王の私室にて
湿り気を帯びた風が吹き込む、王の私室。
昨夜とは打って変わって静まり返った夜の王都に、ひたひたと雨の気配が近づいていた。
王都の街並みを眺めていたイェルドが開け放っていた窓を閉め、キリアンの対面に座る。
「今年はどうやら、大豊作の年になりそうだ」
「……そのようですね」
皮肉めいた笑みを口端に浮かべながらの父の言葉に、キリアンは言葉少なに答えた。
芽吹きの祈願祭のすぐあとに雨が降る年は豊作になる、とは、古くからの言い伝えだ。生命の泉の女神リーテが、祈願祭での人々の感謝に応えて、恵みの雨を降らせてくれるのだ。
その為、祭りを終えたあとで雨が降るかどうか、また、降るならばどれくらいの雨で幾日続くのか。それらを見れば、その年の作物の実り具合がおおよそ分かると言われている。
今年は、ミリアムと言う正真正銘の泉の乙女が祈願祭に参加し、レナートとオーレンと言う二人の実力者が素晴らしい決勝を披露してリーテの雫が湧き、更には泉の乙女の生き生きとしたダンスまで披露されたとあっては、豊作にならないわけがない。
神とは実に現金な生き物だと零すイェルドは相変わらず皮肉げで、神に対しての態度があからさまに刺々しい。その態度のまま、イェルドの口からは嘲弄めいた調子で言葉が続く。
「そう言えば、聞いたぞ? お前、自分の騎士を泉の乙女に宛がったそうじゃないか。我が息子ながら随分と過保護なことだが……シアーシャのことでも思い出したか?」
父イェルドは、私室に息子であるキリアンと二人きりの時には、普段のよき王としての仮面を脱ぎ去る。本来の自分を曝け出せる相手として認められているのだと思う反面、父の本心を知らされることが、キリアンにはいつも、少しばかり恐ろしかった。
琥珀色の酒で満たされたグラスを片手に、その酒より明るい夕日色の瞳が、面白そうな色を湛えてキリアンを見つめる。
キリアンは嫌なことを聞かされたと顔を顰め、イェルドからわずかに視線を逸らした。
シアーシャとは、十二年前に四歳と言う若さで亡くなった妹のことだ。
「あの子が生きていれば、今頃はミリアムと同じ歳だ」
ミリアムにシアーシャを重ねているのだろう、と言外に含まれた棘に、キリアンは一層眉を寄せる。言い返すことができないのは、少なからずイェルドの言葉が当たっているからだ。
あの子が生きていれば、もしかしたら――ミリアムと言葉を交わす度、ミリアムがエイナーと楽しく会話をする姿を目にする度、そんな思いが過らなかったと言えば嘘になる。
だが、そのことを嘲弄と共に父に指摘されるのは、気分のいいものではない。
「悪いことだと言っているわけじゃない。私だって、庭園で共に過ごした時には思ったものさ。シアーシャが生きていれば、こうして会話を楽しむこともあっただろうかと。お陰で、彼女には少し意地の悪いことをしてしまったが……なかなか楽しめた」
意外にも肯定する言葉がイェルドから出て来て、キリアンは逸らしていた視線を父へと戻した。だが、その瞬間、鷹の目を思わせる鋭く冷たい視線がキリアンを射る。
「それでも、私は使う時は誰であれ使う。相手に甘くなりすぎるのは、お前の欠点だ」
「……っ」
「お前は、己の懐に入れた者には誰であれ甘いからな。それでは……王の器には到底足りない」
己が決めた行動の結果、ミリアムを傷付け、怒らせたことを悔いているようではまだまだだと、まるで昼間の出来事を見透かすような厳しい言葉に、キリアンは口を引き結んだ。
加えて、エイナーに対するキリアンの甘さも、そこには含まれているのだろう。
側近達からも度々言われ、キリアン自身も頭では理解しているものの、エイナーがこの手を離れて先へ進んでしまうことに対する抵抗が、どうしてもまだキリアンの中に存在する。少しずつ受け入れて弟の成長を喜んでも、自分から思い切ってすっかり手を離すことは、いまだできないままだ。
イェルドは、今のキリアンの歳でこの国の王位を継いだ。そんなイェルドから見れば、弟一人その手を完全に離してやれない今のキリアンは、到底自分の後を継がせるに足る人物ではないのだろう。まして、国を背負う覚悟もその準備も、お世辞にも足りているとは言い難い。
こんなことでは駄目だと分かっているのに、成長できていない。実に耳の痛いことだ。
気持ちを切り替えるように、キリアンは手にしたグラスの中身を呷り、息をつく。相変わらず、欠片も酔えない酒のよさは、キリアンにはいまいち分からない。それでも、ただイェルドからの厳しい言葉をその身に受け続けるよりは、気が紛れると言うものだ。
いっそ、記憶を飛ばしてしまうほど酔えたならどんなにか幸せだろうと、何度思っただろうか。飲み干したグラスを眺めながら詮ないことに思いを馳せて――その視界が、不意にぐらつく。
「……?」
グラスが手の中から滑り落ち、絨毯の上を転がっていく。視界が回り、ただ座っていることもままならない。急なことに混乱しながらも、何とかソファに倒れ込むことだけはと体を支えようにも上手くいかず、キリアンの意思とは裏腹に、右側面がずるずるとソファに沈んだ。
「……っ」
「やっとか」
弾む声に回る視界を必死に己の父へと向ければ、声音同様楽しげに笑う瞳とぶつかる。イェルドの手にはいつの間にか懐中時計が握られ、さて、今回はどの位で回復するかな、と愉快そうに時間の計測を開始していた。
「あ……ん、たは……っ!」
キリアンは、瞬時にしてやられたことを悟った。同時に己の迂闊さを痛感して、顔が歪む。久々に私室に呼ばれて何も起こらないわけがなかったのに、日中の出来事に加え、先の会話で、全く油断した。
「お前がなかなか酒を飲んでくれないものだから、怪しまれているのかと心配したが……どうだ? 今回の薬は?」
至極楽しげにこちらに近づいてくるイェルドを、キリアンは今できる精一杯で睨みつける。
「……ふ、ざけ……っ」
何が薬だ。この父は、凝りもせず、また息子のグラスに毒を仕込んだのだ。毎回、楽しそうにこちらを観察する性格の悪さは、何度殴ったか知れない。
それにしても、今回は一体どんな強力な毒を仕込んだのだろうか。
キリアンの体は、自然の中に存在する動植物や昆虫の毒、一般に出回る毒は元より、普通の人間にとっては即死してもおかしくないような猛毒ですら、数秒と経たず回復する。だと言うのに、今回は見事に体の自由を奪われ、口も上手く動かせない。耳の奥では激しく鼓動する心臓の音が聞こえて、酷い眩暈に吐き気まで加わり、気持ち悪いことこの上ない。
一体、自分は何を盛られたのか。
「今回は自信作だ。お前には、人間の手で作った毒はもう効かなくなってしまっただろう? だから聖域の民に頼んで、普通の人間であれば一滴の半量で死に至るほど強力な毒を作ってもらった。流石に、人ならざる者の手が作り出した毒はお前にも多少は効くらしいな」
回復が遅れていることに眉を寄せたキリアンに気付いたのだろう、イェルドが頼んでもいないのに、意気揚々と毒について語ってくれる。だが、聞かされる内容は全く笑えない。
そんなとんでもない毒物を頼む方も頼む方だが、作る方も作る方だ。おおよそ作った人物に心当たりはあるが、それにしたってなんてものを息子に試すのか。
キリアンを殺させない為に、クルードの加護が全力でキリアンを生かすことを知っているとは言え、あんまりではないか。
「ちなみに、それを小瓶丸々一本分、お前のグラスに入れておいた。これは無色透明で無臭……無味かどうかは知らないが、お前が酒の味の分からない馬鹿で助かったよ。私ならこんな薄まった酒、不味くて飲めやしないからな」
挙句に、これだ。
誤って人の手に渡ってはいけないだろうと嘯くが、単に全量飲ませて息子の体にどれほどの影響が出るのかを見たかっただけ。キリアンを嘲笑うイェルドの態度には、キリアンがそう確信を抱かせるだけのものがある。
「……ク、ソったれ……!」
「いくら罵倒されても、自由の利かないお前など可愛いものだな」
回復したら真っ先に殴ってやるとの気持ちを込めて悪態をついてみるも、イェルドには欠片も響く様子がない。
そのままキリアンの隣に腰を落としたイェルドは、動けないでいるキリアンを上から覗き込み、忙しない呼吸を繰り返して動く喉に、するりとその手を宛がった。
「お前に多少なり効く毒がまだ存在していて、安心したよ」
じわりと、首を掴む指に力が込められる。徐々に気道が圧迫され、毒による苦しさに加え、呼吸の苦しさがキリアンを襲う。
「いくら死なないとは言え、こうして呼吸を止めてやれば、お前と言えども気絶はするな? いつか、今回のように毒で自由を奪われ、意識を奪われ、捕らえられる……そんな事態に陥る可能性が、ないとは言えない」
お前は考えたことがあるか、と耳元で囁かれ、キリアンは反射的にイェルドを睨みつけた。せめてイェルドの腕を引き剥がそうとするが、ろくに力の入らない腕では持ち上げるのが精々でイェルドの手を掴むには至らず、力なく添えることしかできない。
そんなキリアンの様子を鼻で笑い、なおも首を絞める力を強めながら、イェルドは淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「もしくは、毒で自由を奪ったお前に、更にその意思を奪う薬を盛る可能性もある。そうなれば、お前の中のクルードの力がお前を回復させるまで、お前は相手の言いなりだ。それが例えわずかな時間でも、クルードの愛し子を屈服させた事実は、相手に大きな意味を与えることになる」
「ぐ……っ」
クルードの愛し子であることを過信するからこうなるのだと、イェルドの言葉はキリアンの弱い部分に容赦ない刃を突き立ててくる。
毒による不自由な体と強く圧迫される首、その為に制限される呼吸、そして父からの言葉に顔を歪めながらも、キリアンは何とか自由を得ようと藻掻いた。
だが、十全でない体の抵抗はイェルドにとっては児戯に等しい。キリアンの足掻きをものともせず体重をかけて伸し掛かり、イェルドの言葉が更なる毒のようにキリアンの耳から内側へと侵食してくる。
「……いや。そんなまどろっこしい方法を取らずとも、エイナーかお前が心を許す女でも人質に取れば、お前の意思など容易く折れるか」
「……っ!」
お前は甘いものな、と先の指摘を繰り返して嗤うイェルドに、キリアンは咄嗟に脳裏に浮かんだ一人の姿を振り払った。歯を食いしばり、渾身の力を込めてイェルドへ向かって拳を突き出す。
先ほどに比べれば力の戻った拳は、だが、ぱしりと軽い音と共にあっけなくイェルドに受け止められ、逆に捻り上げられる。それでも、その頃にはようやくキリアンの体にも自由が戻りつつあった。
イェルドの手を首から離すことに成功し、呼吸の苦しさから解放されたこともあるのだろう。キリアンは咳き込みながらも力任せに腕の拘束を解くと、今一度、自分に馬乗りになっているイェルドの顔面へと拳をお見舞いした。
だが、不安定な体勢と感情の高ぶりは拳が目標を捉えることを妨げ、またしてもイェルドに簡単にあしらわれてしまう。
「明日は会議があるんだ。顔は勘弁してほしいな」
「ふ、ざっけるな!」
余裕の表情を崩すことなく立ち上がったイェルドは、いまだふらついて万全でないキリアンの悪態を無視し、懐中時計の針を読み取って片手を顎に当てた。
「……ふむ、一分半か。聖域の民の毒でも、この程度……」
どこか落胆しているようにも聞こえるイェルドの声は、キリアンの怒りを爆発させるのに十分だった。
たかが一分半、されど一分半。
想像を絶する毒性を持つ毒を飲まされ苦しんだその時間は、首まで絞められたキリアンにとってはあまりに長かったと言うのに、イェルドにとってはあまりに短いと言わんばかりだ。
「いい加減にしろよ、クソ親父が!」
わざわざ顔はやめろと声に出すと言うことは、顔を狙えと言っているようなもの。せめて一発でも、この憎たらしい父の顔に拳を入れなければ、キリアンの気が済まない。
毒の影響か、頭が割れんばかりの酷い頭痛が尾を引く中で立ち上がったキリアンは、無防備に立つイェルドに向かって拳を握り――一歩を踏み出したところで、何故か足を縺れさせてイェルドへと倒れ込んでしまった。
「――は?」
その瞬間、キリアンの視界がとうとう暗転し、全身から力が抜ける。
「おっと」
先ほど毒を飲まされた時とは違う全身の脱力感に襲われ、キリアンは咄嗟に腕を出したイェルドに抱き留められるように支えられた。それでも、己の身体を支えていられない両足は膝から崩れ落ち、キリアンの口から意図せず呻き声が零れる。
これには、流石のイェルドもふざけている場合ではないと感じたのだろう。笑みの気配のない声が耳元でキリアンの名を呼び、そして、それまでの態度が嘘のような優しい手つきで、キリアンはソファに寝かされた。
「……流石に、一瓶はやりすぎたか」
今日、初めて悔いるような声音を出したイェルドを霞む視界の中に捉えて、キリアンもようやく自分の体に起こった異変を理解した。
あまりにも強すぎる毒を解毒するのに予想以上にクルードの力が働いた結果、人としてのキリアンの体が悲鳴を上げたのだ。酷い頭痛はその前兆。それを無視して動いた所為で、とうとう限界が来てしまったと言うことなのだろう。
まさかこんなことになるとはキリアン自身予想外で、頭痛と眩暈、それに酷い倦怠感を訴える自分の体に対して、気分の悪さ以上に奇妙な感心をしていた。それでも、ここぞとばかりイェルドに文句を言うことは忘れない。
「……少しは、加減をしろよ……」
思いの外弱々しい声になったことに驚きつつ、けれどそれがイェルドに対して絶大な効果を発揮したことに少しだけ留飲を下げ、キリアンは目を閉じた。
後悔を滲ませて眉を寄せるイェルドを笑う気力すら、残念ながら、今はない。
前髪をかき分けて額に触れるイェルドの手つきは相変わらず酷く優しく、後悔するくらいなら、初めからこんな無茶をやらなければいいのにと思ってしまう。だが、同時にイェルドの考えも分かってしまうから、責めるに責められない。
強引ではあったが、今回のことで、キリアンの体には聖域の民の作った毒物に対する耐性ができ上がった。無理やり、その耐性を付けさせられた。
種類にもよるが、次に聖域の民の毒を体内に入れたとしても、今回ほど回復に手間取ることは、もうないだろう。なんせ、一滴の半量で人を殺せる毒を、その何百倍の濃度で飲まされたのだ。これでまた一つ、キリアンに効かない毒の種類が増えたことになる。これは、キリアンにとって新たな武器を手にしたのと同じだ。
そして、イェルドがこんなことをした理由は、ただ一つ。
今回のエイナー誘拐の首謀者の背後には、恐らく聖域の民がいるのだろう。それも、イェルドが警戒し続けている、二十五年前に取り逃がしてしまった者が。
だからこそ、こんな無茶をしてでも、イェルドはとびきり毒性の強い毒をキリアンに飲ませたのだ。今のキリアンに足りないものを補わせる為に。キリアンを守る為に。
時に偽悪的に振る舞うこの父の愛情は、どうにもひねくれていて素直に喜べない。
もしも自分がクルードの愛し子などではなかったなら、父ももう少し素直に愛情を示してくれただろうか。そんな父に対して、自分は彼の望むことのどれほどを成し、返すことができているだろうか。
これまで幾度となく考えたことが再び脳裏を過り、キリアンは微かに口の端を歪めた。