王城を辞すまでに
「――それで。ミリアムをフェルディーン家に保護してもらう日程についてなんだが……」
考え事をしていた私の耳に、ようやく立ち直ったキリアンの声が入って来て、私もそうだったとはっとした。私の保護先が決定したと言うことは、つまり、この王城での滞在も終わりを迎えると言うこと。
もう、これまでのようにテレシアと共に過ごしたり、気軽にエイナーとお茶をしたり、そんな時間は過ごせなくなるのだ。そもそも、王城で過ごす人達と会う機会自体が格段に減るだろう。
いつかは城を辞す時が来ると分かってはいても、それがいざ目の前に迫っていると思うと、急に寂しさが湧き上がる。
私がこの王城で過ごせるのは、あとどのくらいなのだろう。
「アレックス殿達は、今どの辺りに?」
「二日前に、ペンシェの港からそろそろ船が出せそうだと連絡が来たから、恐らく今頃は海の上。帰国までは一月弱と言ったところだろうな。……アレックスの馬鹿が無茶を言わなければ、だが」
「帰りはサロモン殿も一緒なのだろう? 流石のアレックス殿も、仕事を疎かにはしないのではないか?」
「……そう願うよ」
キリアンとレナートの会話に、私も何度目かのイェルド達の会話を思い出す。あの時も、イェルドは今頃船の上と言っていた。西海の、どこかの国にいたとか。
これはもしかして、私の王城滞在は今しばらく続く、そんな予感がする。
「アレックスさんは、今エリューガルにはいらっしゃらないんですか?」
期待を込めて詳細を知りたいと尋ねれば、レナートは私の願い通りに首肯した。
「しばらく前から、西海にあるエルメーアと言う島国に滞在しているんだ」
「お仕事、ですか?」
「半分は」
半分。では、もう半分は旅行だろうか。エリューガルは雪深い国だと言うし、雪の季節の間を避寒地で過ごす人が多いのかもしれない。
そんなことを考えていた私の耳に、これまで知らなかったレナートの家族の話が再び飛び込んで来た。
「俺の姉が、エルメーアに嫁いでいるんだ」
先ほど、会話の中で何気なく弟がいたことは告げられたけれど、まさか姉までいたとは。
元騎士の母を持ち、三人姉弟の真ん中で、フェルディーン家の長男。
新たに知らされたレナートの騎士以外の面と、これまで全く気にしたことのなかった家族の話に、私は無性に興味を引かれてレナートの言葉に耳を傾けた。
レナートが言うには、エルメーアに嫁いだ姉が第三子の出産を控えており、アレクシアはその立ち合いと避寒を兼ねて、数か月前にエルメーアに発ったのだとか。その後、商会を営む父サロモンがエルメーアでの買い付けを兼ねて生まれた孫の顔を見に、アレクシアから二月遅れでエリューガルを出発。
本来なら芽吹きの祈願祭に間に合うよう帰国するつもりが、久々の娘や孫との再会、生まれた孫の可愛さについつい滞在が延び、レナートの手紙で私のことを知って即帰国を決めたものの、天候の悪い日が続いてなかなか船が出港できず、ようやく先日出立できた――と言うことだそうだ。
ちなみに、騎士を辞した後のアレクシアは現在、フェルディーン家が持つ私兵団を取りまとめる立場にあるそうで、サロモンがエルメーア到着後は、サロモンの護衛や買い付けた荷の護送の指揮を取っているのだとか。
それで、先のレナートの「仕事半分」発言だったわけだ。
そして私の保護に関しては、手続きに際して、保護者として名乗り出たアレクシア本人の署名が必要となる為、アレクシア達が帰国するまでは、これまで通り王城での滞在が続くのだと。
「それから、あなたが泉の乙女と知れてしまった以上、王城内と言えど護衛は必要だ。今後のフェルディーン家での生活のこともあるし、あなたにはレナートをつけるから、色々と話を聞いておくといい」
レナートの話の最後にキリアンからさらりと付け加えられて、私は驚きに目を瞬いた。
「そんな! レナートさんはキリアン様の騎士なのに!」
いくら私がリーテの愛し子だとしても、エイナー誘拐の首謀者側に私の存在が知られたとしても、流石に人様の騎士を私の護衛にと言うのは、気が引ける。
それとも、私の怒りをそれほどまでキリアンに気にさせてしまったのだろうか。そうだとしたら、やりすぎてしまって申し訳がない。
許さないとは言ったものの、キリアンがうっかり呟いたように、祈願祭での一件についてはもう、私の中に怒りは残っていないのだから。どこまでも私の為を思ってしてくれたことに対していつまでも怒りを抱き続けるほど、私はしつこい性格はしていない。
ただし、首謀者がちゃんと捕らえられなければ、エイナーにも私にも身の危険が付きまとい続けるわけで、それはそれで怒るけれど。
「そんなことは気にしなくていい。この件に関しては私に一任されているし、レナートも了承済みだ」
「王城に滞在している間に、アレックスについては君に色々と話して心構えをしておいてもらわないと、大変なことになりそうだからな……。帰国が遅れてくれて助かったよ」
キリアンに続いてレナートからも決定事項だからと言われたものの、不穏な言葉にはどうしても顔が引きつってしまう。
「……何が、そんなに……?」
やはりアレクシアは、ただ強く美しい元女性騎士と言うだけではなく、暴風のような面もある人なのだろうか。恐る恐るレナートを窺えば、レナートはすいと彼の対面に座るテレシアを指差した。
「昨日の、上機嫌のテレシアを覚えているか?」
私を着飾れる喜びに満ち満ちて張り切っていたテレシアを――
あの笑顔は、忘れようと思っても忘れられない。着せ替え人形よろしく、たちまち私をテレシア好みに飾り立てられた、私にとってはある意味恐怖体験とも言える出来事は、私の記憶にしっかり刻み込まれている。
私が頷くと、それを見たレナートは殊更重々しく、私に告げた。
「アレックスは、上機嫌なテレシアを一度に五人、相手にするような女だと思ってほしい」
「ひょ……っ!」
衝撃的な言葉に、思わずおかしな音が私の口から洩れた。そして、レナートが「身の安全と言う面では」と、妙に気にかかる言い方をしていたことの意味を、正確に理解する。
これまでの話から、私の身の安全については文句なしであることは納得していた。フェルディーン家の屋敷も商会も私兵団が常に警護していると言うし、商会にとっての要人には護衛もつけると言う。よほどの馬鹿や命知らず、無謀者でなければ、まず手を出さないとなれば、私にとっては怯えることなく過ごせる快適な保護先だ。
けれど問題はそちらではなく、共に暮らすことになるアレクシア本人だったとは。
ただでさえテレシア一人にいいように振り回されている私が、テレシア五人分を一度に相手にして、好き放題に振り回されないわけがない。
私にとってのテレシアが渦巻く強風だとしたら、きっとアレックスは暴風どころではなく大嵐だろう。アレクシアにいいように揉みくちゃにされては疲弊してベッドに倒れ込む日々を想像して、私は背筋を震わせた。
「俺の方でもアレックスが無茶をしないよう気を付けるが、ミリアムも自分の意見をしっかり持って、嫌だと思ったらはっきりそれを口に出してほしい」
そうでなければ、アレックスに流されるままだ。
私にとっては脅しにも聞こえるその言葉を、遠慮したら死ぬとばかりに、私はしっかりと自分の胸に刻み付けた。
これまでにも、キリアンに何度となく言われてきたことでもある。
ただのミリアムに遠慮は不要。意思表示ははっきりと。
これからフェルディーン家に移るまでの約一月、せめて遠慮癖だけは治そうと、私は心に誓った。
「私、頑張ります……っ!」
「ミリアムが羨ましいわ、アレックス様と一緒に暮らせるなんて!」
気合を入れて宣言する私に、テレシアが私とは少々感覚のずれたところで羨ましがる。
テレシアの性格ならば、確かにアレクシアと気が合うところもあるのだろうけれど、羨ましがられてもちっとも嬉しくない。私にとってテレシア五人分は、恐怖以外の何物でもないのだから。
そのまま続けて、テレシアの口が何やらアレクシアについて熱く語っていたけれど、私は全力でそれを聞かなかったことにした。今の私はそうしなければいけないと、全身が警告を発していたから。だから、紅茶を飲むことに意識を向けてテレシアが喋る言葉を聞き流し、無心で紅茶を喉に流し込んだ。
その結果、盛大にむせて三人を慌てさせてしまったけれど、お陰ですっかりアレクシアのことから話題を逸らすことができたのは、結果的によかったと言えるだろう。
そうして、祈願祭のことと私の保護先のこと、執務室で話すべきことを全て話しきったところで、キリアンが執務机から細い鎖のついたガラスの小瓶を取り出し、テーブルへと置いた。
「ミリアムに、これを渡しておこう」
小振りの香水瓶のような見た目の小瓶。中には透明な液体が入って、窓からの光に煌めいている。
「昨日湧いた、リーテの雫だ。神官から一瓶譲ってもらった」
小瓶に伸ばしかけていた手が、思わず途中で止まる。
「い……いいんですか? そんな高価なものを、私がいただいても……」
アルグライスでは、平民でもそこそこ豊かな暮らしができる者でなければ、それなりの効果が付与された品は買えない程度には、聖水とは基本的に高価なものだ。
昨日、銀杯になみなみと湧いたとは言え、杯自体はそんなに大きく深い作りではない為、全体量は決して多くはなかった筈。そんな希少価値の高いものを、私に。
「あなたが泉の乙女だったからこそ、リーテが生命の杯に満たしてくれたものだ。一番の功労者であるあなたに渡して悪いことなど、一つもないだろう?」
「ありがとう、ございます……」
「ただし、あなたが知る聖水とは、効果が異なる。今はあなたの身を守るお守り代わりとして、身に付けておくといい」
よく見れば、瓶の蓋には容易に開けられないよう、封をした上に更に糸が渡され、瓶の中にリーテの雫を厳重に閉じ込めてあった。
元より、高価なものを安易に使うつもりもないので、これだけ厳重であればうっかり使ってしまうこともないだろうし、本当に聖水に頼りたくなった時にこそ使おうと言う戒めにもなりそうだ。
恐る恐る瓶を手に取り、鎖を首にかける。そうしておいて、私は小瓶を改めて目の前に翳した。
透明のガラス瓶の中一杯に満たされた聖水は、当たり前のように無色透明であったけれど、ただ眺めているだけでも、不思議と、そこに確かな力が秘められていると感じるものだった。
私のこれまでの人生でまともに聖水を手にしたことは数えるしかなく、実際に使用した回数ともなればもっと少ないけれど、これまでの私の聖水に対する印象は、清らかな水程度のものだったことを思えば、なるほどキリアンの言うように、私の知る聖水とリーテの雫とでは「何か」が違うようだ。
吸い込まれるように瓶の中身を見つめて――この聖水は生きている、と、何故か私にはそう思えた。
「……あの」
「図書館に行くといい。レナートを連れて歩けば、大抵の場所への出入りは自由だ。あと一月。あなたの知りたいもの、見聞きしたいもの、触れたいもの、あなたの望むようにその手にするといい」
どこか悪戯めいた笑みが、キリアンの口元に浮かんでいた。
つまり、今私の抱いた感覚の正体は、図書館へ足を運んで自力で答えを見つけろと。
それは、城の中を自由に歩いていいと言えば聞こえはいいけれど、頑張って勉強しろと言っているのと同じだ。これまで一方的に偏った情報を教えられてきた私のことを思ってのことだろうけれど、握っていた手を唐突に離すような態度には、少々呆気に取られてしまった。
けれど、これでようやく城の中を歩き回れると思うと、キリアンの意地悪に対する不満よりも、期待の方が俄然高まる。
せっかく散策できると思ったのに、結局祈願祭までの間はこれまでの生活と変わらず部屋の中から出ることができなかった不満も、いい具合に私の中で溜まっている。それらを解消できる機会をようやく手にできたとなれば、一日とて無駄にはできない。
「キリアン様。レナートさんは、いつから私の護衛についていただけるんでしょう?」
「あなたが望むのなら、今からでも」
その答えに、私はレナートへと顔を向ける。期待を込めて。
果たしてレナートは、私の望みを正確に理解した顔で笑って頷いてくれた。
「城内を案内しながら、図書館に向かうとするか」
「ありがとうございます!」
嬉しさが私にレナートの手を取らせ、主の為に剣を握る力強く逞しいその手を、私は感謝の気持ちを込めて両手で握り締めていた。
その後、程なくしてキリアンの執務室を辞した私は、レナートの言葉通り、彼の案内で城内を巡りながら図書館を目指した。
黒竜クルードの礼拝堂、昨日の祝宴会場になった大広間、大食堂にサロン、浴場。絵画から彫刻まで、様々な美術品が収蔵されたいくつもの部屋に、歴代王族や国の発展に寄与した者達の肖像画が飾られた、黒翼の間と名付けられた部屋。
アルグライス王城ですらまともに見たことのない私には、実に新鮮だった。
外に目を向ければ、城の裏側には見張りの為の北塔が建ち、複数の騎士が詰める姿が。その脇には王家の森へと続く裏門があり、やや離れた城の東側には、人を寄せつけない雰囲気の尖塔が一棟。
そして、文官達の詰める執務棟から歩廊で繋がった先に、リンドナーの屋敷ほどの大きさの、一棟丸ごと書物が収蔵された図書館が建っていた。
途中、文官と連れ立って歩くイーリスと会って少し立ち話をしたり、行き交う人の多くに驚きや興味の視線を向けられたりしながら図書館に足を踏み入れた私は、早速、エリューガルの歴史にまつわるものや、クルードやリーテに関するものを数冊手に取る。
更にはレナートの許可の元、図書館内の奥まった一室、厳重に鍵を掛けられた書庫室でリーテに関する禁帯出本を借り、時間の許す限りを図書館内で過ごしたのだった。
*
ミリアム達が退室したあと――その、執務室内。
詰めていた息を盛大に吐きながら、キリアンは大仕事が終わったと言わんばかりにソファにだらしなく身を預けていた。そうしながら茶器を片付けるテレシアの姿を眺め、両手で顔を覆う。
その手の間から漏れ出て来るのは、情けない呻き声ばかり。
「よかったわね、許してもらえて」
しばらくしてテレシアがキリアンの隣へと戻り、ソファがわずかに沈んだ。その動きに身を任せるように体を倒して、華奢な肩に頭を乗せる。
「……心臓が止まるかと思った」
「何を言ってるの。クルードに守られているあなたの心臓は、止まったりしないでしょう? 大袈裟なんだから」
力なくソファに落としたキリアンの手に、テレシアの細い手が重なる。
「……彼女が、あそこまで怒るとは思わなかった」
「違うわね。ミリアムの性格なら、怒ることができないと思っていたんでしょう」
テレシアの指摘に、キリアンは痛いところを突かれたと顔を顰め、無言をもって答えを返す。
「エイナーが変われたように、ミリアムだって変われるのよ」
「……そうだな。肝に銘じておく」
一回り小さな手に指を絡め、その柔らかさを確かめるように、そっと握り締める。
「そうしてちょうだい。リーテの愛し子なら、クルードの愛し子の心臓を本当に止めてしまえるかもしれないもの」
冗談めかして言うテレシアに、キリアンは眉を寄せた。
「……笑えない冗談だ」
「そうね。私を幸せにしてくれる前にあなたに死なれちゃ、困るわね」
肩口から顔を上げたキリアンの紅い瞳と、テレシアの若葉色の瞳が間近で見つめ合う。
「それは、困るな……」
キリアンがぽつりと呟き――執務室に、柔らかな沈黙が落ちた。