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救いの手

 直後、耳を劈く轟音と閃光が幌の頭上で大きく弾けた。乱れる視界の端で松明の火が躍り、馬が嘶き、慌てふためく声が湧く。


「このままじゃいずれ追いつかれる。商品と娘を担いで馬に乗り換えるぞ!」

「やれやれ、仕方ないねぇ」


 女が大股で近づき、突き飛ばされて木箱にぶつかった痛みに蹲る私の腹部目掛けて、容赦のない蹴りを突き入れてきた。体が浮き、背後の木箱に再び体を打ちつける。


「がはっ……!」


 積まれた木箱が音を立てて崩れ、私は堪らず嘔吐した。胃の中にあったものを全部床にぶちまけて、ぜえぜえと肩で息をする。重い一撃に体が悲鳴を上げてすぐには動けないし、声も出ない。久し振りに味わった強烈な痛みに今まで受けてきた折檻の記憶が溢れ、思わず私の体が震えた。

 何度も経験させられてきたとは言え、痛いものは痛いし、怖いものは怖い、嫌なものは嫌だ。そして何より、あの男の折檻も相当だったけれど、この女の蹴りはそれ以上だ。

 あの男の場合は、私を甚振る行為そのものを楽しんでいた節があったけれど、こちらはそんな生易しいものではない。言うことを聞かせるためなら容赦しないだろうことがよく分かる、純然たる暴力。


「これ以上痛い目を見たくなかったら、大人しくしときな」


 女の言葉に迷いのない本気を感じ取って、私は反射的に体を強張らせた。

 思い出したくもないのに、男の怒声が耳の奥に蘇る。汚いものを見るような目が、吐き捨てられる唾が、飛んで来る拳が、振り下ろされる鞭が。蹴りが。家を飛び出して自由になった筈の私に、襲い掛かって来る。

 目の前に、縄を握る女の手が迫る。また私はこれで自由を奪われるのか――一瞬、諦めが私の脳裏を過った。

 けれど、今の私が背負っているのは自分一人の命運ではない。ここで私が諦めたら、確実にあの子まで道連れにしてしまう。


(絶対に諦めてなるもんですか……!)


 私は自分でも不思議なくらい、あの子供を助けなければと言う使命感にも似た思いに突き動かされていた。疲弊した体に鞭打って、ブーツから取り出した短剣を女に向かってがむしゃらに振り上げる。


「くっ!」


 刃先が運よく当たった女の腕から、鮮血が散った。慌てて体を仰け反らせた女に向かって、今度は横合いから小さな塊が勢いよく突進し、たまらず女の体が傾いで御者台にぶつかる。


「何しやがんだい、小娘が!」

「急げ、ジェナ! 奴ら追いついて来るぞ!」

「言われなくても分かってるよ!」


 苛立ちも露わに、ジェナと呼ばれた女が私を睨みつける。そして、私の隣に立つ存在を目にして、苦々しげに口を歪めた。その視線は中身がなくなり潰れた麻袋へと一瞬移り、正確に状況を理解したのか、ちっと一つ舌打ちが漏れる。


「……まったく、随分と舐めた真似をしてくれるじゃないさ。小娘が」


 短剣を構えてよろめきながら立ち上がった私を、少年がそっと支えてくれる。小さな手は私同様に震えて、その顔色は蒼白だ。それでも、私を助けるために飛び出してくれたのかと思うと、その勇気に感服すると共に、場違いに温かな気持ちが湧いてきた。


「ありがとう」


 彼が痛ましそうに一瞬顔を歪めたのは、私が女に受けた仕打ちに対してか、すぐに助けに入れなかった少年自身に対してかは分からない。だから、せめて私は平気を装って、少年を安心させるように笑ってみせた。

 そして、彼の手に甘えることなく、反対にその小さな体を背に庇い、汚れた口元を拭ってジェナと対峙する。


「まさか短剣を仕込んでいたとは、恐れ入ったよ。おまけに、大事な商品まで逃がそうなんて、とんだじゃじゃ馬娘だ。だけどねぇ……そんなちっぽけな刃物一つで、どうにかできると本気で思ってんのかい!?」


 叫ぶや否やジェナの右手が閃き、同時に荷馬車全体が大きな音を立てて跳ねた。

 鋭い光が私の髪を数本切って、傍らの木箱に突き刺さる。


「ちっ! 何やってんだい、バルテ!」

「山ん中なんだ、仕方ねぇだろ!」


 頬が熱い。痛い。

 床に落ちた自分の髪を目で追って、私は体の芯から震えが来るのを感じた。

 避けるどころか、彼女の動きに反応すらできなかった。直前で馬車が大きく揺れていなければ、間違いなく飛んできたナイフは私に刺さっていただろう。

 バランスを崩して木箱に手をついていた私は、一拍遅れて理解した現状に恐怖しつつも、煩い心臓と震える足を叱咤して、御者台に背を預けて立つジェナの姿に拳を握る。


 相手は、人を傷つけることはおろか殺すことにも躊躇のない、荒事に慣れた悪党。対してこちらは、護身の術をろくに知らず、短剣をただ体の前で構えているだけの素人に、非力な子供。

 どう足掻いたって、私達の敵う相手ではない。

 私は背後を一度、振り返った。積み上げた木箱がいくらか崩れたお陰で見通しがよくなった荷馬車の中は、その向こう側、こちらを懸命に追いかける騎馬の姿がはっきり確認できる。

 迷っている暇はない。


「君は早く後ろに!」

「……え?」

「荷馬車から飛び降りるの! 大丈夫、騎士様達が助けてくれるから!」

「させないよ!」


 声と共に、私の目前に鉈を握ったジェナの右手が迫り来る。咄嗟に避けるけれど、疲弊した体は思うように動けず、足がもつれて無様に倒れた。直後に、鋭い痛みが私を襲う。

 続けざまに、肩にも激痛。まるで、熱した火かき棒を押し当てられた時のようで、堪らず私の口は叫んでいた。


「ああっ!」

「お姉さん!」


 あまりの痛みに、束の間、目の前が真っ赤に染まった。全ての思考が痛みに塗り潰され、咄嗟に体を丸める以外、動くこともままならない。

 じっとり湿った布地の感触が手に伝わって、脳裏に薄っすら死がちらつく。


「何やってる、ジェナ! そいつも連れて行かなきゃならねぇんだぞ!」

「馬鹿言ってんじゃないよ。こんな反抗的な娘、売り物になると思うのかい!」


 なるほど、私のことはここで殺していくつもりなのか。

 二人の怒鳴り合う声を聞いて、私はようやく自分の考えが甘かったことを知った。

 心のどこかで、私も少年も彼らにとっては商品なのだから、こちらが多少反抗的でも命が脅かされることまではないだろうと考えていた自分の愚かさに、自然と口が歪む。

 そもそも、鉈を持ち出した時点で向こうは私を殺す気なのだと、どうして気付けなかったのだろう。いつの間にか、私は自分と少年の二人共が同価値の商品だと勘違いしてしまっていたらしい。少し前に、私自身が思った筈なのに。

 少年は、私とは比較にならない高価な商品だ、と。


「お前はこっちだよ!」

「嫌だ! お姉さん!」


 耳朶を打つ少年の悲痛な声に顔を上げれば、私に伸ばされた小さな手が、ジェナの太い腕に捕まる瞬間だった。


「放してっ! 嫌だっ! お姉さんっ!」

「大人しくしな!」


 蹲る私の目の前で、必死の抵抗も空しく、少年の小さな体が簡単に引きずられていく。御者台の向こうではバルテが馬に跨り、馬車と馬とを繋いでいるハーネスを外している姿が見えた。

 少年の体がジェナの肩に担ぎ上げられ、少年と視線が交錯する。助けて、と私に伸ばされる手が虚しく宙を掻いた。その少年に向かって、バルテの腕が伸びる。


(駄目。このままじゃ、あの子が連れ去られてしまう。助けなきゃ。私はきっとここで殺されてしまうのだろうけれど、あの子だけは……!)


 痛みを堪えて起き上がり、私は先ほど少年がやったように、ジェナに向かって体当たりをした。

 つもりだった。

 けれど実際は、酷く揺れる荷馬車の中を、足を引きずりながらよたよた歩き、ジェナの背中に体を預けるように倒れ込んだだけ。

 私の気持ちとは裏腹に、相手を転倒させられるほどの体力は、私にはもう残されていなかったのだ。思った以上に体が重くて、ふらついて、立っているのがやっとだ。


 なんて……なんて情けない。


「あぁん?」


 ギロリとジェナが私を見下ろす。その眼力に怯んで、思わず後退った。けれどジェナから離れたことで視界が広がり、彼女の肩越しに、不意に私は活路を見出した――そんな気がした。

 闇夜に浮かぶ月に誘われるように、前方に広がる景色に思わず魅入る。

 体を浮遊感が襲ったのは、その直後。


 バルテの悪態と馬の嘶きが遠くに聞こえ、ジェナの驚く横顔が傾ぎ、その体を押しのけるように少年が身を乗り出す。そして、私の両手は無意識に、ジェナの腕から抜け出そうと藻掻く少年の腕を掴んで、強く引き寄せていた。

 積み荷が荷台の中で踊る。世界が回る。


 気付けば眼前に幌布が迫っていて、私は咄嗟に短剣を突き立て、幌を破いた。それを待っていたかのように積み荷だろう何かが私の体に勢いよくぶつかり、鋭い痛みを感じると共に、その勢いに押されるように裂けた穴から体が外へと飛び出る。

 一瞬見えた眼下は闇。そして、私はすぐに全身を固い地面に打ち付けた。落下の勢いのまま体が跳ねて、近くに自生していた木の幹にぶつかってようやく止まる。


 静かな山に轟音が轟き、驚いた鳥達が一斉に飛び立って一気に辺りが騒がしくなる。

 痛みに霞む視界に見えたのは、山肌が剥き出しの急斜面と、その上を走る曲がりくねった山道。駆け去る一頭の馬と人。

 御者と馬一頭を失った荷馬車が、道を曲がり切れずに落下したのだ。


 からからと落下の余韻が辺りに虚しく響く中、私は途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止め、両腕に閉じ込めた小さな体を見下ろした。

 背中も腹部も足も頭も腕も、全身くまなく痛んで仕方がないけれど、せめてこの子の無事を確かめるまでは、気を失っては駄目。そのまま死ぬのも、もっと駄目だ。


「……ぃ、じょ……ぶ?」


 私の発した声は酷く掠れて、相手にちゃんと聞こえているか怪しいくらい微かだった。けれど腕の中の少年にはちゃんと届いたようで、涙を溜めた大きな瞳がしっかりと私を見上げるその姿に、私は心の底から安堵する。


「よか……た」


 ちゃんとこの子を守り通せた。一緒に人攫い達から逃げ出せた。

 四方から聞こえる馬の蹄の音に交じって、男が逃げただの、女はどこだだのと言葉を交わす声もいくつか耳に届いてくる。


(……ああ、もう大丈夫。騎士様達が来たなら、この子は無事に家に帰れるだろう。私が死んでも、この子はきっと生き延びる)


 私は一つ、ゆっくり大きく息を吐いた。


「お姉……さん?」


 私の腕の中から体を起こした少年が震える声で呼びかけてくるけれど、それに応える力はもうない。開けているのも億劫な視界の中、横転した荷馬車から人影が飛び出してきたのを目にしても、もう指一本すら動かせない。


「この……っ! この、クソガキ共がぁああああ!!」


 目を見開いた、血塗れの恐ろしい女の顔がこちらに迫る。咄嗟に、少年が私を庇うように覆い被さってきた。そんなことをせずに逃げろと言いたいのに、言葉が出ない。やっと逃げ出せたのに、何もできない。

 血に濡れた鉈が月夜に寒々しい光を放ち、私達に振り下ろされる――


 刹那。


 眼前に迫った鉈が月光を帯びた一閃に弾かれ、殷々と響く金属音と共に宙に舞った。


「殺すなよ、レナート!」


 すぐ脇から声が飛び、それに応えるように私達の目の前に現れた人影は、女の体をいとも容易く地面に引き倒し、鮮やかにその意識だけを刈り取った。

 月の光を背に受けて、金の髪が輝く。その姿は、いつか読んだ物語に出てくる月華の騎士のように美しく、死ぬ前に見る景色としてはなんて贅沢なのだろうかと、場違いにも私は心の中で笑った。

 十六年生きてきた最低な人生の最後のご褒美としては、悪くない。


「エイナー様、ご無事ですか!」

「ぼ、僕よりお姉さんを助けて、レナート! 血が止まらないんだ!」


 月華の騎士が素早く歩み寄り、振り返った少年が必死に叫ぶ。その隣に馬から降りてきた男性も並んで、倒れた私に気付いて眉を寄せた。


「あの夫婦の娘か」

「兄様、お願い! お姉さんを死なせないで!」


 少年とよく似た、けれどすっかり成人した精悍な顔が少年の言葉を受けて周囲に指示を飛ばす。その姿に、だから私は少年に見覚えがあったのかと、妙に冴えた頭で納得していた。


 少年――エイナーをどこかで見たことがあると思ったけれど、それは兄の方だったらしい。


 いつだったか、どこだったかは思い出せない。けれど確かに、華やかな夜会の席で、私はその姿を目にした記憶がある。今、目の前にいる覇気ある姿とは裏腹に、暗く重く張り詰めた表情で、全身を黒い衣服に包み、黙して佇む、夜会に不似合いの異質な姿。

 白い肌に浮いた紅色の瞳だけが、まるで宝飾品のように、けれど血に飢えた獣が獲物を探すような、そんな恐ろしさを秘めて輝いていたのを思い出した。


 だから私は、あんなに必死にエイナーを助けようとしたのかと、自分の行動の不思議さも腑に落ちた。ただでさえ小さな子供が見知った顔であったなら、必死にもなると言うものだ。


「お姉さん、死なないで!」


 エイナーの叫びに、私は大丈夫だよと心の中で答える。


(……「今の私」は死ぬだろうけど、きっとまたどこかで「新しい私」が生まれるから……)


 誰の元に生まれてくるかは、分からない。もう一度エイナーに出会えるかどうかも、分からない。それでも「私」は、今日の出会いを忘れることなく、新しい人生を生きるだろう。

 そう言う意味では、「私」は決して死んだりしない。

 だから、そんなに泣かないで。

 小さく温かな手が私の手を強く握り締める感覚を最後に、私の意識は暗転した。

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