祝宴のダンス
「……殿下? せっかく場が丸く収まったのに、何をミリアムに仰ろうとなさっているのです?」
「そうですよ、兄殿下。楽しそうに思い出し笑いされてますけど、口は禍の元って言葉、ご存知ですよね?」
レナートの作り物めいた綺麗な笑顔がキリアンの背後に迫って、たちまちキリアンの顔が引きつる。レナートの隣では、オーレンも青筋を立てながらの笑顔を浮かべて、控えめに言ってもその迫力は怖い。
「ま、待て、誤解だ……っ」
「なるほど? では、何が誤解なのでしょう?」
「……その前に、首が絞まるっ。手を離せ!」
ミリアムの前だぞ、と続いた一言にレナートの瞳が私を捉えて、慌ててキリアンから手を離した。
軽く咳き込むキリアンを脇へ押しやると、その視線を私の首元、知っている者が注視しなければ分からないほど薄くなった縄の痣へと落として、己の失態を恥じるように眉を寄せる。
「悪い、ミリアム。軽率だった」
「いえ、気にしないでください。キリアン様に思わず尋ねてしまった私が悪いんです」
二人がキリアンに対して見せた反応から、二人には他人には知られたくない、何か恥ずかしい過去でもあるのだろう。それこそ、キリアンが思い出して笑ってしまうくらいには他人にとっては面白く、そして、本人達にとっては忘れたいほどの出来事が。
例えば、小さな子供の頃に、勢いで何かとんでもないことをやらかしてしまったとか、そう言う類の。私にも覚えのあることだ。
そして、そう言う話は、得てして何も知らない相手には明かされたくはないもの。何も知らなかったとは言え、私の方も無思慮だった。
「いや、君は悪くないだろう。悪いのは、他人事だと思って喋ろうとしたキリアンの方なんだから」
「レナート、お前! だから誤解だと言っただろう! 俺は、何もミリアムに話すつもりはなかったぞ? それをお前が早合点するから……!」
「何を。紛らわしい行動を取った時点で、悪いのは殿下ですよ」
「あそこで思い出し笑いなんて、普通します? 兄殿下の自業自得ですって」
「オーレンまでレナートの肩を持つのか!」
「あ……あの……っ」
突然、近距離で言い合い始めた三人の勢いに押され、私は目を白黒させながら、仰け反るようにして一歩下がった。
その背が、とすりと誰かにぶつかる。
「……! 申し訳ありま――」
「まったく……三人で何を騒いでいるのよ」
私の謝罪の声に重なって、聞き覚えのある、張りのある女性の声が頭上から降って来た。同時に、よろめく私の体を優しく、けれどしっかりと抱き留めるように回される二本の腕。
驚いて振り向く私に、見知った笑顔が降る。
「遅くなったわ、ミリアム」
そこにいたのは、女騎士から夜会の貴婦人へと、見事に装いを変えたイーリスだった。
「イーリスさん!」
胸元を大胆に開いた紫紺のドレスと、背中に流した艶やかな藍色の髪に凛と飾られた白薔薇に目を奪われつつ、今日、まだ一度も言葉を交わせていなかった人物の一人とようやく会えて、私は思わず飛び跳ねるようにイーリスに抱きついた。
「あらあら」
笑って腕を回してくれるイーリスの温かさに、私はほっと息を吐く。
レナートやキリアンと言った見知った人物がそばにいたとは言え、その二人共に着飾っている上に、慣れない状況。そして居心地の悪さ。広間への入場からこちら、ずっと張り詰めていた緊張が、イーリスからの抱擁によって解けていくのが分かる。
ようやく見知った同性に会えたことも、私を安堵させたのだろう。私は、自分もイーリス同様にしっかりと着飾っていることを束の間忘れて、妹が姉に甘えるように、イーリスにひしと抱きついていた。
「寂しい思いをさせてしまったみたいね」
「そんなことありません。でも、お会いできて嬉しいです!」
「私も、やっとミリアムに会えて嬉しいわ。祝宴のドレスも、今のあなたにとってもよく似合っていて素敵よ。フレッド、あなたもそう思わない?」
抱擁を解いて、そこで初めて、私はイーリスの隣に人が立っていることに気が付いた。
この場にいる誰よりもひょろりと高い背丈に、私の首が自然と大きく上を向く。
謹厳実直を体現したかのような面立ちのその男性は、イーリスの服装に合わせてこちらも立派な仕立ての正装で、芽吹きの祈願祭の名にちなんだ雪解け色に、イーリスの瞳と同じオリーブ色のクラバットが映えていた。
そんな二人が寄り添う姿は、まさに美男美女の見本のよう。
眼鏡の奥で理知的な印象を与える榛色の細い瞳が、イーリスと目が合った瞬間に柔らかくなるのもまた二人の親密さを如実に表して、見ているだけでこちらが赤面してしまう。
二人の関係は、推して知るべし。そう言った経験がほぼ皆無の私でも、流石に言われずとも分かった。
だから、なんてお似合いの二人なのだろうと見とれていたのに――
「君の言う通りだ。星空を写し取った泉の水面に咲く睡蓮のように可憐で、とても美しいと、僕は思う。胸元の宝石はまるで月光のようだし、太陽に煌めく泉の輝きを纏った昼間の姿も素敵だったが、今のあなたは水辺の清涼な空気そのものだ、麗しの泉の乙女」
「……っ!?」
突然、イーリスの恋人の口から思いもよらない賛辞の羅列が飛び出して、私は顔から火が出るほどの羞恥に襲われた。
(……か、可憐? 美し、い……? 睡蓮って、花の? 清涼って何? 泉の輝き? 誰が? ……わ、私が――!?)
ただでさえ容姿を褒められた経験が限りなく少ないのに、初対面の男性にいきなり褒め殺されようとは、予想外もいいところだ。それも、こちらを揶揄っているとは到底思えない至極真面目な様子で言われては、なんて仰々しい美辞麗句だろうなどと考える方が、無理がある。
私は顔を上に向けたまま、私を優しく見下ろす男性の視線を受け止めるだけで精一杯で、あまりの衝撃に声も出なかった。先ほどまで緊張で冷えていたのが嘘のように、全身が熱い。特に顔が。
そんな私のことをどう思ったのか、イーリスが冗談めかして「だったら、私は?」と肘で小突きながら男性に聞けば、彼はこれまた聞いているこちらが恥ずかしくなるような言葉を、臆面もなく口にした。
「君は……その名の通り、山野に華麗に咲く美しいアイリスそのものだ。僕の愛で飾る必要がないくらいに輝く君は、正に美の化身と言ってもいい。勿論、剣を手に戦う騎士姿も凛々しくていつも惚れ惚れとさせられるけれど、今の君の姿には全てが霞んでしまうよ、イーリス」
最後にイーリスの手を取って優しく口付け、一度、二人が見つめ合う。その光景に、私は一体何を見せつけられているのだろうと、目を瞬かせて呆けた。
けれど、呆気に取られている暇は、残念ながら私には与えられなかった。恋人から私へと視線を戻したイーリスに、さらりととんでもないことを聞かれたからだ。
「……ですって。ミリアムはどう?」
「へぁ!?」
どう、とは、つまり私から見て、今のイーリスをどう思うかと言うことだろうか。
私は突然のことに狼狽えながらも、改めてイーリスの姿をその目に映した。
先ほど真っ先に目にした大胆な胸元は極力見ないように、やや視線を下げる。
胸元に一滴の月色の宝石を光らせ、他の女性騎士や兵士が制服を着用する中で一人見事にドレスを着こなすイーリスは、贔屓目に見ても、この会場の誰よりも美しく見えた。
引き締まっていながらも、女性らしい体の線に沿うように流れるドレスは膝辺りで大きく広がり、まさにアイリスの花弁を思わせる。何より、髪を背中に流した姿は騎士でいる時の凛々しさは鳴りを潜めて艶麗さが際立ち、イーリスが女性にも高い人気があることに酷く納得してしまうほど、見惚れる美しさだ。
「そ、そちらの方の、言う通り……だと、思います……。こんなに綺麗で素敵なイーリスさんは、初めて見ました」
「そうでしょう? この人……フレデリクは真面目で嘘のつけない人だから、ミリアムもちゃんと綺麗よ」
だから自信を持って――耳元で囁かれ、私は大きく目を見開いてイーリスを見上げた。
まるで、着飾った姿を分不相応でこの場に相応しくないと私が考えていることを見透かしたような一言に、声にならない声で「どうして」と零す。
どうして分かったのだろう。イーリスは今やっとこの場に来たばかりで、互いの姿を見たのも今が初めてだと言うのに。これでも、祝宴と言う、アルグライスで言うところの夜会に匹敵する場に出るのだからと、今度こそ気を引き締めて、見せる表情には十分気を付けていたのに。
「だって、私はあなたの友人よ? 分からないわけがないわ」
イーリスは朗らかに笑うと、次いで私の両手を取った。
私が持っていたグラスはいつの間にか隣のフレデリクの手へと渡っていて、苦笑する彼と驚く私の視線が一度だけ合って、すぐにイーリスに遮られる。
「それに、あなたはもうエリューガルのミリアムでしょう。ただの女の子なのだから、何を着たっていいし、どれだけのお洒落をしたっていいの。それは、全部あなたをとびきり綺麗で可愛らしくしてくれるのだから。堂々と胸を張りなさい。下を向くことはないの」
イーリスに間近で見つめられ、その瞳に私の顔が映り込む。
無理やり黒に染めたぼさぼさ頭に、骨と皮だけの体に着古したお仕着せをまとっていた私ではない、だいぶ肉付きが戻り、健康的な、見違えるほど明るい顔をした私。鮮やかに艶めく緑の、私本来の髪。そして、煌びやかなドレス。
それが今の、エリューガルのミリアムだと。今のこの姿をしっかり刻み込みなさいと言われているようなイーリスの眼差しに、私は涙の気配を散らすように何度も瞬いた。
「……いいわね?」
「……はい」
震えそうになる声を叱咤して私が返事をすれば、イーリスも満足気に一つ頷き、楽団が演奏の準備に入る気配に私の手を引いた。
「ミリアム、踊りましょう!」
「えっ? で、でも……」
ダンスは、貴族令嬢の教養の一つ。その為、これまでの貴族としての人生で何度も学んで来たお陰で、知識だけは豊富にある。けれど、もう実技からはとんと遠ざかって、上手く踊れる自信など全くない。何より、エリューガルで一般に踊られる曲を、私は一つも知らない。
「私、ダンスは……っ」
「大丈夫よ。音楽に合わせて、好きに体を動かせばいいの。それに、こんなに可愛らしいミリアムを、見せびらかさないわけにはいかないでしょう?」
「見せびらかすって……そんな、テレシアさんみたいなこと……」
「いいから。それに、祝宴は踊らなきゃ始まらないのだから」
焦る私を、けれどイーリスは楽しげに手を引いて、演奏が始まり踊る人が集まり出した広間の中央へと連れ出した。
周囲を見回せば、騎士も兵士も、そして彼らの同伴者としてこの祝宴に参加している家族や親しい人も、次々に広間の中央へやって来たかと思うと、聞こえる音楽に銘々体を揺らし始める。
ゆったりとした曲調で始まった音楽に、まずは体を慣らすように鷹揚に。次第に曲調が早まって盛り上がりを見せ始めると、あるところでは男女で手を取り合って複雑なステップを軽妙に踏み、あるところでは男性同士が、今日の試合を再現するかのように互いに腕を突き出して剣舞のように踊り始め、また別のところでは女性が集団になって小さな輪を作り、全員が同じステップでくるりくるりと舞う。
私の手を取ったままのイーリスも、ダンスをするには不向きに思えるドレスの裾を華麗に捌いて、戸惑う私を颯爽とリードして踊っていた。
「ね? みんな好きに踊っているでしょう?」
「は、はい」
眠りについていたリーテが目覚め、祈願祭で人々が大いに躍動する様を見て喜び、昇る朝日に雪が次第に解け、大地に数多の命が芽吹く――そんな様子を音にしたような旋律を聞いている内に、私の足も次第にイーリスに引っ張られて動かすだけでなく、心の思うままにステップを踏み始めていた。
今度はイーリスが、そんな私に合わせて華麗なターンを決めては私の体を引き寄せ、即興のダンスに付き合ってくれる。
その内、気付けば私は自らイーリスの手を取って踊っていた。決勝で体験した女神の見る世界を思い浮かべ、躍動する命の姿をなぞるように、右に跳ね左に滑り、くるりと舞って軽やかにステップを踏んではイーリスと顔を見合わせて笑い、手を打ち鳴らす。
そうして私は、まるで初めから、この曲に最も相応しいダンスを知っていたかのような感覚で、すっかり丸ごと一曲を踊り通していた。
やがて曲が終わり、ダンスに参加していた人々への拍手が湧き上がる頃、私は自分の着飾った姿に対して抱いていた、鬱々とした感情がすっかり消え失せていることに気付いた。ダンス前のイーリスの言葉と、思い切り体を動かしたお陰だろうか。
弾む息を落ち着かせながら周囲に目を向けると、私と目が合った人達が笑顔で手を振ってくれる。彼らは皆、共に手を取り合い、輪になり、軽やかにステップを踏んで、一緒にダンスを楽しんだ人達だ。
彼らの視線には、突然現れた見知らぬ「泉の乙女」に対する奇異の色は既になく、自分達と変わらない、ただ一人の少女を見る温かさが満ちていた。
素敵なダンスだったわ、楽しかった、また踊ろうぜ――それぞれに広間の中央から去っていく中で掛けられる声にも、気安さしかない。私が嬉しさにはにかんで手を振り返せば、可愛いだとか、お前には勿体ねぇよだとか、そんな言葉まで交わされる。
それは、くすぐったいけれど、とても楽しさを覚える光景だった。
午後に色々なことがありすぎてすっかり忘れていた、午前中にテレシアと共に過ごした時の楽しさや興奮が、ようやく私の中に戻ってくる。同時に、一曲を踊り終えた今の私は、アルグライスの舞踏会とは大違いの、生まれて初めての自由なダンスを目一杯に楽しんだ達成感と満足感に満たされていた。
意識しなくても口角は上がり、気を付けていなければ、歩く足がうっかり弾んでしまいそうになる。
「やっといい顔になったわね、ミリアム」
レナート達の元へと戻る途中、身を寄せてきたイーリスにそう囁かれた私は、はっとしてイーリスを見上げた。そんな私に向かって、悪戯が成功したことを喜ぶように、イーリスが片目を瞑って満面の笑みを浮かべる。
「素敵なドレスを着て、自由にあなたらしく踊って……楽しめたでしょう?」
その時になって初めて、私はイーリスが少々強引な形ででも私をダンスへ誘った理由を理解した。
私の姿をちゃんと綺麗だと言ってくれた時から、イーリスは、私がこの場に滞在することをどう考えているのか、分かっていたのだ。そして、きっとテレシアも。
特にテレシアは、午前中は共に行動し、その後も度々顔を合わせている。その時々で私の様子を見て、私が何を思い何を考えているのかを推し量り、どうすれば私が今日の祈願祭を楽しむことができるのか、その為に何をすればいいのか、それらをずっと考えてくれていたのだろう。
だからテレシアは私をこんなに飾り立て、イーリスは私に言い聞かせて、無理にダンスに誘った。それが、今の私には何より必要なことだと理解していたから。
「……ありがとうございます、イーリスさん」
「ふふ。どういたしまして」
「でも――」
ようやく私らしさを取り戻したところで、真っ先に過るのは不満。
「やっぱり、ちゃんと事前に話しておいてほしかったです」
偏に私のすぐに悪い方向へと考えすぎる悪癖が原因なのだけれど、テレシア達はそれも分かっている筈なのに、祈願祭にまつわる色々な話もハラルドのことも、全く私には伝えてくれなかった。それがどんなに私を不必要に不安にさせ、悩ませたことか。
一言でも教えてくれてさえいれば、私だってもう少し気軽に気楽に楽しめたと思うのだ。
「それについては……私達も反省すべきかもしれないわね。でもね、ミリアム。この世の中には、終わりよければ全てよしって言葉があるのよ」
「イーリスさんまでそんなことを言うんですかっ? 私、本当にたくさん悩んだのに!」
どうして私の周りにいる大人は、揃いも揃ってこんな人達ばかりなのだろう。怒りと呆れと不満とが綯い交ぜになって、私はイーリスからぷいと顔を逸らした。
けれど、その手はずっとイーリスと繋いだまま。むしろ、決して離すまいと力を込めて握っていた。
不満に思うことは多々あるけれど、その全てが私のことを思ってのことで。イーリスの言葉を肯定するのは少々癪ではあるものの、実際、私が再び祭りを楽しむ気持ちを取り戻せたのは事実で、それは彼女達のお陰なのだ。
私はイーリスと繋いだ手の温もりに笑みを零しながら、レナート達の元へと弾む気持ちと共に戻っていった。