束の間の休息
ほっと息を吐く私の耳に、それまで沈黙を保っていた騎士団長の声が届く。
「……さて。どういたしましょうか、キリアン殿下」
ざわつき始めた修練場の中にあっても、低く重たい団長の声はよく通った。けれど、どことなく犬、それも狼を思わせる風貌は、真面目な口調に反してその口端には苦い笑みを浮かべている。それは、団長として部下の起こした騒動に呆れているのか、エイナーとライサ二人の会話に明るい未来を見て安堵しているのか。
どちらにせよ、この事態を深刻に受け止めていないらしい団長の様子を、キリアンが呆れながらも一つ鋭く睨み付ける。
「どうするもこうするも、訓練の続きに戻る以外にないだろうが」
「……左様でございますな」
「面白がるな。お前も少し、前任者の悪い癖がうつったのではないか?」
「まさか。あのお方ならば、もっと面白おかしく事態を引っ掻き回されましょう」
悪びれず笑う団長の言葉に何を想像したのか、キリアンの眉が嫌そうに寄る。
けれどすぐに切り替えるように首を振ると、自分は少し外すと団長へ言い置いて身を翻した。その際、キリアンはエイナーとイーリス、そしてオーレンの名を呼んで、今いる場所とは反対の、祈願祭では貴賓席の土台として使われていた武具・用具庫の方へと向かっていく。
エイナーが一度私に何かを言いたげな顔を向けたけれどすぐにキリアンのあとに続き、上手く隠れていたつもりらしいオーレンが、人だかりの中から気まずい顔を見せながら現れるのが見えた。彼の手にはずっと持っていてくれたらしい私の日傘が握られて、それを去り際にイーリスへと手渡すと、イーリスはキリアンの元へと向かうのではなく、私の方へとやって来る。
「キリアンの言葉ではないけれど、災難だったわね、ミリアム」
訓練と言うことで、今日は髪を編んで後頭部でぐるりと一つにまとめた姿のイーリスが、日傘を差し掛けてくれながら、労いを込めてわずかに眉を下げて笑む。
災難――確かに、災難だった。その一言で表されるにはあまりに衝撃的なことが立て続けに起こったけれど、それ以外に、先ほど私の身に起こったことを表すのに適した言葉はないだろう。
できれば今すぐ忘れたいし、あの場にいた人達にも忘れてほしい。
思い出したくもないのに、災難の一言に誘発されて一連の出来事を脳裏によみがえらせてしまった私は、波のように襲い掛かってきた羞恥に耐えきれず、気付けば、やって来たイーリスに衝動のままに抱きついてしまっていた。
「イーリスさん……っ!」
「あらあら」
イーリスが嫌がる素振りも見せずに私を抱き返してくれることに安堵を覚えながらも、私は恐らく真っ赤になっているであろう顔を上げられないまま、ぐりぐりと頭をイーリスに押し付け続ける。
一連の出来事もそうだけれど、公衆の面前でライサに対して随分と偉そうなことを告げてしまったことも、今更ながら大それたことをしたものだと恐れが込み上げて来ていた。
たとえ私を悪いと言う人がいないとしても、元はと言えば私の判断の間違いが招いたことなのだ。それなのに、偉そうに謝罪を受け入れますから始まって、エイナーの友人と言う立場を使って図々しくも約束しろと迫るだなんて!
ライサは約束すると即座に返してくれたけれど、果たして本当に彼女にあんな約束をあの場でさせてしまってよかったのか。考えれば考えるほど、自分の行動がとんでもないことのように思えて、穴があったら入ってそのまま埋まってしまいたい心地になる。
「ああああ……私、エイナー様とライサさんに何てことを……!」
「落ち着いて、ミリアム。そのことは、あなたは何一つ悪くないのよ?」
「でも」
「ミリアムは、親切心でライサの願いを聞き入れただけだもの。それをちゃんと止めなかったのは、エイナーの落ち度。オーレンもその場にいたって言うのに止めずに見ていたんだから、大概役立たずよ。だから、ミリアムが彼らに悪いと思う必要はないの」
顔を上げた私に、イーリスが落ち着き払った態度で首を振る。それでも私の心は、なかなか素直に納得することができなかった。
頭では理解しても、心はどうにも追いつかない。いくら王子と言う立場にあるとは言え、まだ十歳のエイナーにあの騒動の責任を負わせることが本当に正しいのかと言う気持ちが、私の心を重くさせるのだ。
けれど、イーリスが私に見せる態度は変わらなかった。
「ミリアム。あなたは、あなたにできる最善の行動を取っただけ。それを台無しにしたのはライサ自身で、騒動の責任はあの場で最も力を持っていたエイナーにある。これ以上気にしてうじうじするなら、午後のお茶の時間の菓子は全部レナートの胃の中よ?」
「そ、それは嫌です!」
イーリスから飛び出したとんでもない言葉に、私は衝撃を受けた勢いそのままにイーリスに向かって首を振った。
ここ数日のお茶の時間では、私が王城を去ると言うことで、わざわざこれまでに食べた菓子の中で私が好きだと言ったものを用意してくれているのだ。お陰で、私はすっかりお茶の時間を待ち遠しく思うようになっている。
確か今日は、蜂蜜を絡めて固めた胡桃をふんだんに使ったタルトだった筈。それに合う珈琲もレナートが用意すると言ってくれていた。それなのに、肝心の菓子がレナートの胃に収まってしまうのは、私にとっては悪夢に等しい。しかも、今こうして体を動かしているとなれば、きっとお茶の時間の頃にはレナートは常になく空腹になっているに違いなく、問答無用で褒美分の菓子も自分の皿に取り分けるに決まっている。
イーリスは、なんて恐ろしいことを言ってくれるのだろうか。
「じゃあ、この話はこれでおしまい。いいわね?」
「わ……分かりましたっ。もう気にしません。だから、イーリスさんもレナートさんには何も言わないでくださいね!」
菓子の誘惑にあっさり屈してしまったことをエイナーに申し訳ないと思いながらも、それでいいのよとイーリスが笑う姿に、私もようやく、今回のことは私が気に病むことではないのだと、自分自身を納得させることができた気がした。
「それから、今日ここで見たことは誰にも吹聴させないし、見た奴には全力で忘れさせるから、ミリアムは何も心配いらないわ」
付け加えるように言って、急にイーリスの顔に、とてつもなく晴れやかな笑みが広がる。
ただし、綺麗な笑顔を浮かべている割には、何故だか力一杯拳を握り締めながら脇を締め、今にも拳を前方へと突き出しそうな姿勢を取っているのが実に不思議だった。
ついでに、全力で忘れさせる、と言う言葉のおかしさにも首を傾げる。果たして人は、誰かに強制されて物事を忘れることはできただろうか、と。
けれど、目を瞬いてイーリスを眺めていたのは私だけのようで、周囲にいた訓練参加者はイーリスを目にした途端、視線を逸らしたり自分がいた区画へ戻ったりと、慌ただしく動き始めてしまう。
蜘蛛の子を散らすよう、とまではいかないまでも短時間の内に周囲から人がいなくなってしまい、私は思わずイーリスと顔を見合わせた。
「……どうしたんでしょうか、皆さん」
「さあ。訓練の再開でも察知したんじゃないかしらね」
そう言えば、キリアンが訓練を再開させるよう団長に言っていた。その団長は今、レナートを含めた数人と何やら話しているけれど、雰囲気からして、そう長くかかるようなものではなさそうだ。となれば、私がいつまでもこの場に留まっていては迷惑になってしまうだろう。
そんなことを考えながら、私はイーリスに促されるままに一旦その場を離れ、キリアン達が向かったのとは逆側の、立ち並ぶ木が木陰を作っている一角へと足を向けた。同時にイーリスの言った通り騎士団長から訓練再開が告げられて、修練場に再び賑やかさが戻っていく。
その騒めきを背中に聞きながら、私とイーリスは青々と葉を茂らせた木陰に身を滑らせた。途端に、汗ばんでいた体を爽やかな風が冷ましてくれる。ほっと息を吐いてその涼しさを味わっていると、イーリスが私の名を呼んだ。
「ミリアム。さっきはああ言ったけれど……ライサが本当にごめんなさいね。ここでの思い出を一つでも増やしてほしくて見物に誘ったのに、逆に嫌な気持ちにさせてしまったわ」
合同訓練の話を私が聞いたのは、数日前にキリアンやエイナーと昼食を共にしていた時だ。見物に誘われたのもその時で、祈願祭では十分に見られなかったイーリス達の剣を繰る姿を、今度は間近でたっぷり見られるのだと、私がとても楽しみにしていたことを、その場にいたイーリスも見ていた。
きっと、その時のことを思い出しているのだろう。申し訳ないと眉を下げるイーリスに、私は笑って首を振る。
「ライサさんにちゃんと謝罪していただきましたし、それより、エイナー様も騎士を決められているんだと知ることができて凄く嬉しかったので、もう気にしていません」
祈願祭後に急にエイナーが忙しくし始めてしまったのは、恐らくこのことが関係しているのだろう。今日見た訓練着姿のエイナーはすっかり着慣れた様子でもあったので、剣の稽古も、日々頑張っているのかもしれない。
エイナーが忙しくしている理由の一端を知れたことが嬉しくて、私は目を細めた。
「ありがとう。でも、ライサには私からもきつく言っておくわね。普段は、あそこまで無茶苦茶なことをする子ではないのに……」
今日に限ってどうしたことか。ため息交じりにそんなことを呟くイーリスを見て、ふと、オーレンの言葉を思い出す。
全部ハラルドの所為だ、と。オーレンは確かにそう言っていた。
結局、何故ハラルドの所為になるのか、肝心なことはライサが現れた為に聞くことはできていないけれど、そこに、イーリスが言う普段とは違うライサの言動の原因があるような気がする。
「オーレンさんとお話ししていた時に少し聞いたんですけど、ハラルド様がライサさんに何かしてしまったみたいなんです。その所為で、ライサさんが私のことを睨んでいたんだろうって」
「何、あの子ミリアムを睨み付けたの?」
今度はぐっと眉根に力がこもったイーリスが、何故か一緒に拳まで握り締めて宿舎を一睨みする。そうかと思ったら、他には何をされたのかと私に詰め寄るものだから、私はオーレンとの再会からの一連の出来事を、多少掻い摘みながらも一通り語る羽目になってしまった。
「もう、本当にあの子は……。ハラルド殿もなんて大人げないのかしら」
私が話し終えると同時に、イーリスは真っ先に二人に対して唸り、額を押さえた。その口振りからは、ハラルドがライサに対して何をしたのか、その詳細を知っていることが窺える。
じっとイーリスを見上げていれば、小さくないため息を零してイーリスが苦笑した。
「私もオーレンから聞いただけで、その場を実際に見たわけではないのだけれど」
そんな前置きと共に簡潔に語られたのは、確かに大人げのない行為だった。
曰く、ライサの授業で、ハラルドは事ある毎に私のことを引き合いに出していたのだそうだ。お嬢様はこの程度簡単にこなしてしまわれますだの、お嬢様の優雅な身のこなしとは雲泥の差だの、お嬢様はこちらが言わずとも理解されていましただの、お嬢様のようにもっと嫋やかにだの。
しまいにはお嬢様惚気話に脱線してしまうとかで、そんなことを日々言われ続ければ流石のライサも頭にくるだろうし、ハラルドの言うお嬢様が目の前にいれば、こいつが、と初対面にも拘らず睨み付けられるのも頷ける。
「ハラルド様ったら、何てことを……」
ライサに対する申し訳なさに、私も思わず両手で顔を覆ってしまった。
大体、私の礼儀作法は、ハラルドが手放しで褒めちぎるほど完璧ではない。これまでの人生の記憶があるから何とか誤魔化し誤魔化しそう振る舞えているだけで、実際、感情を表に出さないことは、自分ではできているつもりで見事に失敗しているし、豪華な装いには常に緊張を伴ってしまっている。
テーブルマナーにしたって、私が誰かと食事を共にするとなると、必然的に相手が王族になってしまう為にいつも以上に気を張って粗相のないよう気を付けているだけで、レナートとのお茶の時間や普段一人で取る朝食の場では最低限の、相手に不快感を与えない程度のマナーを守ることしかできていない。
そして何より、ハラルドとは祈願祭後に二度ほどしか会っていないのだ。イェルドも同席して、母の話を聞かせてもらう為に。そんなわずかの対面で、まるで私が非の打ち所がない完璧な令嬢であるかのように誇張してライサに話すのは、流石にやりすぎ。全くもっていただけない。
「どうしましょう、イーリスさん。私の所為で、ライサさんがとんでもない被害に……」
ハラルドの目には、私はどれほど立派な貴族の令嬢に見えているのだろう。知りたいような、知りたくないような……。ほっほっほ、とにこやかに笑うハラルドの顔を思い出しながら、私はイーリスに青い顔を向けた。
これで本当にライサが私のことを嫌っていないのだとしたら、それはむしろ奇跡のような気がする。普通、それだけのことをねちねち言い続けられたら初対面で嫌ってもおかしくないし、嫌われた側も文句は言えない。むしろ、二人揃ってハラルドに文句を言いに行っていい。
「今度ハラルド殿にお会いする機会があったら、その時は私が言っておいてあげるわ。あなたのお嬢様が悲しんでいらっしゃいましたって」
「その言い方だと、ハラルド様が私のところに飛んできてしまいそうなので、もう少し穏便にお願いしたいです……」
大変申し訳ございませんでした、と今にも死にそうな顔で私に平身低頭して許しを乞いにやって来るハラルドの姿が容易に想像できて、私は背筋を震わせた。それはそれで、きっと面倒なことにしかならない。
「あら。たまには、ハラルド殿も慌てふためくようなことに巻き込んで差し上げないと。誰かれ構わず孫自慢をする罰よ」
「孫自慢って……。オーレンさんもレナートさんのことを『お兄様』なんて言うし、皆さん面白がり過ぎです。私は、誰の孫でも妹でもありませんよ」
私が頬を膨らませて文句を零せば、イーリスは「あら、残念」と面白がる顔を崩さないままに肩を竦めた。その様子に、思わず私の眉が寄る。
「……残念?」
全くもっていい予感はしないけれど、聞き捨てならない言葉をそのまま放置はできない。イーリス達は一体何を知り、何を私に隠しているのか。
私が下から覗き込むように視線を注ぎ続ければ、観念したようにイーリスが両手を挙げる。
「全然大した話じゃないのよ。ただ、レナートに今度は妹ができたって話は城内では有名でね。彼、あれで意外と世話焼きでしょう? これまでもキリアンやエイナーって言う大きな弟と小さな弟がいたから、ついに妹が! って、皆楽しんじゃって」
「何ですか、それ!」
「いつ、ミリアムがレナートのことを『お兄様』って呼んでくれるか、皆密かに楽しみにしていたのに……。この分じゃ、もう呼んでくれそうにないわね。本当に残念だわ」
頬に手を当てて至極残念そうに語るイーリスに、私は空いた口が塞がらなくなってしまった。
全然大したことではなくないし、一体、いつの間にそんな話が広まっていたのだろう。そして、何を勝手に期待して楽しんでいるのだろう。いや、それよりも皆とは一体どこまでを指すのか。まさか、城勤めをしている人の殆どに知れ渡っていると言うことなのだろうか。
では、これまで城内をレナートと共に歩く度、すれ違う人達は私とレナートの会話に耳をそばだてていたと言うことだろうか。長い時間を過ごすことの多かった図書館では、より皆が注視していたと言うのだろうか。いつ私が、うっかりでもレナートのことを「お兄様」と呼んでしまうだろうかと。
「な……なんてことを……」
「あら。ミリアムは、兄弟ができたと思ったら嬉しくならない? レナートだって、お兄様と呼んであげたら喜ぶかもよ?」
「それは……」
嬉しくないわけではないけれど、あのレナートが、私からそう呼ばれて喜ぶ顔はどうにも想像できない。それに、私自身、冗談でこそ思うことはあっても、レナートのことを兄のように慕えるかと言うと、それもどうにもしっくりこない。
私の中で、レナートはあくまで「騎士様」であって、「お兄様」ではないのだ。強いて言うとすれば、面倒見のいい騎士様、だろうか。
「遊びみたいなものだから、一度くらい言ってみない?」
「……イーリスさん。どうしてそんなに、私に言わせたがるんですか?」
言ってみたら、と言う割に、イーリスからは、私にどうしても言わせたい気配が漂う。何となく不信感を抱いてイーリスの顔を覗き込めば、彼女からは無言のままにわざとらしい笑顔が返って来た。
人がそう言う反応をする時は、大抵ろくなことを考えていない時だ。私のこれまでの人生経験が、それを理解させた。と言うことは――
「もしかして……賭けて、ますか?」
私が、レナートのことをお兄様と呼ぶかどうか。
私の一言に対するイーリスの反応は、無言。私が半眼で睨めば、イーリスにそっと視線を逸らされて、私の予想が当たったことが知れた。
皆が楽しんでいると言っていた時からそこはかとない予感はあったけれど、まさか賭けの対象にしていたなんて。私が、もう、と声を上げれば、イーリスは私を抱き締めて、可愛いんだからと、話を逸らすように笑った。
「話を逸らさないでくださいっ」
そう言って私が頬を膨らませてもイーリスは笑うばかりで、真面目に私の抗議を聞き入れる気配はない。けれど、そうやって笑うイーリスを見ている内に、私の口からも自然と笑い声が零れ出ていた。
そうして、一時二人で笑い合う。
風にそよぐ葉擦れの音も実に心地よく、こうして自由に王城で過ごせる時間があとわずかであることに、ほんの少しばかり私の胸を寂しさが過った。
王城を辞してしまっても、それで会えなくなるわけではないし、これからは手紙のやり取りと言う別の楽しみもできる。けれど、私が王城にいる間にもっと、遠慮せずにイーリスに声を掛けて一緒に過ごす時間を作ればよかったと、この時になって初めて後悔も湧いた。その後悔に押されるように、私の手がイーリスのそれに触れる。
「あの、イーリスさん――」
けれど、言いかけた私の言葉は、城門方面で突然湧いた、ただごとではない気配に気を取られて萎んでしまった。