乗馬、遠い記憶
視線が高い。見える景色が遠い。視界が広い。そして何より、いつも見上げるばかりだったレナートの頭が、私の目線の遥か下にある。
新鮮な光景に胸の高鳴りを押さえられず、私は馬上から身を乗り出すようにしながら、視線をあちこちに彷徨わせていた。そんな私を、レナートが苦笑交じりに窘める。
「そんなに身を乗り出すと危ないぞ、ミリアム」
「す、すみませんっ」
慌てて姿勢を正した私の動きにフィンが足踏みをして、体が揺れた。
「フィンが君を振り落とすようなことはないが、乗った人間が落ちそうになるのを、フィンの方でどうにかしてやることはできないんだ。気を付けてくれ」
フィンの表情は窺えなかったけれど、レナートの言葉に同意するように首を振っているので、どうやら彼にとっても、今の私の行動は危うさを感じるものだったらしい。
すっかりはしゃいでしまっていたことを反省しつつ、私は改めて鞍を掴み、正面を見据えた。今回は慣れることが主目的と言うことで、厩舎の脇にある馬場を、レナートがフィンを引いてゆっくり歩いてくれる。
フィンは私が挨拶をして以降常に上機嫌で、私が触れてもいいかと聞くより前に顔をすり寄せてくれたり、私の手からおやつを欲しがったり、そのご機嫌振りはレナートが呆れるほどだった。
その所為と言うべきか、そのお陰と言うべきか。まずはフィンで馬への接し方を学ぶ筈が、レナートが教え私が行動するより先にフィンの方から勝手にぐいぐいやって来られて、すっかり教えを乞うどころではなくなってしまった。
ついには、馬房から出せと言わんばかりにフィンがレナートをせっつき始めてしまい、その勢いには流石のレナートもすっかり押される始末。向かいの馬房から、興味深そうに私達の様子を覗き込んでいたイーリスの愛馬ですら、途中で呆れたように私達に背を向けてしまったくらいだ。
結果、フィンは希望通り外に出られたこともあってか、今はようやく落ち着きを取り戻した様子で、レナートに手綱を引かれるままにゆったりとした速度で歩んでいる。
グーラ種は人と同じほど長命な為、その年齢の数え方も人とほぼ同じだと言う。
レナートが言うには、フィンは十七、八歳。そろそろ子供から大人になっていい頃なのに、グーラ種の厩舎にいる馬の中では年齢が若い方と言うこともあってか、いまだに落ち着きとは無縁のやんちゃで遊びたがりだそうで、時折手を焼くのだとか。
フィンがレナートを主人と決めて、十年ほど。甘やかしすぎたのかもしれないとレナートが零せば、フィンはいかにも心外そうに鼻を鳴らしていた。
そんな話と共にフィンに揺られて進む度、その懐かしい動きに、私の中の遠い記憶が呼び起こされる。
あれは、何度目の貴族令嬢の人生だったか。平地の多いアルグライスの中では珍しく領地全体がやや高所に位置し、豊かな森の広がる侯爵家だっただろうか。
思い出したのは、私がフィロンの生まれる何年も前に生を受けたお陰で、その年齢差から、フィロンとは滅多に接することはないだろうと安堵したこと。それと、乗馬を楽しんでいた家族のこと。
家族で連れ立って、よく狩りにも出掛けていた。父と兄弟が――兄だったか弟だったかは、もうよく覚えていない――馬を駆って森の獣を仕留めるのを、私と母もまた、馬に乗って見物していたのだ。
「あ……!」
そこまで思い出して、私は思わず声を上げた。
「どうした、ミリアム?」
私の声に反応して、レナートが足を止めて私を見上げる。どこか体に不調でも出たかとこちらに歩み寄って来るのを、私は慌てて首を振って止めた。
途端、レナートの視線が胡乱げなものになり、私は重ねて首を振る。これは、断じて遠慮をしてのものではないし、何かを隠そうと言うつもりもない。
それに、今日こそは正当にご褒美をもらうのだから、遠慮などするつもりも毛頭ない。
「昨日、レナートさんの趣味が珈琲作りだとお聞きしてから、私も何か趣味を持ちたいなと考えていたんですけど……乗馬を趣味にするのはどうかなと思って。それで、思わず声が出てしまったんです」
趣味があったためしがないと思っていたけれど、自分にも趣味を持っていた人生はあった。そのことを思い出したのだ。
勿論、レナートへ伝えたことも私の本心だ。レナートに触発されて、何かしらの趣味を持ちたいと、昨日からずっと考えていた。
「そうか。乗馬を趣味に……いいんじゃないか?」
「本当ですか?」
「ああ。ミリアムが十分一人で乗れるようになったら、俺が色々案内しよう」
「ありがとうございます! 楽しみがまた増えました」
ふふ、と私が笑えば、フィンも私達の会話に興味深そうに耳を動かしながら、期待の眼差しをレナートに向けていた。ぴんと立った耳がその期待の大きさを表して、勿論その時に同行するのは自分だろう、とでも言っているかのようで、レナートもフィンから注がれる視線に「心配しなくても、お前以外と行くわけがないだろう」とおかしそうに笑う。
そんな一人と一頭のやり取りに、私は目を細めた。
あの令嬢人生では、私も自分の愛馬とこうしてよく語らっていたことが、次から次によみがえってくる。愛馬から返ってくる反応はグーラ種ほどではなかったけれど、私の話をじっと聞いて、柔らかな眼差しを注いでくれるだけで安らげた。そして、そんな愛馬との乗馬を、私はとても楽しんでいた。それこそ、暇さえあれば手綱を握って出掛けていたくらいには。
勿論、男性のように馬に跨り風のように野や森を駆けることも、乗馬技術の向上を目指して鍛錬するなんてことも、貴族令嬢である私にはできなかったけれど、ただその背に乗ってゆっくり進むだけの乗馬でも、十分私の心を癒してくれた。何より、馬の背に揺られながら森の中を散策するのは、付きまとう死から逃れる方法を考え続ける私にとって、唯一の息抜きだった。
太陽が大地を温め花が咲き乱れるテーの季節には、籠に食べ物を詰め込んで、誰も来ない森の奥で煩わしさから解放されて一人静かに過ごし、大地が実り始めるセーの季節には、森の恵みを摘み取りに出掛けて、小川のせせらぎに耳を傾けながら冷たい水に足を浸し、草木が眠るレーの季節には、ただ当てもなくひっそりと、気の済むまで静まり返った森を巡る。
どんな時も、馬は私に温かく寄り添ってくれた。それは、とても心穏やかな時間だった。
たとえ、記憶を思い出してから、途端に性格が変わったようになってしまった私の貰い手が見つからずに家族が途方に暮れても、二十年を生き延びることができた喜びに奇声を上げて狂ったと思われても、その結果、後妻としてどこぞの高齢貴族の元へ嫁ぐことが決まったとしても。私は十分幸せだった。馬が、私の慰めになってくれたから。
もっとも、そんな幸せも長くは続かなかったけれど。
この時の人生では、私がいよいよ嫁ぐ少し前、豊かな森と高所で気候が涼しいところに目を付けたフィロンが、婚約者と共に領地の視察を名目に狩猟を楽しむ為にやって来てしまったのだ。
王太子一行を領主一家が出迎えないわけにもいかず、たとえ頭がおかしくなってしまった娘と言えど、黙ってさえいれば瑕疵のない立派な淑女に見えたので、当然私も表に引っ張り出された。
そして、大勢の領民が集まり狩りを見物する最中、案の定、フィロンは狩場でどこからともなく飛んできた毒矢に射抜かれ、狩場が見渡せる場所で見物していた私も、殆ど同時に、同じ毒矢によって倒れた。
既に何度となく人生を繰り返していた私は、その頃にはもう、誰がどうしてだなんて殺される理由を考えることは諦めていて、ああまたかと、死を回避できなかったことに対する諦観を抱き、ただ訪れる死をぼんやり待つばかりだった。
ただ一つ恨みに思ったことがあるとすれば、この領のことをフィロンに話したと言う婚約者のことだろうか。毒に苦しみながら死へと向かうフィロンに泣き縋る姿に、まったく余計なことをしてくれたものだと悪態をついた気がする。
嫌なことまで思い出してしまい、私は記憶を振り払うようにフィンの鬣へ手を伸ばした。
「一緒に出掛けようね、フィン」
濃く艶やかな鬣を撫でて、私はいつかやって来るその日に期待を膨らませる。
フェルディーンの屋敷の近くを軽く駆けたり、籠に軽食を詰めて少し遠くまで足を延ばしたり、清流のそばでそのせせらぎに耳を傾けたりするのも、一人より二人なら、きっともっと楽しめるだろう。
「そうと決まれば、早く馬を決めてしまおう」
「そうですね。私と気が合うだけじゃなくて、フィンとも仲よしな子がいたらいいんですけど……」
フィンが歩みを再開させる中、私はこのあとに会う馬達に思いを馳せた。
毛色に拘りはない。性格は、フィンのように元気な子もそれはそれで楽しいだろうけれど、きっと私ではその内持て余してしまうだろうから、やはり選ぶとしたら大人しい子だろうか。ただそうなると、フィンとの相性が気になるところではある。そして何より、そんな子が私に貰われてもいいと思ってくれるかが最大の問題だ。
なまじ普通の馬より人を理解し、神の加護を得ていると言う自負がある分、人の側も十分に馬に気に入ってもらわなければならないところが、悩ましい。
私があれこれと考えている内に、フィンは馬場をぐるりと一周し終えていた。
あっと言う間に終わってしまった時間を名残惜しく思いながらその背から降り、感謝の気持ちを込めてフィンを撫でる。フィンは私に、どういたしましてとばかりに首を縦に振ってお辞儀をしてくれたけれど、見上げたその顔はどことなく物足りなそうだった。
「フィン……?」
もしかすると、雨続きだった所為で、しばらくは外を存分に駆けることができなかったのかもしれない。レナートをせっついて厩舎の外に出たがったのも、ようやく晴れた空の下で駆け回りたい気持ちが先走ってしまっていたのだろう。それなのに、いざ外に出たと思ったら、乗馬初心者とも言える私を背に乗せてゆっくり歩くだけ。元気があり余って見えるフィンには、さぞつまらなかったに違いない。
そんな私の想像を肯定するように、私の見る前で、フィンがレナートの服の袖に噛みつき、引っ張った。ここまで言うことを聞いたのだから、あとは自由にさせろと主張しているかのようだ。
「こら。引っ張るな、フィン」
レナートの注意にも、フィンは袖を噛んだまま駄々を捏ねる子供のように首を振るばかり。
こうしてみると、グーラ種は普通の馬よりも感情表現が豊かと言うより、人の言葉を発しないだけで、実に人間臭く見える。姿を馬に変じさせられた人間、と表現してもきっと的外れではないと思うくらいだ。
「分かった、分かった。外してやるから、少し大人しくしてろ」
案の定、付き合いが長いレナートはフィンの言わんとすることをすんなり理解して、はしゃぐ子供に言い聞かせるような調子で声を上げつつ、まずはフィンの口から服の袖を救出する。
そして、落ち着きのないフィンから手早く鞍と轡を取り外し、嬉しそうにする愛馬を見上げてため息を一つ。
「あまり長い時間、外に出たままでいるなよ」