「兄」と「弟妹」
身軽になった体を震わせて、準備運動のように足踏みをするフィンにレナートが念を押せば、フィンは分かっていると言いたげに鼻を鳴らした。そのやり取りは本当に人同士の会話のようで、見ているだけの私にも二人の仲のよさが伝わってくる。
私が笑ってレナート達を眺めていると、フィンは最後に私にもまたねと挨拶するように一度振り返り、そうかと思った次の瞬間には駆け出して、決して低くない筈の、普通の馬ならば越えることのできない馬場の柵を、わずかの助走であっさり飛び越えて走り去ってしまった。その様は、まるで水を得た魚。生き生きと言うよりは、活き活きとしている。
あっと言う間に私達の視界から消えてしまったフィンに呆気に取られ、数拍の沈黙ののち、私は我に返った。
「レナートさん、どうしましょう! フィンが逃げました!」
馬場の中を駆けるとばかり思っていたのに、まさか脱走してしまうとは。貴重なグーラ種が城から逃げ出してしまうなんて、一大事だ。
けれど、顔を青くして慌てる私とは裏腹に、レナートはのんびりとフィンを見送ったまま、全く動じる様子はなかった。
「ああ、あれは逃げたわけじゃなくて、森に遊びに行ったんだ。本人が満足したら勝手に戻って来るから、心配はいらない」
「……それって、いいんですか?」
「あまり褒められたことじゃないが、無理に厩舎に戻して我慢を強いる方が、フィンの体に悪いからな。それに、城の連中も皆慣れていることだ」
フィンの散歩はよくあることだから、と付け加えられて、私はフィンの駆けて行った方向を見つめた。私のいる位置からは城壁に遮られて、繁る緑の上端程度しか見えないけれど、その方角には王家の森が広がっている。
私はまだ行ったことはないけれど、場所によっては森に住まう獣達の為に人の立ち入りが禁じられている場所や、名の通り王族にしか立ち入りを許されていない場所があり、森の中ほどには豊かな水を湛えた湖もある、広い森なのだとか。
街に近い側の一部は誰もが自由に散策することができる為、王都の民の憩いの場の一つにもなっている。フィンにとっても、格好の遊び場と言うことなのだろう。
それにしても、自分で森へ遊びに行き、遊び疲れたら帰って来るなんて、まるで人の子供のようだ。いや、下手をしたら人の子供より賢いかもしれない。きちんと戻って来ると言うことは、フィン自身でしっかりと危険を回避できるし、城までの道程も覚えていると言うことなのだから。
「グーラ種って、凄いんですね……」
「そうだな。ただの馬と侮っていたら、人間の側が馬鹿にされることもある。特に、あいつらの方がよほど自然を知り尽くしているから、こちらが学ぶことも多い。あれでなかなか頼りになる相棒だよ」
レナートにとっては頼りになるだけではなく、自慢の相棒でもあるのだろう。元気過ぎるのが玉に瑕だと笑うけれど、その顔は、颯爽と駆けて行ったフィンのことをとても大切に思い、可愛がっていることが一目で分かるものだった。
どことなくやんちゃな弟を見るようでもあると感じてしまうのは、フィンの年齢と性格が故か、レナートが事実、弟を持つ兄であるからか。
レナートと並んで厩舎へと戻りながら、私の脳裏に、レナートが「弟」のことでげんなりとした顔を見せていた時のことが過った。
キリアンはとても手のかかる弟だと、お茶の時間にレナートが愚痴を零していたのだ。
祭り翌日の、落ち込んだり慌てふためいたりする姿を目にして、キリアンとて完璧ではないのだと認識は改めたものの、手のかかる弟と言う印象は欠片もなかった私はとても驚いたものだ。
「君の前では格好をつけているだけだから、騙されるなよ」
レナートからそんな忠告めいたことを言われて私が更に驚いたのは、雨が降り始めた翌日だったか。
夜明け近くまで、延々とキリアンの愚痴に付き合わされたとのことで寝不足らしく、その日のレナートは眉間を揉みながら渋い顔をしていた。
わざわざ護衛を他の騎士に交代させてまで呼び出すからには、重要な何かがあるのかと思って急ぎ向かえば、聞かされたのが始終くだらない話。実のところ、呼び出しに素直に応じた自分が馬鹿だったと唸るレナートの姿こそ私には新鮮だったのだけれど、賢明にも私は黙ってレナートの話に耳を傾けていた。
そんなキリアンに対する愚痴の中で、レナートは、弟は一人で十分だと言っていたのだ。
けれど、裏を返せばそれは、レナートが面倒見のいい人であると言うことでもある。キリアンに仕える者として事務的にあしらってもいいところを、本人の気の済むまで愚痴に付き合うなんて、それこそいい例だろう。
それに、キリアンのことを手のかかる弟だと言うけれど、レナートがそれだけキリアンのことを思っている証だし、だからこそキリアンも、存分に愚痴を零せる相手として心を許しているのだ。
そして、そんなレナートの優しさと面倒見のよさは、ありがたいことに私にも向けられている。
日々のご褒美のお菓子が、正にそれだ。わざわざそんなものを用意せずとも、私が遠慮したらその都度注意だけしていればいいのに、それをしないのだから。おまけに昨日は、本来ならば私は食べられない筈のご褒美の林檎パイを、仕方ないと言いつつ分けてくれた。
今思えば、レナートにとってあの一連のやり取りは、手のかかる弟ならぬ妹の我が儘を聞いたようなものだったのかもしれない。
レナートにそんなことを告げれば渋面が返ってくること必至だろうし、それで私に対する態度を改められてしまったら寂しいので、黙っているけれど。
ただ、ほんの少しでも私のことを妹のように思ってくれていたとしたら、それはそれでくすぐったい嬉しさがある。兄が存在する人生を生きたことは何度かあるけれど、例によって十歳を越えた私に構ってくれる兄は、いなかったのだ。
勿論、これからお世話になるフェルディーン家と家族になりたいなどと言う大それた望みを抱くつもりもなければ、レナートを兄と慕う気持ちもあるわけではない。けれど、ありがたくも私のことを快く迎え入れてくれようとしている一家とは、せめて家族のような付き合いができればとは思う。
隣を歩くレナートの横顔を眺めながら、レナートのことを冗談で「お兄様」と呼んだらどんな反応をするだろうかと考えて、私はレナートをただ一人兄と呼ぶ弟のことに思考が移った。
「そう言えば、ラッセさんからお返事はありましたか?」
数日後に予定されているレナートの弟との面会のことを尋ねれば、レナートが珍しく目を丸くして「あ」と声を上げる。
そして私を見下ろすその顔は、すっかり忘れていたのか実に申し訳なさそうだ。
「そうだった。今朝、ラッセから手紙が届いたんだった」
いい返事を期待して瞳を輝かせた私に、けれどレナートは言い出しにくそうに言葉を詰まらせた。どうやら、私に伝え忘れていたことだけが、レナートに眉尻を下げさせていたわけではなかったらしい。
「……エルメーアからの荷が一足先に着いたらしくて、面会の時間を作れなくなったそうだ。ミリアムに謝っておいてくれと」
「そう、ですか……」
ラッセは、レナートの二歳下の実弟。その若さで、現在長期不在中の父に代わって商会の全てを取り仕切っているのだと言う。その為に日々忙しくしており、先日の祈願祭でも祝宴に顔を出すつもりが、結局叶わなかったのだとか。
私のフェルディーン家への保護が正式に決まったあとも、両親が帰国する前に一度は私に会ってみたいと希望してくれており、それならばと面会の日程も組んだところだったのだけれど、どうやら希望が叶う見込みはなさそうだ。
「どうせ、アレックスの嫌がらせだろう。俺からの手紙を見てすぐに、出せる荷だけ先に船で出したんだろうな」
「嫌がらせって……どうしてですか?」
レナートからの話を聞く限りでは、フェルディーン一家は仲のいい家族だ。それが何故、家族間で嫌がらせなどと言う単語が出て来るのか。驚く私に、レナートはいたって平然と肩を竦めた。
「俺がミリアムと顔を合わせることは仕方ないにしても、アレックス自身が保護を決めたこともあって、俺以外の奴が自分より先に君と会うのが許せないんだよ」
「そんな、まさか」
「そのまさかを平気でやるのが、アレックスだ。とは言え、ラッセもラッセで、商会長代理として張り切り甲斐があるとか言って、この状況を楽しんでいるみたいだけどな」
流石は、エリューガルでも有数の商会の跡取り。常に我が道を行くアレクシアの奔放な行動にも、全く動じていないとは。ちょっとやそっとのことで折れるような柔な神経はしていないと言うことか、もしくは子供の頃から散々アレクシアに振り回されて、今更と言うことなのか。
どちらにせよ私だったら落ち込んだだろうなと密かに感心する私に対して、レナートの表情は晴れないままだった。
「そう言うわけだから、ラッセとの面会は難しくなってしまった。素直に、アレックス達が帰国するのを待つしかなさそうだ」
「お話を聞く限り、そうなりそうですね」
「……悪いな」
「いえ。楽しみが先に延びたと思えば、なんてことありませんから」
「そうか」
私が気にしていないと首を横に振れば、レナートはどこかほっとした様子で目を細めた。次いで、すっと伸びてきたレナートの手が私の頭を撫でて、何事もなかったように離れて行く。
そのあまりに自然な動きは束の間私から思考を奪い、ただ目を丸くして、レナートの背を見つめるしかできなかった。
呆然としながら、のろのろとした動きで触れられた箇所にそっと手を当てる。
「……っ」
途端、確かにレナートが私の頭を撫でたのだと実感して、思わず顔が熱くなった。
ほんの一瞬の出来事だったけれど、頭を撫でられるなんて母が亡くなって以来のことだ。まさか、またそんなことをしてもらえる日が来るなんて思いもしなかった。
レナートのそれは、予定が白紙になった私を慰める為のものではあったけれど、あまりに久々の感覚は私に母のことを強く思い出させるのには十分で、言いようのない懐かしさと嬉しさが私の胸の内に込み上げる。
母に頭を撫でてもらうことが、私は好きだった。特に、夜寝る前のひととき。母の腕に抱かれながら、その日一日の出来事を一つ一つ話して聞かせる度に、母は私を撫でてくれたのだ。
凄いわ。偉かったわね。頑張ったじゃない。上手にできたのね。母様も見習わなくちゃ――そんな言葉と共に頭を撫でられると、その日嫌なことがあっても、幸せで全てが上書きされた。どんなに屋敷中から疎んじられても、母と言う私にとって絶対の味方がいるだけで頑張れたのだ。母から抱きしめられて頭を撫でられる行為は、それだけ私にとって特別な宝物だった。
だからだろう。一人前と認められるほどの年齢の者の頭を撫でることはおろか、頭を撫でられて喜ぶ年齢もとうに過ぎているのに、思いがけず与えられたレナートからの優しさが、私の頬をどうしようもなくだらしなく緩めさせてしまうのは。
褒められたのではなく慰められただけなのに、堪らなく幸せを感じてしまっているのだ。
これはレナートの面倒見のよさが、彼にごく自然に取らせた行動なのだと分かっていても、嬉しいものは嬉しい。
その嬉しさのまま、いつの間にか足を止めてしまっていた所為で遠ざかってしまったレナートの背を、私は慌てて追いかけた。
「ミリアム?」
どうしたのかと問うレナートの青い瞳に、私は嬉しさを胸の中に大事にしまって軽く首を振る。レナートは怪訝な表情を浮かべて納得していないようだったけれど、今はまだこの嬉しさを一人で噛み締めていたい気分だった私は、何でもありません、とだけ言ってレナートの隣に並んだ。