした家に住むことになった際に、私の責任の下、フェルディーン家から持ち出せばいい。
そうして、すっかり広げてしまった家宝を片付けようと手を伸ばして、私は躊躇した。箱の底、杖の隣に収めた短剣から目が離せない。
母の形見であった短剣も家宝の一つであるなら、このままこの箱に収めて保管してもらうのが一番だ。そう頭では理解していても、母の形見をこんな形で自分の手元から離すことに、まだ心の準備ができていない。
それに、母の形見を手元に置いておく為だけに、私はわざわざ鍵付きの箱を買った。机だって、鍵付きの引き出しがあるものを敢えて選んで買ってもらったのだ。毎日箱から取り出して眺めるわけではないものの、これまでの王城での生活でも、手元にあると言う事実だけでも私が感じる安心感は大きいものだった。
それが突然、なかなか手の触れられない場所へ置かれることの喪失感は、私が想像していたよりずっと大きい。それこそ、状況が状況だっただけに失くしてしまっても仕方がないと諦めかけていた時よりも。
家出当初、母の縁者を探し、短剣を母と思って国の土に還そうなんて考えていたけれど、いざそれに近しい状況に置かれると、私にとっていかに短剣が心の支えであるかをまざまざと実感してしまう。
私にはまだ、この短剣を手放す勇気が持てない。母と別れるなんて、できない。
「アレックスさん。あの、この短剣だけ……まだ、私が持っていては駄目でしょうか?」
思い切って尋ねれば、アレクシアは私がそう言い出すことを予想していたのだろう。苦笑を浮かべたその顔からは、反対する言葉が返って来ることはなかった。
「……お前にとっては、まだ家宝以上の価値を持つ宝、か」
しみじみと呟きながら、アレクシア自らが短剣を取り出し、私の手に持たせてくれる。その表情はどこか憐憫を帯びて見えたけれど、希望を聞き入れられた安堵がアレクシアの表情について私に深く考えさせなかった。
両手に乗った慣れた重みに目を落とし、鈍い輝きを放つ柄の、そこに刻まれた紋章を一撫でする。
「大事におしよ」
「……はい。大事にしますっ」
まだ母と離れずにいられる喜びを噛み締めながら、私は一度短剣を胸に抱き締めて、鍵付きの箱の中へと収めた。
再びぽっかりと空いてしまった箱の底の一角には心の中で謝罪をし、箱から取り出した残りを元の通りに収めて蓋を閉める。最後に鍵をかけてアレクシアへと返却すれば、少しばかり表情を改めた切れ長の瞳に見つめられた。
ただし、常に自信に溢れているアレクシアには珍しく、どことなく何かを躊躇しているように見えて、私は目を瞬く。
「どうかなさったんですか、アレックスさん?」
「……ああ、いや」
その口から出てくる言葉も、どうにも歯切れが悪い。けれど、そこはアレクシア。迷いは長くは続かなかった。すぐに吹っ切るように小さく息を吐くと、その顔に笑みが戻る。
「ミリアムは、この部屋は気に入ってくれたかい?」
私好みにすっかり塗り替えられた、元イレーネの私室。私が好んだものばかりで構成されているのだから、それは当然、気に入っている。今のところ特にお気に入りなのは、ガラス戸の付いた飾り戸棚だろうか。
中には既に、昨日の午後訪れた陶磁器工房で買い求めた私専用の茶器や陶花、森に住む小動物を模った置物が並んでいる。特に動物の置物は、これ以上アレクシア達に買ってもらうわけにはいかないとの自制でただ眺めていただけなのに、レナートにはあっさりと気に入ったことを見抜かれてしまったものだ。私が遠慮する間もなく一揃いまとめてレナートが購入してしまった時には驚いたけれど、手の平に乗る大きさの栗鼠や兎、狐に小鹿、針鼠、梟……種々の動物達が並ぶ姿はいつ見ても可愛いもので、気付けば頬が緩んでしまっている。
「こんなによくしてもらって、嬉しいです」
とは言え、やはりどうしても心の底から声を大にして気に入っていると素直に口にできないのは、私の中にある後ろめたさ故だろうか。
アレクシアは私がこの屋敷へ来た初日、居並ぶ使用人達に向かって、私のことを「新しい家族」だと紹介した。屋敷の案内の最中、会う人全てにそう言って回っていた。
その言葉が意味するところは、決して、私を養女としてフェルディーン家に迎え入れたと言うことではなく、フェルディーンの屋敷、所有する敷地に住まう者は皆家族同然の存在であると言う、この家に長く根付く意識からだ。
だから、私は保護された子供ではあるけれど、決して客人ではない。強いて言えば養女に近い扱いではあるので、使用人にとっては仕える者に類されるものの、そんな立場の違いがあったとしても、私はこのフェルディーンと言う大きな家族の一員なのだ、と。
これは、元々身分制度のないエリューガルだからこその考えと言えるだろう。その為、私のことを紹介された使用人達はアレクシアの言葉を当然のように受け入れ、私に対しても好意的な態度を示してくれた。
そのこと自体は、大変ありがたいと思う。けれど、私自身はこの屋敷に長く住まうつもりはないのだ。よくしてもらえばもらう分だけ、罪悪感が膨れ上がってしまう。どうして適当な客間の一角を私に宛がってくれなかったのかと、失礼なことまで考えてしまいそうになる。
贅沢なことだとは思うけれど、成人するまで保護する子供、ただそれだけの存在として受け入れてくれれば、私はそれで満足だったのに。
それが許されないのは、やはり私のこの国での特殊な立場が理由なのだろうか。加えて、アレクシアの親友の娘であることも。
「……ああ、なるほど。こいつがレナートの奴が言っていた『ろくなことを考えていない間』ってやつかい」
そんな声にいつの間にか下がっていた視線をはっと上げれば、私の対面に座ったアレクシアの、感心しつつ呆れていると分かる苦笑と目が合った。
思わず肩が跳ねたのは、その瞳が獲物を甚振ろうとする肉食獣のそれに見えたからか。合同訓練での兵士騎士を屠るアレクシアの姿が思い出されて、私の背筋がぶるりと震えた。
「あ、あの、アレックスさん。その、私は別に……何も……」
慌てて弁明しようと口を開いてみるものの、ここで下手な言い訳をすればアレクシアの言葉を肯定することになると気付いて、ろくな言葉が出て来ない。いや、そもそも言葉に詰まっている時点で、私がろくなことを考えていなかったと証明しているようなものだ。
アレクシアの笑顔が徐々に深みを増すのを目の当たりにして、私はこの場にいないレナートに対して、心中で盛大に文句をぶつける。
(あああああ……もうっ! 『ろくなことを考えていない間』って何ですか、レナートさん! 変なことまでアレックスさんに教えないでくださいよ!)
私の性格や癖をアレクシアに説明するにしても、もっと言い方があるだろうに、言うに事欠いて「ろくなことを考えていない間」とは。言い得て妙なところが非常に悔しいけれど、私自身は、断じてろくなことを考えていないわけではない。毎度レナートからは変なことだの馬鹿なことだのと言われるけれど、今は真っ当に真面目に純粋に! 自分自身の今後に考えを巡らせていただけで、変でも馬鹿でも、まして、ろくでもないことでもないと言うのに!
「やれやれ。今のミリアムにはまだ話すまいと思っていたんだが、考えが変わったよ。そもそも、躊躇するってのが私らしくなかった。……ミリアム。お前に馬鹿なことを考えられるより先にこの私がきっちり教えてやるから、覚悟してよぉくお聞きよ」
「ひぇっ……」
ゆらりとアレクシアが立ち上がり、テーブルを挟んで私を見下ろす。
満面の笑みを浮かべているのにアレクシアを非常に恐ろしく感じるのは、腰に当てた両手の所為か、立ち上がったことによる視線の高さの違いか。
まさに蛇に睨まれた蛙の気持ちでソファに座ったまま動くこともできず、私は自分の隣にアレクシアが腰を下ろすのを、ただじっと息を殺して耐えるのだった。