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遠慮癖と頼みごと

「今日も遠慮したな」


 してやったりと笑うレナートに、私は慌てる。


「ま、待ってください! 今のはほんの少し! ほんの少し遠慮しただけじゃないですか! 判定を下すのはまだ早いです!」

「どこがほんの少しなんだか。遠慮する気満々だっただろう、ミリアム。それに、そのあとも余計なことをあれこれ考え込んでいたじゃないか。駄目だ」

「ぐぅ……」


 レナートに即座に言い返されて、私は反論できずに黙り込んだ。

 それに、全くもってレナートの言う通りだったのだから、私が下手に何か言えば、更にレナートにやり込められるに決まっている。これ以上、墓穴を掘りたくはない。


「今日も、残りの林檎パイは俺のものだな」

「ああっ、そんな!」


 私が手を伸ばす先で、ワゴンに乗っていた林檎パイの残りが、無情にもレナートの皿へと移される。艶々のパイ生地の表面が、私を憐れむように光り輝いていた。


「連敗記録を更新したな、ミリアム」

「珈琲は飲んだのに……」

「あれは、俺が一口でいいと言ったから、一口飲んで遠慮しても問題ないと思って飲んだんだろう。遠慮することを前提にした時点で、そもそも駄目だ」

「えぇ……」


 とどめのようにぴしゃりと言われて、私は項垂れた。


(今日も完敗だわ……)


 レナートが私の護衛になり、こうしてお茶の時間を共に過ごすようになってから、数日。

 日々、ただレナートと会話し、レナートから語られる家族や友人の話を聞いて楽しんでいるだけでは駄目だと、私はレナートからとある提案を持ちかけられた。


 遠慮しないことを意識的に行い、遠慮しないことに慣れよう、と。


 この先、アレックスに振り回されない為にはとても必要なことであるし、すぐに遠慮してしまう自分を変えたい気持ちもあった私は、レナートのその提案に素直に頷いた。

 けれど、言葉にしてしまえば簡単なことも、これまで他人に頼ることをせずできる限り一人でこなし、他者が関わると何かと遠慮が先に立ってしまっていた私には、これがなかなか難しいことだった。


 背の高い棚の本を代わりに取ろうと言う、レナートの些細な申し出も遠慮して一人で頑張ろうとしてしまったり、仕事が忙しいだろうからと、イーリス達をお茶に誘いたい気持ちに蓋をしてしまったり、今回のように無駄に考え込みすぎて相手の好意を断ろうとしてしまったり。

 そしてその度に、私が遠慮しなければその褒美として食べられるようにと、毎回、個数を多く用意されている菓子が、レナートの胃に収まるのだ。

 今日の林檎パイはとても美味しかったのに、会話の中に、さり気なく私を遠慮させようとする話を織り交ぜてくるレナートが、今はとても憎たらしい。


 いや、レナートは決して、私を遠慮させて菓子を自分のものにしようと話をしているわけではなく、私が遠慮しなくなるよう敢えて振ってくれているのだけれど、それができれば苦労はしないし、林檎パイも二つが私の胃に収まっている。

 全ては、私の治らない遠慮癖の所為だ。レナートは悪くない。

 分かってはいるけれど、珈琲と共に食べた新鮮さか、今日の林檎パイは普段よりも美味しく感じられ、私はまだ食べたい気持ちがなかなか捨てられないでいた。


「林檎パイ……」


 レナートが先に取り分けていた林檎パイを食べ終え、新たに皿に移したそれにフォークを入れようとする姿を見て、無意識に恨めしげな声が出てしまった。

 ぴたりと動きを止めたレナートと、目が合う。


「……遠慮したのはミリアムだろう」


 レナートの青い瞳は、強請ってもやらないぞ、と私に無言で告げていた。

 褒美の菓子は、いつも少しばかり大きさが小さめだ。褒美なのだから当然ではあるけれど、その小振りな形がまた私の目には可愛らしく映り、いつも私に、今日こそは遠慮しない決意をさせてくれる。

 もっとも、決意だけは立派なまま、いまだにそれが褒美として私の胃に収まったことはないのだけれど。今回も、まんまとレナートの皿に載せられているのだけれど。

 そんな、私への褒美になるべく用意されてはレナートに食される運命の林檎パイにじっと視線を注ぎ、次に自分のカップに残る珈琲へと視線を落とす。最後に、私はもう一度レナートへと視線を上げた。


「……レナートさんの珈琲は美味しいです」

「そいつはどうも」

「今日の林檎パイにとっても合う、美味しい珈琲です」

「……それで?」


 半眼になるレナートを、それでも私は見つめ続ける。林檎パイが食べたい、と言う念を込めて。


「……林檎パイに、とっても、合うんです……!」

「本音が漏れてるぞ、ミリアム」


 私の言い分に呆れながらも、私が視線を外さないままでいると、しばらくしてレナートが根負けしたようにフォークを皿に置いた。そのまま、ワゴンの下の段から包丁を取り出すと、それで林檎パイを二つに切る。

 そして、今日だけだぞ、と渋々と言った体で、切り分けた一方を私の皿へと移してくれた。珈琲に感謝するんだな、とも付け加えられたので、どうやら珈琲を褒めると言う私の作戦は、当たりだったらしい。

 人間誰しも、自分の作ったものを褒められて悪い気分にはならないものだ。


「ありがとうございます、レナートさん!」


 私の皿へとやって来た艶やかなパイ生地の表面が、今度は私に向かってどうぞお食べと誘うように輝き、断面からごろりと林檎の果肉を零す。

 私はそれに向かって遠慮なくフォークを突き立て、緩む頬を押さえながら、口の中に広がるその甘さを存分に味わった。


「普段から、それくらい素直に礼を言って受け取ればいいんだけどな……」


 そう呟くレナートの言葉は、聞こえない振りをして。

 その後、珈琲と共に林檎パイを堪能し、レナートの珈琲についての知識や蘊蓄を十分に聞かせてもらったところで、差し込んできた太陽の光が私達の会話を途切れさせた。


「止みましたね、雨」


 窓外に見える空は、薄くなった灰色の雲の向こうに鮮やかな青と、西の空に傾き始めた太陽の、やや橙がかった姿をはっきり見せていた。

 これまでのように再び雲に覆われてしまう気配はなく、どうやらレナートの言う通り、雨はこれで去ってしまうようだ。明日は朝から清々しい太陽の姿を拝めそうである。


「今年のリーテは、間違いなく豊作を約束してくれるようだな」

「雨の降り方や期間で、分かるんでしたよね?」

「ああ。きっとリーテも、自分の愛し子がこの国に戻って来たことを嬉しく思っているんだろう」


 リーテの愛し子。

 この部屋で過ごしている間は忘れていることが多いその言葉は、レナートに頼みごとがあったことを私に思い出させてくれた。


「レナートさん。私、レナートさんにお願いしたいことがあるんです」

「俺に?」


 手足を揃えて背筋を伸ばし、レナートに相対する。そんな私につられるように、レナートも姿勢を正した。


「私に、剣を教えてください」

「……は?」


 その瞬間にレナートが見せた表情は、それまでの穏やかなものとはかけ離れていた。顔は引き攣り目は見開かれ、衝撃のあまり絶句して、私の正気を疑うかのようにこちらを凝視してくる。

 ほんのわずか無意識に薄く開いた口を戦慄かせるレナートのその様子は、私を慌てさせるのに十分だった。同時に、意気込むあまり端的すぎた自分の言葉を急いで補う。


「あああの、剣と言っても短剣のことで! それに、教えていただきたいのは護身の為の使い方と言うか……その程度でして! 決して、騎士や兵士の皆さんのような使い手になりたいと言う意味で、レナートさんに教えていただきたいわけではないんです!」


 ここまで説明すれば、誤解されることなく正確に私の意思が伝わっただろう。

 そうは思うものの、目の前のレナートは顔を俯けてしまい、その表情は読めない。ついには、頭痛を堪えるように額に手が添えられて、眩い金髪の旋毛が私の方を向いてしまっていた。

 そんなレナートの反応は、エイナーに対して短剣くらい扱えるようになりたいと言った時の彼の反応に、どこか通じるものがある。

 やはり、私には剣を持たせるなんてあまりに危険と言うのが、私を知る者達の共通認識なのだろうか。そんな認識、一体いつの間に持たれてしまったのか。とても気になるけれど、今はレナートからの返事の方が重要だ。


「……護身。……ああ……護身、か……」


 衝撃から立ち直ってくれたらしいレナートが、それでも弱々しく、私の口から出た言葉をなぞる。


「……駄目、でしょうか」


 心持ち気持ちを沈ませながら、レナートに懇願するように聞いてしまう。

 多くの人が、私の身の安全の為に手を尽くしてくれていることは分かっているけれど、ただ守られてばかりでは、足手纏いになってしまわないとも限らない。いつ何時(なんどき)、危険な目に遭うか分からないのだから、せめて少しでも自分の身を守る術くらいは身に付けておきたいのだ。

 そう言葉を重ねれば、ゆるりと上がった金髪の下から、存外真面目なレナートの顔が覗いた。


「そう言うことなら、ミリアムに剣を教えるのも吝かではないが……俺は男だし、女性とは体の使い方が違うこともあるだろう。それは、俺よりもイーリス辺りに相談するのがいいと思う。だが……それより前にミリアムはまず、もう少し体力をつけた方がいい。剣を握るのはそのあとだ」

「体力……」


 反射的に、ソファに座る自分の体を見下ろす。骨が浮いて見えるような状態からは脱したものの、相変わらず筋肉とは縁遠い体である。

 これまでの下女生活で多少の腕力くらいはあってもよさそうなのに、圧倒的な栄養不足下でまともに筋肉が付く筈もなく。それどころか、最近は二の腕や腿、腹回りが少々もちっとしてきたような気がする。明らかに、筋肉ではない何かで。

 それはそれで別の危機感が芽生えるのだけれど、そのことを伝えたテレシアは何故か満足そうで、真面目に取り合ってはくれなかった。

 これは、もしかすると好機なのかもしれない。


「体を動かせ、と言うことですか?」

「そうなるな。だからと言って、俺達のような体の鍛え方をしろとは言わない。そんなことを君にさせたら、方々から俺が非難を浴びる」

「でも、体力はつけないといけないんですよね?」


 体力をつけることは、体を鍛えることと同義ではないのだろうか。

 首を傾げる私に対して、レナートは丁度いいとばかりによし、と一つ頷いた。


「ミリアム。明日は外に行こう」

「外の、どちらへ?」

「厩舎だ。雨が止んだら早い内にと思ってはいたんだが、ミリアムの方から体を動かしたいと言う話が出てよかったよ」


 厩舎。体を動かす。

 この二つから導き出されるのは――


「なるほど! 馬のお世話に出掛けるんですね!」


 リンドナー家にも所有する馬が数頭おり、その世話を命じられて来たので、それならば慣れたものだ。

 もっとも、私が命じられたのは糞の始末を始めとした馬房の掃除や飼葉の用意が主で、馬に直接触れるようなことは一切やらせてもらえなかったけれど。それでも、馬に対する恐怖のようなものもなければ、嫌悪感もない。むしろ、穏やかで優しげな馬の瞳には、いつも笑顔を貰っていた。


 これまでずっと部屋の中にこもりっぱなしだったこともあって、労働と言う形で体を動かしたのは、リンドナーの家にいた頃が最後だ。確かに、久々にそう言うことをしてみるのも、気分転換にもなっていいかもしれない。

 けれど、そんな私の予想はいい意味で裏切られてしまった。


「いや、世話はちゃんと馬丁がいるぞ? まあ、自分の馬は時々俺も世話をするが……そうではなくて、乗馬をしようと思うんだ。エリューガルで暮らすなら乗馬の技術は身に付けておくべきだし、あれはいい運動になる」

「乗馬ですか!」


 貴族の嗜みの一つでもある、乗馬。勿論、過去には私だって自分の馬を与えられて、貴族令嬢として恥ずかしくない程度には、乗りこなせるよう練習した。特別上手いことはなかったと思うけれど、人並みには乗れていた筈だ。あまり覚えていないけれど。なんせ、随分と昔だ。

 最近はもっぱら世話の経験の方が圧倒的だし、それ以外では馬車に乗る際にお世話になるくらいだった。何より、今生では特に、乗馬なんて貴族の楽しみが私の身近になることなんて考えていなかった。


 その乗馬が、できる。アルグライスとはまるで違う起伏に富んだ自然の中を、馬の背に乗って散策できるかもしれないだなんて、なんて楽しそうなのだろう。

 私は行儀よく膝の上に乗せていた両手を期待にぎゅっと握り締め、口元を緩めた。


「慣れるまでは俺が付いているし、明日はひとまず、ミリアムには馬自体に慣れてもらおう。アレックスのように、いきなり走らせるようなことはしないから、安心していい」


 最後に冗談めかして軽く笑うレナートだったけれど、それが真実冗談ではないことを、私はこれまでのレナートから聞かされた話で知っている。


 レナートが五歳になろうかと言う幼い頃に、アレクシアの手によって鞍を付けていない馬に乗せられ、驚いた馬から振り落とされないよう耐えることを強要されただの、十歳を前にして暴れる馬に無理やり乗せられ、そいつを御せと言われただの――そんな話を思い出して、私はひくりと口の端を引きつらせた。

 もっとも、これはアレクシアがレナートを騎士にさせたがった為に行われたもので、流石のアレクシアも、誰かれ構わずそんなことはしないとのことだったけれど。


「……そんなことをされたら、私、馬に乗れなくなりそうです」

「そうならないように俺がちゃんと教えるから、大丈夫だ」


 アレクシアのとんでもない試練に耐え、今も馬に乗ることができているレナートが付いていてくれるなら、安心して乗馬の練習に励める気がする。

 アルグライスでは経験できなかったことを、このエリューガルでは存分に経験していくことが、私のこれからのエリューガル生活での目標の一つでもあるし、ついでに運動もできるとなれば、一石二鳥と言うもの。

 一人で自由に馬を駆ることができるようになれば、私の行動範囲もできることも広がって、更にいいこと尽くめだろう。

 レナートの頼もしい言葉に甘えるように、私はよろしくお願いします、と返した。


 けれど、明日への期待に胸を膨らませたのも束の間、思い出したように口にされたレナートのとんでもない発言によって、私の期待感は彼方に飛んでしまった。


「ああ。それから、早い内に気の合う馬を見つけて、ミリアムの馬として貰ってしまっておこう。ミリアムさえよければ、明日馬を選んでもらってもいいな」


 一瞬、レナートが何を言っているのか、私は正確に理解できなかった。

 気の合う馬、まではいいとしても、私の馬として貰うとは、これ如何に……?


「まま、待ってください、レナートさん! 馬って、そんなに簡単に貰ったり貰われたりできるものじゃない……ですよね……?」


 馬や牛は、鶏や山羊を買うのとはわけが違う。レナートは決定事項を告げるような淡々とした様子だけれど、よりにもよって王城の、それも絶対に血統もよければその飼育環境だって最高の馬を、どれだけのお金を積めば買えるのか想像もつかないそれを。何と言うこともなく「貰う」とは、いきなり何を言い出すのか。

 先ほどのレナートの珈琲よりももっとずっと、私の心臓が縮み上がる貰い物だ。それなのにレナートは緩く首を振り、反対に、真剣な眼差しを私に向けた。


「心配ない。この先のミリアムの生活に必要なものとして、既に王家からは一頭が約束されている。それに、さっさと王城の馬から一頭を決めておいた方が、絶対に君の為だ」


 突然の真面目な騎士の顔に、私の背筋が自然と伸びる。同時に感じた、嫌な予感。

 こんな風に、突然レナートが敢えて表情を真剣なものにして私に話をする時は、大抵アレクシア絡みであることを、ここ数日で私はよくよく学習していた。


「もしかして……?」


 恐る恐る問いかけた私に返って来たのは、レナートの重々しい頷き。


「ミリアムに馬が一頭も用意されていないと分かれば、アレックスが何を言うか……いや、何をしでかすか。そうでなくとも、アレックスは馬にはちょっと煩くてな。ミリアムに既に気に入った馬がいて、連れて行くならその一頭と決めているとはっきり言えば、あいつも君の希望を無下にするようなことはない筈だ。ついでに乗りこなせるようにもなっていれば、文句もないだろう」

「なる、ほど……」

「勿論、アレックスが納得しやすいよう、それなりの馬の中から選んでもらうことにはなるんだが」


 気楽な気持ちだった筈の乗馬が、突然、とてつもなく重大な任務になった気分がした。

 けれど、私は騎士でも兵士でもなければ、常日頃から馬に跨り山野を駆けるようなことをするつもりもないので、気性の穏やかな馬にさえ巡り合えたら、それでいいような気もする。その馬と仲よくなって、たまに背中に乗って周辺を散策させてもらえたら十分だ。


 どうか、私と気の合う馬が厩舎にいますように――


 すっかり雲が晴れて夕日が差し込む明るい室内で、私はまだ見ぬアレックスの大嵐を阻止すべく、ぎゅっと胸の前で両手を握り締めた。


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