紅い夢、微睡みの中、そして
どこからか、微かな水音が聞こえる。
ひたひたと体中を包み、全身に染み込んでいくようなその音に誘われるように、私はそっと瞼を押し上げた。
見えたのは、星の瞬きさえもない、暗い空。
痛いほどの静寂の中、身動いだ私の耳にちゃぷりと水音が届く。横たえていた体をゆるりと起こせば、暗い空だけだった世界に赤が混じった。仄かに光を放ってどこまでも広がる、赤く、紅い水。私はそのただ中にぽつんと一人、存在していた。
私が動く度に水音が発生しては、周囲に波紋を広げて消えて行く。けれど、不思議と私の体が濡れる感覚はなくて。ぼんやりとする頭で周囲を見渡した私は、「ああ、これは夢だ」と、素直にそう思った。
ふと、私は自分の首に手を当てる。特に、何を思ったわけでもない。けれど、気付いた時には私の指はそこに触れていて、傷一つない、さらりとした肌の感触が指の腹を滑っていく。
(……失敗、したんだ)
唐突に、そんな思いが過る。
そう思ってから、私は首を傾げた。私は、何を失敗したのだろう。そもそも、何をしようとしていたのだろう。
私の動きに従って、水音がまた、ちゃぷりと世界に小さく響く。
その音に惹かれて、私は座り込んだ姿勢のままで紅い水を覗き込んだ。そっと手を伸ばして、水面に触れてみる。冷やりとした水の感触が触れた先から伝わって来るのに、不思議なことに、私の手は水の中には決して沈んで行かなかった。当然、濡れる感覚もない。
摩訶不思議な紅い水にゆるりと目を瞬いて、私は何気なく水面の表面を撫でた。撫でる動きに次々波紋が生まれて広がり、水面が揺れる。そこに映り込んだ私の姿も揺れ――
「――っ!」
私は慌てて手を引いた。水面の私に、鏡の砕ける様が重なる。
私が砕け、世界が砕け、最後に光も消え去って、あとには何も残らない。ぞっとするような光景が、私の脳裏を駆け抜けた。
反射的に胸元に手を引き寄せ、ぎゅっと握り込む。無意識に体が震え、私は体を縮めて目を閉じた。
(……怖い……)
私が砕け、世界が砕ける。その光景を追い出すように殊更きつく目を瞑り、私は心の中でゆっくり数を数え始める。そうすれば、怖いものも痛いものも、必ず消え去ってくれることを私は知っているから。
一つ、二つ、三つ――十まで数えたところで、私はそろりと目を開けた。
紅い水面は再び鏡のように静まり返り、音もなく、動きもない、静寂の世界がそこに戻っていた。
それを見て、私の口から安堵の吐息が零れ出る。ほら、大丈夫だったでしょう、と誰へともなく心の中で自慢げに呟いて、不意に寂しさに襲われた。
(寂しい……? どうして、そんなこと)
もうずっとずっと長い間一人の私は、そんな感情とは無縁の筈なのに。
不思議に思って私がもう一度首を傾げた時、わずかに足に痛みが走った。それと同時に、何かに強く締め付けられる感覚がたちまち足首を覆って、痛みを強く知覚させる。
(何が……?)
そっとスカートをたくし上げれば、そこに見えたのは私の両足に絡み付く、暗い空と同色の蔦。あるいは木の根のような、悍ましい何か。紅い水面から生えたそれが私の足を這うように絡み付き、蛇のようにきつくきつく締め上げていた。
驚き慌てて足を引き抜こうとしても、蔦は微塵も私の足を離さない。焦った私が蔦を掴めば、蔦は新たな獲物を見つけたように嬉々として私の腕を這い上がった。
「嫌っ!」
腕を振り上げ、蔦を振り切る。腕を追い掛けて伸び上がった蔦はしばらく空中を彷徨って、けれど行く先を失ったことを悲しむように、縮んで消えた。
それでも、私の心は休まらない。
蔦の絡み付く場所が、次第に冷たさに覆われる。わずかの時間触れた手も氷のように冷たくなって、全身から熱が奪われる。
何度藻掻いても足掻いても、蔦にきつく搦め取られた足は抜けない。焦れば焦るほど私は何もできずに、紅い水面に這いつくばった。
寒い。冷たい。足首の感覚はもうなくて、膝から下は棒のよう。手も悴んで、まるで力が入らない。
(助けて……)
心の中で、思わず祈る。けれど、たった一人の私の祈りはどこに届くものでもない。声に出さない祈りを聞き届ける先が、ある筈もない。それでも私は、声に出せない。出したところで誰にも届かない祈りほど虚しいものはないのだと、嫌と言うほど分かっているから。
私を助けてくれる「誰か」なんて、夢の中でさえ一人だっていやしないもの。
吐く息が白い。黒と紅だけの世界に、一瞬だけの靄がかかる。
(そう言えば、これまでに凍死なんて、したことあったっけ……?)
蔦から逃れることを諦めて、私は不意に、そんなおかしなことを思う。
どの人生でも、必ず最後は誰かに殺されて終わっていた。凍死なんて時間のかかる綺麗な死に方、一度だってした筈がない。何よりアルグライスは温暖な国。雪は降っても、長く降り積もることはない。浮浪児だって、ほんの少し工夫する頭さえあれば、凍死をせずにレーの季節を乗り越えられた。
夢で凍死を体験できるなんて、それはそれで貴重かもしれない。
「本当に、おかしな夢……」
私は自分の考えに笑って、目を細めた。
(――ああ、でも……エリューガルには、凍ったまま解けない滝があるんだっけ)
エインゼルツの氷瀑……確か、そんな名前の。
そんな滝があるこの国なら、氷漬け、なんて死に方もあるかもしれない。それはそれで、単に凍死するより、もっと綺麗に死ねたりしないだろうか。
私のそんな馬鹿な思いを夢が汲んだのか、その時、何の変哲もなかった世界に一片、白いものが舞い落ちてきた。
それは私の凍え切った手の平に落ちて、何故か解けずにふわふわ揺れた。壊してしまわないよう優しく握れば、雪のように白いのに、綿毛のような仄かな温もりが伝わって来て。
(……温かい……)
その温かさに身を委ねるように、私はゆっくり目を閉じた。
凍えて死ぬのは、やっぱり少し嫌かもしれない――そんなことを思いながら、早く夢から覚めますようにと、そう、願った。
◇
あれから、どれほど経っただろう。
一度だけ、何かに呼ばれた気がして薄っすら開いた視界はいつの間にか白い綿毛で埋まっていて、暗い空も紅い水も、もうどこにも見えなくなっていた。
温かくて柔らかくて、穏やかな匂いに包まれて、そのまま今度は優しい夢を見たような気がする。
それからのことは曖昧で、夢なのか現実なのか定かではない。
誰かに名前を呼ばれたような気もするし、誰かが何度か水を飲ませてくれたような気もする。どうしてそんなことをしてくれるのか、されているのかは分からなかったけれど、ただ、名を呼ぶ声も水を差し出してくれる手つきも優しくて、それだけで他のことは何一つ気にならなくなったことだけは、ぼんやりと覚えている。
他に覚えているのは、お母様に頭を撫でられた、懐かしくて嬉しい夢。気持ちがよくて、幸せで、小さな子供の頃に戻ったみたいで。私はずっと撫でていてほしかったのに途中で手が離れていくものだから、引き留めるように思わず強請ってしまったら、仕方がないなともう一度、今度はうんと長く撫でてくれた。
欲を言えばいつもみたいに抱き締めてもほしかったけれど、我が儘を言ったらこの幸せな夢が終わってしまう気がして。だから私は撫でられているこの幸せに浸りながら、私が眠ってしまうまでお母様に撫でていてもらえますようにと願った。
そうして、夢の中でまた眠りに落ちて――それから。温かな太陽の光を瞼の裏に、緩やかに吹く風を頬に、そして誰かの話し声と扉が閉まる音を耳に感じたところで、私は長い微睡みからようやく目を覚ましたのだった。
*
目を開けて、初めに感じたのは違和感。白い天井に白い壁紙、窓を彩る露草色のカーテン。まずそれだけで、そこがいつもの私の部屋ではないのだと、寝起きの上手く働かない頭でも分かった。
では、ここはどこだろう。
温かな布団に包まれたまま、差し込む光で明るい部屋の、精緻な天井装飾を辿るように顔を横へ巡らせたところで足音が近付いてきて、私は斜めに傾いだ視界の中に見知った人の顔を見つける。
一瞬驚いたように目を瞠ったその人は、次にはいつものように柔らかく微笑んで、私の枕元までやって来た。
「おはよう、ミリアム」
「お、はよう……ございます……?」
あまりに現実感のない光景に、自然と語尾が上がる。そのまま私はぽけっと口を開いて瞬き、私を見下ろすその人を見上げるしかできなかった。何でだとかどうしてだとか、目が覚める前からの繋がらない記憶に混乱して、疑問ばかりが私の頭を巡る。
けれど、それも枕元に据えられた椅子にその人が腰掛けるまでだった。
「俺が、分かるか?」
私の頬にかかる髪をそっと払い、そのまま頬に手を添えながら問われて、何故そんなことを聞かれるのだろうと過った疑問に既視感を感じながらも、私は素直に口を開く。
「レナートさん……です」
金の髪に青の目。私のよく知る人。騎士様。私の護衛をしてくれている人。私の――
「……よかった」
その瞬間。
私の取り留めのない思考が吹き飛び、レナートの安堵の表情がいつか見た光景と重った。
図書館、雷、怒声、私の部屋、鏡、そして――
「――っ!」
一気に雪崩れ込む記憶に跳ね起き、私はベッドの上で勢いよくレナートへ向けて体を折った。
「も……申し訳ありませんでした!」
自分がやってしまったことがまざまざと思い出されて、体が震える。
やってしまった。あんな、大勢の前で。迷惑を。いや、あれは迷惑なんて一言では言い表せないほどに醜悪で最悪で、全てを踏み躙る最低な行為だった。
どうして、私はあんな行動に出てしまったのか。今まで、一度だってそんなことをしようと考えたことなんてなかったのに。それに、もしもあの時レナートが間に合わなければ、止めてくれなければ、私は。
そこまで考えて、ひくりと動いたその喉に確かな包帯の感触があることに、私は更に青褪めた。私は、また手を煩わせたのだ。これまでに数え切れないくらい煩わせておいて、それでもまだ飽き足らず、しかも最悪な形でこんなこと。
ついさっきまで私を包んでくれていた布団はあんなに温かかったのに、今は歯の根も合わないほどに全身が冷たい。
不意にレナートが動く気配がして、私は反射的に身を竦めた。
冷たく詰られるのか、罵声が飛ぶのか、それとも殴られるのか。その時を覚悟してきつく目を瞑った私には、けれど、薄い夜着の上からショールが掛けられただけで、予想していたような展開がやって来ることはなかった。
薄く開いた視界の端に見えたショールは、これまでいつも私が寝るまでの間に使用していたもので、馴染んだ温かさに少しだけ体の強張りが解ける。
「ミリアム」
レナートの柔らかな声が、囁くように私の名を呼ぶ。顔を上げてほしいと乞うようなその優しい声音に、私はおずおずと体を起こした。それでも顔を上げることはできず、ショールを胸元に手繰り寄せて、その合わせ目に視線を落とす。
「驚かせてしまって悪かったな。気分が悪かったり、体が怠かったりはしていないか?」
その表情は見えないのに、聞こえてくる声だけで、レナートが優しい眼差しで私を見ているだろうことが分かった。だから、余計に私はその顔を上げられない。
あれだけの迷惑をかけてその手を煩わせて、もう、とうに愛想を尽かしているだろうに、怒ることもなくどこまでも優しいことが、逆に私の胸を締め付ける。
「どこか体に不調を感じるところがあれば、教えてくれ」
俯いたままの私の頬に、そっとレナートの指の背が触れる。無理に顔を上げさせようと言うのではなく、ただ私に返答を促すように頬を撫でるその動きに、私は躊躇いがちに、ありません、と掠れる小声で答えた。そうすれば、途端にレナートが破顔する気配が伝わって来て、よくできましたと幼い子供を褒めるように頭を撫でられる。
その感触は母に撫でられた夢を思い出させて、どうしようもなく私の顔が歪んだ。
どうしてレナートは、こんなにも優しくしてくれるのだろう。その理由が私には分からず、レナートに対して言うべき言葉も見つからず、ただ深く顔を俯けて彼の姿を視界から締め出すしかできない。
いっそ冷たく突き放してくれたら、どんなに楽だろうか。そんなことも頭を過ったけれど、いざレナートからそんなことをされたらと思うと、想像だけでぞっとした。これまで屋敷であの男に振るわれた暴力の、何十倍もの痛みが胸に刺さって苦しくなる。それでも、理由も分からずレナートにただ優しくされることも辛い。
想像の痛みに耐えるように殊更きつくショールを握り締めたところで、急に私の視界が陰った。ベッドが沈んで体がわずかに傾ぎ、頭と肩が何かに優しく押し付けられる。ショールを握り締めていた私の両手は、その何かと私の体の間に挟まれて、すっかり身動きが取れない。
「な……」
何が、と言う言葉は、私の背中に覚えのある感触が触れていることに気付いて、途中で消えた。知っている香りが鼻腔をくすぐり、上げた顔に見慣れた騎士服の肩口が見えて、私は反射的に身を引いてしまう。けれど、それは逆に相手に力を込めさせて、一層自分の動きを封じることに繋がった。
「あ、あの……っ」
情けなく裏返った私の声に耳のすぐそばでくぐもった笑い声が聞こえて、私の顔に熱が駆け上る。目を覚ましてからの状況もレナートの態度にも疑問しか湧いていなかったのに、輪をかけた混乱が私を襲って、もうわけが分からない。
これは新手の嫌がらせだろうかと言うおかしな考えまで過って、意味もなく視界が滲んだ。
「なん、でっ」
何故か声まで上擦って、上手く出せない。その上、レナートに背中を優しく撫でられて、ますます私の視界が悪くなる。
「今のミリアムには、言葉より態度で示した方が伝わるだろうと思って。どうせまた一人で、とんでもなくおかしな勘違いをして思い込んで変な方向に考えを突っ走らせて、俺の言葉を素直に聞く気はないんだろう?」
「か、勘違いなんか、してませんっ」
「どうだか」
子供をあやすのにも似た声音は、混乱が高まりすぎた私の中に唐突に苛立ちを生んだ。私に対する散々な言いようもそうだけれど、態度で示されても伝わるものがあるどころかますます困惑するだけなのに、さも自分は正しいと言いたげなレナートの言い方全てに、無性に腹が立つ。
こうなったら、私が勘違いをしていないことを突き付けて、レナートが正しくないことを教えてやらなければ気が済まない。私を子供だと思って馬鹿にしているなら、その認識も改めさせてやる。
拳を握り締め、私はつい今しがたまで混乱と動揺のただ中にあったことをすっかりどこかに置き去って、いつの間にか乾いた瞳に力を込めた。