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洋服店騒動

 女性よりも骨張った手が差し出され、私は反射的にそれを握り返した。


「ミリアムと言います」


 礼儀としてこちらも名乗りつつ、やはりジェニスはライサの親だったと言う納得と、父兼母と言う奇妙な自己紹介に対する疑問とが私の頭を占める。

 そのおかしな紹介がジェニスの格好にも繋がっているのだろうかと考え込み始めた私は、だから、ジェニスが私の手を握った時に泉の乙女に触れられたと感激していたことにも、私が名乗った瞬間に雷に打たれたかのように衝撃を受けて立ち尽くしていたことにも、気付かなかった。


「……ミリアム……ですって?」


 わなわなと震えた酷く低いジェニスの声に、私は思考の渦から引き上げられる。

 一度瞬き、自分が思考を彼方へ飛ばしていたことに気付いた私は、慌ててジェニスを見上げた。けれど、そんな私を待っていたのは、初めに私が泉の乙女だと知った時以上に目を見開き、どこか鬼気迫る形相のジェニスで。


「ひっ」

「お嬢さん……本当にミリアムなのね?」

「ひ……ひゃいっ!」


 いまだ握手をしたままだったことが、運の尽き。私が反射的に引き抜きかけた手をジェニスも反射的に逃がすまいと握り込み、三白眼が私の眼前に迫る。その両眼の迫力に、私は堪らず体が震えた。

 けれど。


「……ああ……ああああっ! 何てことなのぉ……っ!」


 一拍の後、ジェニスはまるでこの世の終わりを見たかのように、両手で頭を抱えて床に頽れてしまった。

 これには流石のアレクシアも驚いたのか、目を丸くしながらも、少しばかり心配そうにしゃがみ込む。


「どうしたんだい、ジェニス」

「ああ……アレックス……! えぇ、えぇ、もう何も言わないで。分かってる! だからレナート坊ちゃんまで一緒だったのよね! いいわ、店のもの、好きなだけ持ってってちょうだい! 子供の不始末の責任は親がきっちり取るものよね! ミリアム様……私の愚女がとんでもないことをしでかしてしまって、申し訳ございませんでした……っ!」


 アレクシアに縋り付き、かと思えば私達を見上げて、大きな体を小さく折って額づく。

 ジェニスの謝罪があの日のライサの行動に対してのものであることは分かっても、彼のあまりの勢いに押された私は、呆然として何も言えなかった。何より、体格もよければ上背もある男性が、女性物の服を着て平身低頭して謝る姿と言うのはあまりに奇抜で、肝心の謝罪の言葉は私の耳から入って耳から抜けていく。

 そんな私の前で、ジェニスの前にしゃがみ込んでいたアレクシアの右拳が、いい音を立ててジェニスの頭頂部に落ちた。


「痛ったぁああああっ! ちょっと、何すんのよ、アレックス!」


 がばりと頭を上げ、両手で頭を押さえて抗議の声を上げるジェニスに対して、アレクシアは至極冷静だった。


「何を勝手に勘違いしているんだい、ジェニス。あのじゃじゃ馬娘がミリアムに失礼を働いたのは知っているけどね、今日ここに来たのは、さっきも言った通りミリアムに入用なものを買う為だよ」

「……あら、そうなの? レナート坊ちゃんまでいるから、あたし、てっきりうちの娘のことで来たものだとばかり……」


 目を丸くして私達を見回すジェニスはすっかり頭部の痛みを忘れているようで、目を瞬きながらきょとんとする姿は、流石親子だと、私にライサを思い出させた。

 合同訓練のあの日、ライサも何度となくオーレンから拳骨を落とされていたのに、その瞬間こそ痛がって大きな声を上げていたものの、実際は大した痛みを感じていないようだった。

 彼女の打たれ強さは、なるほど父親譲りであるらしい。いや、ジェニスはライサの父兼母と言っていたので、この場合は、両親譲りと言うべきか……?


「喜んだり落ち込んだり、忙しないねぇ、お前さんは」

「嫌だわぁ。恥ずかしいところを見せちゃった」


 どうやらジェニスは、ライサが王城に滞在中の賓客に失礼を働き、第二王子の怒りを買って十日間の謹慎処分を受けたと言う知らせを、城から受け取っていたらしい。その後、ライサ本人からもエイナーの友人であるミリアムに失礼をしたと言う旨の手紙を受け取り、賓客とミリアムと言う名は結び付けたものの、その賓客が泉の乙女であるところまでは結び付けて考えていなかったのだとか。

 そこに、アレクシアの息子であり、キリアンの騎士でもあるレナートまで来店したことで、早合点。それが、先の慌て振りに繋がったと言うことのようだ。


「俺は、今日の買い物中アレックスが暴走しない為の付き添い兼荷物持ちですよ。殿下方からあなたへの言伝は、預かっていません」

「そうなのね。あーもう、びっくりしちゃったわ……」

「驚いたのはこっちだよ。まったく、親子揃って落ち着きがないったらありゃしない。それから、様、なんて付けて呼ぶんじゃないよ。ミリアムは私の娘なんだから」


 今一度ジェニスの額をぺしりと叩いて、場を仕切り直すようにアレクシアが私を手招く。


「さあ、ミリアム。今日は、お前が我が家に来た祝いだ。お前の欲しいものを何でも買ってやるから、遠慮なく選びな!」

「は――えっ?」


 うっかり「はい」と返事をしそうになって、私はアレクシアの言葉に戸惑った。

 私を歓迎して祝ってくれると言うのは、素直に嬉しい。けれど、それが「欲しいもの全部買ってやろう」に繋がるのは、どう考えてもおかしい。早速アレクシアが暴走を始めた気配に、私はぶんぶん首を振ってアレクシアの手を掴んだ。


「待ってください、アレックスさん。私もちゃんと、少しはお支払いします」


 たとえ祝いだとしても、私の入用なもの全てをアレクシア――フェルディーン家に出させるなんて、とんでもないことだ。

 私は王城を辞す際、王家から相当な額の謝礼金をいただいてしまっている。形あるものを辞退した分が謝礼金に上乗せされてしまったそうで、まだ私自身で目録を確認していない為に正確な金額は知らないけれど、恐らく十年は軽く超える年月、食うに困らない生活ができるくらいの額はあるのだろう。

 きちんと正確な額を把握したのち、少しずつ大切に使わせてもらうつもりでいたので、現時点ではまだ全く手をつけられていない、莫大な私の財産だ。

 ちなみに、今日の外出での手持ちは、以前祈願祭を楽しむ為にとキリアンに渡された分の残りで、決して十分にあるわけではない。それでも、今は手元にないだけで十分に買えるだけの財産を持っているのだから、立て替えてもらうなりして少しは出さなければ、私の気が済まない。


「何を言っているんだい。お前が支払ったら、私達がお前を祝う意味がないじゃないか」

「それは……そうです、けど……」

「遠慮することはないんだよ、ミリアム」


 そう言われても、この分ではこの店を出たあとにも色々な店を回って、その度にアレクシアに祝いだからの一言で全て買ってもらう未来しか見えない。そんな大それたこと、きっと私の精神が耐えきれないだろう。

 考えただけで胃がきりきりと締め付けられる錯覚に陥った私は、無意識にレナートに助けを求めてしまっていた。何とかアレクシアの暴走を止めてほしいと、その一心で。

 それなのに。


「諦めてくれ、ミリアム」


 レナートから寄越されたのは、無情な一言。


「どうしてですか……っ」


 レナートなら何とかしてくれると思ったのに、頼みの綱がこうもあっさり諦めるなんて、予想しなかった。自分からアレクシアの暴走を止める為の付き添いだと言った癖に、早々にその役目を放棄するだなんて、信じられない。

 私が半ば絶望を感じながらレナートを見上げれば、私を宥めるような笑みがその顔に浮かぶ。


「心配しなくても、家族全員でどの店の支払いを持つかは既に決めてある。何も、全てアレックスが支払うわけじゃない」

「そう言う心配をしているんじゃありません!」


 私が何を気にしているのか分かっているだろうに、レナートからのすっとぼけた回答に対して、私は仄かな頭痛を感じた。

 これはもう、何を言っても無駄らしい。


「あらまぁ。フェルディーン家の皆さんに愛されてるのね、ミリアムお嬢さんったら」

「私の愛が一番大きいけどねぇ!」


 頬に手を当てて微笑ましく笑うジェニスに、何故か胸を張って自慢するアレクシア。ついでに、私の頭に手を置くレナート。

 その場に溢れる気遣いに、私は諦めて息を吐いた。


「……分かりました。じゃあ、三着だけ」


 ひとまず、それくらいあれば当面は事足りる。これから先は、その都度必要になった時に買えばいい。そう思ってのことだったのだけれど、私のその考えはどうやら甘かったらしい。


「馬鹿を言うんじゃないよ」


 私の言葉を一刀両断して、真顔のアレクシアの顔が私に迫る。


「いいかい、ミリアム。たった三着ぽっちで私が満足するわけがないだろう? 普段着は最低でも五着、外出着だって三着は欲しい。ついでに乗馬用も新調しないと、あんな生真面目な練習着ばかりじゃつまらないじゃないか!」

「えぇぇ……」

「何を驚いているの、ミリアムお嬢さん! 女の子はお洒落してなんぼなのよ! アレックスの言う通り、三着ぽっちで足りるわけがないじゃないの! お嬢さんは何色がお好み? デザインにも好みはおありかしら? とにかく、色々試してみましょう!」

「あ、あの……っ」

「ようし、ジェニス! 店の商品、ありったけ見せとくれ!」


 服の話になった瞬間、当然と言うべきかジェニスまで勢い込んで顔を寄せて来て、私が勢いに飲み込まれてあたふたする間に、二人の手によって様々な服が目の前に並べられ始める。

 そこに加わらなかったレナートも、


「おい、アレックス。服を選ぶのもいいが、茶会用のドレスを注文するんじゃなかったのか?」


 なんてことを言い出して、ついでのように、持っていた鞄の中から少々厚みのある紙束を取り出す始末。


「そうだった。ジェニス、お前さんも茶会に来な! こいつが招待状だよ」

「まあ! ドレスの注文ですって? しかも、あたしも茶会に招待してくれるの? 何てことかしら! あぁっ、燃えるわぁー! マダーァム! あなたもこっちに来てちょうだい!」


 紙束の上に乗せてあったらしい封筒が、アレクシアの手からジェニスに渡っていく。その間にも、ジェニスとアレクシア双方の片手には服が取られて、実に忙しない。

 二人の口と手は同時に動いて、会話の最中にも何着かはさっと私の体に宛がわれ、どうかしら、ちょいと幼過ぎやしないかい、なんて、何故かジェニスとアレクシアが服選びに熱中してしまっている。

 私はただひたすら、その場に棒立ちだ。口を挟む間なんてありはしない。

 そんな中、レナートは慣れた様子で二人の邪魔にならないよう回り込み、ジェニスの元へと歩を進めていた。


「ジェニス。あなたには、城でミリアムの世話係をしていた侍女から言付かったものがあるんです。ドレスを作る際に参考にしてほしいと」


 そうしてレナートがすまし顔で紙束を手渡せば、ジェニスの顔が一瞬にして喜色に彩られる。


「んまぁー! レナート坊ちゃん、これってまさかオルソン家のお嬢様から!? あらやだ、ありがたいこと! ぜひ参考にさせていただくわね!」

「くれぐれも、他には漏らさないようにお願いします」


 いつの間に茶会なんてものが開催されることが決まったのだろうだとか、レナートがジェニスに渡したテレシアからの言付けとは一体何だろうだとか、ドレスを注文するってどう言うことだろうだとか、私の服を買いに来た筈なのに、その本人を脇に追いやって盛り上がるのはどうだろうだとか、目の前で繰り広げられる様子を呆然と眺めながら、私はそっと意識を彼方へと飛ばした。


(……無理です、お母様。私には、この勢いに飲まれないで過ごせる自信がありません……。お母様はこんなアレックスさんと、どうやって友人として過ごしていたんですか……)


 私の中の母は、芯の通った人ではあったけれどいつだって優しくて穏やかで、私の印象はふわふわきらきらしていた。声を上げて騒ぐことを好むような人にも見えなかったけれど、この我の強いアレクシアの親友だったと言う。

 一体母は、今私の目の前で見せているアレクシアの勢いに、いかにして付き合っていたと言うのか。ちょっとどころでなく、想像ができない。

 その内、ジェニスが呼び掛けた人だろう、階上からしっかりとした足取りで年配の女性がやって来て、騒がしい店内がわずかに静まる。

 けれど、その静まりかけた店内を、女性自らがぶち壊した。


「赤に黄に緑だなんて、まったく目に痛い客が来たもんだね! ただでさえ店主の頭が派手なんだ! もっと年寄りを労わった色で来な!」


 本人は平凡な薄茶の髪に、少しばかり腰の曲がった女性がアレクシア親子と私を捉えると、続けてとんでもないことを口走る。


「それで? そこの緑の小さいのは、一体どっちの隠し子なんだい!」


 一見、気難しそうな見た目でも、ジェニスと違い、至って普通の出で立ちだった為に油断した。

 あまりの一言に絶句する私を、女性の眼光鋭い眼差しが値踏みするように上から下まできっちり眺め回す。そうして、何やら残念そうに、似てないねぇ、との呟きを零した。


「そりゃそうさ、マダム・アン。この子はどっちの子でもないんだから。大体、私は死ぬまでサロモン一筋だと言っているだろう。失礼なことを言わないどくれ」

「そうよぉ、マダム。滅多なことを口にしないでちょうだい。王太子の騎士様と元騎士団長様に隠し子だなんて、醜聞もいいところだわ」


 口々に反論されて、マダム・アンはいかにもつまらないと渋面になり、私達にぷいと背を向けてしまった。けれど、そのまま一人店の奥へ向かうと見えたマダム・アンの声が、何故か私を指名する。


「そら、緑の! ちょっとこっちに来な! それからお前達! 黄色の服は選ぶんじゃないよ!」


 それだけ言って、すたすたと店の奥にある試着室へ入ってしまったマダム・アンを呆然と見送り――一拍置いて、私は慌ててその背中を追った。

 この手の人の言うことには、逆らわず素直に従った方がいいのだ。

 私がわずかに遅れて試着室に入れば、マダム・アンが待ち構えるように部屋の中央にいた。店内の騒がしさが嘘のように静まり返った室内で、私とマダム・アンが向かい合う。

 一体、これから何が起こるのか。いや、何を言われるのか、何をされるのか。

 固唾を呑んで次の行動を待つ私に、その時ふ、とマダム・アンが柔らかく微笑みかけた。先ほどの矍鑠(かくしゃく)とした動きではなく、品のある老婦人のようにしずしずと歩み寄り、私の両手を優しく掬い上げる。


「先ほどは失礼をいたしました。ようやくお戻りになられたのですね、泉の乙女様」

「え……」


 マダム・アンの言い方は、決して泉の乙女「役」を指してのものではなかった。私が何者か、正しく知っている――先ほどとは一変した彼女の纏う雰囲気が、私にはっきりそう告げていた。同時に、警鐘が脳内に鳴り響く。

 わずかに身を強張らせた私を、マダム・アンの悪戯が成功したかのような得意げな顔が見つめた。


「……なんて、芝居じみた挨拶はここまでだ。安心しな、私は生まれも育ちも王都でね。お前さんの母親のことをよく知っているってだけさ。まさか、お前さんまで泉の乙女とは驚いちまったがね。大丈夫、外では決して口外しやしないよ。たとえ耄碌した年寄りだって、その辺はちゃんと弁えてるもんだからね」


 お茶目に片目を瞑ってみせるマダム・アンに、私もようやく安堵する。

 初めは睨まれているように感じた彼女の鋭い瞳も、正面からよく見れば理知的で、若い頃にはきっと切れ長で美しかったのだろうと分かる。


「お前さんの母親には、店をよく利用してもらっていてね。もうこの歳だから四年前にジェニスに譲ったが、ここは、元は私の店なんだ」

「まあ。そうだったんですか!」


 内装は当時から変わったところもあるものの、間取りはそのままだと言うマダム・アンの言葉に、私は思わず室内をぐるりと見回す。

 では、母もこの試着室で、様々な服を試着してはその姿を鏡に見ていたのだろうか。

 イェルドとハラルドからいくつも話は聞いて来たけれど、実際に王都の中で、母が足を踏み入れたであろう場所に今私もいることを思うと、何やらとても不思議な感覚だった。


「この『マダム・アン』って呼び名も、彼女が面白半分で付けてねぇ。それなのに、今じゃ私もすっかり呼ばれ慣れちまった。きっと、私の本名を知らない者の方が多いんじゃないかね。お前さんも、私のことはマダム・アンとお呼び」

「では、私のこともミリアムと呼んでください、マダム・アン」

「そうかい、ミリアム……。いい名だね」


 言いながら、マダム・アンは壁際に並ぶ服の中から一着を持ってくる。

 裾にレースがあしらわれた淡いクリーム色のブラウスに、山吹色のスカート、同色のコルセット。差し色にはオリーブ色が使われた、今の暖かな季節らしい色合いの一着だ。


「今年は祈願祭前に腰を痛めちまってね、私は出向かなかったんだ。そうしたら、祈願祭へ行った友人知人が口を揃えて、今年の泉の乙女は本物だと言うじゃないか。昔を思い出したって連中も多くてね。ジェニスもジェニスで、そりゃあもうきゃあきゃあ煩く言うもんだから、見てない私でもピンと来たよ」


 それで、泉の乙女の為に服を一着作ったのだと、マダム・アンが笑う。いずれこの店に来ることは分かっていたからね、と。

 つまり、それは。

 今いる場所が試着室であることを改めて思い、私は一つ、瞬いた。同時に、目の前のマダム・アンの笑顔に一際の深みが増す。


「王都の流行を作って来たこのマダム・アン、老いたってまだまだ若いもんに負けないよ」


 *


 それからしばらくして。

 マダム・アンの手によって問答無用で着替えさせられた私は、一つにまとめていた髪も結い直され、化粧まできっちり整えられて、ようやく試着室を出ることができた。

 現れた私の姿を見た途端、アレクシアとジェニスは当然のように大きな歓声を上げて喜び、一仕事やり終えて満足気なマダム・アンと固い握手を交わし合うほどの感激振りだった。

 一方のレナートは、二人とは対照的に落ち着いたまま、「よく似合っている」との一言だけだったけれど、何やらとても嬉しそうな顔で私を見るものだから、酷く気恥ずかしくなってしまった。

 ただ私自身は、いつからか気付けば鏡に映った自分の顔を直視することを避けるようになってしまっていた為、強く印象に残っているのは着た服のことだけなのだけれど。

 このことは、いまだに誰にも話せていない。話したところで、すぐに私が鏡を直視できるようになるわけでもないし、今のところ日常生活において困ってもいないのだから、こんなことを話して不要な心配を与えることもないだろう。


 その後は、案の定と言うべきか、店内の商品全てを買ってしまいそうな勢いだったアレクシアを、彼女が好きだと言う菫色の布を使って揃いの服を作ってもらおうと言う提案で気持ちを逸らし、購入する服を厳選し、ドレスのデザインを決め――ようやく私達が店を出たのは、来店から優に二時間は経ったあとのこと。

 最終的にこの店では、マダム・アンに着せられてしまった服も合わせて合計十五着もの服、それに合わせた羽織りもの、リボンやベルトや手袋等の小物も大量に……と言うとてつもない量の買い物をしてしまった。と言うか、させられてしまった。


 けれど、まさかこれが序の口であるとは、この時の私は知る由もないのだった――


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