母の親友
しんとした執務室に、私が張った声が響く。声の大きさに驚いたのか、止まり木の鷹が羽を広げた羽音がわずかに聞こえて、あとには沈黙が落ちた。
その中で、最初の音は私の隣から。レナートが吐息に混ぜるようにふっと笑うと、テレシアも一拍遅れて目を丸くする。最後にキリアンが、信じられないものを見るかのように瞳を瞬いて、ぽつりと零した。
「……許して、くれるのか」
「キリアン様は耳が悪いんですか? それとも王族の耳は、都合の悪いことを勝手に都合よく解釈してしまうものなんですか? ……誰が許すと言いました」
「あ……い、いや……」
私が半眼でじとりと睨めばキリアンは慌てた様子で背筋を伸ばし、けれど私としっかり目を合わせることから逃げるように、視線を彷徨わせる。ついでのように私が腕組みをしてつんとそっぽを向けば、今度は目に見えて狼狽え、ソファから完全に腰を浮かせていた。
いつもの自信溢れた完璧な王子の姿から一転、すっかり情けないキリアンのその姿は、不意に私の中に悪戯心を生み出した。
昨日一日、私を振り回しに振り回したのだから、これくらいの仕返しは甘んじて受けてもらいたい。
「私の保護先だって、私の身の安全を保障してくれる方のところでないと、お話は受けませんから!」
私は、さも怒りは収まっていませんと言った風に口を尖らせ、ついでのように、これから話される筈の保護先についても注文を付けた。
その途端、キリアンの顔がぱっと輝き、名誉挽回の機会が到来したとばかりにテーブルに身を乗り出して、保護先の話題に飛びつく。
「そ、そのことなら心配ない! あなたの保護先には、エリューガル国内で最も相応しい者を選んでいる!」
だから、どうか機嫌を直してくれ――そんな思いが透けて見えるキリアンに、私は胡乱げな視線をちらりと寄越した。
その態度をどう取ったのか、キリアンが慌てて言葉を重ねる。
「う、嘘じゃない! 本当だ! 信じてくれ、ミリアム! ……ああ、レナート! お前からもミリアムに言ってやってくれないか! 頼む!」
ついにはレナートに助けを求め出し、必死に懇願し始める始末。
これは流石にやりすぎたかと私が組んでいた腕の力を緩めたところで、レナートがやれやれとばかりに一つ、息を吐いた。
「ミリアム。キリアンの言うことは嘘ではないから、どうかその怒りを鎮めてくれないか」
レナートの優しい声に、私は殊更ゆっくり、さも仕方なくと言った体で顔を正面に戻した。それでも、あからさまに安堵の表情を見せるキリアンに対して、最後に一度、念を押すように顰め面を向ける。
「言っておきますけど、許したわけじゃありませんから」
「……あ、ああ……」
「これだけは約束してください。これからは、ちゃんと私に話すと。どんな危険なことでも、どれだけ私の為だったとしても。必ず、私に話してください。……もう、わけも分からず巻き込まれるのはごめんです」
逸らすことは許さないとキリアンの瞳を覗き込めば、キリアンも神妙な顔で、はっきりと頷いた。
「分かった。約束する。なんなら、クルードとリーテに誓ってもいい。もう二度と、あなたに黙って事を成すことはしない」
真っ直ぐに私を見つめて交わされた約束の言葉に私も一つ頷いて、分かりましたと応える。
そして、胸を撫で下ろしたキリアンへ、改めて保護先について問うた。
「本当に、その方の保護下に入れば、私の身の安全は保障されるんですか?」
「勿論だ。あなたにとって最も安全であることは保障する。そうだな、レナート」
「身の安全と言う面では……そうだな」
何やら含みのある言い方に、私はふと、イェルドとハラルドの会話を思い出した。二人の会話の中に出て来た、知らない人物の名。二人の会話を聞く限り、すぐに暴力に訴え出そうな恐ろしい人物――
確かにそんな人物の保護下に入れば、その人物を恐れて、私に手を出そうと考える者はそうそう現れないだろう。結果的に、私の身の安全は保障される。身の安全だけは。
キリアンがこれから私に紹介しようとしているのは、その人物なのだろうか。一抹の不安が、私に口を開かせた。
「……もしかして……アレックス……と、仰る方……ですか?」
キリアンとレナート、それぞれの顔を見て恐る恐る問えば、二人共に知っていたのかと言いたげな表情を返してきて、私は口端が引きつるのを感じた。
身の安全を保障してほしいとは言ったものの、身の安全だけを保障されても、心穏やかに過ごす日常が得られないのでは、私としてはその保護先は丁重にお断りしたいのだけれど。
「陛下達から既に聞いていたのか」
「お二人の会話の中にそんな名前の方が出て来ただけで、詳しいことは何も……」
キリアンの口振りからは、冗談でも何でもなく、私の保護先としてアレックスと言う人物を私に紹介しようと考えていたことは明らかだった。
アレックス――城から私をどうにかしようとしたり、ハラルドですらやり合うことを遠慮したり、国王でも平気で殴ってしまう人物を。おまけに、確か本人は既に私を保護する気でいるとか言っていた気がする。
もしも、このアレックスなる人物が、イェルドにすら異を唱えさせないほど力に物を言わせる人物だったら、私はどうすればいいのだろう。仮に私が保護を断ったらとしたら、私には身の安全どころか身の危険が迫りはしないだろうか。
まさか、キリアン達が推す人物がそんな性格であるとは思いたくないけれど。
「本当に、大丈夫なんですか……?」
「まあ。キリアン様ったら、すっかりミリアムからの信用をなくしてしまいましたわね」
「な……っ! 陛下達があなたに何を話したかは知らないが、本当の本当に、アレックス殿のことは信用して大丈夫だからな!?」
これ以上信用をなくしては堪らないとばかりに、キリアンがまたもや必死な形相で私に言い募るのを無感情に眺めて、私は隣のレナートを窺う。
アレックスなる人物を知っているらしいレナートからも同様の答えが返ってくれば、少なくとも信用のおける人物なのだろうから。
「レナートさん、本当ですか?」
「ああ」
何故か苦笑で私に答えたレナートは、すっかり私からの信用を失ったと肩を落とすキリアンに会話の主導を戻すことなく、体を少しばかり私の方へと向けて話を続ける。
「アレックスと言うのは本人が望んだ愛称で、正確には、その人の名はアレクシアと言うんだ」
アレックスと言う雄々しい名から一転、明らかに女性らしい響きを持つ名に、私は一度瞬いた。
「アレクシア・ヴィシュヴァ・フェルディーン。……アレックスは、俺の母だ」
母。
その一言は、私の頭の天辺に、ごいんと音を立てて降って来た。その衝撃で、私の中の厳つく粗暴な男性像が、ガラガラと音を立てて崩れ去る。けれど、それに代わって女性の姿が描き出されるかと言えば、そんなことはなくて。
目の前のレナートと、男性にも手を出してしまうらしい粗野な女性が結び付かず、私はただただ目を丸くして、レナートがおかしそうに表情を歪めるのを凝視した。
「……レナートさんの……お母様……?」
確かめるように尋ねればレナートからは是と反応が返り、先ほどの言葉は聞き間違いではなかったのだと思い知る。
「え……と……」
何故とどうしてとどう言うことと、疑問を表す言葉ばかりが頭の中を駆け巡って、なかなか言葉が出て来ない。ただ、何となくレナートとの距離は離した方がいいような気がして、私はじりじりとソファの肘掛けの方へと身を寄せた。
アレックス……もといアレクシアなるレナートの母の得体の知れなさに、これまでとは全く別の恐怖が足元から這い上がる。
「……陛下達は、ミリアムに一体どんな話をしたんだ……」
人一人分ほど余計に空いた距離を見つめて、レナートがあの人達は、と呆れの声を漏らす。
私はと言えば、どんなって、それはもう、私の中で粗暴な男性像が構築される程度には恐ろしい話ですよ! とは思っても、レナートの母と聞いてしまっては流石に失礼すぎてそんなことが言える筈もなく、ただただ無言を貫き通した。
「安心して、ミリアム。レナートはアレックス様似だから」
「……それのどこが安心材料に?」
「あら。少なくとも、とっても美しい方だって言うのは、安心できる要素の一つよ? 人間、見た目の第一印象は大切ですもの」
レナートににこにこと語るテレシアの言葉に、私の中でアレクシア像がぼんやりと形を成す――髪の長いレナートが船の舳先に足をかけ、真っ直ぐ前方を指差して海を渡る姿や、笑顔でハラルドやイェルドの胸倉を掴み、拳を振りかぶっている姿が。
自分の想像に思わず寒気を感じて、私は慌てて脳内からその姿を振り払った。
(……違う。断じて違うわ! レナートさんのお母様ともあろう方が、そんな人であって堪るもんですか!)
動悸が早まる胸に手を置き、私は努めて深呼吸を繰り返した。落ち着け落ち着けと自分に唱えながら、同時にアレクシアに対する私の勝手な印象を彼方へと追いやる。
そうして雑念を振り払った私は、改めてレナートへと顔を向けた。
「レナートさんのお母様は、どうして私の保護をしようと思ってくださったんですか?」
私の身の安全と言う点から、キリアンの騎士であるレナートに白羽の矢が当たったのだろうか。それで、レナートの親であるアレクシアが名乗りを上げてくれたのか。
けれど、私のそんな予想は簡単に覆された。
「それは、アレックスが君の母君……エステル様の友人だからだ」
「お母様のご友人……!?」
思いもかけない言葉に、私は素直に驚いた。
けれど、考えてみれば私のような特殊な事情を持つ人間は例外として、大抵の人には友人がいるものだ。それでなくとも、気心の知れた知人が複数人はいるだろう。
これまで私に友人のいたためしがなかった為に、母の親類縁者を探すことばかり考えていたけれど、母の友人を尋ねると言う方法もあったのだ。
もっとも、どちらにせよ私が尋ね歩いたが最後――ではあるけれど。
「俺も、何度かアレックスに連れられてエステル様に会っているんだ。とは言っても、ほんの小さい頃のことだから、何となく緑の髪をした人に会ったことがある、程度の印象しか残っていないんだが」
「まあ……!」
レナートが生まれてからと言うことは、既に母がキリアンの大叔母の家に身を寄せていた頃、と言うことになる。はるばる国の外にまで子供を伴って会いに行くと言うのは、母とアレクシアはどれだけ親しい友人関係だったことだろう。
私の知らない母のことを新たに知ることができた喜びも相まって、私は頬を緩ませた。
「それで、アレックスに君のことを知らせたら、親友の娘ならば自分が保護しないでどうする、とすぐさま返事が返って来たくらい、あの人は君の保護に積極的と言うわけだ」
「それは……ありがとうございます。でも、レナートさんや他のご家族の方はそれでいいんですか? ご迷惑では……」
いくら成年者の義務でアレクシア本人が保護に積極的でも、彼女一人の意見を押し通してのことであれば、他の家族にとって私は厄介者でしかない。保護される以上、世話になる家には迷惑をかけたくないと思うのが心情だ。
少しばかり不安に眉を下げてレナートの表情を窺えば、彼は軽く首を横に振って、気にするなと笑った。
「父も弟も人助けを嫌がるような質ではないし、俺に至っては、君がエステル様の娘と知った時点でこうなることは予想していたから、今更だ。それに、よほど道理に外れていたり無茶なことでもなければ、家でアレックスの決定に逆らえる奴は一人もいやしないんだ。……俺を含めて」
「流石アレックス様ですわ!」
テレシアは感激するように声を上げるけれど、逆らえる人が一人もいないとは、それはつまり、恐妻と言うことになりはしないだろうか。
母の友人と聞いて、少しばかり柔らかく真っ当な女性の姿を思い描き始めていたのに、途端にまた恐ろしいアレクシア像が私の頭の端に顔を覗かせる。
けれどそこで、私の中に小さな疑問が湧いた。レナートは、他の家族のことは続柄で呼んでいるのに、何故かアレクシアのことだけは「母」とは言わず「アレックス」と愛称で呼んでいる。
もしかして、フェルディーン家は複雑な事情のある家庭だったりするのだろうか。
私が心持ち身構えて尋ねれば、レナートは私からその問いが出ることを分かっていたかのように、簡潔に一言で答えをくれた。
「騎士だったんだ」
「レナートさんのお母様が、ですか?」
「ああ。アレックスが騎士団を辞すまで、短くない時間を一緒に騎士団の一員として過ごした所為か、俺にとってあの人は母と言うより一人の騎士と言う印象が強くてな。今でも、名前の方が先に口に出てしまう。ミリアムも、俺の母のことはアレックスと言ってくれて構わないからな? 本人も、その方がきっと喜ぶ」
話を聞いて、三度私の中に新たなアレクシア像が形を成し始める。
レナートに似た女性騎士。そして、母の親友。イーリスのように凛々しさと美しさを兼ね備えた強い女性――そんな姿がふわりと浮かぶ。
いまだに、国王相手ですら殴ることを躊躇せず、フェルディーン家の誰も逆らえない、と言う点は非常に気になってはいるけれど、少なくともここまでしてくれて、キリアン達が私のことを思って選んでくれた人なのだ、と言うことが分からない私ではない。
「これで、少しは信用してくれただろうか……」
すっかり意気消沈して黙り込んでしまっていたキリアンがおずおずと会話に入り、私の顔色を窺う。私はレナートとテレシアへ一度視線を向け、二人がそれぞれに仕方のない人だと言いたげに笑い返すのを見て、祝宴でのエイナーの言葉を思い出した。
弟にすらそう思われているなんて、本当に――
「……仕方のない方ですね、キリアン様って」
「それは……」
「仕方がないので、信用はします。それにお礼も言いましょう。私の保護先のこと、私のことを思って考えてくださってありがとうございます、キリアン様」
私がようやくキリアンに対して笑みを見せれば、キリアンは心底から安堵するようにソファに深く座り込んで、胸を撫で下ろした。よかったですわね、とテレシアが言うのにもキリアンはただ頷くばかりで、その姿はどこか可愛らしい。
その姿を見て、キリアンも人の子なのだと言う当たり前のことを、私は今更のように強く感じていた。
クルードの愛し子と呼ばれ、その加護によって人とは少し違う存在で、だからこそ余計に、民に等しく手を差し伸べることのできる立派な王太子――そんな印象を抱いていたけれど、キリアンだってこうして自信をなくしたり狼狽えたり肩を落としたり、他者から仕方のない人だと思われるような態度を表に出すことがあるのだ。
けれど、そうやって決して完璧な存在ではないからこそ、テレシアやレナート達が、キリアンのことをそばで支え守っていこうと思うのだろう。
本当に完璧な存在であれば、他者の助けも支えも守りも、必要とはしないのだから。
それに、考えてみれば、私だってリーテの愛し子と呼ばれる存在なわけで。今のところ、私に自分の意思で行使できる女神の力が備わっている気配はないけれど、私がそんな大層な存在だと知る前は主人から虐げられる生活を送っていて、完璧な存在どころか人以下の扱いを受けていたのだ。
私が足らないところの多い子供であるのと同様、キリアンだって足りないところのある王子でも、何一つおかしなことはない。
身分を気にしないと言うエリューガルでいくらか過ごして、気さくに話してくれる王族と交流もして、自分としては身分に対して随分と緩く考えられるようになったと思っていた。けれど、キリアンに対しては、無意識の内に自分達とは違う存在のように思っていた節があったことに気付き、そしてそれが思い違いであることにも気付けて、私はまた一つ、アルグライスと言う国に縛られていたものを捨てられたような気がした。