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優しい護衛

「――アム……ミリアム」


 誰かが私の名を呼ぶ声に、私の意識は思考の渦の中から引き上げられた。なかなか焦点を合わせられずにぼんやりとした視界に、こちらを覗き込む顔が徐々に見えてくる。

 ふわりとした金の髪に、深い青の瞳。やけに間近に見えるその輪郭を捉えて、私は疑問符を浮かべながら一度瞬いた。


「ミリアム!」


 気遣う色の強い声が再度はっきり私の名を呼び、私の中で何かが弾ける。途端に、雨音、足音、話し声――様々な音が私の中に雪崩れ込んで来た。明瞭になった視界が、あまりに近い距離にあるレナートの存在を私に知らせて、肩が跳ねる。


「レ、ナートさんっ!」


 咄嗟にその距離を開けようとしたけれど、何故かわずかもその位置は変わらず。むしろ、その場に引き留める力を感じて、私は今一度瞬いた。

 不思議に思ってよく見れば、私はいつの間にか踏み台に腰掛けさせられ、頬をレナートの両手に柔らかく包み込まれていた。直に触れるレナートの少し骨張った長い指と大きな手の平の感触に、一拍遅れて、私の顔にわけもなく熱が集まる。


「な、なな、なんで……っ?」


 何がどうして、こんなことになっているのか。

 記憶している直前までの状況と今とがまるで繋がらずに慌てる私を、レナートの安堵の表情と頭を撫でる手が宥めてくれて、ますます混乱する。


「……よかった」


 挙句、そんな言葉までがレナートの口から漏れ出て、私は瞬きながら周囲を見回した。

 随分と床に散乱している本に、それを拾う騎士。リリエラが最後にいた辺りを清掃している騎士もいれば、どこから集まって来たのか、書架の陰からこちらを興味津々に覗き込む野次馬を制する騎士もいる。

 外を窺えば、雷こそ遠ざかったものの降り出した雨は激しさを増して、その雨音は煩いくらいだ。風も出ているようで、時折、雨が窓に叩き付けられる音も聞こえてくる。

 足元には薄暗いこの場を照らすランプが置かれ、揺らめく炎にレナートの髪がほの明るく輝いていた。


「ミリアム。俺が分かるな?」


 レナートが改めて両手を私の頬に添えて、私の顔を覗き込んで来る。何故そんなことを聞かれるのか分からなかったけれど、レナートの真剣な眼差しはそれが場を和ませる為の冗談などではないことを示していて、私は素直に、はいと答えた。


「レナートさんです」


 私の目の前にいるのはどこからどう見ても、きっと誰が見ても、キリアンの騎士で今は私の護衛をしてくれているレナート・フェルディーンその人だ。特に毎日顔を合わせている私が、見間違える筈もない。


「……よし。打った頭と頬の傷以外に、どこか痛むところは?」

「あ、りません」

「そうか」


 本当は、本を取り落とした時にぶつけた指先と、最初に床に押し倒された際に体の下になった右腕が鈍い痛みを訴えてはいる。けれど、そこが痛むからと言って動かせないわけでもなければ、歩くのに支障があるわけでもない。何より、頬のほんの掠り傷だけでこんなにも心配するレナートに、これ以上痛む場所を教えることは、私にはできなくて。

 嘘をつく後ろめたさはあったけれど、私の返答を聞いてほっとするレナートを見て、正直に告げなくてよかったと私は密かに胸を撫で下ろした。


「……すまなかった、ミリアム。俺が付いていながら、君に恐ろしい思いをさせてしまって」

「いえ……そんな。レナートさんはすぐに来てくださいましたし」


 それに、あれはレナートが近くにいても阻止できたかどうか。仮にいたとしても、精々が押し倒されるかされないかの違いくらいしか、生まれなかったのではないかと思う。それほど予期せぬことだったし、まさか安全な図書館でこんなことが起こるとは、きっと誰も予想しなかった筈だ。

 何より、突然背後からやって来られるなんてこと、背中に目が付いてでもいない限り避けようがない。今回のことはどうしようもなかったのだ。


「それでも、これは俺の落ち度だ」


 これ、と親指が私の傷付いた頬をそっと撫でて、レナートが悔やむ。レナートのそんな顔を見ていたくなくて、私は視線を下げた。

 自分が呪われていると分かった今、私には、ほんのわずかな掠り傷でさえ悔やむほどに大切に守ってもらう価値なんて、もうどこにもない。むしろ、レナートが本来守る主にとっての害悪でしかなく、排除すべき者になる未来しかないのだ。

 その手にずっと握っていたらしいハンカチの、時間が経って少し褪せた色をした二本の線を撫でる。


 こんなにも優しくしてくれる人を裏切ってしまうことになるなんて、確かに私は呪われている。

 これはきっと、罰だ。この人生だけはこれまでと違うと、自分が呪われていることにも気付けずお気楽な頭で浮かれていたから、罰が下ったのだろう。

 自嘲を込めてそっと息を吐いた私の耳に、レナートが私の名を呼ぶ声が重なる。視線を上げれば、そこにはいつもの柔らかな、けれどどこか手のかかる妹を前にした兄を思わせる笑みを浮かべたレナートがいた。


「……変なことを考えるなよ、ミリアム」

「え、と」


 思わず視線を他所へやってしまったのは、きっとレナートが私に向ける兄の顔がこそばゆかったからだ。決して、内心を言い当てられた気まずさからではない。だって私は、これと言って変なことを考えていたわけではないのだから。

 だから、断じて違う。そう、絶対に。……いや、多分。違うったら違う、筈だ。


「……何、も……考えて、ません」


 逸らした視線の視界の端で、レナートが半眼で私を凝視しているのが気配で分かった。私の見苦しい言い訳に対して口を開く様子はなく、無言のまま刺さる視線がとても痛い。それでも私が頑として視線を逸らし続けていると、小さなため息と共にレナートの両手が私の頬から離れた。

 急に消えた温もりに私が驚いた時にはレナートは立ち上がり、私の方を見ようともしない。そのまま背を向けられたことで、ようやく私の意固地が彼を怒らせてしまったのだと気付いても、急く心とは反対に、何故だか私の体は上手く動いてくれなかった。


「レナ――」


 焦って腰を浮かせたところで、レナートが振り返る。けれどその顔は、やはりどうしようもない子供を見るようで、光の加減かいつになく不機嫌にも見えて、私の胸が締め付けられるように痛んだ。

 きっと、レナートには酷く呆れられてしまったことだろう。誤魔化したところで、私がすぐに考え込んでしまう質であることは知られているし、あれだけの暴言を叩き付けられて平気でいられる人間とも思われていない。

 実際その通りで、変なことかどうかはともかく、踏み台に座らせられたことにすら気付かないくらい、私は思考に囚われていた。その間、私がどんなことを考えていたかまでは流石に分からないだろうけれど、レナートのこれまでの努力も空しく、いつまで経っても学習しない、変わることのできない私にとうとう愛想を尽かしたとしても、それは仕方のないことだ。


 浮かせた腰を大人しく落とした私は、レナートの姿を見ていられずに顔を伏せた。肩身も狭くて、ぎゅっと体を縮こめる。

 ここから一人で部屋に戻ることは、当然レナートが許してはくれないだろう。愛想を尽かしたとしても、仕事は仕事。私が声を掛ければ、彼は何事もなかったように護衛として私を部屋まで送ってくれるに違いない。レナートは、この程度のことに私情を持ち込むような人ではないから。

 分かってはいるけれど、今すぐには私から声を掛けることはできそうになかった。かと言って、このままただ座っているだけと言うのも、周りにいる騎士達に迷惑がかかってしまうだろう。

 もう少し。あとほんの少しでいいから、この場で気持ちを落ち着ける時間が欲しい。そうしたら、私も何事もなかった風を装って、レナートに声を掛けられる筈だから。レナートにとっての、ただの護衛対象として。


 きつく目を瞑り、痛む胸を必死に宥める。

 人に愛想を尽かされて、こんなに動揺するのは久し振りかもしれない。いつもなら「ああ、またか」とすぐに気持ちを切り替えられるのに、どうして今回に限っては、こんなに胸が痛み続けるのだろう。早く、何でもないと顔を上げなければいけないのに。そうしなければ、レナートに余計な手間を掛けさせてしまう。迷惑をかけてしまう。

 その時だった。呆れの中に笑みの気配を滲ませた、柔らかなレナートの声が降ってきたのは。


「……変なことを考えるな、と言ったばかりなんだけどな」


 反射的に身を竦ませた私の肩に何かが掛けられ、すっぽりと身が包まれる。次の瞬間、体が浮遊感に襲われた。ぎょっとして顔を上げれば、何故か間近に苦笑を零すレナートの顔があって、そのあまりの近さに身を仰け反らせてしまう。


「ひゃっ」

「暴れたら怪我をするぞ」


 すかさずレナートの声が飛び、同時にぐっと体が引き寄せられて、私は自分の状態を正しく理解した。

 膝裏と背中に回された腕の感触、体の右側に触れる布越しの体温に、激しい動揺が走る。


「あ、あああ、あのっ」

「駄目だ」

「ま、まだ何も言ってません、私っ」

「言わなくても分かる。下ろせと言うんだろう? だから、駄目だ」

「な……っ」


 絶句した私の宙に浮いた足が、レナートが歩く度に揺れる。視界が勝手に移動する。こちらに集まるたくさんの視線が煩い。


「悪いが、あとは頼む。その本は俺の部屋に届けておいてくれ」


 耳元で人に指示を出すことに慣れたレナートの声が聞こえたところで、私は恥ずかしさに耐えきれず、両手で顔を覆った。

 どうしてこんなことになっているのか。何故レナートはこんなことをするのか。愛想を尽かした相手にここまでするのも、護衛の仕事の内だと言うのだろうか。

 レナートの腕の中で小さく縮こまって震えながら、私の心の中では、激しい羞恥と動揺の叫びが嵐のように暴れ回っていた。


「……どうして、ですか」


 周囲に聞こえる足音がレナートのものだけになったところで、少しだけ落ち着いてきた私は、それでも顔を上げられないまま恐る恐る問いかけた。

 どうして、私なんかの為にここまでしてくれるのか。


「頭を打っているんだ。歩かせるわけにいかないだろう」

「そんな、大袈裟です。もう自分で歩けます。それに私、その……」


 そこから先は、言葉にできなかった。まさか、自分で自分の体重に言及することがこんなに恥ずかしいだなんて。

 けれど、絶対に重い筈なのだ。家出旅の道中ならいざ知らず、三食しっかり一人前を食べるようになった上に、午後のお茶の時間にも菓子が出る生活をしている今の私は。だから、私を抱えたまま図書館から部屋までの距離を移動することは、流石のレナートにも大変な重労働になる筈だ。

 第一、重たい私を抱え続けた所為で大事な腕を痛めでもしたら、どうするつもりなのだろう。腰にも負担がかかってしまうかもしれない。

 何より、レナートが私に対してここまでのことをする必要なんて、どこにもない。


「と、とにかくっ。歩きます。自分で。だから下ろしてください」


 できれば、今すぐ。それは駄目だと言うなら、せめて、階段を下りた先からは自分の足で部屋まで戻りたい。戻らせてほしい。

 そう願うのに、レナートは私の願いを聞き入れる気は全くなさそうで。


「駄目だと言っただろう。それに、何を心配しているか知らないが、ミリアムはエイナーよりも軽い」

「それはエイナー様に失礼ですっ!」


 あんまりな言い分に顔を上げ、間近にあったレナートの顔に私は即座に顔を伏せた。

 落ち着いていた筈の心臓が再び煩く鳴り出して、私は抱きかかえられる前に外套を羽織らせてもらっていたことに感謝した。これがなければ、きっとこの煩い心臓の音がレナートに届いてしまったことだろう。

 感謝ついでに、思い出したようにフードを引っ張って目一杯深く被る。もう、うっかり顔を上げてレナートの顔を間近で見ることがないように。


「本当に気にしなくていい。それに、少しくらい大袈裟にした方がキリアンの怒りを煽れるし、リリエラ殿も小指の先程度には反省して下さるだろう。だから、俺としては、ミリアムはこのまま大人しく運ばれてくれると助かるんだ」

「……それは……よくないと思います……」


 レナートの一言で、何となくではあるもののリリエラの性格が想像できてしまった私は、フードの中で眉を下げた。それに、レナートは助かると言うけれど、この行為はただただキリアンに迷惑をかけるだけと言う気しかしない。

 それでも、ここで問答をしたところできっとレナートは考えを改めないのだろうし、私を自由にしてくれるつもりもないのだろう。ならば、このまま部屋まで運ぶつもりでいるらしいレナートに、せめて運びやすい荷物と思ってもらえるように、私は身を縮めてじっとしておくことを選択した。レナートの仕事の邪魔をしないように。


 人一人を抱えているとは思えない脚運びで危なげなく図書館の階段を下りたレナートは、彼自身が言ったように私を一旦下ろすようなこともせず、そのまま図書館を出て行く。

 そうして本当に、私のことを軽々と抱きかかえたまま部屋まで連れて帰ってしまった。


 途中、どれだけの人に私を抱えて運ぶレナートの姿が目撃されたのか、フードで視界を閉ざしていた私には分からない。それでも、部屋に到着するまでに何人もの人の声を耳が拾っていたので、きっと相当数に見られたのだろう。

 そして、何があったのかと多くの人が思ったに違いない。中には、レナートが私を運ぶ姿に、レナートのことをまともに護衛もできない騎士だと思った人もいたかもしれない。そう考えるだけで、レナートに対する申し訳なさで居た堪れなくなる。

 愚かな私の所為でレナートが悪く言われるなんて、私は彼にどうお詫びをすればいいのだろう。


「温かい飲み物でも淹れて来よう」


 私をソファに座らせたあと、大人しくしているようにと言い置いて、レナートは一旦、隣室へ去って行った。その言動はいつもと変わらず、ただの護衛の域を越えてとても親身でどこまでも優しい。そのことがまた堪らなく胸を締め付けて、私は身を縮こまらせるばかりで、去って行くレナートに返事をすることができなかった。


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