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危機襲来

 いつの間にか二人の会話はすっかり途絶え、馬の蹄と荷台の車輪のがたつく音しか聞こえない。そんな、ある意味静まり返ったその中で、御者台からの女の声がやけに私の耳に響いた。


「……なあ、あんた。何か聞こえなかったかい?」


 警戒するような、低い声。咄嗟に顔を見合わせて、私は頷き一歩後退り、少年は袋の中へと身を隠す。


「音ぉ? こんな夜中に、俺ら以外に?」


 この短時間で何度目かの、寿命が縮まるほどの緊張が私を襲う。心臓は口から飛び出そうなほど脈打って、それなのに手足はすっと冷え切って冷や汗だけが止まらない。

 物音だけには注意をしていたつもりだったのに、少年を助けられたことに思わず気持ちが緩んでしまったのだろうか。


 ちらりと横目で確認した麻袋は、一瞬見ただけでは穴が開いたとは分からない。少年が、しっかり中から袋の穴を閉じているのだろう。荷台の中まで入って来ないと、穴そのものも見つからないに違いない。そのことに一応の安堵をしつつ、次第に速度を緩めていく馬車に、はやる気持ちを押さえながらゆっくり体を横に倒して、私は再び寝たふりをした。


 いざとなったら、あの子だけでも何とか無事に逃がさなければ。下女扱いの家出娘などよりずっと、あの少年の方が助ける価値があると言うもの。

 すっかり止まった馬車の御者台で、二つの影が右に左にきょろきょろ動く。一瞬荷台に光が差し込んで、私の心臓が縮み上がった。


「荷台……じゃねぇな」


 荷台に踏み入ることなく垂れ幕を下ろした男の呟きを最後に、馬車はすっかり夜の静けさに包まれる。

 虫の音が遠く近く聞こえる以外は、女の言った「何か」の音の気配もなく、自分自身の息遣いだけがやけにはっきり聞こえていた。


「……気の所為じゃないのか?」

「静かにおし。あたしゃ、耳だけはいいんだ。絶対、気の所為じゃない」

「そりゃあ、知ってるがよ……」


 御者台から身を乗り出すように、影が伸びる。そして。


「馬だ!」


 女の鋭い声と共に、私の耳にも微かに遠く、馬の駆ける音が届いた。それも、この音は一頭ではない。幾重にも重なり合った蹄の音が、夜の闇に重低音となって響き渡る。

 おまけに随分慌てて走らせているのか、やっと聞こえ始めたかと思ったらたちまち明瞭な音となり、こちらに接近していることがはっきり分かった。


「こんな時間に?」

「こっちに来るよ。馬車を出しな!」


 すぐさま馬車が動き出し、女が荷台へやって来る。その視線が真っ直ぐ私を捉え、私もまた同様に、突然現れた女を見つめていた。

 互いの視線が、ばちりとかち合う。


 ……あ、しまった。


「おやおや、目が覚め――は?」


 一歩女が近付き、にやつきながら私の姿を見下ろして――次の瞬間、その顔がぎょろりと変わった。

 自分の失敗を悟るも、時既に遅し。

 おざなりに体に巻き付けた縄は何とか誤魔化せても、猿轡だけは誤魔化せない。一度口から出したものをもう一度口に含むことは、家畜扱い経験者の流石の私でも、躊躇せざるを得なかったのだ。


「小娘、あんた……!」


 私の口が自由になっていることに気付いた女の腕が、私の首に素早く伸びる。

 ふくよかな見た目とは違いその動きは俊敏で、私は体を起こす間さえ与えられなかった。浮かしかけた頭を床板にぶつけて、顔が歪む。


「油断ならない娘だね」


 首を絞める腕に手を伸ばす私の姿に、女の呆れた声がする。その場に切れた縄がばらりと落ちて、咄嗟の行動だったとは言え、私は自ら自由になった体を晒してしまった。

 簡単に諦めたくなんてないけれど、今度こそは駄目かもしれない。私がようやく手にした自由は、たったの二十五日であっけなく人生諸共終わってしまうのだろうか。

 呼吸が苦しくなる中で、せめてと女を睨みつければ、その反抗的な態度がお気に召したのか、女は嫌な笑みを浮かべて顔を私に近づけてきた。


「どうやったかは知らないが……ちょうどいい。しばらくあたしの腕の中で大人しくしておきな」


 言うや否や私の首に縄が巻き付いて、容赦なく絞められた。あんたの腕の中で大人しくなんて冗談じゃないと、反論の隙すらない。


「ぐぁ……っ!」


 潰れた蛙のような声が出て、私は縄を外すこと以外、考えられなくなってしまう。

 両手で縄を掴んでどうにか外そうと藻掻いてみるけれど、存外力も強い女の前では、ようやっと規則正しく一日三食の食事をし始めた程度の私の体力では、太刀打ちできる筈がなかった。

 女にいいように引きずられ、自由になった筈の体は、私の言うことをまるで聞いてくれない。


 苦しい。痛い。息ができない。


 視界すら暗くなりかけたその瞬間、首元が一気に緩み、私は空気を求めて思い切り咳き込んだ。


「げほっ! げほっ……かはっ!」


 ようやく新鮮な空気に触れて、私は束の間、正常な思考を取り戻す。

 縄を外すことにばかり夢中で、私はいつの間にか、自分が御者台のすぐ裏で女に抱きかかえられて座り込んでいることに、全く気付いていなかった。これ見よがしに垂れ幕が開かれて、ほんのり冷えた夜の外気が頬を打つのにさえ、今頃気付いたくらいだ。


 外に向けてその姿をはっきり晒す私の体は首元から掛け毛布にくるまれ、それは一見すれば、病の娘とそれを介抱する母親のようである。

 そして、女がそんな真似をする理由が、私の耳に届く。


「そこの荷馬車! 止まれ!」


 苦しさで霞む私の視界に入ってきたのは、松明を持って馬車と並走するいくつかの騎馬の姿。先ほど聞こえた音の主は、どうやら彼らのようだ。

 御者台の最も間近の馬上にいるのは若い男性のようで、鍛え抜かれた体格の良い体に外套を纏い、腰には剣を帯びている。その身なりはよく、兵士と言うよりは騎士に見えた。


 その姿に私は反射的に助けを求めて手を伸ばしたけれど、それが実現する前に、首に絡んだ縄が再び絞まって、たちまち苦しげな顔で喘ぐしかできなくなる。

 女が、いかにも心配する母親のような顔をして「おぉ、よしよし」と私の体を摩ってきて、別の意味で気持ち悪いことこの上ない。


 何が「よしよし」だ、この女! 私の首を絞めているのはその手だろうが! ――そう怒鳴れたら、どんなにいいことか。


「この通り、娘が急に熱を出してしまいまして……隣の街まで急いでいるところなのです」


 頭上では、すっかりいい人の仮面を被った男の、柔和な声が平気で嘘を告げている。

 ランタン一つよりは明るくなったとは言え、こんな夜に松明の明かりの下では、私の正確な状況なんて相手に伝わるわけがない。おまけに、この二人は偽ることに慣れ切った手練れの悪党。初めて私達を見た相手には、人当たりのいい夫婦に、弱り切った娘の三人家族にしか見えないに違いない。


 助けを求める最大の好機なのにそれを全く生かせない悔しさに、息のできない苦しさに輪をかけて、自分の無力さを思い知らされる。

 このまま気付かれずに騎馬が行ってしまったら、私はきっと、もう逃げられない。少年だって、逃げる機会を失ってしまう。


 そう言えば、彼はまだ大人しく袋の中に隠れているだろうか。聡明そうに見えても、まだ子供。彼を助けた私の危機に、変な気を起こして無謀なことに出なければいいのだけれど。

 酸素が足りずにぼんやりする頭の中でそんなことを考えていた私の耳に、意外な言葉が飛び込んで来た。


「ではあなた方は道を間違えている。この先にあるのはカーバル砦だけだ」

「カーバル砦? そんなまさか」

「我々はカーバル砦へ向かう途中でな」


 道を間違えた? いつ、どこで? そんなヘマをする筈がない――そんなことを思っていそうな顔が、夫婦の間で交わされる。

 私も、必死に脳内に地図を描いた。


 カーバル砦は、アルヴァースの北西、騎馬民族の国キスタスバとの国境付近に構えられた砦だった筈。そして、そんなキスタスバの西隣に位置するのがエリューガルだ。

 荷馬車が、私の目指す地とかけ離れた方向に向かっているわけではないことが分かって一瞬安堵するも、何の解決にもなっていない。


 エリューガルとの国境ともなっている、峻厳なシュナークル山脈から吹き降ろされる風のお陰で乾燥した国土を持つキスタスバは、国民の多くが生まれながらに馬に親しみ、自然と騎兵としての力を得る所為か、国民気質は好戦的で荒くれ者が多いとか。一部は傭騎兵として、様々な国で重宝されているとも聞く。

 人身売買もこの国ではいまだに合法で、他国の非合法な取引でも買い取られずに余った人間は、まとめてこの国に奴隷として売り飛ばされると耳にしたこともある。


 点と点が繋がった気がして、私の意識が一瞬、物理的な意味でも精神的な意味でも、暗転しそうになった。

 そんな国に買われたら、私はこの先一生、生家にいた時と変わらないか、それより酷い生活で一生を終える羽目になる。

 キスタスバの奴隷に自由は一切ないと、専らの噂なのだ。比喩ではなく本当に、死ぬまで労働に従事させられるらしい。

 そんなことになれば、今度こそ本気で詰む。死ぬ。そんなのは絶対に嫌だ。


 とは思うものの、女にがっしり体を捕まえられ、首まで絞められ身動きが取れない今の私には、この状況から逃げ出すためにできることがまるで思いつかない。下手にブーツに手を伸ばして、母の形見が見つかるヘマもできない。どうしよう。どうすればいい。


「この辺りは、キスタスバの騎兵崩れが潜んでいると言う話もある。今すぐ引き返すか、我々と共に砦まで行き一夜を明かし、来た道を戻るかした方がいい」


 私が意識を朦朧とさせながら悩む間にも、騎士と男の会話は続く。同時に、時折縄が緩められ、会話の合間に、嫌でも私の空気を求める咳が混ざり合う。

 それは女の目論見通り、悔しいくらい見事にこの状況に切迫感を与えていて、馬上の騎士が私の病状を憂えるように眉を寄せる姿に、申し訳なくなってしまう。


 違うんです。この咳は病の所為ではないんです! 首を絞められている所為なんです!――そう訴えたくとも、乱される呼吸に翻弄されて、私の体力は面白いくらいに奪われていた。呼吸を整えるだけで精一杯で、一声だって意味のある言葉を発することができない体たらくに、我ながら情けなくなる。

 この状況から無事に逃げられたなら、この女を簡単に投げ飛ばせるくらいの体力をつけよう。絶対に。


「ご主人。幸い、砦には医師がいる。このまま我々と共に砦を目指すと言うなら、あなた方さえよければ、我々の馬に娘を乗せて、先に砦へ連れて行ってもいいが」

「いえいえ、そこまでしていただくほどのことでは……。ご親切にありがとうございます、騎士様」

「だが――」

「ええ、ええ。分かっておりますとも。私達は今すぐ引き返すこととします」


 馬車の速度がわずかに緩み、騎馬の姿が前方へと遠ざかる。

 夫婦の視線が絡み合い、女の片手が私の縄から傍らの木箱の中へと伸ばされた。

 瞬間的に私が理解したのは、彼らが道を引き返す気がないことと、騎士達に向って何かを仕掛けるつもりだと言うこと。

 疲弊して何もできない私の前で、男の持つ鞭が鋭く夜気を裂く。嘶きと共に荷馬車の速度が一気に上がり、女が私の体を突き飛ばして立ち上がる。

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