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優しい現実

「……私は、皆さんに迷惑をかけて、その手を煩わせましたっ」

「生憎、俺はミリアムに迷惑をかけられた覚えも、手を煩わされた覚えもないが? 他の奴だって、誰一人そんなこと思っちゃいないぞ」


 勢い込んだ初手からあっさり言い返されて、私は早速、ぐ、と言葉を詰まらせた。けれど、この程度で言い負かされるわけにはいかない。


「わ、私はレナートさんの言いつけを守りませんでしたっ」


 変なことを考えるなと、思考に囚われるなと言われたのに、私はあの時嘘をついた。レナートはそれを見透かして、呆れていた筈だ。何度言っても言うことを聞けない、どうしようもない奴だと。


「……何かを言いつけた覚えもないんだが? と言うか、いつのことだ、それは」

「と、図書館、で……」


 これならどうだと放った筈だったのに、レナートからは予想とは違う呆れた一言が返って来て、拍子抜けした私は思わず素直に答えてしまった。直後に後悔したけれど、レナートにこれ見よがしにため息を吐かれて、反対に苛立ちが増す。


「わ、私に愛想を尽かしたじゃないですか!」

「思い込んだら、とことん悪い方に受け取るな、君は。悪いが、俺は愛想を尽かした相手にこんなことをしてやれるほど、お人好しにはできてないぞ」


 これもあっさり反論されて、私は再度言葉に詰まった。けれど、ここで言葉を続けなければ、私はレナートに言い負かされたことになってしまう。レナートが正しいのだと証明してしまう。それだけは嫌で、私はむきになって次の言葉を探した。


「ほ……他にも! 私のことを部屋まで運ばせましたっ」

「大人しく運ばれてくれた方が助かると言わなかったか? 勝手に記憶を改竄するなよ」

「へ……部屋の鏡台も花瓶も壊して、滅茶苦茶に……」

「あの時のミリアムは、錯乱した状態だった。君自身がやりたくてやったわけでもないものにまで、君が責任を感じてどうする」

「で、でも、王城のものです! 高価なものを私は――」

「君の命に比べたら安い」


 命。

 その一言に、今度こそ私は何も言えなくなった。首に痛みが走った錯覚に体がぶるりと震え、改めて自分のやったことの恐ろしさにぞっとする。


「あの時は肝が冷えたが、君が今こうして無事でいてくれて本当に嬉しいよ、ミリアム」


 レナートが、一際強く私を抱き締める。その強さは、レナートが私の無事に心から安堵し、私が生きていることを心から喜んでいるのだと言うことを、明確に私に伝えるもので。

 同時に、どんなに否定しようとも、どうしたって私はレナートの言う通り、とんでもなくおかしな勘違いをして思い込んで変な方向に考えを突っ走らせていたのだと言うことを思い知らせるものでもあって、不覚にもまた視界が滲んだ。

 そして私は、とうとう降参するようにレナートの肩に額を押し付けた。これ以上、どんなに私が言葉を連ねたとしても、それはきっと、私の馬鹿な発言にしかならないと分かるから。

 代わりに私の口からは、言うつもりのなかった疑問が思わず零れる。


「……どうして……」


 どうして、そこまで私の無事を喜んでくれるのか。こんなに言うのに、呆れて突き放さないのか。どこまでも優しいのか。

 レナートは彼自身をお人好しではないと言ったけれど、私には十分お人好しに感じられる。こんなどうしようもない人間に優しくするなんて、それ以外に彼のことを言い表す言葉が見つからない。


「逆に聞くが、ミリアムはどうしてだと思う?」

「……分かりません」

「本当に?」


 そう問われても、分からないものは分からない。いや、本当は、思い当たることがないわけではない。ただ、それをレナートに正直に伝えたくないだけだ。

 私が、エイナーの命の恩人だから。エイナー誘拐犯を捕まえるのに使えるから。エステル・カルネアーデの娘だから。泉の乙女だから。レナートの騎士としての、護衛としての務めだから。キリアンの命令だから。レナートの家が保護を決めた子供だから――

 これまで誰にも顧みられなかった私が手の平を返したように周囲から優しくされるなんて、そんな理由でもなければあり得ないことくらい、理解している。けれど、それを口にしてしまえば、目を背けていたものに嫌でも目を向けなければいけなくなる。


 これまでのエリューガルでの楽しかった日々は、私の肩書の為であってミリアム(わたし)の為のものではないのだと。私のような無意味な存在に幸せが訪れるわけがないのだから、勘違いをするなと。

 結局、どこまで行っても私は一人。十歳でこれまでの人生の記憶を思い出し、人とは違うことを自覚し、何もできないまま、いずれ王太子を巻き込んで死ぬ。そして繰り返す。そこに幸せなんて必要ない。

 折角、この人生では何かが変えられるかもしれないと思ったのに、そのことを嫌でも思い知らされる。それが、堪らなく怖いのだ。


「……俺がここまで言って、どうしてまだおかしな考えにばかり突っ走るんだ、ミリアムは」

「わ! 私、何も言ってませんっ!」


 まるで私の心の内を見透かしたようにレナートが断定するものだから、私は心臓が飛び出るかと思うほどに驚いた。

 うっかり驚きに比例した大声を上げてしまったことに咄嗟に口元に手を当てるけれど、そんな私に対してレナートから聞こえたのは、ただ空気が抜けるような小さな笑い声だけ。


「言わなくても分かるさ。君が黙っている時は、大抵ろくなことを考えていない。ミリアムは、歳に似合わず知恵も知識もあって賢いのに、こう言うことにはとことん馬鹿だな」


 そして、まさかの辛辣な一言。


「ば……っ!?」


 絶句する私を、レナートが肩を震わせながら更に笑う。そして、私を抱いていた腕をゆっくりと解くと、私の瞳を正面から覗き込んできた。

 こうやって間近にレナートの顔と見合うのは、何度目だろうか。高い位置から差し込む日の光は一段とレナートの青い瞳を鮮やかに見せて、まるで一流の職人の手によって研磨された宝石のようだった。そして、何もかもを見透かしてしまいそうなその色彩が、優しく微笑む。


「俺達が君を大切に思うのは、君がミリアムだからに決まっているだろう」


 静かに、けれどはっきりと告げられた一言に、私は息が止まるかと思った。思わず目を見開いて、自分の耳を疑う。

 今、レナートは何を口にしたのかと。


「……わ、たし……?」


 無意識に零れた呟きに、レナートが「ああ」と頷く。

 アルグライスでは誰からも手を差し伸べられなかった私のことを、エリューガルで出会った人達は、いとも簡単に大切だと言う。

 それも、命の恩人でもなく、エステルの娘でもなく、泉の乙女でもなく――ミリアム(わたし)だからだと。

 レナートからもたらされた答えは、私を呆然とさせた。言葉の意味は理解できるのに、あまりに思いもしない言葉だったものだから、実感が伴わずにふわふわとして捉えどころがなく、どう受け取っていいのか分からない。ただ、不思議とレナートの言葉を疑うなんて気持ちが微塵もないことだけは、はっきりとしていた。


「優しくて、真っ直ぐで、素直で、生きることに懸命で……強い。そんなミリアムだから、俺達は皆、君のことが好きで、君の為にこの手を差し伸べたいと思うんじゃないか。それ以外に、理由があると思うのか?」


 レナートに両手を取られ、その大きな手ですっぽりと覆うように包まれる。


「言っておくが、第二王子の恩人だの泉の乙女だの、そんな肩書、ミリアムがミリアムであることの前には、何一つ重要じゃないからな」


 レナートの体温をじんわりと感じるように、言葉が体に染み込んでいく。同時に、私の視界はしっとりと濡れていった。それなのに、レナートが満足そうに笑うのだけは妙にはっきりと見えて、私は嬉しいのか悔しいのかその両方なのか、ぐちゃぐちゃな感情を抱えたまま声を張る。


「何でっ、笑うんですかっ」

「そりゃあ、ミリアムが喜んでいるからだろう?」

「よ、喜んでません! 泣いてるんです!」

「ミリアムが泣くのは嬉しい時だってことくらい、皆知ってる」

「嬉しそうなのは、そっちのくせに!」

「当然だろう。ミリアムが喜んでくれて、嬉しくないわけがない」

「なん……っ」


 ずぶ濡れの視界の中、言葉を失い大粒の涙と共に大きくしゃくり上げたところで、私は再びレナートに抱き締められた。その手が私の頭に触れ背を撫でる度に、ミリアム(わたし)の全てを肯定するレナートの優しさを感じ取って一層涙が溢れ、私はされるがままに彼の優しさを享受する。

 抱き締めて、撫でられる。こんな些細なことでも抱えきれないほどの幸せを感じて安心してしまう自分がおかしくて、嬉しくて。これまでの皆の優しさを疑っていた自分が情けなくて、馬鹿らしくて。あの幸せな日々がまやかしにならないことに、とてつもない喜びを感じて。

 心のどこかでは、私にとって大切な何かを忘れているような喪失感があったけれど、それはすぐにレナートから与えられる幸せに埋もれて、気にならなくなった。


「ミリアム。この先、何があっても疑うな。君を大切に思う人間は、君の周りにたくさんいる。誰も、君のことを否定しない。君は君のままでいいし、一人きりでもないんだ。迷ったなら、悩んだなら、必ず手を伸ばせ。声を上げろ。必ず俺達はそれに応える。……それだけは、絶対に忘れてくれるなよ」


 一言一言を強く言い聞かせ、最後にもう一度私と視線を合わせたレナートは、私に「いいな」と念を押してくる。

 レナートの言葉を反芻し、心に刻む度に涙を溢れさせながらも、レナートがあまりに真剣な表情をこちらに向けるものだから、私も涙を拭ってレナートを見つめ返し、はっきりと頷いた。

 この先、皆の優しさを疑うことのないよう、女神に誓うような気持ちで、神妙に――


「……はい。絶対に、忘れません」


 その、筈で。それなのにレナートは、私が頷いたのを見るや、途端に真剣さをどこかに放り捨て、にやりと言う表現が当て嵌まる悪戯な笑みをその口に灯していた。


「言ったな?」

「い、言いました……」


 何だろう。

 レナートの性格を考えても、これまでの話を冗談や嘘で覆すつもりでないことだけは確かだろうけれど、突然表情を変えたその意図は、私には全く分からない。

 その時、部屋の一角から、かたりと物音がした。次いで、レナートと私しかいない筈なのに、誰かが慌てたような気配も。

 そこでようやく、私はこの部屋が城のどこにある部屋なのかをまだ知らないことを思い出し、改めてレナートから部屋の四方へと首を巡らせた。


 目覚めた時に見た白い天井に、白い壁紙。部屋の調度も淡い色味で統一されて温かみがあるのに、各所にふんだんに使われた白大理石が存在を主張して、これまで寝起きしていた部屋よりも一段と豪華な部屋であることが分かる。部屋の中に明かりを取り込むのは、一面の壁半分ほどを占める大きな出窓。今はレースのカーテンまでタッセルでまとめられているお陰で、部屋の中は白色が輝くほどに明るい。出窓からわずかな壁を挟んだ向こうには外へ出られる両開きの扉もあり、その先にはテラス――ではなく、緑溢れる()()が広がっていた。


「……え」


 景色の中に見覚えのありすぎるガゼボを見つけ、池を見つけ、更にその手前に設置されたテーブルに、優雅に座ってこちらを窺う人の姿があることに気付いたところで、私は首を軋ませながらレナートへと視線を戻した。

 壮齢の紳士と目が合い微笑まれたのは、気の所為だと思いたい。そして、実に楽しそうな笑みを浮かべたレナートの顔が、急に憎らしく思えてくるのも気の所為だろうか。――いや、こちらは絶対に気の所為ではないだろう。


「そうか、まだ言っていなかったな」


 おまけに、わざとらしく今頃思い出したと、この部屋へ移った経緯だのなんだのの説明を始めるものだから、私は握った両拳でぽかぽかとレナートの胸を叩いた。

 私の状態と残りの王城滞在日数を考慮してこの部屋を整えてもらっただとか、元の部屋にあったものは全てこちらに移してあるだとか、レナートの部屋は向かいに用意されているだとか、確かに説明はありがたいけれど、今の私にとって重要なのはそんなことではない。


「し、知ってましたねレナートさん! イェルド様がいらっしゃるの! もしかして……全部見られていたんですかっ!?」


 私が跳ね起きてレナートに謝罪するところから、抱き締められて言い負かされ、しまいには大泣きしてしまったところまでの、一部始終。

 遮るもののない窓は、外の景色がよく見える。言い換えれば、外からも中の様子がよく見えると言うわけで。庭園にいるイェルドは、普通の声量で話す分には声が届くことのない距離にいるけれど、私は何度声を張ったか知れない。しかも、何故か庭園へ続く扉は開け放たれている。そこから爽やかな風が出入りしているのは実に清々しく心地いいけれど、今の私には何の慰めにもならないどころか、現実を突き付ける無情な光景だ。


「陛下もこちらにいらしていたのか……それは知らなかったな」


 外を見て、レナートが意外そうに目を瞬かせる。けれど、私にはまたしてもわざとらしい態度にしか見えなかった。私の位置から姿がはっきり見えるのに、この部屋にずっといたレナートが気付いていない筈がないではないか。


「う……嘘つきっ」


 息をするように嘘をつくレナートのその顔に向かって、私は手繰り寄せた枕を思い切り叩き付けた。枕は、ぼふんと間抜けな音と共にレナートの手に呆気なく捕獲され、舞った埃が日の光を反射してきらきらと輝く。

 相変わらずのレナートの笑顔がその光に装飾されて憎らしさが倍増し、私はぶつけそこなった感情を改めて拳に込めてレナートに向けた。けれど、今度のそれは柔らかく受け止められ、悪戯は終いだと言うように膝の上に強制的に戻されてしまう。


「残念ながら、嘘じゃない。俺が知っているのは、少なくとも君と俺の会話を聞いていたのは陛下ではない、と言うことくらいだ」

「……へ?」


 そして、少しばかり真面目に戻った口調と態度でさらりと告げられた一言は、私の思考を停止させるのに十分な威力で。ぽかんとする私を、レナートが何故か脇へと体をずらしながらも、おかしそうに見下ろす。

 ちょっと待って。どう言うこと――そんな言葉が私の口から出るより先に、開け放たれていた扉の陰から何かが飛び出してくる。それは一直線に私の元へ駆けて来て、ベッドに飛び込むように私に飛びついた。


「――ミリアムっ!」


 反射的にその小さな体を抱き留めた私は、更に扉の向こうから見知った人達が次々と顔を出すのに唖然とする。

 キリアン、イーリス、ラーシュにテレシア。

 レナートと二人だけだった筈の部屋が途端に人で溢れ、私が正式にこの国に受け入れられたあの日を彷彿とさせる光景が、目の前に広がった。


「レ、ナート、さん……? これは……」


 エイナーの勢いに負けてベッドに倒れ込んでしまわないよう私の背を支え、ついでに私の投げた枕を背に宛がってくれているレナートを恐る恐る窺えば、彼からは、さあ、ととぼけた返事が寄越される。


「俺がイーリスから聞いたのは、殿下方が庭園で昼食を取ることになったと言うことだけだ」


 レナートの視線を辿って、私もイーリスを見やる。イーリスは出窓に一番近い位置から私に優しく微笑みかけてくれていて、その表情のまま、私の視線を受けて軽く肩を竦めた。


「お二人が食事を始めてすぐに、この部屋で大きな声がしたものだから」


 同意を求めるように、イーリスが最も扉に近い位置にいるラーシュを捉える。


「エイナー様が、慌てて駆け出してしまわれて」


 そう言いながら、ラーシュが私の腕の中にいるエイナーを見つめる。同時に、ぐず、と鼻をすする小さな音が耳を掠めて、私の肩口に埋められていた頭が持ち上がった。


「だって、ミリアムに何かあったんじゃないかって心配で……。それなのに、兄上が駄目だって止めるんだ」


 大きな夕日色の瞳が恨みがましく背後のキリアンを見上げて、頬を膨らませる。それにつられて私も顔を上げれば、何とも気まずそうなキリアンと目が合った。


「済まない、ミリアム。すぐにエイナーを連れて戻るつもりで、決して二人の会話を盗み聞きするつもりはなかったのだ。ただ……」


 キリアンは歯切れ悪く言葉を途切れさせて、一度、私から視線を逸らす。


「あなたが、迷惑をかけただの手を煩わせただのと、おかしなことを口にするものだから……」


 いつもの悪い癖が出たと思って、レナートに対処できそうになければ割って入るつもりで留まってしまった。

 そう酷く申し訳なさそうに告げられたけれど、要は王子二人が、理由はどうあれ開け放った扉のそばに留まり続けてしまった為に護衛までその場に待機せざるを得ず、そのまま聞こえてくる会話を全員ですっかり聞いてしまったと言うことに他ならない。

 テレシアまでこの場にいることの説明はなかったけれど、給仕をする相手が離席してしまった上なかなか戻って来ないものだから、ついでに来てしまったと言うところなのだろう。彼女の性格を考えれば、十分あり得ることだ。

 そして、そのことをレナートは気付いていた。気付いていて、素知らぬ振りで私との会話を続けたのだ。

 そう言えば、途中からレナートの使う人称が複数になっていた。あれは単に、レナートだけがそう思っているのではないと私に分かりやすく示す為だと思っていたけれど、この様子では、この場にいる全員の気持ちを代弁する意味もあったのだろう。


 目覚めてからこれまでのレナートと交わした会話が一瞬にして脳裏を駆け巡り、一様に優しさのこもった視線が注がれている現状を認識した私は、途端に駆け上る羞恥に全身を染めた。あまりのことに全身から汗まで噴き出して、体の熱さに目が回る。油断をすれば倒れそうだ。

 そんな私を間近で見つめるエイナーが、恐らくは熟れた林檎よりも真っ赤になっているだろう私の顔を見て、何かを思いついたように大きな瞳を瞬かせた。かと思ったら、見る者全てが見惚れるような幸せの詰まった笑みを咲かせ、


「僕はミリアムのこと、すっごく大好きだからね。忘れないで」


 私の頬に何か柔らかなものが一瞬触れて、去って行く。

 そうして笑顔のままラーシュの元へと戻っていくエイナーの後ろ姿を呆然と見送って一拍後、私は確かに、自分の顔からぼん、と湯気が噴き出る音を聞いた。

 同時に部屋の中が騒然とした気がするけれど、エイナーの「大好き」と言う言葉と「それ」が触れた頬の熱さばかりが頭を占めてしまった私には、他を気にする余裕はない。


 好き、だなんて。


 母が死んでからの私には、誰からも言ってもらえることのない言葉だと思っていた。たとえ私がその言葉を口にしても、返ってくることのない言葉だと。望むべきではないのだと。レイラに対して簡単に口にできたのは、彼女が人ではなく馬だったから。

 それなのに。

 ベッドに付いた手の上に、止まっていた筈の涙が俯いた私の顔から止めどなく流れ落ちる。大泣きする出来事は祈願祭の日で打ち止めだろうと思っていたのに、一度溢れ出た涙は呆れるほどに止まってくれない。けれど、そのことにどうしようもない幸せを感じてしまっている自分がいるのだから、なおさら始末に負えなかった。

 心の片隅から、もっと泣いてしまえと、そんな声まで聞こえてくる。甘えてしまえと、囁かれる。その度に私の目尻からは涙が溢れ、そんな私を、今日だけですっかり慣れてしまったレナートの手が、あやすように撫でてくれた。そうしながら、レナートが囁くように私へと問う。


「……ミリアムは、どうなんだ?」


 泣いていることが最早答えのようではあるけれど、それでも問うてくる。

 私は、どう思っているのか。ここにいる、私がエリューガルで出会った人達のことを。ただのミリアムを好きだと言ってくれる、優しい人達のことを――

 そんなの、考えるまでもない。

 私は、涙に塗れてみっともなくなっているだろう顔を、それでもしっかりと上げた。私もその言葉を口にしていいのだと、レナートの手に勇気付けられながら。

 何より、あれだけの言葉を貰って、貰いっぱなしで一つも返さないなんて、そんなことができるわけがない。

 だから、ひくつく喉を叱咤して口を開く。


「わ……私も、皆さん、が……大好き、です……っ」


 嗚咽交じりの私の声は、自分でも情けないほど涙で震えていた。それでも私の声がちゃんと届いたことは、頑張ったなと頭を撫でるレナートの手と、私の瞳に映るたくさんの笑顔が確かに証明してくれて。

 その光景に、私の頬も自然と緩む。誰からともなく顔を見合わせ、笑顔を交わし、そうして一時、部屋は穏やかな笑みで満ちた。


 私の涙は――いつの間にか、止まっていた。


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