辿り着いたのは
次に私が目を覚ましたのは、私自身も驚いたことに二日後だった。
陽光に導かれるように目を開けた私を見て真っ先に喜んだのは、そばに控えていた世話係の侍女。すぐに目覚めるだろうと思っていた私が、再び二日間も死んだように眠ってしまった所為で、随分心配させてしまっていたらしい。目が合った時には飛び上がらんばかりに私の目覚めを喜び、そして盛大に安堵していた。
すぐさま呼ばれてやって来た医師も、眠り続けた二日間で高熱がだいぶ下がり、体を起こせるまでに回復した私を見て、侍女と同じく胸を撫で下ろしていた。
その医師の説明によれば、私は騎士達に救い出されたあの日から、十日以上も昏睡状態が続き、一時は命すら危うかったのだそうだ。現場での適切な応急処置と、その後の迅速な治療がなければ間違いなく死んでいただろうと告げられて、私は思わず背筋を震わせてしまった。
実のところ、怪我の状態だけを見れば、長く昏睡状態に陥るほどのものではなかったらしい。けれど、何せ怪我を負ったのが、栄養も体力も圧倒的に不足した痩せ細った私の体だった為、常人よりも遥かに体にかかる負担が大きく、医師も随分肝を冷やしたとか。
現に今も、傷の治りが遅い為にベッドに身を起こすだけで精一杯。熱も下がりきるにはまだ日数を要する有様で、当分は絶対安静が必要との医師のお達しに、私は素直に頷く以外になかった。
何より今は、生きていると言う事実だけで、私には十分な喜びなのだ。絶対安静だろうと何だろうと、一つの苦にもならない。
それもこれも、全てはエイナーが私を生かそうと、必死に声を上げ周囲に助けを求めてくれた結果だ。彼の声がなければ、今私はここにいなかった。それを思うと、エイナーにはどれだけ感謝してもし足りない。
「――改めて。この度は、我が国のエイナー第二王子殿下をお救い下さり、ありがとうございました」
畏まった侍女の謝辞に、私は反射的にこちらこそ、と言葉を出しかける。
けれど、実際には私の口からその言葉が出てくることはなかった。何故なら、侍女の言葉の中に、私にとって大変聞き捨てならない単語が入っていたのだから。
「……エイナー……王子……?」
耳から全身に走った衝撃に身を強張らせた私を見て、侍女が笑顔で「やはりご存じなかったのですね」と、のほほんと宣う。彼女の隣に立つ初老の医師も、無理もないとばかりに目尻を下げて苦笑している。
「そうでございますわ」
差し込む日差しのお陰で明るく温かな部屋の筈なのに、何故か急に室温が下がったような錯覚に、私の肌が泡立った。
(いやいやいやいや。ちょっと待って。何? 私は今何を聞いたの? ご存じなかったのですねって何? 王子って何!? 殿下って何!?)
熱を持つ頭に聞かせるにはあまりに物騒な言葉に、私の脳内が戦慄する。同時に、あの日のエイナーを改めて思い出す。
確かに、エイナーは見るからに高級な服を着ていた。育ちがよさそうな、びっくりするほどの美少年ではあった。あの年代の子供にしては、随分聡明だなとは思った。
(思ったけれども! 普通は貴族の子息だと思うじゃない!? 王族がうっかり攫われて麻袋に入れられているなんて思わないじゃない!? フィロンといいエイナーといい、王族の護衛は揃いも揃って間抜けしかいないの!? 職務怠慢すぎなのでは!?)
ベッドの上で一人衝撃を受ける私をよそに、悪気の欠片もない顔をした侍女が、それでは、と続ける。
「今いる場所も、当然ご存知ではありませんよね」
侍女が窓辺に歩み寄り、かかっていたレースのカーテンを開いた。途端、部屋の明るさが一気に増し、窓外の景色が私の目に飛び込んで来る。
頑強な城壁。その向こうに広がる白銀色の石造りの街並み、象牙色の街道。更に向こうには、様々な色の緑や青、灰色や黒に彩られた山々。その奥に連なるのは純白の頂。そして、全てを包み込む澄み切った青空。
自然豊かで鮮やかな、見たこともない景色がそこにあった。その美しさに、私は思わず息をのむ。
「エリューガル王国へようこそ、お嬢様」
お母様、あなたの故国は、こんなにも美しい場所だったのですね。
思わぬ形で旅の目的地に到着していたことに、不思議と驚きはなかった。代わりに私の胸を満たしたのは、純粋な感動。
「……綺麗……」
アルグライスを含む東方の国々は大きく広がった平野に国土を持つため、山はあってもどれもが低山で、土地の起伏も緩やかだった。目にする自然は森が主で、麦畑がどこまでも広がる様はそれはそれで気持ちはいいけれど、代わり映えのしない景色はどうにも退屈を呼び起こしていたように思う。
変わってエリューガルは山岳国と言うだけあって平地は長く続かず、街並みすら起伏に富む。間近の山の斜面に沿うように建物が点在する様は私の目に珍しく映り、とても目を引いた。ところどころ象徴的に建てられた赤煉瓦の屋根を持つ建物も、景観に色を添えていて素晴らしい。
高地が故の強い日差しと澄み渡る空気にどの色も鮮やかに映えて、思わず感嘆の息が漏れた。私も初めからこの国に生まれていたらと、不意にそんな思いまで頭を過る。
けれど、そんな感動も長くは続かない。感動に浸っていた思考が、急速回転して私を現実に引き戻したのだ。
つまり私は、全くそれと知らずにエリューガル王国の王子を助けたと。そして、その王子の願い――臣下にとっては命令――で、私は何とか命を繋ぎ止めたと。
そんな私が滞在させてもらっている場所となると、当然王城以外にないわけで。
どうりで、寝心地がよすぎるベッドだと思った。私の背を包み込むように支えている枕がふかふかなのも、確実に安眠を約束してくれるだろうふわふわの掛布団にも納得してしまう。そして部屋の内装も、一流の職人がこの部屋の為だけに作ったに違いない、洗練され、気品に溢れたものばかりなのも頷ける。
今、私に着せられているのも、ちょっとやそっとでは手にできないと思われる上質な夜着だし、体を冷やさないようにと肩に掛けられた暖かなショールも、これまた手触りがよすぎる一級品。最後に染めさせられたのが家出の前日で、普段から手入れなどしていない、傷みきってまだらな黒髪も、いつの間にかすっかり本来の色を取り戻して、心なしかいい香りまで漂わせている。
おまけに世話係がつくわ、呼べば医師がすっ飛んで来るわ、至れり尽くせりの対応。
もう何度も人生を繰り返してきた私でも、こんな好待遇を受けたのは、覚えている限り初めてだ。貴族令嬢としての人生においてですら、アルグライス王城は夜会やお茶会会場だった大広間や庭程度までしか足を運んだことがないのに、色んな過程をすっ飛ばしていきなり滞在。それも、こんな豪華な客室に。
私の意識のない間に行われたこととは言え、あまりの場違い感と不慣れすぎる環境に、私の顔からざっと血の気が引いた。
「…………」
見るもの触れるもの全てが高級品で、今生での下女生活が長すぎて、自分のような者が触れてはいけない物なのではと、高級品に感動するより先に畏れが勝って口から何かが飛び出しそうでもある。
「もしかして、緊張なさっておいでですか?」
再びレースのカーテンを窓にかけて枕元へと戻ってきた侍女が、相変わらずにこりとしながら声をかけてくる。
胡桃色の髪に若葉色の瞳を持つ彼女の、人好きのする柔らかな笑みは私の心を少しばかり落ち着かせてはくれたけれど、流石は王城勤めの侍女。その辺の下手な貴族令嬢よりも洗練された身のこなしが眩しくて、恐れ多さに拍車がかかってしまった。
瞬時に、自分の貴族令嬢時代の礼儀作法の出来と比較してしまう脳内が、少し恨めしい。
「い……いえ……」
自分の素直な気持ちを告げるのが躊躇われて曖昧に言葉を濁した私に、侍女がそっと手を伸ばし、枕元に掛けられていた小袋を私の手に握らせた。
「こちらをご覧ください。お嬢様の回復を願って、エイナー様が手ずから祈りを込められたものです」
片手の平にすっぽりと収まるほどに小さな袋は、一見したところ小振りのサシェのようだった。けれど、それにしては匂いはない。中には何やら固形物が入っているようで、小さいながらもしっかりとした重さを感じる。
袋の表と裏にはそれぞれ放射状に広がる模様が緑や黄、青と言った刺繍糸で縫い付けられており、まるで袋の中に込めた祈りを外へ放出させているような印象を受けた。
「我が国のお守りです。これは特に、怪我の回復を祈るものになっております」
「お守り……」
「それだけ、エイナー様はお嬢様のことを思っておいでなのです。身分の分け隔てなく私達使用人に対してもお優しい方ですし、気を張ることはございませんわ。お嬢様らしく殿下にお会いになれば、それが何より喜ばれましょう」
「……私、らしく……」
そうは言っても、知らなかった荷馬車の中と二日前はいざ知らず、知ってしまった後では、流石にあの時のような気安い態度など取れよう筈がない――そう考えて、はたと思考を止めた。
(いやいやいや、落ち着こう、私。侍女の言う「私らしく」とは、絶対そう言う意味じゃない。うん)
「…………」
どうも少々、私は混乱しているらしい。せめて、最低限礼を失することがないように、気持ちだけは落ち着かせておかなければ。
私はまとわりつく混乱と不安を払うように首を振り、気を紛らわせようと手の平に乗せられたお守りに視線を落とした。
改めて見たそれは、今は手の平に収まっているからか、中の固形物の形状の所為か、コロンとして可愛らしくもあった。恐らく肌身離さず身につけておく為だろう、袋の口を縛った紐の余りは程よい長さに延びており、今は端が結ばれて輪を作っている。その輪に指を通して、そっと袋の模様を撫でた。
お守りとして、大切に思う相手に――主に女性が男性へ――小物を贈る習慣は、アルグライスにもある。けれど、お守り自体が国の信仰する女神由来の高価な物しかない所為か、お守りそのものを作って渡すと言うのは聞いたことがなく、何やら不思議な気分だ。
それでも、エイナーが一生懸命に私の為を思って作ってくれたのだと思うと、嬉しさが込み上げてくる。
(……ありがとう)
両手で大切に握り締めて、心の中でエイナーへ礼を言う。
そう言えば、エリューガルは周辺国にはない独自の文化を持っていると、いつだったか本で読んだことがあった。
確か、シュナークル山脈を越えた向こう側、未開の聖域と呼ばれる、人が決して立ち入れない領域に住まう存在と唯一交流する手段を持っており、それ故に他国には見られない風習、習慣が数多くあるのだとか。
また、しばしば未開の聖域よりもたらされる人知の及ばぬ力、その片鱗を貸し与えられた者が出現し、国の繁栄に大いに寄与してもいると言う。
今、私の手の中にあるこのお守りも、その未開の聖域からもたらされた何かが年月を経てこのような形となり、エリューガルの文化の一つへと確立されていったものなのかもしれない。
ではこのお守りは、私達が普段贈る「お守り」とは違い、実際に効果があると言うことだろうか。確かに、袋に縫い付けられた模様を最初に見た時、力を得られるような印象は抱いたけれど――
再びお守りについて考えを巡らせ始めたところで、思考を中断する音が届き、私ははっと我に返った。