女騎士の憂慮、再び
エイナーとミリアム、二人だけのワルツが一曲終わったところで、祝宴参加者の、主に来賓が加わって二曲目が始まる。着飾った男女が次々に集まって一気に広間が華やぎ、エリューガルではあまり見られない、東方で言うところの舞踏会のような雰囲気へとその空気を変えた。エイナー達も続けて踊るようで、その輪の中から出てくる様子はない。
一般の、兵士や騎士の同伴としてこの場にいる人々の視線が、日常から少し離れたその光景に目を輝かせる。
エリューガルでは元来、東方諸国で言うところの舞踏会のような社交の催しは、開かれない。精々あって晩餐会程度だが、それも王族を主賓とした対外的なものが行われる程度で、一般の民衆にとっては貴族制度が導入されるまでは、遠い国の風習として耳にする程度のものだった。
貴族制度を取り入れてからは、晩餐会を始め、茶会や舞踏会と言った東方流の社交の習慣が、ある程度国内に浸透はした。だが、クルードの下に平等であるこの国に結局制度は馴染まず、浸透した筈の社交も一時の流行だったかのように、今ではすっかり見世物扱い。
それでも、完全に廃れさせてしまっては他国との交流において軽んじられてしまうと、今では主に、他国の者と直接接することの多い職に就いている者達の為に、こう言った場で舞踏会のまねごとをするようになっている。
イーリスも第一王子の騎士と言う立場上、一通り学び、国の恥にならぬ程度には振る舞えると自負しているものの、自由に踊る方が好きな身としては、演奏される曲はともかく、ワルツを踊るのは、どうにも堅苦しくて好きにはなれない。
ただし、見ている分には嫌いではない。
特に、今も広間の中央で見え隠れする、笑顔で舞い踊る二人の姿を見るのは、実に楽しい。ふわりと花開くミリアムの夜色にエイナーの鮮やかな若芽色が寄り添う姿は、芽吹きの時を今かと待ち望む山野の今の姿を表すようで、心が躍る。
正式な舞踏会ではないことを差し引いても、ただ踊ることを楽しむことができるのは、子供の特権と言うべきだろうか。
キリアンの側近として、子供の時分には見ることのなかった、大人ならではの世界を目にすることが日常の一部となってしまったイーリスにとっては、無邪気に踊る二人の姿は正に癒しだ。
ワルツが演奏され始めて程なくして、空の胃袋を満たしに向かった男性陣をよそに、イーリスは一人その場に残って、微笑ましくミリアム達に視線を注ぎ続けていた。
そのイーリスの視界に、横合いから黒衣が入り込む。
「――それで」
首を巡らせれば、キリアン以下、いつも顔を合わせる面々が、それぞれに料理を取り分けた皿を持ち、心なしか満たされた表情で戻って来ていた。
「ミリアムと踊った感想は?」
世間話のような軽い調子ながら、こちらに視線もくれず淡々とした表情で問うキリアンに、イーリスは小さく肩を竦める。
「感想も何も、見ていた通りよ。――ちゃんと、泉の乙女のダンスだったでしょう?」
イーリスの一言に、キリアンの口から小さく、やはりか、と言葉が零れた。そばで聞いていた三人も似たり寄ったりの反応で、一度、踊るミリアムへと視線が集中する。
「……改めて、弟殿下の引きの強さには、呆れを通り越して畏れすら抱くな」
「自分としては、そこは女神リーテの導きだと考えたいんですけど」
「どんな力が働いたにせよ、偶然にせよ、今目の前にある現実が全てだ。腹を括るしかないだろう」
「……俺としては、万に一つを期待したんだがな……」
声量を押さえて交わされる会話に、イーリスも静かに息を吐く。
「リーテの雫が湧いた時点で、万に一つも何もないでしょうに。甘いわね、キリアン」
「……煩い。相手は子供なんだ。甘くもなるだろう」
「……そう言うことにしておいてあげるわ」
さも嫌そうに顔を顰めるキリアンを横目に、イーリスは差し出された皿の上の料理を遠慮し、今一度、ミリアム達に視線を戻した。
ミリアムは人前でワルツを踊ることは初めての筈だが、それを全く感じさせない慣れた様子で、実に楽しげだ。それを眺めながら、イーリスは改めてミリアムと言う少女が「泉の乙女」であることに納得をしていた。
ワルツの前に演奏された曲――「リーテに捧ぐ、目覚めの歓び」と言う――は、今日、各地で行われている全ての祈願祭祝宴で、その始まりを飾るものとして、必ず最初に演奏すると定められているものだ。
まだエリューガルの祭りの一つとして確立する以前から、シュナークルの山岳地帯に住む人々の間で奏でられてきた、伝統あるこの曲。生命の躍動こそを喜ぶリーテが故に、この曲に決まった踊りは存在せず、各人がリーテへの感謝を込めて自由に踊る。
――ただ一人、泉の乙女を除いては。
泉の乙女は、女神リーテの代理人。感謝を捧げる人々に対しての返礼を込めた踊りは、個々人の自由にと言うわけにはいかない。それ故、泉の乙女には、決まった踊りが存在する。
この「泉の乙女のダンス」は、建国以前の祝宴で度々若い娘が自らを泉の乙女と称し、誰もが同じ踊りを披露していたことが始まりとされている。
現在よりも神の存在を身近に感じていた当時、人々はすぐにそれが、リーテの意思がもたらしたものだと気付いたと言う。その為、人々――特に女性――は挙って覚え、毎年、最も上手い一人の女性を泉の乙女として祝宴に登場させた。
そうして泉の乙女は祝宴に欠かせない存在となり、その踊りと共に大事に守られてきた。エリューガル王国が建国され、祝宴が芽吹きの祈願祭と言う国の祭りの一部となった今でも、それは変わらない。
そして、今日の祝宴。祈願祭のことを全く知らないミリアムは、当然、泉の乙女役である彼女に、定められた踊りがあることも知らない。知らぬまま、イーリスの言葉もあって、曲に合わせて自分の思うままに踊った。
だが、その実、彼女の踊りは例年セルマが踊る泉の乙女のダンスと、寸分違わなかった。むしろ、自由に踊ったと思っている分セルマよりも数段生き生きとして、人を惹きつける輝きに満ちていた。
何故、何も知らない筈のミリアムにそんなことができたのか――それは偏に、ミリアムの血筋に起因する。彼女の母方、カルネアーデ家に。
カルネアーデは、エリューガル国内でも王家に次ぐ長い歴史を持つと言われた家の一つで、その始まりには、女神リーテの存在が深く関わっているのだ。
エリューガル建国後、クルードの守護するこの国には、未開の聖域の民が度々訪れるようになった。彼らは皆、いずれかの神の力の片鱗をその身に宿し、神の似姿をした、人ならざる人であったと言う。
だが、黒竜クルードの存在を知るエリューガルの民には、そんな人ならざる人である聖域の民に対する偏見や恐れはなく、むしろ、竜の姿のクルードよりも人にごく近しい姿をした彼らに親しみを抱き、快く受け入れた。そして、聖域の民とエリューガルの民の交流は穏やかに始まり、次第に両者の仲は深まっていった。
やがて、聖域の民の中にエリューガルの民と契りを結ぶ者が出始めるのは、自然の流れだったことだろう。その中にはリーテの力の片鱗を宿した聖域の民もおり、それがカルネアーデ家の始まりとなった。
当然のことながら、聖域の民と人との間に生まれた子には両者の血が混ざり、時に、その身に神の力の片鱗を受け継ぐ者も出てきた――クルードの愛し子のように。
だが、己が守護する地に、他の神の力が強く影響を及ぼすことをクルードがよしとしなかった為、殆どの聖域の民の力はエリューガルの民に強く受け継がれることはなく、自然と弱まり、時と共に失われていった。同時に、その契りの数も。
エリューガルで、時に奇抜な髪色や瞳の色をした者が生まれるのは、この時の聖域の民との交わりの名残だ。
ただし、唯一例外として、失われることなく受け継がれている神の力がある。それが、エリューガル建国以前よりこの地一帯で人々が信仰していた女神リーテの力――すなわち、カルネアーデ家だ。
流石のクルードも、己がその地を守護する以前より、人々の生活に深く根付いていたリーテを蔑ろにすることは、できなかったと言うことなのだろう。
その為、カルネアーデ家にはこれまで、幾たびもリーテと同じ、鮮やかに艶めく緑の髪を持つ娘が生まれ、受け継いだその力の片鱗が、芽吹きの祈願祭の祝宴で泉の乙女のダンスを踊らせ、時に生命の杯にリーテの雫を生み出させてきたのだ。
そして、現在では多くの民が祈願祭の役割の一つと言う認識でいるが、そのリーテの似姿の娘のことを指して、真に「泉の乙女」と言う。
キリアンが期待した「万に一つ」は、神の力を受け継がないただの名残のことを指してのことだが、残念ながらカルネアーデ家に限っては、そんなことはまずもってない。
ミリアムは正真正銘、リーテの力の片鱗を身に宿したリーテの愛し子、泉の乙女なのだ。
ちなみに、泉の乙女には、水鏡に未来を垣間見る力があるとも言われているのだが、これについては真偽のほどは定かではない。
ただ、本当に未来を見る力があるのであれば、当時、十七になったばかりのミリアムの母エステルが、己の父が長年に渡り周到に進めていた計略をいとも簡単に突き止め、その対処に迅速に動けたことの説明はつく。
そして、それはミリアムにも言えることだ。
使用人として虐げられていた彼女が、到底学ぶことも身に付けることもできないであろう文字の読み書きや礼儀作法、果てはワルツのステップまでを、何故すっかり習得しているのか。
今のところミリアムの口から明確な説明は出ていないが、それも未来を垣間見る力によるものだとすれば、多少強引ではあるものの、まるで筋が通らない話でもないだろう。
それに、まるで芽吹きの祈願祭に合わせるように、ミリアムがエリューガルへやって来たことも、偶然にしてはできすぎている。
ラーシュの言う通り、ミリアムは本当にリーテに導かれてやって来たのだろうか。そうだとするならば、一体何の為に、リーテは己の愛し子をエリューガルの地へ舞い戻らせたのか。
そして、ミリアムが「昔読んだことのある物語」だ。
ミリアム自身が物語を読んだと誤認しているだけで、実は未来に起こる事象を見ていると考えるのは、イーリスの考え過ぎだろうか。そうでなければ、ミリアムの語る物語に出てくる人物が、そう都合よく現実に現れる筈もない。
ただしそうなると、騎士がよりにもよって「少女」と恋に落ちることになるのだが――
「……ないわね」
早くも料理を平らげ、話題をミリアムから今日の試合へと変えて、オーレンやラーシュと盛り上がるレナートを一瞥し、イーリスは言い捨てた。
共にキリアンの騎士となって付き合いの長いイーリスでさえ、時折はっとさせられるほど、顔だけは無駄に整っているレナートは、これまで女性から何度となく思いを告げられている。だと言うのに、今まで一度としてその思いに応えたことはなく、かと言って特定の相手がいるとも聞かない。勿論、浮いた噂だって一つもない。
常に騎士として、有能な側近としてキリアンのそばに控え、外で顔を合わせると言ったら友人のオーレンばかり。そんな彼のそばにいる女性と言えば、同じ側近のイーリスとキリアンの侍女であるテレシアくらいだが、その二人にすら、異性としての興味も関心も抱く様子がないのだ。
それがかえって、レナートとオーレン二人のあらぬ噂を、一時期王都の女性達の間に広めてしまったほどには女性に縁がない男が、今更、恋だなんて。あり得なさ過ぎて、考えるだけで鳥肌が立つ。
せめてレナートが、これまでで最も着飾ったミリアムの気持ちを慮った言葉を掛けることができているようであれば、わずかながらでもこの先レナートが誰かと恋をする可能性があるとイーリスに思わせてくれたのだろうが、結果は見ての通り。
思わずと言った体でイーリスに抱きついてきたミリアムの指先は緊張で冷たく、抱きつく腕の力は存外に強く、ようやく安堵できる相手を見つけてしがみ付いていると言ってもいいものだった。努めて浮かべていた笑顔も、ミリアムと初めて対面したのが最も遅いイーリスでさえ、一目で無理をしていることが分かったと言うのに。
イーリスがこの場にやって来るまで、その場に男が三人も揃っていて、誰一人としてそんなミリアムの緊張や不安を察することができていないとは。普段から、女性と見るや口説こうとするオーレンですら何の役にも立っていなかった有様には、最早ため息しか出て来ない。
果たしてこれは、念の為にとテレシアと共に考えたミリアムの為の台詞を、フレデリクに猛練習させたことが無駄にならなかったと喜ぶべきか、三人のあまりの役立たず振りに嘆くべきか。
普段のフレデリクならば絶対に言わない賛辞の雨を愕然とした表情で聞き、ミリアムがダンスを踊りに行ってしまったあとに、フレデリクから事の次第を聞いて盛大に顔を引きつらせていていた三人の顔を思い出して、イーリスは仄かに頭痛を感じた。本当なら、彼らにあれくらいの言葉をミリアムに贈ってほしかったと言うのに。
ちなみに、フレデリクに言わせはしたが、嘘をつかせたわけではない。ミリアムへの賛辞は、ミリアムを着飾ったテレシア本人の言葉が主であるし、イーリスへの賛辞も、実際の姿を見てフレデリクが零した言葉を、テレシアがミリアムの賛辞と似た形に整えたものだ。
ともあれ、現時点のレナートを見る限り、彼が少女と言わず女性と恋に落ちる可能性は限りなくないに等しく見える。だが、ミリアムのそれが万が一にも未来予知であるならば、王太子の側近が未成年に手を出すなんて未来は、絶対に阻止しなければならない前代未聞の醜聞だ。
今の内に打てる手は全て打って、可能性の芽は完全に摘み取っておかなければ。
「レナート」
呼び掛けに顔を向けたレナートに、イーリスは一言、言い放つ。
「……あなた、子供に手を出したら、ただじゃおかないわよ」